接敵
世界はアナログで、境目は曖昧で、だから物事にはっきりとした始まりはなく、必ず何かしらの予兆は存在し、それゆえ突然というのは言葉どおりにはならない。
必ず、最初がある。予兆がある。
だがそれは、誰の意識から確認しても突然だった。
ビデオのコマ送りをしても始まりがなく、ただ次のコマではすでに終わっていた。そういった類の、突然だった。
そこに、グリフジーンが立っていた。
驚きにモモは体を強張らせ、ユズは体中を震わせた。
メルは目を細め、アーセルはまだ気が付いていなかった。
グリフジーンは、庭先に集まっていた彼女らを一瞥すると、リグがいないことに舌打ちをする。
「ずいぶんとお久しぶりですね。もう顔も見ずに済むと安心していたのですが残念です。さて、どういったご用件でも、今すぐお引き取りください」
モモが前に出て、ゆっくり頭を下げた。
「まぁ、目の前でなくても問題はない。一人二人首を並べれば気も変わって顔を出すだろう。どうせどこかで見ているのだろう?」
「そんな趣味の悪いこと、あの子がする訳ないでしょ」
その辺りでようやくアーセルがグリフジーンを見つけ、安心したようにため息を吐き出した。
世界有数の広さを誇るこの庭は、照明設備が完全に行き届いているわけではない。
そもそもこの庭は、浮遊艇の発着場として用意された経緯があり、庭を照らすという意味での照明は存在していないし、発着場としての照明はすでに取り外されている。
庭に灯る照明は、少なくとも人にとっては足りないかすかな光でしかない。今は屋敷から漏れる光もあり、その拙さはさらに際立っていた。
「先輩、私よく見えないんだけど」
アーセルの言葉に、メルは深くため息をつくと背後を指差した。
「家入ってお茶でも飲んでな。じき、リグもロケットの調整終わらせて戻ってくるから」
ぴくりと、グリフジーンが反応する。
それを横目に、メルはたっぷりと皮肉を込めて笑う。
「悪いけど、私が先にあそこに行くから」
「……貴様は何があるか知っているのか」
「さぁ? 知らない」
「何のためアレが存在しているのか、知っているのか」
「知らないし興味もない」
「大した目的もなくに空に上がるか、無粋な」
「あんたが決めることじゃないさ」
「目的も意思もない者に空は開けない」
「そいつは、空にでも聞いてくれ」
「塵芥が……そのまま柱にしがみついていろ。この柱ごと星の栄養になるがいい。それが貴様が役に立てる唯一の仕事だ」
「……へぇ、柱は星の栄養になるのか。リグの言ってたことは本当だったらしいね。ま、それもどうでもいい」
「どうでもいいならどけ。どうでもいいことに命を捨てるのは本望ではないだろう?」
「へぇ……、殺せばいいだろう? 今さら、父親らしいことでもしたくなったのか? それとも小さくなった私を見て、昔のことでも思い出せたかボケ老人。老害は、家に引き篭もって死ぬまで呼吸もせず身動ぎひとつせずに暮らせ。それが、あんたが役に立てる唯一の仕事さ」
じりっと、辺りの空気が変わった。
電精が走り回る、静電気が上げる悲鳴のような乾いた音と、鼻に届くオゾンの匂い。
「お下がりください。お客様の対応は従者の役目です」
メルはモモをちらっと見ると、そのまま何も言わずに後ろに下がった。
「さぁ、家にお帰りください。申し訳ありませんが」
音もなく、モモが消えた。
肌に風を感じたのは、すでに彼女がグリフジーンに蹴りを叩き込んだのを目で確認できてからだった。
「はやっ」
頭上からする聞き覚えのある声にメルが顔を上げると、ファルがいつの間にかにやってきていてメルの頭に乗っていた。
「手土産は、ゴンドラ付近の菓子屋がおすすめです。とはいえ、ベルフレアは、あなたに一秒の時間も、庭先の塵ひとつも、差し上げる寛容さは持ち合わせておりませんが」
しかし、足は届いてはいなかった。グリフジーンの肩口数センチ先で止まっていた。
正確には、止められていた。
