臼越市由比地11-6 築18年/1K バス停由比地徒歩15分 南向き/自社
「落とさないでね」
アパートの一階、六畳の畳の部屋。
香住 新は、南側の掃き出し窓を見た。
会社は休み。昼前の時間帯に急に暑くなったので、掃き出し窓を開けていた。
窓の前の狭い敷地を人が通ることもたまにはあるが、アパートの住人くらいなので気にしない。
爽やかな風がさらさらと入り、中々健康的で気持ちがいいなと思いながら、ゲームを始めたところだった。
五、六歳ほどの女の子が窓の前にいた。
上を見ていた気がしたが、すぐにこちらを向き、にっと笑う。
落とさないでねと言ってたかと新は思った。
どこかで聞いた怪談を思い出してしまった。
ゲームをやめてスマホで検索しようする。
検索バーに「落とさないでね」と入れたところで、ふと以前いた葬儀会社での出来事を思い出した。
小さな子供の葬儀が一件あったなと思い出す。
葬儀場のセッティングをしていたとき、躓いて飾られた花を大量に床に落としてしまった。
白い花がばらばらと床に散らばり、慌てて拾った。
幸い大きく傷ついた花は無かったので、そのまま元通りにしたが。
「え……あれか?」
新は口元をひくつかせた。
暫く女の子をじっと見る。
「幽れ……?」
試しに聞いてみる。
「ゆうれいだよ」
女の子はそう言い、もう一度にっと笑う。
新は手にしていたスマホを畳の上に投げ出し、脚を伸ばして座った格好で後退りした。
「ええええ嘘、いやちょっとやめ」
心臓がばくばくと跳ね上がる。恐怖感で頭が一杯になった。
叫びたいのを辛うじて抑える。
「ももも、六年も前の話でしょ」
こんな時はどうすればいいのか。まるで分からない。
幽霊なんか見たこともなかったが、見ることがあるとも思わなかった。
こんな昼間からサクッと現れるものなのか。
「そそそそんなの恨んで出るものなの? 今頃?」
女の子は口を横に引き、もう一度にっと笑う。
この世で一番恐ろしい笑みに新には感じられた。
ざざっと音を立て、畳の目を無視して臀部を引き摺る。
「いやあの、君にとっては一生に一度の大事なイベントだったのは分かる。ごめんなさい」
あと何を言ったらいいんだと新は必死で考えた。
葬儀場のアナウンスを参考にしようと懸命に記憶から引っ張り出す。
「そそその、何はともあれ今生での苦労を終えて旅立った訳だし……あああ、旅立ってないからここに居んのか」
虫を払うように片手を大きく振ってみる。
女の子はもう一度宙を見上げ、またスッとこちらを見た。
「ししし静かにお別れの時だと思うんです!」
女の子はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
もう一度宙を眺めると、屈んで何かを拾う。
白い花だった。
新は、ひっと喉を鳴らし息を呑んだ。
更に畳の上を後退り、背中を壁に貼り付ける。
「落としちゃだめだね」
舌足らずな口調で女の子は言った。
「ごごごごごめんなさい!」
新は逃げ場を求め壁を背中で擦った。
今のところ女の子がいるのは窓の外だが、部屋の中まで侵入されたらと思うと、恐怖で目眩がしそうだ。
お経でも唱えればいいのか。
なむみょうなんとかでいいのか。
「なむみ………」
「落とすのだめだよね」
もう一度女の子はそう言う。
「ごめんなさい! 落としません! というか葬儀会社は二年前に辞めました! 結構ブラックだったから!」
新は壁の前で小さくなり、両手を合わせた。
「ああ、また落としてるんですか」
若い男性の声がした。
いつの間にか、女の子の横に黒いスーツの男性がいた。
童顔だが二十五、六歳ほどだろうか。
大きめの封筒を持った手を緩く組み、二階の方を見上げていた。
「ゆうれい、いつも落とすんだよ」
「まあ、実害は無いんですけどねえ」
男性がそう言う。
新の視線に気付くと、男性はこちらに近付きながら内ポケットに手を入れ、名刺入れを取り出した。
「お世話になっております。華沢不動産の者です」
そう言い、名刺を差し出す。
「ああ……ここのアパートの」
受け取った名刺には、事故物件担当、華沢 空とあった。
「事故物件……?」
「この上の部屋の担当でして」
不動産屋は上階を指差した。
「え……こっちの部屋は?」
「そちらは他の者が担当してますが」
不動産屋は言った。
「こっちの部屋は出ないの? た、例えば葬儀場で供えた花落とされて恨みに思ってる幼女の霊とか」
不動産屋は困惑した表情で暫くこちらを見ていた。
「その部屋でお亡くなりになった方がいない限りは、何が出ようが担当外ですが」
そういうものなのかと新は思った。
この不動産屋さん、柔和そうな雰囲気してる割には、随分割り切った人だなと思う。
「ゆうれいが落とした花きえた」
女の子は両手を広げ、自身の手の平を見た。
「どこの子ですか?」
身体を屈め不動産屋が尋ねる。
「あっちだよ」
女の子は隣の敷地のアパートを指差した。
「え……それ生きてる子なの?」
新はそう言った。身体の力が少しだけ抜ける。
「幽霊は上の部屋の窓際です。隣のアパートから気になって見てた子みたいですね」
不動産屋がもう一度上の階を指差す。
窓から上半身を乗り出す幽霊を想像して、新は鳥肌を立てた。
指差して教えて貰っても見たくはない。
「生前、下の階の住人の立てる音が煩いと言って、たびたび鉢植えを落としていた方なんです」
うわ……と新は小声で呟いた。
そんなに下の住人が煩かったのか。
仮にそうだとしても、鉢植えを落とすのは少々異常だと思うのだが。
「生前……って今は?」
「上の部屋で亡くなられてます」
淡々と不動産屋は言った。
新は頭の中を整理した。
先程まで幽霊だと思っていた女の子は、生きている子だった。
しかし、住んでいる部屋の真上に幽霊がいた。
「あの……告知して欲しかったです」
右手を顔の横に挙げ、新はそう言った。
「申し訳ありません。義務ではなかったもので」
不動産屋は申し訳程度に頭を下げた。
「あの、こういうことあると、何か嫌っていうか。ほら」
「お気持ちは分かります」
不動産屋は言った。
「お引っ越しなさるのなら、ご相談に乗りますが」
不動産屋はもう一度上を見た。
女の子も同様に上を見る。
幽霊にまた動きがあったのか。何となく新は身体を縮め両耳を塞いだ。
暫くして、またこちらを見た二人の様子を伺う。
「あの、そういう部屋の下だってこと黙ってられると、不動産屋さん自体が印象悪いっていうか。そりゃ義務はなかったかもしれないけど、何ていうか」
「申し訳ありませんでした」
不動産屋は言った。
「引っ越すって言ったって、すぐには中々無理だし、ほらいろいろ」
別に絡むつもりはなかったが、恐怖を紛らわしたいのと、今後どうすればいいんだという考えで、愚痴のようなものが口を突いて出た。
「大変ご迷惑をお掛けしました」
不動産屋は微笑した。
「うちの別の物件に移るということであれば、敷金礼金は勉強させていただきますが」
ほんの少しだけ恐怖感が薄れる。
じわじわと怒りも湧き始めていた所だったが、その条件なら、まあいいかなと思えてしまった。
「……か、考えときます」
「いつでもご連絡ください」
かしゃん、と陶器の割れる音が聞こえた気がした。
終




