リーズフリオ・グリーフベルア(下)
街の動きはその巨大さ故にゆっくりにも見えるが、メイリードが投擲した同期元の破片と同じ速度で飛んでいた。
その確実な速度で、街は風下に、そしてメイリードが放った方向に忠実にふたつの柱の間へと落ちていく。
風を切る音ではない轟音が、辺りを何もかも飲み込む。
頭から落ちる感覚に、メルは目を開ける。
轟音に埋め尽くされている中で、ユズがアーセルもモモも大丈夫だと、そう叫んだのを聞いた気がした。
ニノはどうしただろうか。
ふとそんなことを思いながら、落ちゆくロケットに乗ったメルは出入り口を見る。
「!!」
一瞬にして状況が想像以上の最悪だと思いだす。
脳みそがようやく現実を理解して、恐怖に体中から冷や汗が噴出す。
想像以上の最悪が今目の前に、手の届くすぐそこに広がっている。
「リグ!! 早く手を放して! このままじゃあんたも」
「いいですか、この状況じゃ燃料加速は行えないので、発射は第二案で行きます。よく聞いてください」
「だから何を!」
「ロケットを飛ばすんです!! いいですか! 前と後ろの柱に強力な磁性を――」
リニアガン。
磁力の引き上げる力による加速方法。
リグは、基本的な構造しか教えられる時間がないことに歯噛みし、そして今はそれ以外に方法がないことを理解していた。
「分かりました!? グリフジーンの案ですから、たぶん錬金術的には難しい話かもしれませんが、今の状況なら燃料発射よりは安全です!」
「いいから、早く降りて!」
「い、いいですか。きゃぁっ!」
大きくロケットが傾ぎ、とうとう発射台からも離れていく。係留していたワイヤーは根元から硬質な音を立てて外れ、それが最初からそうやって外れていくものだと知った。
「もう、だめだ。リグ、中に入って」
「えぇ!?」
「大丈夫、二人でだって飛べる。私が飛ばしてみせるから、ほら! 何だってやってやる。柱を使ってロケットだって飛ばすから!」
もう語尾は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
ベルトに固定されたままではあったが、メルはリグに手を伸ばして掴もうとする。
だがリグはその手を取らなかった。
伸ばした手は、あと一歩のところでリグに届かない。
リグが震えているのが見えた。
高所恐怖症の人間が落下中に感じる恐怖とはいかほどのものだろうか。
メルは必死で手を伸ばすが、やはりその手は届かない。
子供のような体型じゃなければ簡単に届いたのに。
後悔だけが頭を駆け巡る。
「リグ! 危ないから早く!」
「耳長族の体は宇宙に行くために作られてるんです。刺激がなくても骨密度は減少しないし、重力のない場所での血流不全もなく……」
「リグ何言ってるのさ!」
涙を浮かべ、引きつった顔でリグはそれでも言葉を続けていた。
そして、それが恐怖で引きつっているのではないと、メルは理解した。
悔しいのだ。
悔しくて彼女は泣いている。
だから、思わず伸ばす手に力が抜けてしまった。
目の前で、空に行くのが自分ではないということに泣いて、それでもなおそれを押し殺して空へ行くために後ろから手を押すことをえらんだのだ。
彼女は技術者だが、けして研究者ではない。技術は己の意志で己の夢をかなえるために鍛え上げてきたものだ。
欲しいものがあるが手が届かない。手を伸ばせない代わりに梯子を組み立てたのだ。
だが、いまその梯子を託そうとしている。
悔しくないわけがない。
「私じゃ無理なんです! 私は人間だから! 発射の衝撃にも耐えられなければ、大気圏脱出速度すら耐えられません! もしも人間が飛ぼうと思ったら、体を一から鍛え直して、専用の訓練を課す必要があるんです。たぶんそれでもまだ足りない! 私たち人間は宇宙に出るためになんかできてない! 先輩、先輩だから行けるんです! 人一人しか運ぶことができないんじゃなくて、先輩だから運べるんです!」
ずるりと手が伸びた。
ベルトの一部がメルの膂力で外れたのだ。伸びた手は易々とリグの手を掴む。反射的に引っ張り込もうと力を入れた瞬間。
