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風車のある風景  作者: 神奈
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39/46

親子喧嘩

 何とか間に合った。だが安堵する暇はなかった。

 床にできた円形の窪みを見下ろしながら、メルはグリフジーンから意識を逸らせずにいる

 右脇にモモを抱え、大きく飛んだ体をゆっくり制動していく。重心変動を器用に使いながら、メルは危なげなく着地。ゆっくりとグリフジーンに向き直る。

「もう手品の時間は終わりか?」

「手品はどっちだ……」

 何かが軋む音が響いている。メルの目の前には先程凹んだ円形の窪みが広がっている。軋みはそこからやってきていた。


 気圧の急上昇。

 正確には、一部の空間に特定の気体を大量に圧縮した結果だ。この軋みは、空気が上げる悲鳴の音。

 夜でなければ、屈折して歪んだ気体の柱が空に向かって伸びるのがよく見えただろう。

「柱の気圧温度を守る錬金術を手品呼ばわりとは、ずいぶんと無知なことを言う」

「その使い方が手品だと言っているんだよ。タネも仕掛けも分からないものは手品じゃなくて魔法っていうんだ」

「そんな言葉は知らんな」

「なら覚えとけ! ユズ、モモを家に」

「あいさぁ」

 手品は手品だ。タネも仕掛けも分かっている。分かっていても真似などできる気はしない。

 空気相手に式を書き込んだとでもいうのか。遠隔地に支えもないのに一体どうやってあんな強大な錬金術を発動させる方法があるというのか、メルにはさっぱり分からない。

 分からないが、そういうことができるというのはすでに確認している。

 だからこそ、何も問題はない。

「悪いけど、今の私は調子がいいぞ」

 メルは笑い、そして前へと向かう。

「ガキに戻って、頭も子供になったか」

「あんたが私の姿を記憶してたことに驚きだ」

 モモ一人に任せてた理由はある。この体は小さくなったくせに、副作用か何かは分からないが昔よりもさらに、

「燃えて無くなれ!」

 一瞬にして腕に亀裂が走る。それはエリクシルによるアレルギーだ。ただいつもと違うのは、ほとんど一瞬にして腕の式が焼き付けられたかのように黒く炭化したことだった。ほとんど一瞬、電気が流れるような速さだった。


