風車のある場所
真上へ飛び上がるのではなく、人工衛星の進行方向と逆へ。
未だに納得は行かないが、それが一番簡単に降りる方法だとツバキが言っていた。
一瞬にして白い人工衛星が小さくなる。
瞬く間に白い粒になり、とうとういつも見上げていたあの星のようになってしまった。
「速い、な」
「空気抵抗ないから速度が出やすい。今のうちに一気に減速するよ。ロケットと違って軽いから結構楽かも」
さらにメルは、もののけたちのエリクシルを使って減速。
気が触れそうな慣性を歯を食いしばってやり過ごす
速度が落ち着けばまた減速。
「メイルジーン! 乱暴すぎる!」
「空気の層が厚くなる前に速度を殺し切れなかったら、私たち全員丸焦げだ!」
すでに何度目の減速か分からないほど繰り返した。
そのたびに、内臓が飛び出そうになり血液が偏って目が回りそうになる。秒速三キロはまだまだ遠い。速度は落ちているはずなのだが体感は全く持って変化がない。
「くそっ! 何なんだよ!」
「落ち着け! 速度だけを殺せばいいとツバキも言っていたではないか。慣性消去とかできないのか」
「一体何を基準に速度殺せばいいんだよ! 何もないこんな場所で慣性消去なんて気の使うもんが使えるか。行くぞ、もう一度!」
ごつ。と何かに体が当たった気がした。
空気だ。
「しまっ……」
突入角度が浅すぎたのだ。空気の分厚い層に弾き飛ばされる。高度の上がる浮遊感。空気がこんなにも重く粘性のあるものだと初めて知った。まるで壁だ。あとほんの数センチ沈み込むことができれば。
メルは思わず体を伸ばそうとして――
「ばかっ!」
体がバラバラになりそうな衝撃が走る。
腕が空気圧に負けて変な方向に曲がっていた。
「!」
視界の先、腕に張り付いていたもののけの一人が剥がれ落ちるのが見えた。
一瞬にして熱を帯び、火の尾を引いて星へ落ちていく。
「次に手を伸ばすなら、我々は貴様を置いていくぞ、メイルジーン!」
びくりと、伸ばしかけた手を引っ込める。
――だが!
「あんたたちの命は、私がもらうと言った!!」
エリクシルの強制徴収。しかも遠距離の特定座標に、さらにとんでもない速度で動いている場所へ。やったこともなければ、やれる道理もない。そんな気の狂った、遥か遠くの針に糸を通すような行為を――
「それでもっ!」
敢行した。
ぎり、と肺の痛む感覚。
視界の先、火の尾を引いていたもののけが消えていく。
手には間違いなく、あのもののけのエリクシルの感触。
「……感謝しよう。無駄に消えなかったことに。もう彼の名前は二度と戻らない。覚えておくといい」
すべてを吸い込んで、メルは言われる前に理解をする。
「イチル……」
「そうか、すべてを吸ったのだものな。さぁメイルジーン、まだ先は長い。星から弾き出されかけているのだ、急いでくれ。我々の名前をすべて余さず知る前に」
「あぁ……分かってるよ。今度は真っ直ぐ落下する。こうなったら、落下方向に加速してでも空気の層に潜り込む。無駄に時間をかけてる場合じゃない」
空中で器用に体を回転させ、頭から落下する格好を取る。折れ曲がった腕を無理矢理元の方向に戻すと、摩擦の係数を落とす呪いをかけ、防風の錬金術で周りを補強する。重量を上げ、耐熱の式を起動。
「ずいぶんと険しい山登りだ」
「同感だ」
「いくよ!」
叫びと同時、足先に莫大な量のエリクシルを集め一気に燃やす。
エリクシルはそのまま熱量を速度へと変えメルを一直線に押し出した。
すぐさまやってきたのは、体中を押し返すような感覚。空気の層だ。頭がそのまま持ってかれそうになって必死に固定する。
押し込むようにさらに己を加速。
体に感じる風を、掻き分けるように前へ。
「おおおおおお!」
そして、体が進む。
ゆっくりと、次第に速度を帯びる己の体に、無駄ではないと確信を得る。
「すでに三分の一は使ったぞ!」
「私の感覚とずれてない! 問題なし!」
叫ぶと同時、肩や頭、腰の辺りに熱を感じた。
――圧縮熱か。