「……いいですか、減速だけは焦らないで」
リグが笑った。
「速度を上げたら星から離れます。下げれば星に落ちます。軌道の上下は速度で合わせるしかないので間違えないで」
「なに、を」
バチンと、不器用な音が響いた。
掌を力任せに叩き付ける拍手の音。
メルの中で記憶がフラッシュバックする。
同時、目の前が真っ白に染まった。
「!!」
あのとき、リグの手のひらに書いてやった錬金術だ。メイドの格好をしてリグの髪の毛を梳いてやったときに――
そして、見えない視界の向こう側で重苦しく何もかもを拒絶する扉の閉まる音がする。
それは――
「リグーーー!」
叫び声は密閉空間を埋め尽くして掠れ消えた。
きっと出発の合図なのだ。
もう外の轟音が聞こえないほど静かな船内に、メルの息遣いだけが残っている。
「くそ! ちくしょう!! 何で!」
分かっている。
いや、たぶんあのとき、街が崩れるときにロケットにいたリグを見てとっくに分かっていた。
いや、きっと、時間回廊の錬金術に食われていくユリシーズを、そしてレイナを、なす術なく見殺したときには分かっていたのかもしれない。
無様に足掻いているのはいつも自分だけだ。
「くそっ」
いつも皆、勝手に諦めて勝手にメルの前からいなくなってしまう。
だが分かっていたのだ。
こうするほかない、そういうことはいくらでもやってくる。
プライドだったり、タイミングだったりするだろう。
それが生き方だったり、生きる意味だったりするのかもしれない。
それは生きることより大事なことなのだ。言葉に表すことができない、それがそうであるという感覚。
このロケットは宇宙に行く物であり、そう決まっている。
それだけだ。
空に向かって一心不乱に翔け上る、まさに機能美の限界へ到達したモノ。
メルは、自分にはそれがないことをよく知っていた。ないから分からない。分からないから無様に足掻く。
「それでも、私は後輩を見捨てるわけにはいかない。でもこれを見捨てるのも、同じこと……だったら両方見捨てない方法を探すまでだ」
ずっと使わなかったものがそこにあった。
未だ黒く焼け焦げていない彼女に残った唯一いつも通りの場所。
右目。
未だ彼女の中で一度もエリクシルを流し込まれなかった、グリフジーンが娘に唯一残した彼のすべて。
千理眼が起動する。
起動した瞬間、世界が一瞬にして広がる感覚に懐かしさを覚えた。三千世界の理屈を覗き見ることのできる眼。
錬金術で作られた錬金術の辞書だ。
一瞬で式が悲鳴を上げた。ありえないエリクシルの流入に、眼球が燃える錯覚を覚え、メルは涙を流していた。
だがそれでも右目を押さえつけることも、うずくまることもせず、激痛の中彼女は右目で世界を見る。
どちらかではなくて、両方を得るために。
最初に見えたのは、エリクシルを使った式の遠隔操作方法。
――そんなものはいらない!
暴走列車に乗り込んで、時計を組み立てるようなものだ。まともに操作ができる筈がない。
だが、グリフジーンの手品のタネは割れた。
そして、このロケットにもそれが応用されていることを知る。もののけたちを使ってロケット下部に埋め込まれている錬金術の式に自由にアクセスし、ロケットを操作できるようになっているのだ。
そしてそれが、リグの発案で作られたものだと知った。
次に見えたのは、縛られたままのグリフジーンとその近くにいるユズだ。
――違う!
ユズはゆっくりグリフジーンの、いやニノの額に触って何かをしていた。記憶操作の類だろうか。
メルは顔を振って欲しいものを捜す。
次に見えたのは、リニアガンの構造とそれを実現するための錬金術。見ただけだというのに理屈から何から一瞬で理解できてしまう。だが、
――今はリグが先だ!
そして、自分が乗っているロケットがどんなことになっているかを見た。
メイリードが放り投げたのは、まさしく柱と柱の間。
ロケットは今ふらふらと何にもぶつからない虚空を落下している。
下に見えるのは雲海と、雲海を飲み込むほどの大瀑布。
大瀑布?
