.
午後十時半。
夜になっても、スペイン風邪の幽霊達は姿を現したままだった。
「あ、気にせんで寝てください」
そう言って押し入れに入って行ったが、それはそれで気になる。
いつも夜は押し入れの中に潜んでいたということだろうか。
霊感のある人なら気付いていたんだろうかと、葉子は複雑な心持ちになった。
玄関の呼び鈴が鳴る。
ここの不動産屋さんかと葉子は思った。
事故物件は突然解約をしたがる人もいるそうで、夜中に一回だけ様子を見に来る。
確かに何も出ないと高を括っていたところにいきなり幽霊と遭遇したら、パニックを起こす人もいるんだろうと思う。
幽霊やっと出ましたよ、と報告すべきかなと思いながら葉子は玄関口に向かった。
玄関扉の魚眼レンズを覗く。
いつもの担当の男性がいた。
契約時に貰った名刺には「事故物件担当、華沢 空」とあった。
管理しているのが華沢不動産なので、そこの息子か何かかなと思っている。
二十五、六歳くらいの、いつも黒いスーツをきちんと着ている人だ。
扉を開けると、不動産屋は人当たりの良い微笑で会釈した。
「ご様子は」
そう言い、僅かに眉を寄せたように見えた。
顔に何か違和感を覚えるなと思ったら、マスクが無いのかと葉子は気付いた。
「不動産屋さんは、マスクしないんですか?」
「した方がいいですか?」
不動産屋はそう言い、手にしていた大きめの封筒から書類を取り出した。
「……他の借り手の人は何も言わないですか」
「今の所は」
書類をぱらぱらと捲りながら、不動産屋は言った。
「このままでも、別に影響無いですからね」
自分だけは大丈夫と思うタイプなんだろうかこの人、と葉子は思った。
真面目で几帳面そうだと思ってたけど。
不意に葉子は噎せ込んだ。
二、三回咳が出る。
「風邪ですか?」
「いやちょっと、噎せただけ」
そう葉子は言う。
「なら良かった。季節の変わり目ですからね」
尚も書類を見ながら不動産屋は言った。
「……咳してる人を、よく真顔で見てられますね。今のご時世に」
「まあ、影響は無いですからね」
不動産屋は言った。
暫くしてから顔を上げ、不動産屋は部屋の方を見た。
「葉子さん、お身内の方か誰かいらっしゃってますか?」
え、と呟き、葉子は同じように部屋の方を見た。
「身内って?」
「ご先祖の方々とか」
先祖が来てるなんて話を、事務仕事風にさらっと言うとか。
事故物件の担当なんてしてると、感覚がちょっと違って来るんだろうかと葉子は思った。
「いやあの……心当たり無いですけど」
「大正か昭和初期くらいの時代の方々のようですけど。見てませんか」
不動産屋は言った。
「え、それなら」
葉子は首を伸ばすようにして、部屋の奥の押し入れを見た。
「今日突然十何人かで現れましたけど。ここの部屋にいる幽霊かなって」
「ここで亡くなったのは、孫の所を訪ねて来ていたお婆さんで、亡くなったのは平成の後半です」
「え」
さっと血の気が引いた。
同じ幽霊でも、正体がよく分からないとなると、いきなり怖い。
「え、じゃあ何です、あの人たち」
「さあ。僕も」
落ち着き払って不動産屋は言った。
「ススススペイン風邪で纏めて埋葬されたって言ってましたけど。あの、百年前のパンデミックで」
「ああ」
不動産屋は部屋の奥を見た。
「服装はその辺の時代っぽいですね」
不動産屋は、ボールペンで耳の辺りを掻いた。
おもむろに書類を封筒に仕舞う。
「あの!」
不動産屋は奥に向かって身を乗り出し、声を上げた。
「お話伺っても宜しいですか!」
幽霊達に向かって言っているのだろうか。葉子は戸惑った。
「は、話するんですか?」
「まず話を伺わないことには」
不動産屋は言った。
「そ、そんな霊能力者みたいなこともするんですか?」
「しません。通常の管理業務です」
不動産屋は緩く腕を組み、部屋の奥の方をじっと見詰めた。
暫くしてから、押し入れの辺りからぞろぞろと着物姿と洋服姿の男女が現れる。
「ここを管理しています、華沢不動産の事故物件担当、華沢と申します。お話を伺っても宜しいでしょうか」
不動産屋は言った。
