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「火事」
航太郎は神妙な顔で言った。
「うん。ここに出る幽霊って、火事で死んだんじゃないかな」
朝子は言った。
正座したふたりの間には、まだ開けていない御中元の箱があった。
暗めの明かりで照らす丸型蛍光灯が、気持ちの悪い雰囲気を掻き立てているような気がした。
「助けてって聞こえて目が覚めたの。で、ベランダに女の子が」
「ここで火事なんて、聞いたことないですよ」
航太郎は言った。
「でも煙の臭いもしたし。結局火事なんかなかったのに」
あれが幽霊なのかと朝子は思った。
普通の人間と変わらないように見えたが、普通の人間があんな所にいきなりいるのはおかしい。
不動産に確認したら、隣は空き部屋ということだった。
過去に火事があったかというのは否定していたが、事故物件をあまり増やしたくなくて虚偽の説明をしているだけかもしれない。
今日の昼間、隣の部屋の玄関扉が少し開いていたので、覗いてみた。
空き部屋というのは、本当のようだった。
何もなく、がらんとしていた。
「結婚前にこんなこと言うのは、あれなんですが」
航太郎は言った。
「今からこちらに越して来ますか、朝子さん」
え、と朝子は顔を上げた。
つまり、同棲しようということかなと思った。
「え、えっと。今からって、夜だし」
「でも、気味が悪くて嫌なんでしょう?」
真面目すぎる人だと思っていたけど、こういう所は流石にそんなに古くもないのか。
自分も結婚前に同棲するのが悪いとは思ってないけどと朝子は思った。
「両親にも会っていただきたいですし」
「そ、そうだよね。それは中々都合が付かなくてごめん」
そう朝子は言った。
航太郎の両親は、かなり田舎の方に住んでいると聞いていた。
話からすると、昔の風習がいくつか残っている地域という印象だった。
航太郎は、思い出したように御中元の箱を見た。
「結納みたいな感じになってしまいましたね。開けてください」
「あ……」
朝子は箱を見た。
なぜ今まで開けずにいたんだろう。
貰った日、航太郎が帰った後に開けても良かった。
包装紙には、聞いたことのないデパートのロゴが印刷されていた。
糊で貼り付けられた熨斗紙を外し、包装紙を開く。
なんとなく昭和風なパッケージだなと思いつつ開けると、中に入っていたのは、輪っかにしたロープだった。
輪っかの残りの部分が長く伸びて、高い所に結わえられるようになっている。
「わあ……」
朝子は目を輝かせた。
「素敵。いいの?」
「ぜひ朝子さんに使っていただきたくて」
航太郎は穏やかに笑った。
「付けてみていい?」
「ぜひ」
航太郎は言った。
朝子はロープの上に付いていた短冊のような紙を外し、輪っかの部分を首にかけた。
航太郎は手を伸ばし、髪を退けるのを手伝ってくれた。
「意外と緩いのね」
朝子は言った。
「上に掛けて、引っ張って使う感じになりますから」
「そうなんだ。こんなの付けたことないから」
朝子は、あははと笑った。
「これに、必要なことを代わりに書いて置きましたから」
航太郎は先ほど退けた短冊を手に取った。
横目でざっと見ると、結婚する旨と、朝子の今までの人生に関する個人的な思いなどが書いてあった。
「ありがとう。そういうの苦手だから助かる」
朝子はロープを首に掛けたまま微笑んだ。
「ベランダだとちょうどいいと思います。これを結わえられる箇所がありますから」
航太郎は言った。
「あ、物干し竿とか? そうだね」
朝子はカーテンを退け掃き出し窓を開けた。
ベランダに出る。夜風が気持ち良かった。
「じゃあ、台に乗ってください。朝子さん」
「うん」
朝子は鉢植えなどを置くための、膝の高さほどの台に登った。
前の住人が置いて行ったものだ。
航太郎がロープの端を持ち、物干し竿の方に引っ張った。
丁寧に結わえてくれる。
「じゃあ、朝子さん」
「うん」
朝子は足を踏み出した。