視界はほとんど動かせないが、メルもまた火の尾を引いているに違いない。
すでに耐熱限界を超えメルの体にも熱が伝わってきている。だが、これ以上耐熱効果を上げるのは現状では無理に近い相談だ。
せめてと摩擦係数を落とす式を起動する。
これが思ったよりも功を奏した。
するりと抜ける感触。
「お……だけど、耐熱より効率悪いな」
「そろそろだメイルジーン。いや、これから。か」
「あぁ……私の無計画さが生んだ結果さ。分かってる」
足先で、もののけが小さくなっていくのが分かった。できるだけ気を付けていたが、やはり使用するエリクシルの偏りは防げなかった。
全残量の半分を行く前に、もう二人目のもののけが消え始めた。
「ま、がんばれよ。結構楽しかったし俺は満足だ――」
そう言って、右足からふくらはぎに絡まっていたもののけが消えた。
「……サンショウ」
せめて名前だけは覚えておこう。そもそも、バラバラに彼らが消えるのも、自分が選んだことなのだから。
気が狂いそうな熱を遮断し、桁ひとつ少ない気圧を調整し、今さら速度などもうどれほどなのか分からない錬金術の起動速度に翻弄されながら、メルは空を翔け上っていた。
少しでも気を緩めたら、星から弾き出されそうな恐怖が体中を苛む。
そんなことあるはずないのに、この空気の壁が、馬鹿みたいな灼熱の温度が、そしてそんな状況でも眩しいほどに白いこの星そのものが、自分がいることを拒んでいる気がするのだ。
「エリクシルも薄くなってる。これ以上は無理か」
「柱がエリクシルを回収しているというのなら、空白地帯の先に柱があることにならないか」
「……たしかにそうだけど、それがどうしたのさ!」
「お前の目に、目指す先に柱はあるのかと聞いているのだ。私の目にはまったく見えていないぞ」
「あ」
忘れていた。
気を抜いた瞬間、体のバランスが崩れてまたメルは吹き飛んだ。
速度が変わり、滅茶苦茶な方向に体が回る。
回転しながら別の方向にも回転を始め、もう何が何だか分からなくなる。
「おい! メイルジーン!」
「そうだった。柱に降りなきゃいけないんだったな。ならエリクシルの空白もそうだけど、ツバキの光の方が今は分かりやすい。柱は遠すぎだ」
複数軸の回転のさなか、それでもメルは空を見つける。空は明るく真昼間といったところだ。
「ツバキを出るとき下は夜だった。ここが昼だというのなら夜へ向かうのが正解だ」
「よく分かんないけど、了解っ!」
そしてその声を合図に、メルの回転は一瞬にして停止。両手両足を一気に広げ、そして方向を見定めるように空を見上げた。
「あっちだな」
「行け、最悪、雲の中に墜落なんてこともあるんだ」
「わかってるさ!」
幾度とない加減速。バランス調整を繰り返し、気の遠くなるような距離を飛んでいる。
ようやく速度が落ちてきたのをメルは実感する。
だがそれでも体中を焼き尽くそうとする熱は変わらずに彼女の周りで踊り続けていた。気を抜けば風圧に体を吹き飛ばされ、少しでも錬金術の起動を節約しようとしたら代わりに体が傷を負う。
それだけで済めばいいが、行き先すら見失いそうになる。
もう、三人目が消える。
「謝るなよ、メイルジーン」
「分かってるよ」
――アクレサイド
また一人。消えていくもののけを見送らなければいけない重さが、じわりと胸の奥の辺りに重たい感覚を得る。
しかしすでにもののけたちの総エリクシル量は半分を切っている。
余裕もまた、なかった。
「すまないな。ここからはもう皆ほとんど虫の息だ、いつ消えてもおかしくはない。いいか、太陽に向かうんだぞ、そしたら次は夜へ。ツバキの光を頼りに、最後はエリクシルの一番薄いところを目指して飛ぶんだ」
「全員いきなり消えるようなこと言うな」
「意識統一できるのも限界だと言っているのさ。我々はバラバラに戻ろう。知識の共有も意識の共有も切れる。ただのもののけに戻る」
「あんたら、もしかして私を助けるために一塊に……」