「っはぁ!?」
何だあの量の水は。
同時、窓が叩かれた。
驚きに千理眼は起動を停止、出入り口に付いている丸い窓に何かが張り付いているのが目に入ってくる。
「……ファル?」
「メルー」
くぐもった、だが妖精独特の甲高い声が辛うじて耳に届いてきた。
たぶん外では相当に叫んでいるだろうが、気密性がたかい極低気圧でも内部を守る分厚い窓越しに、彼女の声は本当にかろうじてしか聞こえない。
「一番地に! 社長が水のカーテン作って待ってるからー!!」
「何、言ってんの……」
「え? だってアーセルが作れってー。必要になるだろうからって、社長が! カイルと一緒に、水棲族のところ回って水集めてきたんだってー」
「はっ……はは」
「あ、あと落ちてきたリグちゃんは今こっちで確保したからー! 準備おっけー、いつでもどうぞって。早い方がいいみたいだけど。あの水、飛沫が雲に吸い取られて少しずつ減ってるみたいだから!」
水は貴重なものだ。水棲族からしてみたら、己の体そのものでもある。
それを削って今ロケットのために手を貸してくれているというのか。
「ぶっちゃけ、カイルのお陰で説得できたところあるから、あんた帰ってきたらお礼言っときなさいよー! 自分が勤めてる支店の所長なんだから!」
所長が今さら何故、どこで見付かったのか、今は聞いている暇はない。
疑問を飲み込み、メルは状況だけを確認する。
「分かった、分かったよ。リグは気絶してない?」
「もちろん! 今、生まれて初めての水泳してるところよ。たぶん高いところの次に水が嫌いになると思うけどね-!」
「……そうか」
ならば
ならもう、心残りはない。
体にゆっくりと熱が戻ってくる感覚に、メルは一度頷きを作り、よしと呟いた。
「んじゃ。リグにちゃんと見てるように言っておいて!」
「あいさー! 行ってらっしゃーーーい!」
「行ってきます」
ファルが窓から離れるのを確認して、メルは初めてしっかりと背後にいたもののけたちを見た。
「さて、どうするのかな? 船長」
「あなたたちの存在は、私がもらう。わるいね」
「ふむ。で、君は代わりに何をくれる?」
「どんなもののけも知らない世界に連れて行ってあげる」
もののけは返事の変わりにメルに巻き付くように体を伸ばし始めた。総勢二五名の、この日のためだけにエリクシルを溜め込んだもののけがメルと繋がっていく。
「ん? 二六人? 誰かまじってる?」
と、脇の辺りに違和感を感じ覗き込むと、ひょこりと見慣れた狐の耳が顔を出した。
「あんた……」
「うひひひ」
「……ずいぶんちっちゃいな」
掌サイズのユズがそこにはいた。
「メルもねぇ。体の一〇分の一だから、エリクシルとしては役に立たないけど、妖精の代わりってことでぇ」
「耳長に妖精が憑くもんか」
「うひひひ、そうかもぉ」
あのとき、ずいぶんあっさり引き下がったのはこうするつもりだったのか。
笑い、そしてずいぶん気が楽になってることに気が付いた。
飛ぼう。
そう思った。
あの空に向かうのだと、あの星に行くのだと。
何だか慌しすぎて、実感もなければ覚悟もできていない。だが、一呼吸遅れただけでロケットは水のカーテンに飲まれて二度と空を飛ぶことはないだろう。
残りはもう数秒だってない。水が立てる轟音が近付いてくるのが分かる。
メルは水がこれほどまでに力強く流れる音を初めて聞いた。
「すごいな。大盤振る舞いだ。んじゃぁ節約も兼ねて、せっかくだし」
エリクシルを集めるやり方は呼吸をするのと同じで、方法なんて言葉にはできない。
生まれたときに、耳長族は辺りのエリクシルを吸い込んで産声を上げる。
――私が生まれたときに吸い込んだエリクシルは
大風車の羽を一枚落とした。結果、柱は停電したそうだ。
そうメイリードが言っていた。
私が、ありったけを教えてやったのだから感謝しろと。
「……今ばっかりは、感謝してやる」
彼女は力いっぱいエリクシルを吸い込み始めた。
しかも、器用に水精だけを集める。
空中に大量に広がる水精が唸りを上げて集まり始めた。
メルの肌の周りを水蒸気がはじけるように生まれては、霧散していく。
それすらも非効率とばかりに、次第にその現象すら落ちついくと、あたりは静寂に包まれる。
