椀間市布荷見5-11 築32年/アパート1K・6/南向き 自社
午後九時。
六月一日 樹は、近くのスーパーで買った半額の弁当を小さな卓袱台に置いた。
店のレンジで温め歪んだプラスチックの蓋をパカッと開ける。
ご飯の上に乗った海苔と、その上に乗った鮭、煮物と少々のポテトサラダと、一枚だけのキャベツ。
温めてある割には匂いは薄い。
これをペットボトルの緑茶で流し込む。
いつも夕飯はこんなものだ。
テレビは以前は親戚から貰ったものがあったが、殆ど点けないのでだいぶ前に友人に安価で譲り渡してしまった。
なので、夕食時も部屋は静かだ。
入居時に不動産で新しく変えたらしい畳と、やや薄暗い丸型蛍光灯二本で照らされた部屋。
就職して五年、ここのアパートに越して来てからも五年。
いつもはこんな感じだった。
二週間ほど前、隣の空き部屋に同棲カップルらしき住人が越して来てから少々習慣が変わった。
今日もあるかな、と思いながら樹は上目遣いで壁を見た。
隣の部屋から男性の荒々しい足音が聞こえる。
苛々とした乱れた歩調で二、三歩歩き、枕か何かを投げつける音がする。
「いい加減にしろ!」
男性の声がした。
同時に女性の鼻を啜りながら泣く声。
自粛やら何やらで家に居ることが多くなった夫婦が、しょっちゅう顔を合わせることで苛々して離婚の危機とか最近聞くが。
本当にそうなるんだなと樹は思った。
何となく分からなくもないが。
それとも越して来る前から、もうこんな感じの二人だったのか。
かなり根性が悪いと思いながらも、畳の上を尻で擦るように移動し、壁の傍で耳を澄ました。
ここのところこの時間帯になると、毎晩こんな感じだった。
女性の方は大人しい性格らしく、いつも泣いているだけだ。
男性側がエスカレートして怪我をするようなら不味いだろうという考えもあるにはある。
いよいよとなったら壁を叩くかと思っていた。
「出てけ! お前の顔なんか見たくないんだよ!」
男性は怒鳴った。
壁を平手で叩いたような音がする。
「だって……だって……」
女性はしゃくり上げた。
部屋の真ん中と思われる位置で泣き続けているようだ。
「さっさと死んじまえ! もう沢山なんだよ!」
うわひっど、と思い樹は顔を歪ませた。
女性側も出て行きゃいいのになと思う。
そんなことまで言う男のどこが良いのか分からん。
女性は、弱々しい声でずっと泣いていた。
時折ギイギイと何かの擦れる音がしていたが、何だろうと思う。
天井の蛍光灯辺りの位置っぽいなと思った。
樹は自室の天井を見上げた。ギイギイと音のするものなんかあるだろうか。
女性が居る部屋なら、部屋干し用の竿か紐を部屋の上部に渡しておく人もいるみたいだが、それが関係している音か。
「お前の顔なんか、もう見たくないんだよ!」
枕のようなものを何度も何度も叩きつけるような音がした。
女性が細い手で泣きながら防御しているのを樹は想像する。
今日こそやばいかなと思った。
ここ数日は、男がどんどん自棄になっている気がする。
こういうのは、どこに相談すれば良いんだ。警察か。
民事不介入とかで、体よく放ったらかしにされるんじゃなかったっけ。最近はそうでもないのか。
何とかの電話相談とかか。
以前付き合ってた彼女が、スーパーなんかの女性用トイレにはDVの電話相談のビラが貼ってあるとか言ってたが。
隣の女性は、そういうのは見ないのか。
そういえば女性が玄関から出て来るのを見たことないなと思った。
男性の方は、二週間前に引っ越して来たときに会釈されたが。
監禁されてるとかじゃないだろうな。
もしかして結構やばいのかと樹は顔を顰めた。
午後九時十五分。
隣の部屋は静かになった。
男性の荒い息遣いが微かに聞こえたが、女性の声はもう聞こえなかった。
いつもこんな風だ。
二十分ほどすると収まるが、その後女性の声は一切聞こえない。
気でも失っているんじゃないかと毎回ハラハラしている。
こんなのを何日も耳を澄まして聞いておいて知らん振りとか、やはり不味いだろうか。
面倒臭いが、どこかに相談してみるべきだろうかと思った。
男性は息を吐くと、水回りの方に行ったようだった。
冷蔵庫を開け閉めする音がする。
とりあえず、コンビニでも行こうかと樹は思った。
涼しい夜道をてれてれ散歩して、コンビニの珈琲でも飲みながら余計なお節介をすべきかどうか考えようと思った。
卓袱台の上に置いた財布を手に取り、ジャージのポケットに入れる。
部屋を見回して鍵を探し、前に付き合ってた彼女から貰った、てるてる坊主のストラップの付いた鍵を無造作にポケットに入れる。
履き古してくたくたのスニーカーを突っ掛け玄関扉を開けた。
