朝石市那間良2-8-203 築15年/アパート2K/南向き 備考:コンビニ徒歩10分/自社
北野 椿は、鮭の切り身を口に運びながら、夫の背後を見てすぐに目を伏せた。
頬に落ちた黒髪の癖毛を耳に掛ける。
結婚して五年になる夫、慶一郎の背後には、男の幽霊がべったりと貼り付いてた。
ワイシャツに灰緑色のズボンの、若い男の霊だった。
この部屋で、恋人の女と揉め殺された霊とのことだ。
恨みがましい表情で、慶一郎の顔に自身の顔を寄せている。
慶一郎には見えないようだった。
あっさりとした和風顔に、にこにこと呑気な笑顔を浮かべ、慶一郎は味噌汁の茶碗を差し出した。
「おかわりある?」
自分でやればいいのに。
苛々きたものの、ここは我慢すべきだろうと思い椿は唇の端を無理に上げて笑い顔を作った。
「待ってて」
そう言い、炬燵から出る。
無理に笑ったら目の下の小皺増えそう。
冬は肌、乾燥してるのに。
椿は、引き戸で仕切られた台所の方に向かった。
ガスレンジの上にある味噌汁の鍋を温め直す。
「ここに越してから、椿、何か優しくなったよね」
慶一郎は言った。
「そ?」
「うん。ここに来るまでは、いつも苛々してた感じだったでしょ」
今も苛々してるんですけどね。
椿は頭の中で反論して、慶一郎に見えないように眉を寄せた。
慶一郎の存在自体が苛ついた。
何が悪いという訳ではないが、呑気な笑顔を見ているだけで苛つく。
何か根本的なフィーリングが合わないのだろう。結婚前に気付けば良かった。
離婚したかったが、あまりにいい人過ぎて離婚理由が無い。
下手に離婚を切り出そうものなら、自分の方が悪者になってしまう。
それよりもと椿は考えた。
死んでくれた方が得なのではないか。
保険金も入るし、自分自身も可哀想な妻として周囲の同情を買える。
そう思うようになっていた。
温かくなった味噌汁を茶碗によそう。
男の幽霊は、慶一郎の背後にべったりと貼り付いて、ご飯茶碗の辺りを見ていた。
ここに幽霊が出るのは、もちろん知っていた。管理している不動産から告知された。
恋人に殺された霊なので、夫婦で住むのはどうかなとも担当者に言われた。
気にしませんと答えた。
慶一郎も「幽霊見たことありませんから」と笑って同調した。
幽霊が出ることを抜きにすれば、立地も便利で部屋も綺麗だった。
二部屋ある割に、家賃も当然安かった。
掘り出し物だよね、と慶一郎はにこにこしていた。
本当に掘り出し物だと椿も思った。
ここの幽霊に仲の良いところを見せつけてやれば、慶一郎を妬んで憑き殺してくれるのではないかと思った。
不確実かもしれないけれど、もしそうなら一切証拠もなく殺せる。
少々期待した。
努めて慶一郎と仲良さそうにしてみた。
苛々してもなるべく怒らず、いかにも慶一郎と一緒に居たいという言動をし続けた。
一年ほどそうして過ごしてみた。
男の幽霊が現れ、慶一郎の背中に貼り付き始めたときは、やったと思ったが、結局いまだに殺してはくれない。
使えないな。
余計に苛々が募る。
やはり幽霊なんてこんなものなのだろうと思った。
幽霊に殺されたという怪談話をよく聞くが、誇張されているだけなのだろう。
苛々と爪を噛む。
爪の形が崩れた。
ゴーン、と重々しい鐘の音が遠くから聞こえた。
「あ、除夜の鐘?」
宙を見上げ慶一郎は言った。
「うん……」
テレビのリモコンを操作しながら、椿は曖昧に返事をした。
慶一郎の背後に貼り付いた男の幽霊を、ちらりと見る。
もう少し、あと何ヵ月か仲の良い振りを見せ続けてみようか。
仮に物理的な方法で慶一郎を殺したとしても、仲良くしていればアリバイになるだろうし。
「本当は、年越し蕎麦食べるところなんだろうけどさ」
除夜の鐘を聞きながら慶一郎は言った。
「アレルギーだからなあ。ごめん」
「いいよ。毎年だし」
努めて優しそうな笑顔を作り、椿は言った。
慶一郎は、蕎麦アレルギーだった。
蕎麦粉がほんの少し入っていただけで呼吸困難になると、付き合い始めた頃に言っていた。
「蕎麦、食べたかったら一人で食べていいよ」
慶一郎は言った。
「いいよ。同じの食べたいもん」
椿は作り笑いのまま、炬燵から出た。
「お餅食べる?」