 アレルギーは治るどころか、悪化していた。だが今はそれでよかった。

 メイリードが使っていた業炎の錬金術は、まるで炎というより光のように一瞬にしてその顎を伸ばし、グリフジーンにまで届いた。

 弾丸のような炎の速度。

 グリフジーンが己の失態に気が付いたときにはもう遅かった。

 圧縮したものが気体でなければ、熱に対抗できたであろう。二酸化炭素であれば、まだましだった。だが圧縮した対象はちがった。

 メルは笑いながら目の前で馬鹿みたいに燃え始める柱から距離を取る。

 まるでそれは爆発だった。家にモモを運ぼうとしていたユズですら熱に煽られ慌てて顔を引っ込める温度。

 一瞬にして喉が焼け付くような熱は、炎の光と一緒に伝わってくる。

「こら、ユズ! 急げ! 高濃度の酸素で気絶させられてるだけだから、乱暴に扱っても大丈夫だ!」

 人間なら酸素中毒で即死だっただろう。だが、モモは耳長族である。この程度で後遺症が残るようなダメージは負いはしない。

「わ、分かってるってぇ!」

「早く置いて戻ってきて」

 ユズはすぐに返事はできなかった。

 己が必要とされたこと。ただそれだけだというのに。

 嬉しくて、息ができなくなるときがあるのを、彼女は初めて知る。

「うん! すぐ戻る」

 モモを運んでユズが走り出したのを確認して、メルはゆっくりと背後を肩越しに覗いた。

 炎の向こう、忌々しいといった顔のグリフジーンが見え隠れしていた。

「下品な……あの女の作った錬金術か」

 吐き捨てると、手を振る。彼の苛立ちに呼応するように炎の柱は掻き消えた。

 同時、息苦しいほどの熱も消える。

「その色、なるほど進化だと思っていたがただのアレルギーか。ふん、錬金術を拒む体でよくやるもんだ」

「化物の娘になったつもりはない。それにニノは親じゃなくて後輩だ」

「呪いはすでに解いたはずだ、貴様がここにいる理由はない。死にたくなかったら――」

「何の冗談だ」

「ならば、何も言うまい。貴様もまた、無力だと噛み締めて地に伏せろ」

 空気の圧縮される音を聞いた。メルは上を確認などせず、ただ前に走り出す。

 気体圧縮の錬金術は背後にどれだけの範囲があるか分からず、どれだけ下がっても意味がない可能性はいくらでもある。

 だが己を範囲に巻き込むことはしないだろう、メルはグリフジーンに向かって飛び込むように駆けた。

「浅はかな」

 グリフジーンの呟きを彼の頭上を飛び越した辺りで聞いたときだ。

 同時、体が地面に叩き付けられ転がる。

「なっ」

 まったく受身も取れず、メルは床に倒れ込んだ。

「呼吸は止めているか、まぁ懸命な判断だな。この気圧に耐えられればだが。ついでだ、重量増加も追加してやろう。喜べ!」

「!!」

 先程の重圧など大したことはないものだと知った。

 二度目にやってきた重圧は衝撃というほかない程で、体中の骨が軋み血液が落ちる感覚を味わった。

 血が完全に下に落ちたらしい、もしも立っていたら一瞬で気絶していた重さだった。

「かっ」

 喉にわずかに残った空気が吐き出され、その空気すら重たいことにメルは驚愕する。どれほどの圧力がかかっているのか。

 だが床はまったく軋んでいない。

 重量増加分が、まるで反発するように床がせり上がってでもいるというのだろうか。こんな重圧で床が耐えられるはずがないというのに。


「三〇倍、ぐらいか。気体圧縮と併せたら九〇倍ぐらいの重量だな。この程度で動けなくなるとは、やはり脆弱すぎたか。三〇〇〇気圧は耐えられないと、使いものにはならん。寿命ももう少し欲しいところだが。ふむ、この柱を打ち込み終えたらそっちの研究に戻るか」

「なにをさっきからぶつぶつと」

 メルはゆっくりと立ち上がった。

「ほう。喋れるか。ならばせめて今の一〇倍は耐えてみせろ、そらっ!」

「なっ」

 見れば、メルの体はもうほとんど肌の色は残っていない。打てる手は打ち尽くした彼女は辛うじて立っている。

「が、……はっ」

 思わず息を吸い込みそうになる。だが、あたりの炎の勢いがそれを躊躇わせていた。

 ――二酸化炭素……。

「そら、どうした、もうあとがないぞ」

「……」

 気圧、重圧に耐えるための錬金術だけで精一杯だった。出力の上がっている今の体ですらぎりぎり耐えられている程度。もしも、今までの体であったならひとたまりもなく潰され這いつくばっていただろう。

 だが、まだ方法はある。前を見て、メルは覚悟を決め体に力を入れた。

「ごほっ」

 吐き出した空気はどこにも広がらず床に落ちる。

 一呼吸がほしい。だが、そうはできない。

 ゆっくりと一歩。

「はっ……」

 メルは一歩、また一歩と歩みを進める。

「……電気分解か。小賢しい」

 電精を呼び込むついでに流れる電気を使い、体の水分を電気分解させ肺のなかで酸素を作り出していた。

 量は微かではあるが、息が切れることはなく体も動かせる。

「ならば、耐え切れない重圧に上げてやろう!」

 グリフジーンが、そこらじゅうのエリクシルを掻き集めるのをメルは何も言わず見ていた。

 そして、口元だけで笑った。


 メルの足音は、ひとつの情報を消していた。

 ゆっくり確認するように歩いていたのは、体の酸素を大事に使うためではない。

 すべては無言で行われていた。

 グリフジーンの背後、屋敷からの光が視界から途切れて初めて彼はそれに気が付いた。

「!」

「別に、タイマンだなんて、言ってないしねぇ」

 重圧に耐え切れず潰れてはいたが、それは間違いなくユズだった。そもそも、もののけに呼吸は必要なく、体の形を維持する気さえなければ、相当な重圧でも十分に動ける。そんな彼女が投げ付けた物が、ちょうど彼の目の前に飛んできていた。

 なんの障害もなくグリフジーンにぶつかったそれは、中の液体を勢いよく飛び散らせる。

「時間回廊だって食べる錬金術殺しさぁ!」


挿絵(By みてみん)


