朝石市河岸4-5 1Rロフト築20年収納ありキッチン窓あり バス停河岸徒歩5/自社
午後十時四十九分。
アパートの華奢な階段を昇りながら、秋谷 梨恵はスマホを見た。
会社の同僚からメールが入っていた。
ちょっとしたお知らせ程度のものだ。
ホーム画面に戻り、アナログ時計の表示をちらっと確認してから、ツイッターのタイムラインを見る。
アパートのすぐ前のコンビニから帰って来たところだった。
ビニールの袋の中、汁のたぷたぷと入った容器には、大根と卵と餅巾着とはんぺんが二枚。
太りそうなのでいつもは夜食を控えていたが、休みの前日だけは食べても良い日と決めていた。
深夜までDVDを観て、明日は昼まで寝る予定だ。
袋の音をカサカサとさせながら、ポケットを探る。
鍵穴に差し込んだ。
途端に、手元が暗くなった。
薄暗くも困らない程度には見えていた鍵穴が、突然全く見えなくなった。
何が起こったのか判断が付かず、梨恵は暫く手元をじっと見た。
おもむろに顔を上げ、通路を照らす明かりを見上げる。
点いていなかった。
周囲が異様に暗いのに気付き、同じアパートの隣の棟を見る。
どの部屋も真っ暗だった。
一階の部屋の方から、男女の声で「停電、停電」と言い合っているのが聞こえる。
停電なのか。
逆の方向に目を向け、街灯を見た。
確かに点いていない。
「停電ですか、これ」
女性の声がした。
隣の部屋の扉がほんの少し開き、小柄な人が顔を出しているのが分かった。
「みたいですね」
梨恵は言った。
隣の人と話したことはなかった。
女性だったのか、と思った。赤ん坊の泣き声も聞こえる。
「あの……すみません」
女性はおずおずと言った。
「懐中電灯、余分になんて無いですか?」
「えと……ちょっと」
梨恵は苦笑して答えた。
自分が使うものですら、どこに置いたか。
「そうですか。すみません……」
女性はそう言うと、扉を閉めた。
また赤ん坊の泣き声がした。
暗いと世話しにくいだろうなとは想像した。
幸い鍵は、鍵穴に差し込んだ後だった。
カチャッと手探りで回した。
玄関扉を開ける。
入居する直前にリフォームしたとかで、室内は新築の塗料のような匂いがしていた。
いつもは部屋の明かりがなくても、外の明かりでうっすら室内が見えるのだが、今日はさすがに真っ暗だ。
いったんポケットに入れたスマホを取り出す。
目の前に翳すと、ワンルームの室内は薄く照らされ、困らない程度には物を見ることが出来た。
「懐中電灯……」
誰に言うでもなくそう呟き、靴を脱いで上がる。
また赤ん坊の泣き声が聞こえた。
カラーボックスを一段ずつ探った。
懐中電灯は無い。
クローゼットの中だったかなと思い、アコーディオン型の扉を見る。
よくあるホラー映画の一シーンをつい想像してしまった。
暗いクローゼットの中から、女の人の目がこちらを睨んでるみたいな。
暫くじっと扉を見た後で、後回しにしようと思った。
化粧水やら乳液やらを入れているプラスチックの籠を探る。
カラカラに乾いた古い乳液のチューブを籠の底に見付け、スマホの明かりに翳したあとに、なぜだか元通り籠に戻した。
「無いな……」
独り言を言って、ワンルームの部屋を見回す。
何となく「懐中電灯 置き場所」とスマホで検索してみた。
検索結果、「いざというとき、慌てず取り出せる場所に!」などと出て来た。
停電の前に言ってよ、と思いホーム画面に戻る。
こんなことをやっている間に復旧するかもと思い始めた。
もう一度スマホで部屋の中をぐるりと照らす。
「あ……」
カーテンレールに掛けた、S字フック。
ごちゃごちゃに掛けたショルダーバッグや薄い秋用のマフラーと一緒に、地味な紐が掛けられているのを見付けた。
手を伸ばして探る。
百円ショップの、小さな懐中電灯が掛けられていた。
「あ、あった……」
S字フックごと下ろし、懐中電灯を取り出す。
スイッチを入れると、煌々と点いた。
どうしようかなと、隣の部屋の方向を見た。クローゼットの向こう側になる訳だが。
こちらはスマホがあれば充分だし、貸そうか。そう思った。
スマホで照らしながら玄関口に向かった。
玄関扉を開け隣の部屋の方を見る。
隣の扉の前に、スーツのような服装の人が立っているのに気付いた。