だがもしエリクシルを見ることができたら、あまりのことに声の出ない光景が広がっているのがわかるはずだ。
ふたつの柱の間に広がる大瀑布の上空、渦を巻きながら大量の水棲が集う巨大な竜巻を見ただろう。
あまりにも馬鹿げたスケールで展開する柱と柱の間に突き立つ巨大なエリクシルの竜巻。
「行こう」
最初は、何も起こらなかった。
大瀑布の中にロケットは静かに沈んでいくようにすら見えた。
ゆっくりとスローモーションで吸い込まれる姿を見て、リグは思わず息を呑んだし、傍で飛んでいたファルは罵声を上げていた。
だが、すでに事は起こっていた。ロケットの落下速度は実際に遅くなっていた。
次に気が付いたのは、柱の軋みだ。
とんでもない磁力が発生して、街が軋みゴンドラが止まる。
磁力に反応する金属はそれほど街には存在しないが、それでもいくつかの金属製品が柱に向かって凄い勢いで飛んでいくのが目で見て取れた。
さらに磁力は上がる。
まるで空間が軋んだかと思うほど柱が揺れ始める。
水飛沫で広がる雲の中、電磁誘導で励起でもされたのか、かすかな電気の光が見えたと思った瞬間だった。
目だけがそれを最初に見た。
誰も彼も、それを見た。
水飛沫を撒き散らし、羽に水蒸気を引くロケットの姿を。
いや、正確には、その軌跡を見た。
あ、と思い顔を上げ軌跡を追う。だが目で追うよりも早く空に刻まれていくベイパートレイル――
そうやって皆が阿呆みたいに口を開けた瞬間、
世界が真っ白に染まるような爆音が轟いた。
乗らなくてよかった。
「しょ、初速から音速超えとか……」
リグは水に浮かびながら本気で胸を撫で下ろす。
だが一息つくのも許さずに次に来たのは爆風。
鼓膜を突き破り、体中を震わす爆音というよりは衝撃の塊。
水がそれを何とか飲み込み、それでも飲み込めず一番地のいくつかが煽りを食らって、悲鳴を上げた。
月明かりに照らされた水飛沫が舞い上がる。
音の余韻だけが耳に残り、後に残ったのはその飛沫だけだ。
「あ、雨」
ファルが呟く。
「雨……」
柱の天辺まで、雲が水が巻き上がったのだろう。
ぽつぽつと肌に水が当たる感覚がある。
「ふふ、先輩、雨まで降らせちゃった」
「みんな漏水だと思うんじゃない」
「そうだね、柱に雨なんて降らないものねぇ。一番地は結構降るけどさ」
ファルの言葉にリグは笑った。
■
ロケットは、無事に燃料の方にも火が点いたらしい。
遠い空に、月明かりに浮かび上がる煙の尾が見えた。
「先輩、どうか無事で……」
伝えられることはもののけたちにできる限りは伝えた。
メルにだってやれるだけのことは教えたつもりだ。だが不安は残る。
だいたい、あのロケットには大気圏に再突入する機能はないのだから。
もののけたちは、ただ落ちて帰ってくるだけなら我らがいれば何の問題もないだろう、そう言っていた。
問題がない訳がない。
そんな簡単に、あれほどの速度を〇になどできるものではない。
つまり、もうメルは帰ってこない。
帰ってこられない。
「先輩、この世界の天辺はきっと凄いところですよ」
いつか迎えに行こう。
いや、すぐにでも迎えに行くべきだ。
人間が二人で飛べて、大気圏に再突入できる。そんなロケットを作るのだ。
「ね、社長」
「なんだい?」
「ロケット公社作りましょうよ。今日のはきっと最高の宣伝になったと思うんです」
「……つくづく、君はベルフレアの人間だと思うね」
「そうですか? スポンサーがつけば、すぐにでも」
そう、すぐにだって――
空に、月明かりではなく星明かりでもない光がひとつ瞬いていた。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに空を翔け上る煙の先で、瞬き、しかし力強く光っている。
爆音が通り過ぎた耳にかすかに残った余韻は、頭の中で幾度となく反響し、もう音なのかすら分からなくなった。
肌を貫いた熱風も、髪を無遠慮に撫で付けていった水飛沫も、もうどこにも残っていない。
だが見上げた空、いつものように輝く星がある。
水に浮かびながら、リグは星を見上げている。
いつまでもいつまでも、彼女は星を見上げていた。
評価、ブクマ、いつも励みにさせていただいております。
ありがとうございます。