 白色の液体は辺りのエリクシルを無作為に食い漁りはじめ、銀色に発光する。

 そして一瞬で彼の体に覆いかぶさるように広がった。

 大量に集まったエリクシルを奪い、己を殺し、近くにある式を食べ、さらに広がる。

「な、んだとぉぉ!」

 一部分が壊れ、暴走する錬金術が彼の肩口で弾けた。同時、爆風が生まれた。

 辺りを占めていた重圧も二酸化炭素も、爆風に掻き消されるようにして一瞬にして失せる。

「そら、早く取らないとあんたごと消えてなくなるぞ!」

「貴様ぁぁぁ!」

 単純だからこそ怖い。

 錬金術を食べる錬金術は、まさにその極地とも言えるべきものだった。

 エリクシルが流れると、まずは己をコピーする。そして、近くにある式の上に滲むように広がる。

 これはそもそも錬金術の効果ではなく、エリクシルの流れによってそういう風に動く、液体そのものの特性が利用されていた。

 ゆえに、その広がりをエリクシルを操作することで防ぐ手立てはない。もしも体にかかったのなら、その部分を即座に切除でもしない限り、この液体が式を壊すことを止めることはできない。

 式に広がった液体は、己を食いながらも広がった式を同時に巻き込んで無効化される。

「どれだけ用意をしても、すべてをひっくり返すとんでも錬金術さ。どうだ、お前が寝てる間に人間は凄いモンを作っただろう?」

 メルは床に伏せ、体を掻き毟るグリフジーンを見下ろす。

「そのまま記憶操作も消されて、消えてなくなれ」

 上手くいけばニノが帰ってくるかもしれない。

 万が一の可能性に賭けた一手はたしかに成功した。

「俺が消えても廃人が一人できるだけだが。しかし、こんな馬鹿げたものすら作ることも思い付きもしなかった」

「負け惜しみもここまでくると哀れだな」

「そうか? ……何もできず、体中の錬金術が焼き切られ役に立たなくなって、ただの人間に戻ると、そう思うか?」



 最初に感じたのは、恐怖というより嫌悪感だった。

 思わずメルは一歩後ろに下がった。

 何もできるはずがないのに。グリフジーンはその引きつった顔の奥で笑っている。

「たしかに、脅威だと認めよう。生まれて初めて、俺が膝を着いたのだ自慢していいぞ。だが、そこまでだな。残念ながら、お前たちは何かを勘違いしている」

 同時、メルは己の腹が爆発したのかと思った。

「ごっ」

 吹き飛ばされ、床を転がり、まだ上半身と下半身が残っていることを確認して安心する。

「どうした、お前の錬金術は一体誰が作ったのかを言ってみろ」

「が……はっ」

 メルはうずくまり、動けない。

「そら、次は右腕だ」

 遠隔起動とは違う。

 こんなことが起こる錬金術をメルは体に刻み込んでなどいない。

 右腕はメルの意思に反してグリフジーンに向かって引っ張られていく。

「うあああ!」

 同調操作。

 同じような式そのものが、同じものという認識で同調されているのだ。無茶苦茶だ。あまりの理不尽さに叫びだしたい気持ちを飲み込む。

 そんなこと簡単にできる訳がない。

 同調はだいたい同じ大きさの同じ材質の物を用意して初めて成立するものだ。

 同じ式が刻まれているから、ましては同じではなくそれが似ている程度でしかないというのに、だというのに同調し、グリフジーンの意のままに操られている。

「その程度だ。ということだ」

「無茶苦茶だ!」

「それを決めるのは貴様らではなくこの俺だ」

 相手の土俵に立つ限り、こちらに勝ち目はない。

 そんなこと最初から分かっていたけれどここまでどうしようもないとは考えていなかった。

 この分なら、内臓を同期させられて即死だってありえる話だ。

 ありえない理由を考えて手を拱いていたら、〝今それをしようとしない〟理由がなくなる可能性がある。

 時間が欲しいのに、時間が経てば窮地になるだけだ。


 床を転がりながら、メルは視線だけはグリフジーンを必死で捕らえようとしていた。

 勝負だけでいいなら、一瞬で決まるはずだ。殺すだけなら、もう終わっている。

 同調された式を特定し、書き換えても同調は切れない。

