大停電の夜に
風が止まったような。
それは、ありえないという意味の慣用句だ。昇らない太陽がないように、風が止まることもない。やまない雨も、明けない夜も、ありはしない。ありえない。
そんなこと、子供でも知っている。
「急げ! 崩落するぞ!」
その声があまりにも切羽詰っていて、まだまだ出社時間じゃないというのに朝早くからリグは目が覚めた。
家の近くで誰かが叫んでいる。朝からうるさいな、なんて考えながら寝ぼけた目をこする。
「ありったけのバッテリを使え! ほかの街からも回してもらうんだ。急げ!」
「20、21が優先よ! 22、23は後回し! ……足がない? あるわけないでしょ! 走れ!」
「エレベーターが止まっているぞ!」
騒ぎはどんどんと近づいてきて、そして次第に遠のいていった。
――ドップラーですねぇ。違うか。えーと……。
騒ぎ声のあとに、いやに不安になるほどの静寂が広がった。
思わず耳を疑うほど息苦しい静寂、無音。風の音が、風車が風を切る音が、人の声が、
「……聞こえない」
自分の声は聞こえる。心臓の音も聞こえている。寝ぼけていて、状況がよく飲み込めないが現在起こっていることは何とか理解できているのがわかる。
風がやんでいる。
壁にぶつかってはじける風も、屋根の隙間を縫って甲高い音色を奏でる風も、立て付けの悪い扉を叩く風も、どんな風の音も聞こえなかった。
いやに静かで、それがとても大変なことの気がしているのだが、寝ぼけていてどうしても心がついてこなかった。
と、また外を走る人の足音。
「外縁、退避終わりましたぁ!」
叫び声が遠いのによく聞こえる。風がないというのは、色々とすごい、なんかやばそう。そんな語彙に乏しいことを思いながら、リグはベッドから起き上がった。
朝食用に、と晩に作った食事を見てふと足を止めた。
部屋の電気がつかない。ここでようやく、いま自分が置かれている状況が大変なことが起こっているということが頭の中に入ってきた。
あせった足でそのまま彼女は玄関にある配電盤へと向かう。いやな予感だけが、体を急かせる。
薄暗い中、覗き込んだ配電盤には緊急用バッテリの残量が無くなった事を教えるレッドラインが顔を出している。
だが、よく見れば接続不良警告の表示がバネ仕掛けで跳ね上がっていた。バッテリが外れているときに出る表示で、電気も必要としないので、その表示が正しい状態を表しているのだけは間違いない。
あわてて部屋を飛び出して、家の裏手に駆け込むリグ。
「あー」
本来どこの家にでもついているであろう、量産型の大容量バッテリは、綺麗さっぱりなくなっていた。代わりに、バッテリ端子のあたりにシールが1枚。『管理局預り』そう書かれた、黄色地に赤文字のシールが貼られていた。
「……ってことは!」
思わず、リグは駆け出した。
「あーーーー!」
そして、予想どおりの現実に思わずその場に崩れ落ちた。
盗難にあわないように少し奥まったところに、隠すように置いてあったソレもまた同じ被害にあっていたのだ。
電動式バイクのバッテリだ。家にある備え付けの大容量だけが売りの量産型とはわけが違う。無理して買った最新型の電動式バイクのバッテリだ。
「た、高かったのにぃぃ」
彼女をあざ笑うように、バッテリ部分が空っぽの電動バイクが、朝日を浴びてキラキラ光っていた。
「リグ。リーズフリオ・グリーフベルア。今日は確かに外は大騒ぎだし、バイクのバッテリが徴収されたのもわかった。でもこれはそういうことじゃないと」
リグが、メルを見上げていた。
あごを精一杯引き、目に涙をためて彼女はメルの言葉を待つ。
随分と長い間正座をしているので、足がしびれて感覚がなくなってきた。
それでも許しの言葉なんてやってきやしない。
「そういうことじゃなくて、なんで二度寝して夕方になるのかって、聞いてるの!」
「ご、ごめんなさい!」
日は傾き雲に沈みかけていた。
赤く染まった雲に感化されたのか、柱もまた真っ赤に染まる。
ガレージのような大きな入り口の奥、小さな通用口を入ってすぐ右の事務室。
窓はガレージ側と外に向けた2つしかない。
その外に向けた窓から、日の道筋がわかりそうなほど赤い光が漏れていた。
