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事故物件不動産  作者: 路明(ロア)


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13/96

石有珠市温町3-8 築10年/1Rロフト/西向き 奥下急行小草駅 自社

 蝉の声が(にわか)(うるさ)くなった。

 昔ほどではないとはいえ、暑い時期にひっきりなしに続く耳障りな鳴き声は、やはり苛々(いらいら)する。

 最近は温暖化の影響とかで、蝉の声も昔ほどではないということだが。

 大海原 茉子(わたのはら まこ)は、窓から夏の雲を見上げた。

 ここに越して三年目の専業主婦だ。

 夫とは学生時代から付き合い始めて、卒業間もなくして結婚した。

 まだ収入も少なかったので安い部屋を借りたが、それでも夫は専業主婦として家にいて欲しいと言った。

 家にいて自分だけを待ってくれる人がいるというのが、理想の結婚生活だったと言った。

 茉子も賛同した。

 家にいて、夫のことだけを考えて待っているというのが、少女時代に想像していた幸せな結婚だった。

 風呂場の扉を開ける音がした。

 茉子は振り向いた。

(たつる)、今飲み物を……」

 茉子は表情を凍りつかせた。

 風呂場から、長い髪を濡らし俯いて現れたのは、夫の(たつる)ではなかった。

 二十代後半ほどの女性だった。

「え……あの」

 茉子は座った格好でフローリングの床の上を後退った。

 またこの女性だ。

 不動産屋から、この部屋が事故物件だとは聞いていたが、何度見ても慣れることはない。

 女性は我が物顔でワンルームの部屋の真ん中に座ると、濡れた髪からぽたぽたと水滴を落とした。

 フローリングのワックス剥がれちゃう。

 そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えた。

 だが、水滴を拭くためにその女性の真ん前に進む勇気はない。

 ただひたすら女性の動きを目で追った。

 女性は、部屋をぐるりと見回すと、茉子に目を止めた。

 ひっ。

 茉子は、部屋の端に寄り身を縮めた。

「寒……」

 小さな声で女性はそう呟いた。

「寒けが……」

 ぼそぼそとそう続ける。

 茉子は更に身を縮めた。

 女性はおもむろに立ち上がると、また風呂場に消えた。

 暫くシャワーを流すような音が聞こえたが、やがて消えた。

 茉子は、ホッと息を吐いた。

 洗濯の途中だったのを思い出した。

 立が帰って来るまでに済ませなければ。




 午後十一時。

 立はまだ帰ってはいなかった。

 少し迷ったが、茉子は先に寝ていることにした。

 深く眠らないようにすれば、鍵が開く音で目を覚ますことが出来るだろう。

 帰って来たら、すぐに起きて夕飯を温めて出してあげればいい。

 ロフトに敷いた夏布団に入った。

 ふう、と息をつく。

 主婦業も結構疲れる。

 何だかんだで一日中何かしらしている。

 布団に入ると、すぐにうとうとと眠気が来た。

 気持ちよく眠りに誘われ、すうっと睡眠状態に入る。

 どれくらい経っただろうか。

 不意に。

 ぺた、ぺた、と音がした。

 ぱちっと目を開ける。

 枕元の明かりを点けようと手を伸ばす。

 明かりは点けっ放しだった。

 消し忘れて眠ってしまったのねと茉子は思った。

 奇妙な音は、ロフトに昇るための梯子(はしご)から聞こえているようだ。

 湿った裸足の足で昇るような音。

 茉子は目線だけを動かし、布団の隙間から見える部分だけを見回した。

 立はまだ帰ってはいないようだ。

 ここには茉子しかいない。

「な……やだ」

 茉子は起き上がろうとしたが、身体が強張って動かなかった。

 ぺた、ぺた、と足音が近付いて来る。

 ロフトの手刷りの隙間の部分から、一重の大きな目がこちらを見ていた。

 茉子は声すら上げられず身体を硬直させた。

 こ、怖い。

 全身が総毛立つ。

 昼間に風呂場から出てきた女性だ。

 んー、と唸るような声を出し、ロフトに上がった。

 長い黒髪をばさりと両肩から垂らし、四つん這いでゆっくりとこちらに来る。

