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ちょっと……。
店内に女性と二人で残され、穂波はカウンターの傍で固まった。
摺り足で、足を半歩だけ前に出してみる。
チラッと女性の様子を伺うが、女性は全く反応していなかった。
メニューをテーブルの上に置き、行儀よく両手を膝の上に置いて凝視したままだった。
何か、メニューを見てる姿勢も変なような。
選んでいる感じじゃない。
睨んでいるような。
メニューに怨みがあって成仏出来ないとか。
そんな人いるのか。
そおっと穂波は一歩前に踏み出した。
女性は微動だにしない。
横目で穂波は女性を見た。
カウンターの内側まで行けば大丈夫だと、何の根拠もなく思った。
その後は、伯母が帰るまで厨房に隠れていよう。
そおっと二歩目を踏み出す。
女性は同じ姿勢のままだった。
幽霊って、どれくらいの間出ているものなんだろう。
怖くて足がガクガクする。
三歩目。
女性を見る。
首だけを動かし、こちらを向いていた。
ひっ。
穂波は立ち竦んだ。
血の気が引く。
女性は、上体を殆ど前後させず、すうっと立ち上がった。
足音もさせずこちらに近付く。
弱々しくて、歩幅の狭い力のない歩き方に見えた。
傍に来ると、穂波を上から見下ろした。
穂波より頭一つ分くらい上背がある。
「あの」
女性は弱々しい声で言った。
「は……はい」
穂波はぐるんっと身体を反転させ、カウンターに背中を預けた。
な、なに。
呪いでもかけられるのかな。
「いつもの人じゃないんですね……」
「いいい、いつもの人は、伯母です。すぐ戻ります」
穂波は言った。
女性は無表情でこちらを見ていた。
「注文、言っていいですか」
「は、はい」
心臓がバクバクする。
お線香あげてくれかな。
それともお供え物。
自分の怨みを晴らしてくれとかだったら、どうしよう。
「低脂肪の牛乳お願いします」
女性は言った。
「ぎゅ……?」
「わたし、カフェイン駄目で」
女性は言った。
「紅茶もコーヒーもお茶も全部駄目で」
「はあ……」
「かといって、ジュースと生乳は匂いが駄目で」
「は……」
なにこれ。
「じゃあ何で喫茶店に来ているんだと思ったでしょう?」
「あ……いえ」
「何か、雰囲気が好きで……落ち着くし」
そういう人いるんだ。
まあ、昭和の感じがあるといえばある内装だし。
「あの、コーヒーとかなら、カフェインレスのものも。伯母に言えば」
「そういうのは、邪道かと思いまして」
じゃど……。
なにその拘り。
「それと、サンドイッチお願いします」
「サンドイッチですね。すぐに伯母……いえ、店長が戻ると思いますので」
「チーズとパセリとハムと玉葱とポテトと人参と胡椒とマヨネーズ抜きでお願いします……」
穂波は、ぽかんと女性を見上げた。
「す……すみません。メモしますので、もう一回」
「大丈夫です。店長さん、分かってくださってます」
「……はあ」
穂波はカウンターに後ろ手を付いたまま、ずるずると崩れ落ちそうになった。
何だろう、変な脱力感が。
「わたし好き嫌い多くて。すみません……」
「はあ……いえ」
穂波は言った。
女性は方向転換し、元いた席の方を向いた。
「あ、お水お持ちします」
気を取り直し穂波は言った。
「いえ……」
女性は表情もなく言った。
「水も、決まったメーカーのミネラルウォーターしか飲めなくて……」
びっくりするくらい細くて白い手を差し出す。
「コップだけお借りできれば……」
「はい……」
コップを渡す。
渡したときにほんの少し触れた女性の手は、ちゃんと温かかった。
生きてる人なんだ。
びっくりした。
穂波は改めて女性の顔を見上げた。
女性は元の席に戻ると、バックからサプリメントらしきパッケージを出し、かなりの種類を飲んでいた。
「ああ、あの人」
買い物から戻った伯母は言った。
「常連さんで、いつもああなの」
「注文取らなくていいとか言うから、何かと思っちゃった」
穂波は言った。
「人から話しかけられると、怖くてびっくりしちゃうんだって。だから、向こうから来るの待ってるの」
何て面倒臭い人……。
穂波はげんなりとした。どうやって生きているんだろ。
時計を見た。
午後三時。
「今のうちに洗っときましょ」
伯母は、ケーキと軽食作りで使った食器や用具を、流し台のプラスチックの盥にガシャガシャと運んだ。
「さっきの不動産屋さんが事故物件担当とか言うから、あの女の人が幽霊かと思っちゃった」
食器を洗いながら、穂波は唇を尖らせた。
あはははは、と伯母は笑った。
「ここが事故物件って訳じゃないよね?」
「ここは違うわよお」
伯母は更に大声で笑った。
良かった。
穂波は胸を撫で下ろした。
幽霊とか、話だけでも怖くて本当に無理。
「あの不動産屋さんも常連さん?」
穂波は言った。
「あの人ねえ、何年か前、ここの近くの大通りで事故にあってねえ」
「へえ」
穂波は顔を上げ、大通りの方向を眺めた。
「あたしがたまたま駆けつけて、救急車呼んだんだけど……駄目だったのよねえ」
「ふうん」
カットソーの袖を捲り上げ、更に水音をさせる。
「まだ若いし、家の不動産屋も継いだばかりだったのにねえ」
じゃぶじゃぶと、大きなプラスチックの盥の中で、水と洗剤が跳ね合った。
「でもまあ、その直後にお礼言いに来てくれて、その後もああやって顔出してくれるのよね」
「へえ」
穂波は言った。
「律儀な人だね」
何か、伯母の言う内容にどこか引っ掛かる部分があった気がした。
どこだろうと思ったが、暫くしてから気のせいだろうと思った。
きゅっと音を立てて、穂波は水道の水を止めた。
終