はあ、と年長の男性が返事をする。
「寂林寺の共同墓地に埋葬されております、布荷多村の者ですが」
年長の男性は言った。
「こちらはお独り暮らしに限定してお貸ししている部屋なので、了解していない住人は困るのですが」
不動産屋は言った。
そういう基準の話なのかいと葉子は脳内で軽く突っ込む。
「いや、そんなつもりは無かったんですが……」
年長の男性は言った。
「葉子さんに、お供え物貰っちゃったんで、みんなでいい人だねって話になって」
「お供え物?」
葉子は眉を寄せた。
「珈琲カップに淹れたあれ?」
「いいええ。その前に、あたし達の墓の前にお茶置いてくれたでしょ」
若い女性が言った。
葉子は更に眉を寄せた。心当たりは無い。
「ほら、あの軽い瓶に入ったやつ」
「ペットボトル?」
葉子は二リットル入りのペットボトルを入れた冷蔵庫を見た。
「もっと小さい瓶だったけど」
人の良さそうな青年が言う。
「でも嬉しかったよねえ」
若い女性が言った。
心当たりあるかという風に不動産屋がこちらを見る。
「あれかな……」
葉子は呟いた。
「途中のお寺の辺りで、飲みかけのお茶どこかに置き忘れて来ちゃって」
「あたし達、嬉しかったんです」
若い女性が言う。
「え、あんなんで……」
葉子は複雑な心境になった。
「お……お礼言いに来たとかなの?」
「葉子さん、あたし達と一緒に居られないかなって」
女性は言った。
「葉子さんみたいな人が加わってくれたら、楽しそうって話になって」
葉子は眉を寄せた。
ファンタジックなほっこり話かと思いきや、何かおかしい。
「今、コレラだかコロリだかが流行ってるっていうじゃないですか。同じ流行り病で死んだら、話も合うんじゃないかって」
「コロナ」
当惑しつつも葉子は訂正した。
「これも何かの縁なので、流行り病で死ぬのを待たせていただこうかと」
若い男性が言った。
縁起でもないと葉子は頬をひくつかせる。
「病にかかるの、ちょっとお手伝いしちゃおうかって、あたしらは話してたの」
女性達が揃ってにこやかに笑う。
「葉子ちゃん、おつかれさまです」
子供達が手を合わせる。
葉子は後退った。
ネットで見たことあるけど、おつかれさまってそういう意味……。
血の気が引くのが自分で分かった。
「ああ、つまり」
落ち着き払った口調で不動産屋が口を挟む。
「ざっくり悪霊ですね」
ひっ、と葉子は喉の奥をひきつらせた。
つい大仰な動作で、玄関扉の縦枠に背中をぶつけるようにして後退る。
「そういう言い方ないんじゃないですかね」
中年女性が刺々しい声を上げた。
「これだからご商売の人は」
後ろにいた痩せた女性が続けて言う。
「金ばっかりで、人の情ってもんが分かんないのかい」
若い女性が声を荒らげた。
「仰る通り商売なもので、居座るとなると、皆さんからも家賃をいただくことになるんですが」
不動産屋は書類を捲り、そのうちの一枚を幽霊達の前に翳した。
「こちらの家賃は、こうなっておりますが」
賃貸料の書いてある書類らしい。
幽霊達は、そこに表記された金額をじっと見て目を丸くした。
「ちょっと、……円? 銭じゃないの?」
中年の女性が怖々と呟く。
「何円なんて大金、払える訳ないだろう!」
後ろにいた青年が声を上げる。
「嘘でしょ、何銭かくらいじゃないの?」
若い女性がおろおろと言った。
「何円なんて金額が払えるなんて、余程の大店の主人か、お大名の末裔とかじゃなきゃ」
「お支払が無理なら、退去してください」
冷静な口調で不動産屋は言った。
「あこぎだね!」
中年女性が声を荒らげる。
「行こ」
若い女性がそう言い、踵を返した。
何が起こっているのか分からない様子でぽかんとする子供達の手を引く。
全員がそれぞれに不満そうな表情をしていたが、ややして一斉に姿を消した。
「またここに来たらご連絡ください」
不動産屋は言った。
書類を封筒に仕舞うと、脇に挟んで会釈する。
「では」
アパートの薄暗い通路を去っていく不動産屋の後ろ姿を眺めながら、葉子は今日一日何を見ていたんだろうと呆然となった。
終