暗くてよく分からないが、立ち姿から若い男性だと思う。
隣の人の知り合いだろうかと思い、梨恵は暫く様子を見ていた。
男性はこちらに気付くと、会釈をしたようだった。
「今晩は。華沢不動産、事故物件担当の華沢と申します」
感じの良いテノールの声だった。
「華沢不動産……」
復唱してから、ここを管理する不動産の名だったことに梨恵は気付いた。
「事故物件担当って……お隣、そうなんですか?」
「ええ」
不動産屋は上着の合わせを捲り、懐を探ったようだった。
小さな白いものをこちらに差し出す。
名刺のようだ。
スマホで照らすと「事故物件担当、華沢 空」とある。
「そういう所に住む人って、結構いるんですか」
梨恵は隣の部屋の玄関扉をまじまじと見た。
「やっぱりお家賃、安かったりします?」
「そうですね」
不動産屋は言った。
「ご迷惑をおかけする分、割り引かせていただいてますが」
懐に名刺入れを仕舞いながら不動産屋は言った。
へええ……ともう一度隣の扉を眺めてから、梨恵は懐中電灯を不動産屋に差し出した。
「さっき懐中電灯の予備がないか、隣の人に聞かれてたんです。これ、渡して貰えますか」
梨恵は言った。
不動産屋は、じっとこちらを見ていた。
「ええと……女の人が。赤ちゃんもいるみたいだし」
「いえ。ここは、乳幼児や小さい子供はいませんね」
不動産屋は言った。
「というか、空き部屋なんで」
「え」
懐中電灯を差し出した格好のまま、梨恵は固まった。
「え……冗談」
「いえ本当に」
不動産屋は言った。
「二十年前の洪水の際、停電が原因で亡くなった方なので、その時の停電と混同してしまったのかもしれませんね」
「嘘」
梨恵は一、二歩後退った。
「幽霊とか、信じてないし」
「そうですか」
不動産屋は言った。
「あ、赤ちゃんも、そのとき一緒に亡くなってるんですか?」
「赤ちゃん」
不動産屋は、隣の玄関扉の方を振り向いた。
「お子さんは居なかった筈ですが」
「でも、さっきから赤ちゃんの泣き声が」
不動産屋は、かさかさと紙の束のようなものを取り出した。
関連の書類でも見ているのだろうか。
こんな暗い所で見えるのだろうか。梨恵はじっと様子を眺めた。
「あのぉ、すいません」
階下から、初老の男性のような声がした。
通路の手摺りに掴まり下を見る。
こちらを見上げているようだ。
「ああ、そこそこ。人、いますよね?」
階下の男性は言った。こちらを指差しているのだろうか。
「大っきな虎猫見ませんでしたか? 家から逃げちゃって」
「猫……」
梨恵は復唱した。
男性のすぐ傍の部屋の住人が、カラカラと掃き出し窓を開けたようだ。
「そっちの棟の方で鳴き声してたけど、それですかね」
そう言っているのが聞こえた。
「猫……?」
「猫の鳴き声だったんでしょうかね」
不動産屋は言った。
赤ちゃんの泣き声と猫の鳴き声。確かに似てるかもしれないと梨恵は思った。
「え、じゃあ、赤ちゃんの幽霊はいないの?」
「ええ」
不動産屋は言った。
「安心しましたか?」
「ちょっと安心しまし……」
言いかけ、梨恵は不動産屋の方を向き直った。
「いいいいいえ、女の人は、幽霊ですよね?」
「まあ、そうなんですが」
危うく何でもない部屋と思い込まされそうになった。
こういう手で事故物件を契約させるのだろうか。
担当者ということは、そうやって契約させるの上手いんだろうなと梨恵は思った。
「あああの、あたしは、事故物件とか無理なんで」
「まあ、人それぞれです」
不動産屋は言った。
不意に明るくなった。
チカチカ点灯してから、通路の薄暗い明かりが次々点いた。
周囲の部屋から、安堵したような声が一斉に聞こえる。
大きめの茶封筒に書類を入れ、不動産屋は会釈した。
「では。そちらのお部屋の担当は昼の本営業の方なので、何かありましたら、そちらに」
そう言い、不動産屋は薄暗い通路を去って行った。
明るい所で見たら、ちょっと格好いいかもと梨恵はつい思ってしまった。
アパートの敷地の端の方で、「おっ」とも「こら」ともつかない声がする。
暫くすると、先程の初老の男性と思われる人物が、大きな猫を抱いて去って行くのが見えた。
終