 リアルタイムで同調する対象が書き換えられているか、そもそも根源錬金術そのものが同調しているのか。

 それはすでにメルの中で理解の範疇を越えていた。

 タネも仕掛けもない、理解不能な現実。

 モモが正面を切って戦えていたのは、ただ単に錬金術の埋め込んだ量の少なさや、体術がメインだったからだ。

 ――計算違いも甚だしい……。

 動きが止まり顔を上げれば、グリフジーンが目の前でこちらを見下ろしていた。

 相変わらずニノの顔を引きつらせた、粘土細工のような顔で、だがたしかに嘲笑を浮かべながらこちらを見下ろしている。

「たしかに体表面の式はほぼ全部消されてしまった。褒めても褒め足りないほど、素晴らしく馬鹿らしい錬金術だったな。だが、馬鹿らしいからといってそれを実現しようともしなかった俺は馬鹿以下で、そしてそれすら思い付かない者は死んだ方がましだが」

 ずいぶんとあの液体を気に入ったらしい、饒舌にグリフジーンは語る。


 彼の解説は、一度体で受けただけだというのに、構造から発想まで正確だった。

「よくエリクシルに反応する液体を開発したと言いたいところだが、それよりも液体に式を複写する技術の方をこの場合は褒めるべきだろうな。設計思想も悪くない。むしろよくここまで作り上げた。そしてここから分かることがひとつだけある」

「……」

「お前が作ったものではない」


 お前は思い付かなかった側で、死んだ方がましな存在だ。


 体中に火傷を負い、すでに素肌の色など忘れたかのように焼け焦げたメルは、唯一火傷を負っていない右目でグリフジーン見る。

「さらに、その千理眼を使わないのも馬鹿以下の選択だ」

 メルは何とか起き上がろうと、体をよじる。

「今までの我が子の中でも、最低最悪の部類だな。失敗作ですらない。失敗成功を語るところにすら貴様は到達していない。まだ先程の小間使いの方がましだ」

「ああ……」

 同意見だ。メルは上半身を持ち上げながら思った。

 だけどなぜか胸の奥が苦しくなる。締め付けられるというより、酸っぱい物を食べたときのような、体の収縮に似ているかもしれない。これが何なのかは分からないが、とても嫌なものだ。彼女は右目でグリフジーンを見る。


 三千世界を覗くすべての錬金術の辞書は、アーセルを助けるどころか、ただ眺めていることしかできなかった役立たずの目だ。もう使わない、使う理由もない。

「エリクシルに過剰に反応し、アレルギーまで引き起こし、式をまともに制御できない。そんな状態で右目を使えば、左目のように黒く染まるどころか目は潰れるだろう。たしかに賢い判断かもしれんな。……保身という意味では」

 明らかに侮蔑の篭もった語調。

 這いつくばっている自分を見て、納得がいかないのだろうか。

 メルはようやく体を起こすとグリフジーンと向かい合う。

「まさかこの俺を、保身を考えながら何とかできると考えているなら、それこそ貴様は消えてなくなった方がいい」

「勝手にそう思ってろ……ユズ!」

 体はまだまだ動く。それだけで十分だった。

 錬金術の過剰反応で、さらに加速した起動速度は、確実にグリフジーンに盾突くためのイニシアチブになる。

 高速でエリクシルを消費し、それでもまだ足りないとメルは足を床に叩き付けた。

 遠隔起動。

 庭が一瞬で明るくなった。床が発光を始めたのだ。

「なに!」

 モモが敷き詰めた、エリクシル消費の錬金術。仄かな明かりの代わりに、莫大なエリクシルを消費する錬金術。

 グリフジーンの声が驚きに染まる。エリクシルがなくなって困るのはグリフジーンもメルも同じだ。

 使わないと高を括っていたのだろう。

 この辺り一帯のエリクシルは今まさに空になっていく。

 広い庭には発電機もなく水も流れておらず風が起きる温度差も気圧差もなくなった。

 土も木も人工物。唯一の発電を行っていた三軸風車はもう取り壊し寸前。ここにエリクシルは存在しない。屋敷の屋根にあるみっつの風車は、屋敷が明かりとしてすでにエリクシルごと消費。もうこの庭にエリクシルが流れてくることはほぼなかった。