「さてね。そんなことよりそら、もう一人」
「誰が最後まで残って柱を拝んでから消えるか賭けているだけさ。君の気にすることじゃない」
そう言ったときには、すでに一塊のもののけの気配は消えていた。
のこったのは二〇人のもののけの気配。
「ペグ……」
今さら気にすることも、後悔することも、彼らにとって侮辱以外の何物でもないことは十分に理解していた。
ロケットから飛び降りたリグを思いだす。
皆、することがあるのだろう。メルは考える。自分にはそういうのはなかった。己のプライド、信念だろうか、耳長族には分からないものだろうか。いや理解はできる。
だが彼女には目的もなければ、信念も、プライドもない。
そんな奴が世界で一番高いところまで行って、何もせずに帰ってきたのだ。
馬鹿らしくなる。
だが、もうひとつ分かっていることがある。
自分がどうあれ、自分を送り出し、自分を送り返したヒトたちには皆信念があった。
自分を送り出させまいと必死になっていたあの馬鹿な母親ですら、そして死んでなおツバキを目指した妄執の塊の父親にも、もちろんあるものだ。
自分がその上に立っていることを理解している。
昼がゆっくりと傾き夕方が顔を出す。
すでにもののけの数は一〇を切っていた。まだ夜には遠く、ほとんど落下しているというより空を飛んでいるといった感じで速度は安定してきた。
空気の圧縮熱もほとんどなくなり、十分に空気のある空を飛ぶ常識的な速度になっていた。
「遠いな。星が大きいのか」
「メルちゃんメルちゃん。お腹減ったんだけど~」
「ごめんな。何にも持ってないんだ」
「ん~そっか。残念」
そう言って、またもののけが消えた。
何も持っていない。
自分には何もない。
レイナもユリシーズも、アーセルも、リグだって、二五人のもののけだって、自分のせいで酷い目に遭ったというのに。
その自分には大した目的もなければ、大層な信念もないのだ。
夕日が眩しい。
太陽を追いかけ、太陽を追い抜き、夜を目指して、メルは空を飛んでいた。
時速八〇〇km。
これ以上の速度は防風の式の効率が悪くなるし、またこれ以上速度を保持するのもまた効率が悪い。この先に本当に柱があるのか、リグが待っているのか。不安だけしか見えない視界の先に、何か光るものが見えた。
「メル様!」
「ツバキ!?」
光は、ツバキの姿をしていた。
「申し訳ありません、そちらのお声は確認できておりません。ようやく、遠距離映像分のエリクシルが溜まりました。ずいぶんと柱から離れております。方向を間違えると取り返しがつきません。私の後ろを着いてきてください」
そう言ってツバキは姿を変え光点になると、メルの前を一度一周し、そして前へと飛んでいった。
「助かるよ」
メルは容赦ないツバキの速度に追いつこうと速度を上げる。
そしてまた一人、
「悪いねぇ。お先ぃ」
そう言ってもののけが消えた。
日は陰り、すでに夕方を抜け夜になり始める。
薄暗い空にかすかに星が瞬き始めたとき、ようやく空に浮かぶ方のツバキの光を見つけた。
ツバキの送ってくれている前を行く光と比べればあまりにも拙く頼りのない光だが、ようやく自分の知る場所に帰ってこれたのだという安心感が胸を満たす。
ようやく呼吸ができた、そんな気がした。
だが柱まではまだ遠い。薄暗く、柱の影はまったく見えてこなかった。空に輝くツバキの光はまだまだ頭上には遠く、ゆえに、柱との距離がしのばれる。
「遠いな……」
「減速にかなりかかったからさ。そして、僕もそろそろさよならだね。お世話になった、と言うべきかなメイルジーン。ありがとう、楽しかった」
「ああ。楽しかったんなら何よりだ」
頷きを残して、もののけがメルの肩から消えた。
残りは五人のもののけだけだ。
柱に近付いているのは十分に分かっていた。何せ、辺りにはほとんどエリクシルがないのだ。こんなにも空白の空間があるのかというぐらいに空っぽ。何もない。宇宙にいたときはツバキから放出されている余剰分のエリクシルがあったし、そもそもツバキが回収し切れていないエリクシルもまた星の回りに漂っていたのだ。
