明日、君がいない
停電の大騒動から幾らかの時間が過ぎた。
目の前の真っ白な報告書の束を眺めながら、メルは眉をしかめている。
「しっかし、何で私は事務処理してるんだっけ?」
首を傾げて、何かを必死で思い出そうとするが、なかなか出てこない。
風が止まった日から随分と仕事は増えて、どこの修理業者も引く手あまたな状態だった。
もとより風が止まるときのことなんて考えていない風車が多いので、風が吹き出してすぐ壊れた風車やガタがきて次第に壊れ始めた風車など、絶え間ない修理依頼がやってきている。
風車の修理を請け負う会社としては、まさに願ったりの叶ったり状況だった。
だが、メルは納得がいっていなかった。事務仕事は彼女にとって、ただ苦痛でしかなくて、まるでそれが罰のようにすら感じてしまうのだ。
ぱちりと、右腕に電気の感触。見れば、風に誘われた電精が転がっている。
人工の電精と違い野生の電精を見るのはなかなかないので、思わずメルは目を見開く。電精が居るところといえば、下層付近の雲の中ぐらいのものでそれ以外に見るとしたら風車の発電室ぐらいのものだ。手を伸ばしてみると、電精はメルの手に引き寄せられるようにふらふらと転がってくる。
静電気のような痛みが手に走る。くすぐったいだけのそれは、電精の手であり声であり意思そのものだ。
「なんだ、はぐれたのか?」
メルの言葉なんて聞こえてないとばかりに、電精はぱちぱちとメルの手にじゃれ付いている。手の痛みは、それなりだがそれよりも――
電精に触れた肌が、焦げたように黒ずんでいく。
「めんどくさい体だね、まったく」
「せんぱーい……って、あれ?」
事務室の扉をあけてリグが入ってくると、その音に驚いたのか、電精はさっさと逃げていってしまった。後に残ったのは、電精が触った後を残すメルの肌の黒色。
「先輩どうしたんですか? 火傷ですか? 冷やさないと!」
「いや違うから。大丈夫。ただのアレルギー」
「アレルギー?」
「電気浴びると焦げちゃうのさ」
「は、はぁ……。大丈夫、なんですか? ってか電気で焼かれたら耳長さんでも焦げるのでは」
「時間がたてば元に戻るよ、炎症といっしょだから」
気にしなくていいとばかりに、メルは手をひらひらと振る。
「それで、何か用があったんじゃないの?」
昔あった事故で、彼女の体は電気に過剰な防衛反応を起こしてしまう。
普通に生活するには支障はないが、錬金術師としては面倒この上ないアレルギーだ。
「あ、忘れてました! 先輩にお客さんですよ。メイルって先輩の名前ですよね? メイルいる~、ってその……もののけさん?」
「……本当に帰ってくるなんて、珍しい」
この世界の中で一番数の多い生き物といえば人間でもなく、動物でもなく、耳長族でもない。それはもののけと呼ばれる生き物たちだ。形は千差万別、一つとして同じ個体はなく特徴も習慣も生態もまったく違う。中には、人と同様の知能を持ち人と共に過ごすこともあったり、逆に植物とまったく見分けの付かないただそこに居るだけの、もののけもいたりする。
総じて言えることは、己の形をいくらか自由にできるところと、楽しければなんでもいいという生き方ぐらいのものだ。むろん自分が楽しければという意味だから、自分勝手にも程があるが。
「お~、メイルぅ! おっひさ。帰ってきたよん」
手を振ってガレージを覗き込んでいるのは、リグが言っていたもののけだった。シルエットは人間とかわらず、遠目では判別がつかない。近づけば、その頭に生えている狐の耳と尻から伸びるふさふさの尻尾ですぐに人間でないのがわかる。
「ユズ。どういう風の吹き回し? 風邪でもひいた?」
メルの挨拶に、嬉しそうに笑うユズ。
細い目が弓なりにしなり、口元からは八重歯が顔を覗かせた。
「や~、仕事ちょうど片付いたからさぁ~。近くだったしぃ」
「あ、あの先輩」
「あぁ。ごめん。こいつは、ユズ。あんたの先輩だよ。うちの社員。外回り基本だから、あまりこっち来ないんだよ」
「……あ。はじめまして、リーズフリオ・グリーフベルアと申します。よろしくお願いします」
一瞬の反応の遅れを咳払いでごまかし、リグは一礼をした。綺麗な所作に、今度はユズが目を丸くする。
「お? グリーフベル……おーなるほど。……私はユズ。よろしくね、リグちゃん」
