朝石市片吉3-10 築30年/アパート1K南向き バス停片吉すぐコンビニ近く/自社
腰窓から見える大きな梅の樹が、白い花を綺麗に咲かせていた。
ほぼ満開だ。
景色の半分ほどが白く遮られて見える。
日焼けで変色した畳に正座すると、節田 麻里菜は淹れたてのお茶をすっと不動産屋の方に差し出した。
長い黒髪が、頬の横にさらりと落ちる。
まだ大学生だったが、こういうときの作法は親に厳しく躾られていた。
背筋をやや傾け、品良く手を添える。
「どうぞ」
「結構です」
不動産屋は静かに言った。
黒いスーツの二十五、六歳ほどの青年だった。
名前は華沢 空。
華沢不動産の事故物件担当で、社長の兄と聞いている。
細身で童顔な外見は実際の年齢よりも若く見られそうだが、表情は落ち着いていた。
畳の上できちんと正座し、姿勢よく座っている。
「不動産屋さん、それを言うなら「結構なお手前で」とかでしょう?」
麻里菜はくすくすと笑った。
「今日は夾竹桃ですか? それともエンジェルトランペット」
「部屋で栽培したコルチカムです」
麻里菜は言った。
不動産屋は溜め息を吐いた。
「毒草の栽培なんてどうやって」
「簡単ですよ。お隣に越して来た人に取り憑いて」
不動産屋は僅かに振り向き、隣の部屋の方向を肩越しに見た。
「お隣の部屋で栽培されたものでしたか……」
「だって不動産屋さん、わたしが死んだ後、部屋の中の毒草ぜんぶ処分しちゃうんだもん。酷い」
麻里菜は唇を尖らせた。
生前、この部屋に住んでいた。
家はどちらかといえば裕福な方だったが、独り暮らしをするにあたって、他の学生よりも程度がいい部屋では社会性が育たないからと、両親はよくある安アパートを宛てがった。
勿論、女の子なのだからセキュリティのしっかりしているマンションなどにすべきという親戚もいたが、両親はこのアパートに決めた。
麻里菜としては、どちらでも良かった。
清楚に見える外見と躾のいい仕草のせいか、部屋に誘った人は大抵すんなりと付いて来た。
むしろ安アパートだから安心したという人もいたのではと思う。
緑茶と称して毒草を煎じたものを飲ませた。
どの毒草が、どんな症状をもたらすか見たかったのだ。
ここは知的好奇心を満たすのにぴったりの部屋だった。
だが、あるとき部屋に上げた男性に不審がられ、逃げられそうになった。
追いかけて丸め込もうとしたところ、転倒し後頭部を洗濯機の角に打ち付けて人生を終えた。
「毒草の大部分は警察が持って行ったので、うちで処分したものは僅かですが、親御さんの了承は得ています」
不動産屋は言った。
「日記帳も返してください」
「それも警察で保管されています」
「せっかくカラフルなマーカーで、綺麗に色分けして記録してたのに」
ええ、と不動産屋は頷いた。
「殺人の記録ですね」
「毒草の実験の記録です」
鋭い口調で麻里菜は返した。
不動産屋は眉を寄せた。
「別の物件に案内しようとした方まで騙すのはやめて貰えませんか」
「この前の男の人ですか」
麻里菜は言った。
幽霊になっても人と接触が出来ることに死後気付いた。
別の誰かに見せかけて騙すことが出来るらしいとも。
先日、近くの別の物件に行こうとした男性を、この不動産屋のふりをしてここに案内した。
生前と同じように毒草のお茶を飲ませようとしたが、不動産屋に気付かれて失敗した。
身体を傾け、麻里菜は窓から道路の向かい側を見た。
「あの人結局、向かい側のアパートに決めたみたいですね。別に気にしてないんじゃないですか?」
「気にしてます。様子を見に行くたびに、本物かどうか確認されます」
「やだ」
麻里菜は声を上げて笑った。
「大変そう。わたし、代わりに行ってあげましょうか」
「話の流れは分かってますか、麻里菜さん」
不動産屋は目を眇めた。
