椀間市布荷見4-8 築11年/アパート1K/南向き/コンビニ徒歩8分/自社
午後九時。
小さな電灯で照らされた薄暗いアパートの通路。
田名網 洋平は、会社から帰り部屋の鍵を開けた。
真っ暗な玄関口。
壁を二、三度探り電灯のスイッチを点ける。
はあ、と長い息を吐きながらネクタイに手を掛けた。
緩めながら、六畳の和室の方へと移動する。
安アパートの二階は、静かに歩いたつもりでも流し台がガタガタという振動音を立てた。
シャツの襟元を緩めると、自分の体臭がした。
まず風呂。
いやその前に、ビール飲んで、ぐでっと座りたい。
回れ右して、流し台の横の冷蔵庫を開ける。
屈んでビールを取った。
それと茹でておいた枝豆。
実家の母が大量に送りつけて来たので、まとめて全部茹でて小分けにし冷凍しておいた。
独り暮らしも十年目となると、慣れたものだ。
ぐびび、と小さく音を立て、飲みながら和室に入る。
部屋の南側の掃き出し窓。
まだカーテンは開けたままだったので、向かいの棟の部屋の明かりが目に入った。
向かいのワンルームのアパートの二階の窓。
若い女の子が立っていた。
微動だにせずこちらを見ている。
一ヵ月ほど前に越してきた子だった気がする。
高校生と言われても通りそうな、幼い感じの外見だった。
近くの専門学校に通う子だろうと思っていた。
ここのところ、ずっとだ。
仕事を終え家に帰ると、既にあの部屋の明かりは点いており、窓際であの女の子がじっと見ている。
朝、出掛けるときもそうだった。
同じように窓際でじっとこちらを見ていた。
いつも同じ、パンのイラストのTシャツを着ていた。
お気に入りの部屋着なのか。
部屋の明かりを点けた。
窓越しに「ども」と会釈して、カーテンを閉める。
女の子の反応はなかった。
目を剥いた感じでじっと立っている。
いつもこれだな、と思いながらカーテンの合わせ目を直した。
今時の子は、愛想で会釈を返すという習慣もないのか。
それとも変な人とでも思われたか。
ぐび、とビールを飲む。
胡座をかきテレビをつけた。
スポーツニュースをちらっと見てから、あちこちのチャンネルに移動する。
ぐびび、とビールを飲んだ。
向かいの女の子の部屋の明かりは、まだ点いていた。
確認した訳ではないが、いつもかなり夜遅くまで点いている気がする。
もしかしたら一晩中点いているのではないだろうか。
節約という言葉を知らんのか。
他人の部屋の電気料金に勿体なさを感じてしまった。
午後十一時。
風呂から上がり、軽く髪を拭く。
向かいの部屋の明かりは、まだ点いていた。
いつもそうだが。
一体何時に寝てるんだろうな、と思いながらテレビをつけた。
深夜ドラマを放映していた。
チャンネルを変えると、バラエティとテレショップがほぼ交互に映った。
リモコンで番組欄を見る。
同じようなのしかないな。
あちこち変えてから、つけっ放しでビールを飲む。
ふと窓の外が気になり、中腰で窓際に向かった。
まさかまだ見ている訳ではないだろうなと思い、カーテンの裾をほんの少し捲る。
女の子はまだ見ていた。
嘘だろ、と内心呆れた。
星とか月とか見ているのかもしれないが。
そういや今日はスーパームーンとか、さっきテレビで言ってたか。
外が薄ぼんやりと明るい。
窓の外のベランダの手刷りが月明かりに照らされ、いつもより輪郭がはっきり見える。
女の子は、前後に、ほんの僅か身体を揺らした。
動けはするんだなと何かホッとした。
動いているのを初めて見た気がする。
いつも目を見開き口を半開きにして、ただ立っているのだ。
上から吊られてでもいるんだろうかと思ってしまうような直立不動だ。
女の子は身体を僅かに揺らしてこちらを見続けていた。
