朝石市片吉1-6 片吉駅徒歩8分フローリング 単身者限定キッチン風呂トイレ共同 築55年 自社
午後十時三十分。
部屋を出て共用の台所に来ると、秋月 修平は、明かりを点けた。
小腹が空いたので夜食でも作ろうかと思った。
元はオフィス用に貸していたフロアを、三部屋に分割した物件。
ほぼ同じ広さに仕切り、元からあった玄関前の壁を利用して流し台が設置してあった。
流し台の向かい側に狭い通路を挟んでトイレと風呂場。
味気ない内装と、無理やりな間取りがやや気になるものの、単身で住むには充分だった。
越して来たのは二ヵ月ほど前。
会社に通いやすく家賃の手頃な物件を求めてのことだった。
台所と風呂、トイレを共用している他の二人の男性は特に非常識な人たちでもなく、居心地は悪くはなかった。
何気なくシンク横の鏡を見る。
自分ではない男の顔がこちらを見ていた。
青ざめた顔、顔中に流れる赤黒い血、爛れた頬の皮膚、薄汚れぼろぼろに裂けたワイシャツ。
一体どんな死に方をしたんだろうと、冷静に考えてしまう。
男は無表情のまま暫く動かずにいたが、ややしていなくなった。
修平は眉を寄せ鏡をじっと見た。
これだけは何とかならんかなと思う。
他の二人の同居人は特に気にしていないと言っていたが。
ここはテナントだった時代から、幽霊が出ると評判の物件らしかった。
いくつかの企業がここを借りたが、どこも経営が長続きしなかったことで余計に噂になった。
ここで自殺した男性がいただの、ここに入っていた企業の一つで過労死した社員がいただの様々な話を聞いたが、地元出身ではない修平にはどれが本当やら分からなかった。
修平の隣りの部屋の扉が開いた。
痩せた男性が顔を出す。
「あ、夜食ですか」
こちらを見てそう言い、男性は共用のトイレに向かう。
同居人の豊田だった。
物静かで、殆どの時間部屋に籠っている。フリーランスで仕事をしていると言っていた。
トイレの流れる音がする。
暫くして、豊田がトイレから出て来た。
「んじゃ」
そう言って部屋の中に消える。
扉を開けたときに、びっくりするほど殺風景な室内の様子が目に入った。
初めて見た訳ではないが、この人の部屋の、物の無さはいつも驚く。
見えていない場所に仕事の道具が置いてあるのだろうと思うが、それ以外は何をして過ごしているのかと思う。
はっと思い立ち、修平は閉まった扉に向けて「あの」と声を掛けた。
「良かったら、豊田さんも食べますか?」
いちおう社交辞令でそう尋ねてみる。
部屋の中から「いらない」と声がした。
少々ホッとしながら冷蔵庫を覗く。
油性ペンで自分の名前を書いた食材だけを取り出す。
半分で九十八円だったキャベツ、グラム四十八円でやや多めのパックを選んでしまった豚肉。
ラーメンだな、と決めて雪平鍋を棚から取り出した。
顔を上げ、シンク横の鏡を見る。
血塗れの男が、また鏡の中にいた。
先ほどよりも顔の所々が黒ずみ、額から流れる血は量が大幅に増えた。顔の殆どが流血かと思うほどだ。
口を半開きにしてじっとこちらを見詰め、暫くすると、また鏡からいなくなった。
だから、どんな死因だとそういう感じになるんだ。
パックの豚肉を雑に雪平鍋に入れ、修平は推測を巡らせた。
午後十一時。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「はい」
キャベツと豚肉がぐつぐつと煮立つ雪平鍋。
インスタントラーメンを投入し、箸でほぐしながら修平は返事をした。
不動産屋だろう。
事故物件は、状況によっては突然解約したいと申し出る人もいるとかで、こうして毎夜様子を見に来る。
こんな時間まで大変だなと思うが、昼と夜のシフトでもあるんだろうか。
「はい」
取って付けたように設置された低めの上がり框から手を伸ばし、修平は玄関扉を開けた。
黒いスーツの青年がいた。
二十五、六歳といったところか。修平よりもやや歳下かという感じだ。
この物件を管理している華沢不動産の事故物件担当。
華沢 空と書いた名刺を、問い合わせ時にくれた。
「こんばんは」
不動産屋は言った。
「お夜食ですか」
身体をやや傾け、修平の背後を見る。
「あ……ええ」