「何も、のんびり歩いてきた訳ではない。馬鹿力には対策が必要でな。安心しろ、貴様らから何かを貰おうとは考えていない。すぐに貴様らから差し出すことだろう」
そして、彼はゆっくりとモモの足に手を伸ばした。
慌てて足を引っ込めるモモ。そのまま、後ろに跳び距離を取る。
「どうした、とくに手は汚れていないぞ」
「女性の足に触れようとすることそのものが無礼だと理解できないとは……哀れを通り越して笑えますね」
「貴様の言う無礼とはー―」
グリフジーンが消えた。
音が最初だった。
モモは腹部に熱を感じ、それが何かを悟る。
足。グリフジーンの足が突き刺さっていた。
「こういうのは言わないらしいな? ずいぶんと都合がいい話だと思わないか? ん? それとも、柱にしがみ付いて常識も良識も落としてしまったのか?」
「っが……」
軽い。
軽い攻撃だったはずだ。
ふみ込みも甘く、体重も乗っていない。
速度は目の前で完全に死んで、足にはまったく伝わっていなかったし、そもそも衝撃の瞬間ですら力は入っていなかった。
まったく威力のない蹴りのはずだった。
だが、実際はどうだ。
体は吹き飛ばなかった。
いや、吹き飛ぶ威力はなかったのだ。だといのに今、モモは膝から崩れ落ちていた。
「はっ……はっ」
「お得意の体術とやらはどうした?」
片膝を着いたモモを見下ろし、グリフジーンが笑う。
呼吸がままならず、モモは何も言えずグリフジーンを見上げるしかなかった。ただじっと、今、己が何をされたのか考える。
「せめて、もう少し頑丈に作ってやった方が良かったか。哀れな。そのまま這いつくばって許しを乞えば苦しまずに終わらせてやるが、どうする」
「冗、談を……」
力いっぱい床を踏みしめる。
ぎし、と床が軋む音。同時に耳に届いたのは静電気の立てる音だ。
「這いつくばるのはっ……そちらです!」
さらに床が軋んだ。
「重量増加か」
グリフジーンが笑う。
「おおぉっ」
立てた膝を軸に体を斜めに回す。遠心力を込め振り抜いたモモの足はグリフジーンの頭上を掠めた。
「とうとう、目測すらできなくなった―ー」
その足の勢いで跳んできたのは軸にしていた側の膝。
「顔面は反則でしたか?」
モモの放った膝は吸い込まれるように顔面を貫いた。
――ならば畳み掛けます。
着地と同時、左足を踏みしめる。同時、罠が発動。
倒れ込んだグリフジーンの上半身の辺りの床が一気に抜けた。落とし穴が一瞬にしてできあがったのだ。
「なっ」
驚愕の声は、すぐに焦りに変わる。
体勢を立て直すことができないグリフジーンに向かって、モモは容赦なく跳んだ。
■
置いたつもりのスパナが転がり落ちた。
慌てて手を伸ばし、自分がいる場所がロケットの操縦席の出入り口だったことを思い出す。だが、振り返った体が間に合う訳もなく、リグは聳え立つロケットの出入り口から床を見下ろしてしまった。
「……っ!」
悲鳴を必死で飲み込み、体を伏せて何とか堪える。
メルから言われていることだけは何とか守れた。
絶対に煩い音を立てちゃだめだ、と。
ロケットの場所が割れたら、リグのいる場所も割れる。
つまりそれは、せっかく時間稼ぎに危険を買って出ている皆の努力を皆無にすることになる。
『この場所ならばれることはない。音さえ立てなきゃ大丈夫だから。明かりなら大丈夫。でも音だけは、とくに声は上げちゃだめだ』
元より背が小さくかわいいメルが、なぜかさらにちっちゃくなって愛らしさアップのまま、いつものように喋るものだから、話が半分以上頭に入らなかった。
しかも、モモが子供の頃に着ていた私服。
ちょっと古臭いけどモモにもおしゃれをしてほしくてリグとアーセルが必死で選んだものを着て喋るものだから、リグの脳内ではとんでも花畑が展開されている。
「……はっ。よだれが」
ニノも綺麗な少年だったが、メルもああなってしまうとかわいい女の子にしか見えない。
「……っと、何も知らないまま作った割には、結構しっかりできてますね。さすが私」
何に言い訳するのか分からないまま、ささやくような声を出す。