何もない空間は、メルにとっては十分に賑やかな場所だった。
だが今は違う。
メルは、初めて宇宙にいる、そんな気がした。
柱は遠い。何もない空間をただ飛び続け、それでもなお、その影も形も彼女の目には映らない。
「焦らなくても大丈夫だぜ」
もののけの言葉に、メルは視線だけで彼を見る。
「星は丸いんだ。見えてこないのはまだ星の影に隠れて見えないだけ、ちゃんと近付いてる」
「……ありがとう。大丈夫、焦ってなんかいないさ」
「そうかい。俺の取り越し苦労ならそれでいいさ」
そう言ってまた一人が消えた。
もう着いてもいい頃だ、そう叫び出しそうだった。
もののけが消えるたび、泣きそうになる。
あと少しなのに。
あとちょっとで柱が見えるはずなのに。
そうすればエリクシルが。精霊たちが。
「メルちゃん。私たちをエリクシルとして使ってくれたこと、後悔しないでね」
「え……」
「お願いよ。私たちはそうしてもらうためにいるのだから。世界を記録しながら、エリクシルを運ぶの。だから、あなたは何も間違ってない。みんな感謝してたわ。そして私も感謝している。ありがとう」
語尾はもう風の音に掻き消されてメルの耳には届かなかった。
あと少しなのに!
「くそ!! くそう!! 何が、天才クリエイターの娘だ、創造主の娘だ!! くそ!」
前へ。
前へ。
気が狂うほど願うが、錬金術に火を入れられない。
その一度の加速で、どれほどのエリクシルが消費されるのか。効率は悪くない。
たぶんメルが作ってきた加速術の中でも最高傑作の部類だ。
だがもう、もののけたちは三人しかいない。
数を数え、どれだけ前に進めば柱に着くのかを考える。そして自己嫌悪するのだ。
もう、もののけを燃料程度にしか考えていない自分に。
「くそ!!」
ツバキの送る光が次第に弱くなっている。
彼女が回復できたエリクシルに限界が来たのだろう。
たぶん、もって数分。
「すまない、メイルジーン。だが、君なら必ず辿り着くと信じているよ」
また消えた。
残りは二人。背中に張り付いたもののけたちだけだった。それもほとんど残ってはいない。分け身のユズの半分もない彼ら。
一瞬にして消え入りそうなその姿に、思わず胃の底が冷たくなる感覚が襲ってくる。
このまま間に合わないんじゃないだろうか。
目の前ですでに明滅し始め、ほとんど星明かりと変わらないツバキの目印が
そして消えた。
思わず手を伸ばし、体勢を崩す。
「馬鹿者! 何度言ったら分かる! 焦るな!」
怒声に恐怖を忘れ、何とか体勢を立て直したときには、その声を上げたもののけは消えていた。
「ちくしょう!!」
まだ、まだ柱は見えない。
下に広がる雲海を見下ろせば、自分の高度はそれなりに分かった。
柱の天辺の数倍。
少なく見積もって三本分程度の高さは残っている。
重量操作を行って空を舞う方法も考えるが、推進力のないまま目印を見失って雲海に落ちるのが目に見えているので我慢した。
焦りだけが頭を支配する。
すでに真っ暗な夜。月明かりにおぼろげに浮かび上がる雲海は驚くほどに静かで、耳に届く風の声を忘れるほどの広さと美しさだった。
月明かりに、自分の影が雲海に落ちている。思ったより距離が近い。このまま雲海に激突するんじゃなかろうか。そう思った瞬間、
使っていなかった重量変化の錬金術にエリクシルが流し込まれた。
あ、と思ったときには体は跳ね上がるように空へ。
「メイル。メイル。このまま真っ直ぐ柱に近付いてもエリクシルは手に入らない。だが高度を上げれば精霊たちが集めたエリクシルが手に入るかもしれない」
「おい!」
「ほら、熱精だ。私の回復には使えなくても、君の燃料にはなる」
前方に空気の圧縮熱が溜まって熱精が生まれているのだ。それは、言われなければ見落としそうな、本当にかすかな量だった。
「焦るな。焦るんじゃない。大丈夫、きっと柱に辿り着く」
