椀間市尼内字根見3-1 アパート1K 築10年南向きキッチン窓あり/自社
午前一時。
タクシーから降りた。
アパートの薄暗い二階の通路を通り、玄関扉の前まで来る。
笹山 舞子は、背負うようにして肩を貸していた友人、穂乃花に、いったん下りてもらった。
肩までの髪を耳に掛け、大きな肩掛けバックを探り鍵を探す。
専門学校の友人たちと居酒屋で飲んでいた。
盛り上がり楽しかったが、同じ方向の穂乃花が、一人で帰らせるには危なそうなくらいに酔っていたので、やむなく泊めることにした。
秋の深夜は、さすがに風がひんやりとしている。
タクシーを降りてから、風の冷たさで酔いは覚めてしまった。
ううん、と眠そうな声を出し、穂乃花は通路に座り込んだ。
シュシュでアップに纏めた髪が、崩れかけている。
「飲んだあ……」
穂乃花は呂律の回らない口調で呟いた。
「飲んだね」
舞子は言った。
「何飲んだっけ。酎ハイと、酎ハイと、酎ハイと、酎ハイ……」
穂乃花は指を折って数え出した。
「ねね、昨日の夜ドラ観た?」
穂乃花はそう続けた。
「観た。あの医者の彼、ひどい」
返事をしながら舞子はバックを探った。
ようやく鍵を見付け、鍵穴に入れる。
「ねね、ここ、事故物件って言ってたよね」
穂乃花は声を潜めた。
「出る?」
「出ないよ」
舞子は言った。
「あたしもちょっと怖かったけど、結局何もないよ」
「そうなんだ」
穂乃花は言った。
「安いなら、あたしもそういう所にしようかなあ。就職してからとか」
玄関扉を開け、明かりを点ける。
「ほら、中入りな」
穂乃花の腕を引っ張り、舞子は中へと引きずるようにして連れ込んだ。
「眠いい」
穂乃花は愚図るように言った。
「中入って寝なよ」
舞子は、穂乃花の腕を担ぎ、おぶるようにして部屋へと入れた。
足を引きずられるというか、無理やり前進させられているような感じで、穂乃花は入室した。
姿見に二人の姿が映る。
すっかり穂乃花が背中に覆い被さっているような感じだ。
顔が青くなりげっそりとしているようにも見える。
「具合とか大丈夫?」
畳の上に下ろしながら舞子は言った。
「大丈夫」
脚を崩して座り穂乃花は言った。
「事故物件って言っても普通だよね」
穂乃花はそう言い、畳の一点をじっと見る。
「普通だよ。本当、何にもないよ」
舞子は押し入れを開けた。
「怖くない?」
穂乃花は言った。
「今は全然」
「そ。なら良かった」
穂乃花は俯き言った。
「人が死んだってだけで、事故物件ってことになっちゃうからね」
「死んだだけっていうのも、ちょっとあれだけど」
舞子は苦笑した。
「こっちは、無闇やたら出る気なんて無いのにねえ」
穂乃花は言った。
「え……うん」
よく分からないが、酔っているせいなのか。
「布団敷くから、どいて」
布団と布団の間に両腕を差し込み、舞子は上体を反らした。布団を両手で引っ張り出す。
穂乃花は座った格好で後ろに移動した。
「何で事故物件選んだの?」
「安いからでしょ」
どさっと布団一式を畳の上に下ろし舞子は言った。
「ここのこと、ちゃんと説明された?」
「女の人が病死したって聞いた」
舞子は言った。
「若い人だったってことだけど、病名からすると、最後はげっそり痩せてたんだろうななんて思った」
うん、と穂乃花は不明瞭な口調で言った。
「でも部屋も別に汚れてなかったって。近くに親戚とかもいた人だから」
玄関の呼び鈴が鳴った。
穂乃花がゆっくりとそちらの方を見る。
「不動産屋さんだと思う」
そう言い、はい、と返事をして舞子は玄関口に向かった。
事故物件は、夜中に突然退出したがる人もいるとのことで、毎夜様子を見に来る。
いつもはもう少し早い時間帯に来るのだが、もしかして留守だったので出直させてしまっただろうか。
「あの、すみません」
玄関扉の向こうから、若い男性の声がした。
「やっぱり不動産屋さんだ」
舞子はそう言い、玄関の三和土に降りた。
魚眼レンズを覗きながらサムターンを回す。
「あの、すみません」
珍しく不動産屋はしつこく呼びかけた。
「はい?」
「すみません」
どうしたんだろうと、舞子は怪訝に思い玄関扉を開けた。
黒いスーツの男性がいた。
毎夜見慣れた人物だ。
舞子より少々歳上の、二十五、六歳ほど。
このアパートを管理している、華沢不動産の事故物件担当者だ。
問い合わせ時に、華沢 空と書いた名刺をくれた。
「お友達ですか?」
不動産屋はそう言い、通路の一角を指した。
通路の柵に寄りかかるようにして、踞って座る小柄な女性がいた。
穂乃花だった。
「え?」
舞子は驚いて、部屋の中を振り返った。
六畳の和室の、敷きかけた布団の横に座っていたはずの穂乃花の姿は、無かった。
「いま伺ったら、ここで酔い潰れていらっしゃったので」
「置いて行くんだもん、酷いい」
穂乃花はゲラゲラと笑った。
「え、じゃあ、今の穂乃花は……」
舞子はもう一度部屋を振り返った。
ああ、と不動産屋は言った。
「あきのさん、まだ居らしたんですね」
不動産屋は大きめの茶封筒から書類とボールペンを取り出すと、何かを書いた。
「おとなしい方なんで、もしかして成仏なさったかと思ってたんですが」
「え……今のが……あれですか?」
舞子は言った。
「穂乃花に見えたんですけど……」
誰、という風に不動産屋はこちらを見た。
「あ。この人に見えてて」
舞子は、踞り潰れている穂乃花を指差した。
「ああ」
不動産屋は再び書類に何かを書いた。
「そういう風に思い込まされることがあるみたいですね」
ひえ。
舞子は声にならない声を上げ後退った。
鳥肌が立つ。
「何か言ってました?」
「……え」
頭が混乱して記憶を手繰るのも難儀な感じだが、舞子は部屋に運んだ方の穂乃花との会話を何とか思い出した。
「無闇に出る気はないとか何とか」
「ああ、そういう方ですね」
不動産屋はまた何かを書いた。
「穏やかな方なので問題はないと思いますが、気になるのでしたら、退去の手続きは、いつでも申し出てくださっていいですよ」
不動産屋は言った。
「え……急に引っ越しってのも……」
舞子は呆然としながら言った。
「取りあえず今日は、お友達が風邪ひいちゃいますから」
不動産屋はボールペンで穂乃花を指した。
「そ、そうですね」
舞子は穂乃花の腕を掴んだ。
「ほら立って」
「では」
不動産屋はボールペンと書類を茶封筒に入れると、挨拶した。
「あ……はい」
顔を上げ舞子は返事をした。
不動産屋の姿はもうなかった。
終