「電話繋がらなかったのはわかった、今も繋がらないしね。朝からずっとそこらじゅう騒ぎっぱなしだし、色々あったことは十分わかっているつもり。だけど」
混乱に乗じた詐欺に宗教家、自分の上の存在につばを吐けば気が済む輩から、一分一秒先の未来におびえる者、騒ぎはあまりにも大きかった。
だけど、それでもなぜか静かなのだ。けっして無音ではない、いまだって時折火薬の爆発のような何かが聞こえたり、警報を鳴らして走り回る人間が通り過ぎたりと忙しい。
「こんだけ騒ぎになってるなか、よく二度寝ができたね」
「ごめんなざい……」
今更いじめても意味がないかと、メルは首を振って一息。
「今日は風がやんだから、修理が一杯。今はもう落ち着いてるけど、そのうちまた忙しくなるから、工具の手入れしておいて」
「えと、修理は……」
「とっくに、私が1人でやったよ!」
思わず首をすくめ、リグはひぃっと小さく悲鳴をあげた。
「世界の終わりが始まったのです。神はお怒りになっておられる! 天へ伸びるこの塔そのものが罪なのだ! 贖罪せよ! 贖罪せよ!」
「地上降下用落下傘あるよー。柱採掘用のドリルと同じ金属を使った外壁用フックもあるよー」
「贖罪せよ! 贖罪せよ!」
「この世界は狂っている! とうとう世界が静止した! 狂いは正される! 今こそ天へ向かうときが来たのだ!」
「あるよー。あるよー。安いよー」
にぎやかな集団の声が聞こえてくる。宗教の勧誘や、詐欺商売。みれば、火事場泥棒に飲めや歌えの祭り騒ぎすらそこかしこからあがっていた。
そんな中、リグは風車の回転を強制的に停止させるためのワイヤーブレーキを分解しながらため息をついた。
日常を繰り返すような工具の手入れをしていると、なんだか今を必死に繋ぎとめようとしているみたいで、バカらしく思えてくるのだ。
工具を整備する場所は特に決められているわけではない、無論ガレージの中が一番便利なのは当然なのだけれど。リグは、ガレージの片隅にある流しのあたりに工具を広げていた。
彼女の背後には、ガレージを埋め尽くす風車の発電機が1機運び込まれている。
本来なら風車の根本に埋まっているものだが、取り外しが不可能なわけではない。
特に分解修理ともなると、狭い発電室ではできないのでこうして取り外して持ち込まれることもあるし、発電機部分をまるごと取替なども行われる。
風が止まったせいで壊れてしまった発電機を見上げながら、見慣れたフォルムを確認する。
もとから風が止まることを想定して作られた風車なんてものは、ほとんどない。
見上げれば慣性のみで動いた結果、動力を伝える周辺部分のギアが破断した跡があった。
それも今は綺麗に直されていて、いつでも起動をかけられる状態だった。
メルが直したのであろうその部分は、ほんの少しだけ綺麗な金属が顔を覗かせていた。
興味本位でリグは、発電機に近づくとその修理された部分に顔を寄せる。
ギアは新品ではなく、削れた部分を補う形で直されていた。つぎはぎのように色は斑になっているが、しっかりと1つのギアになっていた。
――私なら交換しちゃってる……。
よく見れば、ギア比も変更されていた。
錬金術で構成された起電陣式の発電機は、トルクより回転速度が発電量に影響する。
それゆえギア比は常にギアそのものの強度の限界ぎりぎりを設定されているものが多い。
だからもし羽が止まるようなことがあれば、トルクがないため自力で起動できないし、しようとして無理に羽を動かせばギアが破断するか羽が折れることになってしまう。
そんなことにならないように、ギアの強度を上げさらにギア比を落とす。
言うのは簡単だが、簡単な作業ではない。
緩みそうになっているボルトを指でつつきながら、リグはため息をついた。
ポケットに入っていたレンチを取り出して、軽く締めてやる。
ボルトは、待っていましたと素直にその場所に収まった。
メルは螺子を締めるのが下手だ。螺子は締めすぎてもいけないし、緩いままでもいけない。
ワッシャーとサイズ、材質と役割、それらすべてを考えて締めなければだめだ。
ちゃんとしてやれば、螺子が勝手に締まることもないし、外れなくなることもないのだ。