「これ以上放置しておくとうちにも損害が出そうですし、ご両親の元へ移住するか、成仏をお願いしたいのですが」
「わたしより商売が大事なんだ」
麻里菜は可愛い子ぶった感じに口を尖らせてみた。
「はい」
麻里菜を真っ直ぐに見て、不動産屋はそう答えた。
「不動産屋さん、ちょっと格好いいと思ってたのに」
「ありがとうございます」
不動産屋は特に表情も変えず言った。
玄関扉を開く音がした。
二人で同時にそちらを見る。
作業服の若い女性が入って来た。黒髪をポニーテールにした、快活そうな感じの人だ。
二十歳とちょっとくらいか。ほぼ同い年くらいだなと麻里菜は思った。
「香南子さん、お疲れ様です」
不動産屋は言った。
「掃除ってここですか、華沢さん」
作業用のスニーカーを三和土で脱ぎながら、香南子と呼ばれた女性は言った。
片手に清掃用のバケツとモップを持ったまま、屈んで靴の踵を外し、両足で踏みつけるようにして脱ぐ。
ややばたばたと上がり框を上がって来た様子を、麻里菜は「行儀わる」という感覚で眺めた。
「掃除は簡単でいいので、消臭剤をスプレーして貰えますか」
不動産屋は言った。
「消臭剤ですか? でも特に変な匂いは……」
そう言いながら狭い水回りを通りこちらに来た香南子は、麻里菜の姿を見た途端、立ち止まった。
「え?」
目を丸くしてじっと麻里菜を見る。
「も……もしかして、華沢さんの彼女さんか何かのお部屋……」
おろおろと動揺し、香南子は視線を泳がせた。
「ただの空き部屋です」
不動産屋は言った。
「で、でもその人は……」
「お茶飲みませんか?」
にっこりと笑みを浮かべ麻里菜は言った。
「結構です」
香南子の代わりに不動産屋が答える。
「最近ネットの一部で、消臭剤のスプレーで除霊が出来るという話が飛び交ってるんですよね」
不動産屋は言った。
「僕も眉唾だと思ってたんですが、確かに不快なんですよ、あれ」
不動産屋は軽く眉を寄せた。
「うちの自宅も社屋も習慣的にああいうものは使わないし、香南子さんの清掃会社は、消臭剤に頼るよりも匂いの元から絶つ方に重きを置いてくれる所なので気付かなかったんですが」
不動産屋は、香南子の方を見た。
「始めてください、香南子さん」
「えっとでも、お茶は」
「お茶は飲まなくて結構です」
よく分からんという顔で、香南子は持参のバケツの中から筒状の消臭剤スプレーを取り出した。
「どこですか? 部屋中?」
「部屋全体ですね。水回りも」
そう不動産屋は言った。
香南子が天井に向けて、シュッシュッと何度か吹き付ける。
途端に吐き気のしそうな、不快すぎる感覚が襲って来て麻里菜は身を屈ませた。
「やだ……何これ」
見ると、不動産屋も口を押さえている。
「どんな科学的な理屈よ? 気持ち悪い!」
「僕もよく分からないんですが、この世とあの世とでは価値観が逆転するとかいうあれですかね」
不動産屋は眉を寄せた。
「気持ち悪い! やめてよ!」
麻里菜は声を上げた。
え、と香南子が振り向く。
「具合でも悪いんですか?」
指示を仰ぐように不動産屋の方を見る。
「この人は気にしなくて大丈夫です。消臭剤とは関係のない病気です」
「そうなんですか。お大事に」
香南子はそう言い、再び消臭剤を連射し始めた。
「でっ、出るからこんな部屋! 実家の方に移ればいいんでしょ!」
麻里菜は口を押さえながら言った。
「もう! 実験は今度から親元でやる! それでいいんでしょ! 親に取り憑いて毒草の栽培できるし!」
「出来ればそんな形でお願いします」
不動産屋は口を押さえながらお辞儀をした。
「女の子苛めて追い出して、商売しか考えてないって、守銭奴! 拝金主義!」
麻里菜は立ち上がり声を上げた。
「香南子さん」
振り向いた香南子に、不動産屋は言った。
「どんどん続けてください」
案外この人いい性格してるなと、麻里菜は両手で口を押さえ思った。
終