修平はガス台を振り向いた。
インスタントラーメンの、醤油と煮込んだ具の匂いが漂う。
「不動産屋さんもどうですか?」
つい社交辞令で言ってしまった。
「いえ、結構です」
不動産屋は言った。何となく修平はホッとした。
「ご様子は」
「や、特に問題ありませんけど」
修平は、シンクの横にある鏡の方を振り返った。
「今更ですけど、あの鏡は問題ないんですかね……」
修平は鏡を指差した。
「特に物件として問題は無いという位置付けですが」
不動産屋は言った。
「気になるんでしたら、今度うちのカレンダーをお持ちしますので、それを貼って隠しては」
「ああ、カレンダーくれんの……」
何か随分、生活感のあるアドバイスだなと思った。
「犬と猫の写真のものですが」
「犬と猫……」
「うちの社長の好みで」
「ああそう……」
この不動産屋の社長は、華沢 生さんとかいったか。
名字が同じだが身内なんだろうか。
「まあ、当の鈴木さんが気にしてはいないみたいなんで、あれなんですけど」
シンクの横にある扉が開いた。
青ざめ、額から大量の血を流した男性が現れた。
こちらを見てニッと笑う。
「不動産屋さん、こんばんは」
もう一人の同居人、鈴木だ。
どうだ、と見せつけるように不動産屋に向けて血塗れの顔を突き出した。
よく見ると後頭部に斧まで刺さっている。
芸の細かい。
「こんばんは。仮装ですか?」
書類に何か書いていた手を止め、不動産屋は言った。
「うちの会社、来週のハロウィンに仮装飲み会やるとか訳分からんこと言い出してさあ」
どんだけ暇なんだと、鈴木は灰色に塗った口を大きく開けてゲラゲラと笑い出した。
文句を言う割にはノリノリに見えるなと修平は思った。
「マジックミラーを普段使いの鏡にするって、気にならないですか?」
修平は言った。
「いや」
鈴木は鏡の方を振り向いた。
「特に。気になる?」
ここがオフィス用フロアとして使われていたとき、玄関横の壁にマジックミラーが取り付けてあった。
鈴木の部屋はその壁を利用して仕切った部屋なのだが、鈴木は自室で平気で身だしなみ用の鏡として使っていた。
特に困るような行動のある人ではないが、この感覚だけは修平には理解しづらかった。
「まあ、あとは異常ないですよ」
修平は言った。
ふと、作りかけのラーメンを思い出した。
伸びてしまう。
あとは同居人に任せて、ラーメン持って部屋に引っ込むか。そう考えた。
「あと、お二人にご相談なんですが」
不動産屋は言った。
書類をぺらっと捲る。
「空いている部屋に、入りたいという方がいらっしゃるんですが」
「ん?」
修平は、自室の隣の部屋を見た。
「豊田さんいるじゃない」
「豊田さんって誰」
鈴木が血糊をべっとりと付けた眉を寄せた。
「え? 豊田さん……」
修平は、自室の隣を指差した。
不動産屋が書類をぺらっと捲った。
ああ、と呟く。
「三十年ほど前に、ここのフロアで急死なさった絵師さんですね」
不動産屋は何でもないことのようにそう言った。
「当時は、イラストレーターという言い方の方が主流だったそうですが」
「おいおい……」
鈴木は血塗れの顔を困惑したように歪め、半歩ほど後退った。
「……普通に喋ったんだけど」
修平は言った。
そう言えば、契約時に男性が一人既にいますがと説明されたのを思い出した。
なぜ二人いると思い込んでいたのか。
「どんな方でした? 僕もまだ直接お話ししたことは無いんですが」
書類に何かを書きながら不動産屋は言った。
「いや普通だったけど……」
修平はそう言った。
不動産屋の態度があまりに淡々としているので、何の話をしているのか分からなくなりそうだ。
「意外と本物はそんなもんなの?」
鈴木は血塗れの顔を引きつらせた。
「それでですが。新たに入居したいという方の方は。大丈夫ですか?」
書類を見ながら不動産屋がそう尋ねる。
「……そっちは、確実に生きてる人ですよね?」
修平は困惑して言った。
「亡くなっている方からは、賃料取れませんから」
えらく現実的な人だなこの人、と修平は思った。
幽霊を見たという話に全く動じていないが、どう捉えているのか。
そういや、ラーメン。伸びる。
そんなことを次に考えた。
終