隣の玄関前に、黒いスーツを着た男性がいた。
二十五、六歳くらいだろうか。
細身で、薄暗い灯りで見た限りでは童顔という印象だった。
不意に隣の玄関扉が開く。
樹は何となく鉢合わせを避けたくて扉を引いた。
隙間だけを開けて玄関の三和土に立ち、出て行くタイミングを伺う。
隣の男が顔を出した。
「来るの速いですね、不動産屋さん。今連絡したばっかなのに」
男は言った。疲れ切ったような口調に感じる。
「解約ですか」
不動産屋は言った。
特に何の感情も交えず、淡々と大きめの封筒から書類らしき紙を取り出した。
「もう無理。あんな女、一緒に居らんねえ……」
隣の男は顔を両手で覆った。
「今すぐお出になりますか?」
不動産屋はそう尋ねた。
「今日は取りあえず友達んとこ泊まるわ。あと」
男は部屋の方を振り向き、暫く黙っていた。
「俺の荷物、後から送ってくれるかな……」
男は不快そうに眉を寄せた。
「畏まりました」
不動産屋は封筒からポールペンを取り出し、書類に何かメモをした。
「手数かけるけど」
男はそう言って、上着を羽織った。
「じゃ、俺このまま出るから」
「お気をつけて」
不動産屋は言った。
隣の男は、アパートの敷地内に停めてある乗用車に乗り込むと、即エンジンを掛け発車する。
ウインカーを左に点け敷地を出て行くのを見送ってから、樹はおもむろに扉を開けた。
「あの」
小声で声をかけると、書類を確認していた不動産屋はこちらを向いた。
「ここの女性、大丈夫ですか」
樹は恐る恐るそう尋ねた。
「女性」
不動産屋は、扉を開けっ放しにした玄関口から、隣の部屋の奥の方を眺めた。
「あの男に……その、暴力振るわれてたらしくて、さっきから声もしないし」
不動産屋は、じっとこちらを見ていた。
「いや、聞いてただけで何もしなかったのも悪いけど」
「お独り暮らしですよ、ここ」
書類を確認しながら不動産屋は言った。
いや、と樹は声を上げた。
「女の人いましたよ。いつも今頃の時間帯に暴力振るわれてて」
不動産の方で把握していなかった同居人なのだと思った。
もしかして怪我をして倒れているのかもしれない。そう思った。
「すみません、いいですか」
樹は不動産屋を軽く押し退け、隣の部屋に入った。
奥にある部屋は、水回りとの仕切りの引き戸が閉められていた。
三和土で急いでスニーカーを脱ぎ、樹は水回りを早足で通り過ぎた。
「あのっ、隣の者なんですけど、大丈夫ですか」
そう声を掛け、引き戸を開ける。
ギイギイ、と音がした。
布団が一組だけ敷かれた室内。自身の部屋と同じ六畳の和室だ。
踏み台のようなものが、部屋の真ん中に転がっている。
天井から何かが垂れ下がっていることに樹は気付いた。
ちょうど電灯の辺りから下がっているのかと思い見上げる。
女性が、首を吊っていた。
長い、ばさついた髪の女性だった。
女性はだらりと身体を弛緩させながらも、大きな目をぱっちりと開け、樹と目を合わせる。
「だって……だって……」
女性はしゃくり上げた。
「何回もやってるのに……中々死ねないんだもん」
女性は弱々しい声で泣き始めた。
身体が微かに揺れて、首を吊った縄がギイギイと音を立てる。
「ひ……」
樹は裏返った声を上げ、ぎこちない動きで後退った。
そのまま畳に尻餅をつく。
「ご挨拶が遅れました」
不動産屋が入室し、横で屈んだ。
小刻みに震える樹に名刺を差し出す。
受け取るということに思い至らず、樹はその名刺を横目で見た。
華沢不動産、事故物件担当、華沢 空とある。
「事故物件担当って……」
「こういう物件ですね」
不動産屋は、落ち着き払って言った。
「ここ、事故物件だったの……」
「ご覧の通り、十五年ほど前にこの女性が自殺なさいまして」
名刺入れを内ポケットに仕舞いながら不動産屋は言った。
ご覧の通りって……と樹は頭の中でゆるゆると突っ込んだ。
「自殺なさった時間帯に現れて、二十分ほどで消える以外は無害なので、長く住んだ方も結構いらっしゃるんですが」
緩く腕を組み不動産屋は言う。
何か、この人もさりげに感覚おかしくないかと樹は腰を抜かしながらも思った。
「何で二十分……」
樹は呂律の回らない声で問うた。
「推測ですが、絶命するまでの時間だったのではないかと」
淡々と不動産屋は言う。
聞くんじゃなかったと樹は思った。
「立てますか」
不動産屋は言った。
脚を動かすのも覚束ない樹の様子を見ると、手を貸して立たせてくれた。
「お部屋にお送りします」
そう言い、部屋から連れ出してくれる。
親切な人だなと樹は思った。
元はといえばこの不動産屋が一言も教えてくれなかったことから起こったことなのだと思うが、この時は動揺して観点がずれていた。
終