「空白地帯か」

「さぁ、親子喧嘩第二ラウンドだ」

 メルの横にはユズが立っていた。

「メイル……あの、わ――」

「全部ちょうだい」

「……」

「あんたの全部。私にちょうだい」

「うん」

「もののけか!」

 今さら過ぎる、とメルは笑う。

 もう、貴様には一滴のエリクシルだってやるつもりはない。メルが笑う。

 ユズがメルの背後から抱き付くように腕を回してきた。ゆっくりと形状が変わるもののけの体。

 両腕に巻き付き、首を通って上半身を覆う。

 メルは、昔ユリシーズの体を腕に巻き付けていた頃を思い出していた。

「ごめんね、ユズ」


 ユズは何も言わず、逆らわず、メルをほんの少しだけ力を入れて抱き締めた。

 このときのために己は存在していたのだ、そう言われてもユズは納得できる。

 火傷で真っ黒になったメルの肌を覆うように広がる。それは、流線型の鎧だった。服に浸透し、肌に触れ、エリクシルの塊はただ己がなすべき姿のために形を変えていく。

 ぴょこんと、メルの頭の辺りに狐の耳が生えた。

 尻からは、狐の尻尾も生える。 

 ユズの固有パーツが、たしかにこの体に巻き付き守る者がユズであると教えてくれる。

「最初から負けてたのさ」

 体は一回り大きくなったが、体の動きはまったく阻害されていない。

 ぶっつけ本番、そもそもこんなことになるとは思っていなかったのだが。

 ユズからエリクシルを補給してもらいつつ、エリクシル空白地帯でグリフジーンを無力化してモモとメルで物理的に押しつぶす。

 それが、最後の作戦だった。

 最悪のシナリオではあるが半分は予定どおりである。

 だが、想像以上にモモは神経質にこの庭に罠を張り巡らせていたらしい。そこまで恐怖したというのだろうか。

 それとも、何か別のことを考えていたのだろうか。

「んじゃ、行こうかユズ」

 声の代わりに、ユズはメルの手の辺りに反応を返す。

 それに一度頷き、前へと。そう考えた瞬間。

 世界が吹き飛んだ。


 意識が先行しすぎたのかと、驚き思わず体が強張る。

 だがすぐに理解する。

 高速とかそういうレベルではない、同時だ。

 式すべてにエリクシルが行き渡っているからだろう。

 だからといって、この反応速度は異常としか言いようがなかった。

 一瞬にして体はグリフジーンの目の前に到達。そのまま勢いだけの膝蹴りが彼を吹き飛ばし、転がるグリフジーンとの距離が開いていく。

 そこでようやく、今何が起こったのかを理解した。

「な、にこれ」

 錬金術の速度が異常だった。思考速度と同等、何もかもが同時に起こっている。

 そして出力もまた気が狂ったように跳ね上がり、気が付けば錬金術が起動を終え、結果として何もかもが終わっている。

 起動する場所を考え、出力を考え、実際にエリクシルを流すための口を開け、起動を確認し、出力調整して、結果が初めて現れる。そのすべてが省略されていた。

 そうしようと思ったときにはすでにそうなっていた。

「そうか、炭化した式がそのままエリクシルを取り込んでるから……」


 このためにあったのだ。

 このためだったのだ。


「アレルギーなんかじゃ……なかったんだ」

 ユズが頷くように手を握り返してくる。

「ははっ……このためだった。錬金術を否定したんじゃなかった。もっと錬金術を必要としてたんだ……」

 アーセルを助けられず絶望した己は錬金術を否定して、アレルギーになったと、そう思っていた。


 そうではなかった。

 もっと力を欲していたのだ。


 そしてそれは速度として現れた。


 誰よりも早い速度。助けを求めている手を誰よりも早く掴むための速度だ。


「ユズ、行こう。もう、メイリードが来たって怖くない」

 体に心地のいい締め付けが来る。

 狐耳が風に揺れているのが分かる。

 グリフジーンと視線が合った。

 瞬間、メルは音を超えた。




 風の音が耳に届かない。ユズが受けている風の感覚だけが、間接的に感じる己の速度だった。

 それ以外は体が押さえ付けられるような重圧だけがすべてを埋め尽くしていた。

 風圧。気体が持つ伝達速度を超えた速度だ。

 音速超過。

 驚きはもうない。あとは拳を握るだけだ。