そして、また緩みそうな螺子を見つけて、リグは手を伸ばす。
「リグ、何してんの」
声がガレージに響いた。発電機の上部で動力部をいじくっていたリグが驚いて顔を上げる。そこに彼女を見上げているメルがいた。
「あ……先輩。ごめんなさい、ちょっと気になって」
気が付けば、もうガレージから見える空には太陽はなく、星が広がっていた。ボルト一つ締めてしまえば、あとはなし崩しでほかにも気になるところがたくさん出てきてしまった。ギアを回す軸の微かな歪み、ギアの歯の不揃いな部分、無理な力のかかっているボルト。あれもそれもといじくっている間に、既に夜になっていたらしい。
「工具の手入れ終わったの?」
ため息混じりに発電機をよじ登りながらメルが言う。
「あ、いえ……その」
2人は発電機の上で並ぶ。発電機の上に登るとガレージの天井はすぐ頭の上で、へたすれば頭をぶつけそうになるぐらいだった。
「発電機いじくるのもいいけど、やることはやりなさい」
「……はい、ごめんなさい」
今回は言い訳の一つも出てきやしなかった。
一人ぼっちで作業を続け、あらかた工具の整備を終えたのはそれから随分とたってからだ。
その間も、まるで責め苦のような静けさが物言わずのしかかってきていた。息苦しいとはまさにこのことで、風洞街と呼ばれる柱の中の街に居るときのような気分になる。
真夜中の街は、バッテリ節約からかほとんどの家の火は落とされていて、いつもよりも随分と静かだった。誰もが息を潜めて再び風が吹くのを待っている。
「やっぱり岬のほう、骨組みが傾いだって。軽量化の呪いもほとんど起動してなかったみたいだし、しょうがないか」
振り返れば、メルが疲れたとばかりにため息をつきながらよじ登ってくる。
ここは、ガレージの上。リグのお気に入りの場所だった。
柵がしっかりしていてガレージと同じ広さがあるので、真ん中辺りに居れば高所恐怖症の彼女でも怖くないのだ。
「岬って、あの観光地になってる」
「そう。まー風が止まっちゃねぇ。しょうがないね」
のんきにメルは酒を片手にリグの横に座った。街明かりがない夜の空は、いつもよりも星が多く見えてにぎやかだった。
「苦しそうだけど、大丈夫?」
「先輩は、平気なんですか? 風がないと、なんか、空気が澱んでいるみたいだっていうか、息苦しいというか」
「わからなくもないけど」
そう言って、メルは空を見上げる。
星空以外に見えるのは柱と上に位置する26番地の町の裏側だ。その街を少し憎憎しげに睨むと、ゆっくりと息を吐き出す。
「私は頭の上になんかあるほうが、苦しいね」
「先輩高いところ好きですもんね――」
なんとかと煙は高いところが――。
そんな慣用句が頭をよぎったが、リグはあわてて口を噤む。
「……いっとう高いところがいい。誰にも見下ろされないところが好き」
背が低いからかなぁ。などと失礼なことを考えながら、リグは同じように空を見上げる。
氷が乾いた音を立てた。
視線を振れば、メルがコップを傾けている。
中ではパチパチと電気の筋が走っている。中に電精を閉じ込めた酒だ。
「リグも飲む?」
「え? あ、じゃぁ一口」
普段は酒を飲まないリグが手を伸ばした。
真っ暗な夜に、電精のほのかな光が恋しくなったからなのか、それともこの風が止まって淀んだ空気が耐えられなかったのか。
本人にもわかりはしない。
ただ、流し込んだ酒は頭の芯を突き抜け、のどを焼いて、最後には腹の中で燃えるように揺らいだ。
すぐに腹の中の熱が顔にやってきて、思考が熱にうなされたようにぼやぼやし始める。
風がないけれど、なんだか少しだけすっきりした気がした。
「ちょっと、リグ? 大丈夫? 目がすわってるんだけど」
「うぇ? 大丈夫ですよぅ。それより、風、いつ吹くんですかねぇ。風車回らないですねぇ」
自分のひざに顔をうずめながら、リグが唸るようにつぶやいている。
「ほら、しっかり。明日にはきっと吹いているよ」
リグはなんだかよくわからないまま、頭に置かれた優しい手の感触に目を細めた。
頬を掠める風はないが、何もかもその手が慰めてくれた、そんな気がする。
空には星が静かに輝いている。
身じろぎも瞬きもせず、ただじっと。