「待って」
「すまないな、そうしたいところだが時間がない」
「ありがとう……」
――イチル、サンショウ、アクレサイド、ギアナ、ペグ、ギー、レムルノイ、インセル、ベルギ、ネジ、ブルーフェ、コンストノミア、ゴム、ペイジーン、イン、キクラ、ソヒース、ヘイベル、ウー、レグアノテイル、スズラン、ボルドリ、ギンガミ、コートフェリルゲイン
「私の名前は、レナ。固有錬金術は……」
――回廊化
錬金術のひとつが動き出した。消え入りそうなかすかなエリクシルを燃料に、ささやかな回廊化の錬金術が起動していく。それは、メルがよく知るあの錬金術だ。それが単体で起動した。
「回廊化!? おい! 待て。待って! まだ消えないで…… レナ!」
「柱まで辿り着くことを祈っている。ありがとう、これは最後の私から贈り物だ」
効率化のために、この式はエリクシルを溜め込み錬金術を動かす熱量そのものへ変換をかける部分がある。
その溜め込んでいる部分が回廊化していく。
「待って、レイ――」
そして最後には何も言わずもののけは消えていった。
回廊化された錬金術は熱量を吐き出し続け、そしてエリクシルは時間単位でゆっくりと消える。
空を浮いていた熱精を吸い込み前を向く。
まだ行ける。
拳を力いっぱい握り締める。
体重が戻り、速度はさらに落ちた。もう防風の式は起動などしておらず、慣性強化による前進と、たまの加速にのみの起動だ。
そして、もう数分も経たずに彼女の使える錬金術はすべてなくなる。レナが残してくれた回廊化の錬金術は、想像以上に効率を上げてくれていた。
まだ行けそうな気がしたが、暗闇の中、柱の影すら夜の闇には浮かび上がってこないでいた。
三分。
メルが試算したエリクシル切れの時間。
すでにもうそれを二分ほど過ぎて、まだメルは空を飛んでいた。
もう口も開けず呼吸すら最小限にして、ただ前だけを見て身動ぎひとつしていない。まるで空を飛ぶ機械のようにも見える。
かすかだが、たしかに上空にはエリクシルがあるようで風や熱から精霊が生まれている。それを器用に捕まえて、何とかここまでやってきた。
だが、それでも柱は、まだ見えない。
焦りに泣き出しそうになるが、必死に唇を噛み締めて何とか堪える。
まだ夜の闇の中、柱は見えなかった。
世界は、泣きたくなるほどに広かった。
■
天辺の金属樹は、大きく切り開かれ広場ができていた。
「うちの庭より広いかも」
リグは真ん中にへたり込みながら、相対速度計の基部になるビーコン発生装置を撫でている。
それは、飾っけのないヘルメットみたいな形をしていて、ある程度の指向性がある強力な信号を今もなお送り続けている。
「お嬢様、用意できました」
振り返ると、モモとニノが立っていた。
モモの顔立ちが整っているのは耳長族だから当たり前だが、ニノもやはりこうして並ぶと十分に綺麗な顔だとリグは一人納得して頷く。
「本当にこんなにいるんでしょうか?」
ニノが背負ってきた荷物を肩越しに見ながらモモが呟く。
「ツバキの言ったことが正しかったら、先輩は一度大気圏突入に失敗してるから、たぶんエリクシルは足りなくなってる。どんだけ効率化しても、絶対に足りないほどに」
「……そうですか」
ツバキ。
屋敷にいきなりメイドが現れた。それはツバキと名乗り、一方的に用件だけを伝えて消えていった。
あれが何者だったのか、結局はわからずじまいである。
「誤差の範囲で収まる話じゃない、ということですか?」
ニノの言葉に、リグはゆっくり頷く。
「奇跡的に完璧なコースが取れて、想像できる錬金術の効率が最大だとしても、たぶん残り三キロで墜落するわ」
「じゃぁ最悪は……」
「一〇〇キロ以上、かな。ただ、ツバキが途中までは確認してるから。五〇キロぐらいが妥当だとおもうけど」
「それでも全然足りませんね」
「だから来てもらったの」
「なるほど」
「それで……」
モモは嫌そうな顔をして、ニノは納得が行ったと頷く。
「っち、てめぇの計画ミスぐらい、てめぇで尻拭けっつーの」