カーテンを閉じる。
そろそろ寝たかったが、あと一時間もすれば不動産屋の来る時間帯だ。
呼び鈴を鳴らしても出ない場合は、寝たと判断して帰るので無理して出ることはないと言っていたが。
リモコンで番組欄をつけ、右上の時刻の表示を見る。
あと一時間くらいなら待ってもいいか。
もう一度中腰で窓際に移動し、カーテンを捲る。
女の子はまだ見ていた。
いつ寝てるんだと眉を寄せた。
明るい部屋の中、相変わらず直立不動だった。
部屋の様子が部分的にだけ見える。
女の子らしい、ごちゃごちゃとした小物が点在した部屋だった。
壁の一角には、メモのようなものが幾つか貼り付けられ、その横にカラフルな日めくりカレンダーが掛けられている。
日めくりカレンダーは、二日前の日付のようだった。
ズボラな子なのかなと思った。
カーテンレールから女の子の首の辺りにかけて垂れ下がる紐のようなのは、カーテンを括る時に使うのか、それとも洗濯物を干すときにでも使うのか。
暫くしてから、もう一度リモコンで番組欄を見た。
不動産屋が来るまで、あと二十分程度か。
午前零時。
玄関の呼び鈴が鳴らされた。
ほぼ同時に、救急車のサイレンが聞こえる。
かなり近い場所のようだった。
細い路地を入っているのか、進行が遅くなったのがサイレンの音で分かった。
んしょ、と呟きながら立ち上がり、玄関扉を開ける。
黒いスーツの男性が立っていた。
自分よりも五、六歳ほど歳下という感じだろうか。
このアパートを管理している不動産屋の人だ。
手続きしたときに「事故物件担当、華沢 空」と書いた名刺をくれた。
「様子はどうですか」
不動産屋は微笑した。
目元をほんわかと緩めてするこの人の微笑は、いつも感じ良く思っていた。
「いや……何かあったんですか? 救急車が結構近くまで」
洋平は掃き出し窓の方を眺めた。
「自殺みたいですね」
不動産屋は言った。
「自殺」
「窓から月でも見ているのかと思っていたら、首を吊ってぶら下がっていただけだったそうです」
「うわ……」
洋平は苦笑した。
「そういうの、怪談で聞いたことあるけど、本当にあるんだ」
玄関扉の縦枠に手を掛ける。
「来てたの、救急車?」
「救急車ですね」
だよね、と洋平は返した。
「もう死んでるのに救急車なんだ」
「一応、仮死状態なんてこともありますし、死亡確認するのは、お医者さんですから」
「そうなんだ。覚えとこ」
洋平は言った。
「男? 女?」
「年配の男性みたいです」
不動産屋は、書類とボールペンを取り出した。
「特に問題なしということで良いですか」
「ああ……うちは問題無いんだけど」
洋平はちらっと掃き出し窓の方を振り向いた。
「幽霊が出るのはベランダだけだし、どうせ霊感ないから見えないし」
ただ、と続けた。
「向かいの棟に越して来た女の子が、見えちゃって気になるらしくて。もう、ずっと見てるんだよね」
「向かいの棟ですか」
不動産屋は顔を上げた。
「そちらは別の会社が管理している所なので何とも」
「そうなんだ」
洋平は言った。
「隣接してて似たような外観のアパートなので、うちのに思えるかもしれませんが」
「別なんだ……」
洋平は再び掃き出し窓を振り向いた。
「さっさと引っ越されちゃうかもしれないね」
苦笑した。
不動産屋は、そうですね、と淡々と返した。
書類とボールペンを茶封筒に一緒に入れる。
「では」
そう言って薄暗い通路を帰って行った。
「お疲れさま」
洋平は玄関扉を閉めると、玄関と水場を一緒に照らしている明かりを消した。
和室に入り、既に敷いてあった布団の上に立ち、四角い傘の付いた電灯の紐を引く。
向かいの棟の部屋はまだ明かりが点いていた。
終