 硬度強化、重量増加、重心変動、摩擦増加、慣性変更、防風結界。すべてが一瞬、気が付けば、グリフジーンの顔面に拳が突き刺さる結果だけが残る。

「っおおおおおおおおお!」

 そのまま拳を振り抜いた。

 肘の辺りで、気流が乱れ気圧差が生じ水蒸気の雲を引く。

 それでもなお、拳の速度は緩まず怯まず、吹き飛んだグリフジーンと共に前へと進んだ。

「このまま潰れろ!」

 前へ。

 一歩。

 さらに一歩。

 物理防御の結界をぶち抜き、グリフジーンが吹き飛ぶのを許さず、前へ、さらに前へ。

 前へ。


 拳の方向はそのまま重心を軸に回転していた。

 ゆっくりと進路は左側へ逸れる。

 前に出つつ、左に逸れた分を体で補う。

 そしてさらに前へ、だが進行方向は左側へ先程よりずれている。

 合計六歩分、メルは緩やかな反時計回りに殴り飛ばした。

 結果、まるで巻き込むように、グリフジーンを背後へと吹き飛ばすことになった。

 音速を超え空気を切り裂いた爆音と、それが衝突する轟音があたりを揺るがす。

 おもちゃのように、吹き飛んでいくグリフジーン。



 広い庭とはいえ、大暴れして問題がない程の広さという訳ではない。

 転がったグリフジーンの先には、屋敷があった。

「しまった!」

 口と鼻から血を流しながら、それでもグリフジーンは己の勝利に顔を引きつらせて笑った。ゴロゴロところがり、勢いがなくなったところで彼は一瞬だけ背後、自分を吹き飛ばしたメルたちを見る。

「お前が連れてきたのだ。お前がな。この俺をここまで連れてきたのはお前だよ」

 ぼそぼそと呟きながら、グリフジーンは這いずりながら玄関へと近付いていく。

「くそっ!」

 家の中では暴れられない。

 リグは見つからないとしても、モモもアーセルもいる。

 錬金術は、メルの逡巡に起動をやめていた。

「俺の予定どおりだ。別に貴様が拳を打ち間違えた訳ではない。誇っていい。今の拳は、確かに私に届いたのだからな。だが、頭は悪かったようだ」

 玄関に手が掛かる。未だ制動に不安がある錬金術を起動はできず、メルは走り出した。

 だが間に合う訳がない。

 錬金術が起動すれば余裕で間に合う。

 だが、もし制御をミスって家へ突っ込んだら。

 その迷いは、完全に錬金術を沈黙させるには十分だった。思考が直結している分、迷いは起動の阻害になる。うんともすんとも言わない、己の足の式のことを忌々しく思いながら、メルは前へ走る。あれほど世界が小さく見えたあとだというのに、絶望的に屋敷が遠い。

 扉が開く。

 一瞬グリフジーンがこちらを見て、笑った。

 ――くそ!


 そしてグリフジーンが吹き飛んだ。

「……はぁ!?」

 扉が内側から力いっぱい開けられたのだと理解したのは、開き切った扉の内側に人影がいたからだ。

 見慣れたメイド服のシルエットに、モモかと目を凝らすが、モモにしては背が高い。モモにしては、というところが重要で。実際でいえば、そこまで背は高くない。というか小さい方だろう。

 髪の毛の色は――

「んな……」

 あの色の知り合いを、メルは一人しか知らない。そもそもあの色は、珍しいというか染めていた結果だ。

 ふわふわのメイド服。室内の証明による逆光で顔は見られないが、それでもこちらを見てるのは分かった。

 そして、いつものように歯を剥き出して笑うのだ。

 獣のような笑み。捕食者が浮かべる、あの笑みだ。

「うそだろ……メイリード……」

「あーえっと、ようこそ、お客様。だっけか?」

「うわぁ……絶望的に似合わない……」

 というか、あれが母親だと信じたくない。

 思わず両手で顔を覆ってうずくまりたくなった。

 だが、その姿はメルがメイド服を着たときとよく似ていた。まさに親子といったところだ。

 その事実を知るモモは、未だ気絶したまま客間に寝かされたままだったが。

「どうだ、似合うか?」

 嬉しそうに服を揺らしてメイリードが笑う。

 そんなところまで親子一緒だったが、メルは気が付かず、メイリードは知らず、突っ込みはおらず、誰もが語らず、夜だけが更けていく。

「……どーすんの、これぇ」

 メルの腕辺りに発声器官を設けたユズが呟いた声は、仄かに光る庭を流れる風に乗って夜空に舞った。


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