「娘の失敗は、親が取るものですよ」
「んな年か」
暗闇でよくは見えないが、ビーコンを挟んでリグの前に寝転がっている黒い塊があった。
「いつまで経っても母親で、娘ですよ」
「それは母親が言うセリフだ」
「突っ込みの仕方、ほんと先輩にそっくりですね」
「っち……」
そう言ってリグが笑うと、面倒くさいと言わんばかりに寝返りを打ってメイリードはリグに背を向けた。
「ほとんど残りのないエリクシルを使ってツバキが教えてくれた情報は、大事にしないといけないから」
そう言ってリグは立ち上がる。
「お嬢様、大丈夫なんですか?」
「そう見える?」
膝は震え歯の根も合わないリグを見て、モモは首を振る。
「風下に真っ直ぐ、できるだけ遠くに。角度は六〇度ぐらいでお願いします」
「角度とか言われても分かんねぇよ」
「これぐらい、ですかね」
リグが手で指し示す夜空の向こうには何もない。
「そんな高くて大丈夫なのか?」
何だかんだ言って心配しているメイリードに笑いそうになるのを必死で堪え、リグはゆっくり頷く。
「先輩は、たぶんかなり上空にいます。高度を取って、空を泳ぐようにこう、上がったり下がったりしながら」
ツバキが掲示した数字の羅列から想像できるメルの今の軌跡だ。
信用も信頼もあったものではない一方通行の情報提供だったが、その数字は確かにメルならやりかねない失敗だったし、やりそうな方法だった。
角度のある山を描くリグの手にメイリードは首を捻る。
「空飛んでたら、たぶん誰でも辿り着く飛び方です。効率は悪いですけどね。大丈夫。そして速度は、一番高いところで一番遅くなります。確率の問題ですから。時間分布的に、高いところの方にいる。と……とにかく、大丈夫です。間違いないですから」
数字の話などして理解などしてもらえるわけもないと、リグは説明を諦める。
「分かった。おい、早くそれを貸せ」
やおら立ち上がると、メイリードはニノに向かって手を伸ばした。嫌そうな顔をしたのはモモ。
「……メルさんのためですから」
「うぜぇ。死にてぇのかよ。早くしろ」
背負ってきた荷物をメイリードは無理やりニノから奪う。
風呂敷に包まれていたのは大量の電精槽だった。
もののけの代わりにロケットから降ろされた電精槽である。
「お願いします」
「任せろ」
同時、静電気というよりは雷のような空気の割れる音に、それが電精の流れる音だとすぐには気が付けなかった。
遠慮のない起動がこれほどとは。モモは驚きに思わず体中が震えるのを自覚する。が、目はとんでないものを見ていた。
「って! 届ける電精を使ってどうするんですか!」
「あ?」
だがすでに投擲体勢。振りかぶった腕は止まらない。
風呂敷は一瞬にして音速を超え、モモの叫びは掻き消され、そして風呂敷は破れ、大量の電精槽が目にも留まらない速度で空へと吹き飛んでいった。
後に残ったのは、空からいくつか降ってきた風呂敷の破片と、零れて空になった電精槽だった。
「あのー、ひとつずつ飛ばしてほしかったんですが……」
リグの呟きが真っ暗闇の柱の天辺に落ちる。
風は相変わらず吹き続け、柱は雲海に静かに突き立っていた。何も変わらない夜空に今日は、半分ほど空っぽではあるが電精槽が何十と群れをなして飛んでいった。
「ばっかですか!? ていうか、馬鹿ですよね!? メル様も大概ですけど、あなたほどじゃありませんでしたよ!? 考えるって知ってますか!? いっぺんに投げたのは仕方ないとしても、さすがに渡すもの使うってどういう神経してんですか!」
「っく……てめぇ……」
自分の失敗なのはさすがに理解しているのか、メイリードはモモの怒りに何も言えずただ歯を食いしばるのみだ。
「メイリードはエリクシルの吸収が下手糞なんだよ」
モモの前に割って入ったのは、ニノだった。
「けっ、糞野郎の記憶があるからって調子に乗りやがって」
