朝石市片吉1-3 片吉駅徒歩15分 築27年/貸店舗 自社
「いらっしゃいませ」
午後二時過ぎ。
客はひとりもいない時間帯だった。
生田 穂波は、木目のカウンターを拭きながら声を上げた。
喫茶店ダリア。
穂波の伯母が、ひとりで切り盛りしている店だ。
貸しビルの二階にあった。
店舗は小さく駅から離れているが、大きな通りの近くなので、それなりに客は入る。
クリーム色の壁に、木目調のカウンター。
猫足の椅子とテーブルに、並んだ大きな窓、レースのカーテン。
良く言えばレトロというか、昭和風というか。
二十年前、開店した当初はケーキを販売するのみの店だったそうだが、経営が軌道に乗るまで、ああでもないこうでもないといろいろな要素を付け加え、今ではケーキと軽食のある喫茶店という形に仕上がっていた。
普通ならあっという間に店じまいしているパターンではと穂波は思う。
奥の厨房にいる伯母を伺った。
ショートケーキの、ケーキフィルムを付ける作業をしていた。
すぐに手は離せないだろう。
あたしが注文聞くか、と穂波は台拭きを片付けた。
知らない店でないとはいえ、店員として仕事をするのは、今日が初日なのだが。
身内だけでやっていると、本当にこういう所は緩い。
春先まで、首都圏の大きな企業にいた。
就職が決まったときは周囲にも喜ばれ、穂波自身も定年まで働くつもりで意気込んでいた。
ところが、ストレスで体調を崩した。
勤めている間はどうしても治らず、退職して地元に戻った。
半年ほどで体調は戻ったが、意気込んでいた気持ちの持って行き場がなく、実家でダラダラと過ごしていたところを、伯母の手伝いでもして来いと親に言われた。
学生時代にファミレスでアルバイトをしていたので、接客は未経験ではないが。
客は、黒いスーツの青年だった。
二十五、六歳といったところか。
穂波とほぼ同い年くらいだ。
営業の人かなと思った。
外回りの合間にこうしてサボる人はよくいる。
青年は席には着かず、軽く首を伸ばすような仕草で厨房の方を眺めた。
「あの」
お席に、と穂波は声を掛けようとした。
しかしちょっと違うのかと思った。
「伯母のお知り合いですか?」
穂波は言った。
「華沢不動産の者です」
青年は感じ良く微笑し、そう言った。
「不動産」
「すぐ近くの。ご存知ないですか?」
青年は西の方向を指差した。
穂波は眉を寄せた。
確かここは貸し店舗と聞いていた。
とうとう店仕舞いするんだろうか。それについての話か。
やはり儲かってはいなかったのか。
「伯母、呼んで来ます」
穂波はカウンターのスイングドアを膝で押した。
「いえ、お変わりなければいいんです」
不動産屋は言った。
「また来ますから」
そう言うと入口の扉に向かった。
ガラスの扉を押して開け、退店する。
扉に付いた大きなベルがカランカランと鳴った。
「あら? 誰か来てた?」
厨房から伯母が顔を出したのは、入口の扉が閉まったのとほぼ同時だった。
白髪混じりの頭に被った三角巾を、片手で直す。
「不動産って言ってたけど」
「華沢さん?」
伯母はそう言って、入口の扉を見た。
「呼んで来る。行ったばっかりだし」
穂波はそう言って、小走りで入口に向かった。
扉を開ける。
不動産屋は、もういなかった。
「あれ……」
穂波は、通路を見回した。
「もう居ないでしょ」
カウンターの内側から伯母が言った。
「でも、今出て行ったばっかりで」
穂波は、何度も通路を見回した。
薄暗く狭い通路には、配管と消火栓の設備くらいしかない。
隠れられる所なんかない。
「いいよ。毎日来るし」
伯母は言った。
先ほど穂波が片付けた台拭きを、流し台のシンクで濯ぐ。
「近くの、華沢不動産って所の息子さん」
「華沢」
何かを穂波は思い出した気がした。
記憶を手繰る。
前にネットで見た名なのに気付いた。
「夜中だけ事故物件を扱うとかいう不動産で、そんな名前の所を見たような」
「その華沢さん」
カップを洗いながら伯母は言った。
客のいない時間帯なので、水音が大きめに聞こえる。
「さっき来てたのが、事故物件担当の空さん。その辺に名刺あると思うけど」
え、と穂波は顔を強張らせた。
事故物件担当って。
この店舗、事故物件だったの。
俄に鳥肌が立った。
幽霊なんか見たことないけど、出るのか。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「い、いらっしゃいませ」
穂波は努めて明るい声で言った。
タイミング的に悪い。心臓が跳ね上がった。
入って来たのは、白っぽいワンピースの女性だった。
細身で長身。
長い黒髪を腰に近い位置まで伸ばし、面長で涼しげに整った顔立ちは、独特の雰囲気があった。
ゆっくりと店内の段差のある通路を歩くと、店の端の席に座った。
店内のライトを一部しか点けていない昼間は、女性の座った席は、やや薄暗かった。
静かにメニューを取り出し、無表情で見ていた。
「水とおしぼり出して来る。あと注文」
そう言った穂波を、伯母はエプロンを引っ張り引き止めた。
無言で顔の前で小さく手を振る。
行くなという意味かなと穂波は思った。
「何で? どしたの?」
伯母は口に人差し指を立てた。
ぞわりと悪寒が走った。
あれが、ここに出る幽霊ってことなのかな。
初めて見ちゃった。
血の気が引いていくのを穂波は感じた。
霊感は全く無いが、怪談話ははっきり言って大嫌いだ。
怖すぎて、誰かが話し始めたらがっちり耳を塞ぐくらいだ。
伯母は顔を上げ、厨房の時計を見た。
昼過ぎ。
午後二時半になっていた。
「ちょっと買い物行って来るから」
伯母はエプロンを外し始めた。
「え、伯母ちゃん、ちょっと」
「ボックスティッシュ、今日安いんだよねえ。売り切れちゃう」
穂波は焦って伯母の服の袖を掴んだ。
「あ、あたしが行くから」
「すぐ向かいの店だし、ちょっとは運動しなきゃ。留守番してて」
伯母は中肉中背の身体で、年齢にしては軽やかに店内を横切った。
ぱたぱたと入口のガラス戸を開けると、出掛けて行った。