 ひいいっ。

 茉子は両手で頭を抱え背中を向けた。

 立は、こんなのを見たという話は一度もしたことがない。

 あたしの前にだけ現れるんだ、この女性(ひと)。そう思って震えた。

 女性はしんどそうな手付きで、布団の端を捲った。

 そのまま当然のように布団に入り、背中を向けた茉子の背後で横になった。

「疲れた……」

 ハスキーな声でぼそりと言う。

 茉子は怯えて目をきつく(つむ)った。

 女性の、深い吐息のような音が耳に届く。

 苦しそうな息に茉子は感じた。

 立、まだ帰らないのかな。

 早く帰って来て助けて。茉子はそう心の中で念じた。




 玄関の呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。

 茉子は意を決して飛び起きた。

 振り返りもせずロフトから降りる。

「誰……」

 背後からそんな声が聞こえた気がした。

 恐怖が頂点に達し、茉子は滅茶苦茶な悲鳴を上げながら玄関扉を開けた。

 勢いよく開けた先に立っていたのは、黒いスーツの若い男性だった。

 ここを管理する不動産の、事故物件担当だと前に自己紹介された覚えがある。

 確か名前は、華沢 (そら)

「ふ、不動産屋さん!」

 (たつる)ではなかったが、この際、助けを求められるなら誰でも良かった。

 茉子は、不動産屋の上着の袖を両手でぎっちりと握った。

「ああ……大海原(わたのはら)さん、今晩は」

 不動産屋は微笑した。

「様子はどうですか」

「あ、あたし、もう怖い!」

 茉子は取り乱し叫んだ。

「でもでも、夫の収入考えたら、すぐに引っ越しは無理だし、もうどうしたら!」

「どう……しましょうね」

 不動産屋は言った。

「僕はアドバイスくらいしか出来ないんですが」

 玄関扉が開いた。

 先程ロフトの夏布団の中に入ってきた女性が、カーディガンを羽織り顔を出した。

「ああ、不動産屋さん、今晩は」

 女性はにっこりと笑い会釈した。

 長い黒髪を耳に掛ける。

「すみません。夜中に来るって聞いてたのに、忘れて寝ちゃった」

「様子はどうですか」

 不動産屋は言った。

「ええと……」

 女性は部屋を見回した。

「事故物件って、どんなものかと思ってたんですけど、特に変なものは見ないなって」

「そうですか」

 不動産屋は書類に何かを書き込んだ。

「昼間、部屋でちょっと寒気は感じたんですけど。あれなのかな」

 女性は苦笑いした。

「ここで亡くなったって女性(ひと)、旦那さんのDVが原因でしたっけ」 

「ええ、まあ……」

 不動産屋はそう言い、茉子の方をちらりと伺うように見た。

「勝手ですよね。家にいて欲しいから専業主婦やってくれとか言っといて、三年くらいしたら、仕事で苦労してる自分より(らく)そうだからムカついて殴った、でしたっけ」

 女性は緩く腕を組んだ。

「あたし、そういうの聞くと、本当、結婚なんてしたくないって思うわ」

「ああ、ちょっと分かります」

 不動産屋はそう言った。

 業務日誌のようなものなのだろうか。書類に何か書いていたが、途中でボールペンの調子が悪くなり、二、三度輪を描いた。

「あ、ボールペン? ありますよ」

 持って来ます、と言って女性は中に消えた。

「……どういうことなの」

 茉子は、女性がいったん閉めた玄関扉を呆然と見た。

「まあ、ゆっくり気付く方もいますから……」

 不動産屋は言った。

 何度かボールペンで輪を描く。

「……(たつる)は?」

 茉子は玄関扉を眺め言った。

 玄関扉が開いた。

 女性がボールペンを差し出した。

「どうぞ」

「すみません」

 不動産屋は受け取ったボールペンで続きを書き始めた。

 この前、と女性は話を続けた。

「旦那の方は、出所後に自殺したって記事見ましたけど。ま、様見(ざまみ)ろですよね」

 女性はカーディガンの袖を少し捲り言った。

「ここで殺された奥さんも、ちょっとは浮かばれたかな」

 茉子は呆然と何もない空間を眺めた。

 不動産屋は気まずそうな表情で、何かを書き続けていた。



 終





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