「相対速度計も、航路用の現在位置チェックのボードも外しましょう……。全部光学距離観測と水平計だけでいけるはずです。ソフトは門外漢なのが痛いですが」
軽くしなければいけない。
ひとつでも多く電精槽を積まなければいけないのだ。
すでにペイロードはこの大きさで十分考えられないぐらい大量に積める。
だが推進系のほぼ半分が人力という気の狂った設計のお陰でもある。
操縦者は、エンジンそのものでもあるのだ。
――搭乗者もロケットの一部なんですよね。
まぁいってしまえば、自転車のようなものだ。
グリフジーンが打ち立て、リグが形にした錬金術と工学技術の塊は、たしかにしっかりと形になっていた。
「さすがに先輩はグリフジーンよりも火力出力が弱いですが……燃費はほぼ半分。比推力だけでいったら、結構いい勝負ですね」
エンジンの性能は最大出力だけで決まるわけではない。
最終的に燃料切れになるまでにどれだけロケットを進められるかというのは重要なファクターだ。
何せ、その燃費がまさにロケットの重さに直結してくるのだから。
錬金術用に組み込まれたのは木製の棒だ。ロケットには似つかわしくないが、錬金術を書き込み、エリクシルを流し込むときに一番安定したのがこれだったのだ。
一番重要で一番か弱い木材だった。重さの関係で、切り出したものではなく、一度木屑にし乾燥したものを圧力で固めたバルク材の棒である。とにかく軽い。そして木屑にしたときに、すでに錬金術は書き込まれている。棒ひとつにすでに三〇以上の錬金術が組み込まれている計算になるらしい。
床に埋め込まれ、ロケットの下部まで届いてるこの木材は、スイッチなのだ。
ともすれば、床の装飾にも見える木材の四角いタイルのような姿。
だがアーセルが確立した、安定した平面ではないところへ錬金術の式を書き込む技術。
流体印刷技術が使われていたり、乾燥も熱ではなく最近流行りの極低温乾燥という技術が使われている。
最新技術の塊だと言ってもよかった。
光学分析の距離計だって、錬金術師たちが作った歪まない超小型のレンズの焦点用に動く高制動モーターというふたつがあって初めて成り立っている。
「先輩。このロケット、凄いんですよ……」
自慢したい。自分が設計した設計図は、ほとんど夢見がちな妄想の塊だった。だが、アーセルはそんな子供が書いた夢物語をベルフレアに持っていったのだ。
すべての機材に開発期間なんて二週間もなかったのだろう。
一ヶ月でここまで作り上げたのだ。
きっとメルは知らない。モモも聞かされていないだろう。
アーセルが、自分の母親がそんなこと自慢する訳がないのだ。
そしてまたあの母親についている部下たちもまた、何も語りはしないだろう。
出入り口には、二重の機密構造が採られている。ゴムに似ているが、温度変化に強く強度は金属に匹敵する合成ゴム。これも錬金術が可能にした素材。
扉に付いた窓なんか、リグは見たときに馬鹿らしくて笑ってしまったほどだ。
あほみたいな速度で、何もない空間を飛ぶロケットに窓を付ける意味なんてない。ただでさえ、気密を守るために隙間を幾重にもシールしているのだ。
それでも、あるとしたら、
「振り返ったとき、柱が見下ろせる。でしょうね」
ただそれだけのために、一体いくらかかったというのか。
馬鹿らしい。
馬鹿らしくて笑いすぎて涙が出た。
きっとこれは、アーセルがメルへ向けたメッセージなのだ。
リグは窓に手を伸ばしそれを撫でる。
冷たい液体を撫でるような、シリカガラスの手触り。
どうか空に上っても、振り返ってほしい。
柱にいる私たちのことを忘れないでほしい。そのためだけに、このかすかな歪みすらないガラスは取り付けられている。
どうか、帰ってきて。
そのためにどんなことでもしたのだ。やれることはやった。
だがまだ足りなかった。
まだどうしても、メルの笑顔がちらつくのだ。
もうこの柱なんて見えていない、ただあの空に行くことしか考えていないあの笑顔が。
「帰ってきたくなるぐらい、燃料余らせてみせますから」