「メルさんと違って、器用に狙ってエリクシルを吸収するとか、錬金術師でもほとんどできないことなんだから……できて前方とか、自分の周囲とか、少し遠めの場所をねらってみたいな感じなんで、大雑把なもんですし」
「え、そうなんですか?」
「えっ、て……一応、モモさんも使えるでしょ? 錬金術」
「ていうか、普通にできない方がおかしくないですか。ほら、こうやって」
メイリードの手に残っていた電精だけがモモによって奪われる。
近くを漂ってる電精はそのままにだ。
「なっ!」
ニノも、メイリードも目を丸く見開く。
「え、普通、できないんですか?」
「……できません。」
ニノの引きつった顔に、モモはようやく合点がいった。メルができて自分もできていたから、そういうものだとばかり思っていたのだ。
「……そうですか。わかりました……もうこの件は、いいです。半分は一応残っていた訳ですし」
ようやく溜飲を下げたモモは、ため息混じりに言葉を吐き出す。
「てめぇに許してもらってもしょうがねぇっつーの」
と、がさりと人が近づく音がする。金属樹の葉のこすれる乾いた甲高い音だ。
「お、皆揃ってるな。リグ君、祭りには間に合ったかな? それと、さっき何か空を飛んでいたみたいだが」
人影はヘイズだった。
「あ、ヘイズ社長Й。大丈夫ですよ、先輩まだ着いてませんから。さっき飛んでいったのは、電精槽です。先輩、エリクシル足りてないから」
「あーなるほど。じゃぁこれはいらなかったかな? それと、どうやって僕の名前を発音してるのかゆっくり教えてくれないか?」
ヘイズの頭の上では、ファルがずり落ちないようにしっかりしがみ付きながら器用に眠りこけている。
「これ……」
「ファルが集めてきた、電精槽さ。一番地とか、下の方だと結構普通に転がっててね。ま、実際に中身が残ってるのは少ないんだけど充電したりで集めたんだ」
「ありがとうございます。あの、メイリードさん、もう一度……」
「やだね。どうせ私が投げたら半分なくなんだろう。そこのガキにでもやらせておけ」
ぶすっとむくれながら背を向けるメイリードに、リグは苦笑を隠せない。
すね方までメルと同じだ。
「ニノ君。お願いできますか?」
「……エリクシルを、届ければいいんですよね」
「うん」
「任せてください。僕だってそのために来たんです。それに、いくつかはすでにメルさんに届いてるでしょうし。急ぎじゃないならいい方法があります」
夜の月明かりに浮かび上がるのは、雲海に突き出たふたつの柱だ。
雲海に比べればあまりにも小さく、そこでしがみ付くように暮している彼らは、その狭い世界でしか生きていけない。
世界はここまでで、彼らはここまでだ。
柱の天辺で何かが光る。
その光は、電精と呼ばれる電気が発生するときにエリクシルを運ぶ精霊の光だ。
酸素を運ぶ血液のように、その電精の流れはエリクシルを運んで空へと伸びていった。
柱を飛び出し、遠く高く、柱の外に広がるように電精が空を舞う。
まるで夜の虹。
やおら賑やかになった柱の天辺の騒ぎに、空もまた騒がしくなり始めた。
空から降ってくる少女が一人。
ぼろきれのような服を纏って、体中を真っ黒に染めながら小さな女の子が空から落ちてきた。
ボロボロで真っ黒だったが、彼女の周りには虹が取り巻き、そしてまた彼女も光輝いているようにも見えた。風が吹いている。
やむことなく走り続ける柱で、風と共に生きている人たちの声がする。
その中で、一際大きい叫び声を上げて両手を振り上げている娘がいた。
「せんぱーい! せんぱーい!! お帰りなさい!!」
声は遠く夜空に響く。
「ただいま!」
彼女の眼前に、夜でもよく見える、見慣れた景色が広がっている。
いつものように雲海に聳えた二本の柱。
そして、その柱に巻き付く街。風車の立ち並ぶ、いつもの街が見えてきた。
風車が立ち並ぶ、いつもの風景だ。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。
評価、ブクマありがとうございます。