「十二時過ぎたら正月だしな。ま、いいか」
はは、と慶一郎は笑った。
シンク下の収納から餅の袋を取り出し、皿に並べた。
電子レンジに入れ、数分待つ。
柔らかくなった餅を見て、ふと昼間、ネットの料理サイトで見た単語が頭をよぎった。
「蕎麦粉入り餅」
蕎麦粉と餅粉を半々ずつ練り込んだ餅だ。
へえ、知らなかったと思ってレシピを見ていた。
ピンと頭に閃きがあった。
一人のときに食べようと思っていた生蕎麦を、冷蔵庫から取り出す。
慶一郎の方を横目でちらちら伺いながら、麺の一部を切り離し、細かく切り刻んだ。
これをお餅の中に練り込めば。
何でこんな簡単な方法に気付かなかったんだろう。
死んでも、間違って食べたということに出来るのでは。
「醤油と海苔でいい?」
椿は、首を伸ばすようにして尋ねた。
「あ、俺、醤油と砂糖」
慶一郎は言った。
ちっ、面倒臭いと椿は思った。
まあいいけど。
これももう終わりかもしれないし。
小皿と箸と、餅を盛った皿を炬燵に運ぶ。
「ああ、来た来た」
そう言って、いったん横になっていた慶一郎は起き上がった。
こっちにお餅の用意をさせて、ゴロゴロ寝てるとか。
これだけで離婚理由に出来ないだろうかと考える。
餅に醤油と砂糖を付け慶一郎は口に運んだ。
椿は、その開いた口をじっと見た。
死ぬかな。
死んだらまず、救急車かな。
夫が倒れたんですって、出来る限り取り乱した感じで言わなきゃ。
救急車が着たら、「あなたが居なきゃ生きていけない」とか言おうかな。
芝居がかってて怪しいかな。
不意に玄関の呼び鈴が鳴った。
慶一郎は動作を止め、玄関の方を見た。
おもむろに時計を見る。
「不動産屋さんかな?」
口に運ぼうとした餅を、いったん皿の上に置いた。
「はい」
そう大きな声で言い、慶一郎は玄関に向かった。
緊張が急に解かれ、椿は期待外れとホッとしたのとで息を吐いた。
後でまたドキドキし直しか。無駄な時間を過ごした気分。
椿は餅を箸で取り、醤油だけを浸け口にした。
お醤油だけの方が美味しいじゃない。
またもや苛々しながら、もぐもぐと餅を噛む。
玄関扉の開いた隙間から見えたのは、やはりここを管理する華沢不動産の人だった。
事故物件担当、華沢 空と書いた名刺を契約時にくれた。
幽霊が出る物件は、夜中に急に出たがる人もいるとかで、夜に一回だけ様子を見に来る。
いつも黒いスーツをきちんと着ていた。
二十五、六歳くらいかなと思うが、実際いくつなんだろうと思う。
大晦日の夜中にまで大変だなと思った。
不意に、ぐっと喉が詰まる。
飲み込んだ餅を喉につかえさせたようだった。息が苦しい。
椿は、とんとんとんとんと胸元を叩いた。何の変化もない。
屈んで必死に呼吸を確保しようとする。
視界の端に、灰緑色のズボンを履いた脚が見えた。
「お前が死ね」
顔を上げると、慶一郎の背後にいた男の幽霊が、こちらの顔を覗き込んでいた。
苦しい。
畳をドンドンと叩き助けを求めると、慶一郎と不動産屋が気付いたようだった。
「椿? 椿!」
慶一郎が駆け寄り、後ろから身体を揺する。
「失礼します」
靴を脱いで上がって来た不動産屋が、炬燵の上の餅の皿をチラッと見た。
「喉につかえたんじゃないですか?」
そう言った。
ああ、そうか、と慶一郎は言って、ぽんぽんと背中を叩く。
「もっと強く叩いた方が」
不動産屋は慶一郎の携帯を借りて救急車を呼んだ。
「椿! 椿!」
慶一郎は、背中を叩きながら子供のように喚いた。
「椿! 椿が死んだら、俺生きて行けないいい!」
それ、あたしが予定してた台詞。
細い呼吸をしながら椿は悔しがった。
ここで死んだら、慶一郎の方が周囲の同情を買って慰められて、可愛い若い子なんか捕まえて再婚したりするのかな。
こんな苛々する奴が、あたしをダシに幸せになるなんて。
必死で呼吸しながら俯いた顔が、畳に付きそうになる。
その畳に、不意にボコッと男の幽霊の顔が湧いて出た。
「お前が死ね」
男の幽霊は言った。
細く呼吸しながら、もしかして思い違いをしていたかもと椿は思った。
この幽霊が怨念を向けるのは、幸せそうにパートナーと過ごす男ではない。
男を殺そうとする女の方だ。
終