実際、帰路の方法なんてまったく思い付いていない。
目的地は超高速で空を飛びすぎていて、空から下りてこられなくなった人工物。という表現が正しい。
高いところにふわふわ浮かんでいるなんていう、呑気な代物ではない。
どんな方法で減速しても、その際の速度で空気は圧縮され熱を持つ。空気抵抗を使えば減速は簡単だが、耐熱と頑丈さは想像をはるかに超える数字で必要になる。
それに、目的地は小さな小さな柱だ。高度を考えれば、二階から見下ろした豆粒どころの騒ぎではないサイズ非である。無理難題もいいところなのだ。
それでも、
「……帰ってきてほしいっていうわりには」
――私たちは何も用意できませんでしたね。
上の方で、ずしずしと人が暴れている音が聞こえる。
モモは怪我をしていないだろうか。
モモに何かあったら、自分はきっと耐えられないと思う。
生まれたときから一緒の己の片割れだ、たとえ従者と主人という関係だからといって、それが相手を大事にしないという理屈にはならない。
どうか、あのときみたいな大怪我をしないで済みますように。リグは音のする方を見上げ、ただそう願った。
また大きく揺れる天井。
庭の床板。
だが、ロケットはびくともしていない。計算は確かだった。操縦席に身を屈め、リグは大丈夫だ、と一人納得するように頷きを作った。
■
三度、拳が入った。
一〇回吹き飛ばされた。
二度蹴りが突き刺さった。
三〇回はまったく届かないまま空中で止められた。
息は荒く、床に設置した罠は半分を消化した。
罠の存在はグリフジーンも理解しているが、さすがにそこはモモの方に分があるらしく、タイミングをずらされ罠にかかることは多かった。
グリフジーンは何度も足を取られ、足止めを食い、滑り、体勢を崩した。
だが、それでも彼は床板そのものを破壊しようとはしなかったし、自棄になることもなく笑っている。
それがあまりにも異常で異様だった。
目の前の存在が、そもそも己と対峙などしてないことにモモは怒りを覚える。
モモの攻撃も、罠も、彼にとってはどうでもいい瑣末なことなのだ。
子供の駄々に付き合う大人のように、ただ付き合いでその場に立っているだけ。
「常時結界を展開しない理由は、大体分かりました」
燃費がすこぶる悪く、またその場から動けないのだ。
グリフジーンは相変わらず、引きつった顔面で笑いながらモモの出方を伺うようにふらふらと歩いている。
肩の力を抜き、疲れたようにモモは大きく息を吐いた。
「どうした、もうタネ切れか」
「……」
「なら、遊びも終わりだな。絶望して這いつくばれ」
また理解不能な高速移動。
気が付けば一〇歩以上あった距離が一歩の距離まで近付いている。
だが、たとえその移動についていけなくても、予測はつく。
左足を二度タップ。錬金術の発動する音を聞きながら、モモはまるで動かない的に行うように、気の抜けた大振りの蹴りを放った。
「はっ」
グリフジーンの顔面に、モモの蹴りがぶち込まれる。
「ごっ」
吹き飛ぶのではなく、振り下ろされた蹴りにグリフジーンは床に叩き付けられた。
「あなた、油断しすぎですよ」
飛び込み、そのまま腹部に体重の乗った踵が落とされる。
ただの人間なら、いや耳長でも胴体に穴が開きそうな衝撃に、庭全体が揺らいだ。
空気を搾り出され、喘ぐことすらできないグリフジーンに、さらに肩を折る勢いで足を振り下ろした。
乾いた木が折れるような、そんな音。
「ぐ……がっ」
「さぁ、さっさとお帰りください。もう夜も遅いですし、ゴンドラも壊れて火事が起きております。このままでは帰るのも大変でしょう?」
「き、さま!」
掴みかかろうとしたグリフジーンの動きに、モモは反射的に後ろへと跳び退った。
「モモ!! 逃げて!!」
メルの声に、思わず振り返る。
振り返りながら、己の馬鹿さ加減に呆れ返る。
逃げろと言われたのだから、今すぐその足で床を蹴るべきだったのだ。
視界が一気に黒く染まり、あ、と思ったときには何か重たい音を聞いて、そこでモモの意識は途絶えた。