一瞬考え込むように視線をさまよわせた彼女は、すぐに己を取り戻して挨拶を返した。
「とにかく、中入って。リグ、お茶いれてきて」
「はーい」
小走りにガレージの奥へ引っ込んでいくリグを、ユズは珍しいものを見るかのように目で追いかけていた。
ガレージの奥にあるのは、接客用にも使われる事務室。ほとんどメルが散らかした書類で足の踏み場もなくなっているそこに、いま3人が座って向かい合っていた。
「つまり、私に書類整理をしろってことだねぇ」
「いま仕事がないなら、ちょうどいいでしょ?」
「そりゃ手持ち無沙汰だけどさぁ~。書類って柄じゃないじゃ~ん。面倒だよぉ」
「柄とか関係ないでしょ、大体こんな忙しいのに仕事ないって……ん?」
「およ? 忙しいの?」
首を傾げるユズに、頭を抱えるメル。よく判っていないリグだけが、不思議そうにお茶をすすっていた。
「えーと、あんた仕事って誰からもらってた?」
「そりゃ所長からでしょ~。支店任されてるんだから、所長に決まってんじゃん。本社なんかと連絡取るわけないし」
「……書類の半分は所長の作業分だったはず」
「何をさせたいんだろうねぇ、所長は」
「あ、あの」
うんうん唸るメルとユズについていけなくなったリグが、おずおずと声を上げた。
「私、所長なんて知らないんですけど」
「……え?」
「あー」
■
滑り込むように2階へと駆け上るメルの足音が、会社内に響きわたる。
追いかけるのはユズのばたばたと元気な足音と、ほとんど2人の足音にかき消されて聞こえないリグの足音。
メルと同じぐらい華奢なユズの体には、比率を間違えたとばかりにボリュームのある尻尾がついていた。それが階段を上るリグの目の前でふりふりと揺れている。
事態はよく飲み込めないが、目の前の尻尾はきっとふさふさでもふもふなのはわかる。
気が付けばリグは目の前の尻尾をむんずと掴んでいた。
「んなっ!」
驚きで階段を踏み外すユズ。
尻尾は引っ張られたまま、彼女は宙を舞う。むろん尻尾をリグが離しているわけもなく、彼女の体は後ろへと流れていった。
「へ?」
尻尾のボリュームに隠れて何が起こったかわかっていなかったリグが、ようやく事態を理解したときにはもう遅かった。ゆっくりと近づいてくるように見えたユズの背中は、その加速度をもってリグに覆いかぶさってくる。
「わああああああぁぁ!」
「うひゃあああああ」
幸い2人ともたいして階段を上ってはおらず、大事にはならなかった。
かといって、折り重なりながら滑り落ちて無事なわけもなく、床に突っ伏したまますぐには起き上がってこない。
「ご、ごごごめんなさい。大丈夫ですか、ユズ先輩」
「うぅーん。尻尾はスイッチだから触っちゃだめなの」
「スイッチ?」
「もしくは、一時期透明にもなったりしました」
「それ、猫系ですよね。狐の尻尾じゃないんですかユズ先輩のは」
騒ぎを聞きつけたメルが、2階から顔を覗かせる。すぐに2人の様子に気がついて、呆れ顔にため息をつくと、二の舞にならないようにゆっくり階段を下りてくる。
「何やってんの。ほら、起きて」
「面目にゃい」
「ごめんなさい……」
必死に猫系ぶってみるものの、誰もつっこんでくれなかったのが寂しかったのか目じりに涙を浮かべるユズ。
ため息交じりにメルは倒れた2人を立たせてやる。
「およ? 所長は?」
振り返ったメルの顔は、泣きそうな事態を飲み込めないようなそんな顔だった。
「いない」
「お出かけですか?」
ゆっくりと首を振るメル。
「えと、休みぃ?」
さらに首を振る。
「いない。逃げ出したか、家出したか……とにかくいない」
「え?」
「あ……あはは。ふざけたのは謝るよ、メイルぅ。ごめんよ」
「いや、本当に。いないんだよ。今から本社に連絡してくる。……所長はここが家だ、休みもありえない」
ふらふらとメルは事務所へと消えていく。
支店とはいえ、その支店の最高責任者が雲隠れ。
その事実は、さすがに強烈すぎるのかメルですら事態が把握できてはいなかった。
現実が飲み込めないのか、目を白黒させるユズとリグ。自分たちが階段を転がっている間にまるで世界においてかれたようなそんな気分にさいなまれながら、2人は顔を見合わせ、遠くメルの電話を聞いていた。