再会
寝息を立てるメルとファルを見下ろして、満足そうにアーセルが笑っていた。
ロケットの改造に手をだしてからというもの、すでにこの客間はメルの部屋といっても過言ではない。
まったく彼女は自分の家に帰らず、まるでこの客間をわが部屋のように使っていた。
「奥様」
背後で呼びかけるモモの声に振り返ると、彼女は静かに歩き出した。
部屋の明かりを消して、扉を閉める。
「お疲れ様」
「奥様も、お疲れ様です。お飲み物用意します」
「ありがとう」
モモが淹れてくれた暖かい紅茶を飲み込みながら、アーセルはようやくといった感じで大きく息を吐き出した。
「錬金術はもらったの?」
「はい……申し訳ありません」
「いいのよ。むしろ、必要ないなんてことないんだから。ようやくあなたも耳長さんね。どんなもの、もらったの?」
「それは、内緒。だそうです。口に出すなと言われました。残響再生といって、過去の音声を聞くことのできる錬金術があるそうで。その、……申し訳ありませんが」
「謝ることじゃないわよ。そうね、錬金術師同士のぶつかり合いはぶつかる前から決まってるっていうものね。モモも、先輩も、やることやった感じかしら」
「いえ、私はメル様に言われた作業が残っております」
「それも、私には言えないのね」
「はい。申し訳ありませんが……」
いいのよ。そう言ってアーセルは紅茶を口に運ぶ。モモがいつも淹れてくれるいつもの味が口に広がった。
――ならば私は、何をすればいいのか。
アーセルは天井を仰ぎ見る。
グリフジーンはリグを利用して人工衛星へ行きたがっている。
それは分かった。
メイリードは、そういえば一度の襲撃からまったく顔を出してはこないし噂も聞かない。まさかあの程度でメルが死んだなど欠片も考えていないはずなのは分かるが、では何故来ないのか。
たぶん状況を何も知らないのだろう。
知らされていないし、知ろうとする性格ではない。
あの暴風みたいな存在が、周りのことを気にして生きることなどすまい。
「奥様。私は私用で席を外します。呼んでいただければすぐに参りますので、なんなりと」
アーセルは無言を返事として、モモが去っていく背中を静かに見送った。
あれほど煩かった管理局も、ここ最近はまったく屋敷にやってこなかった。
「管理局が来なくなったってことは、予定どおりってことね。まったく上手くやったものね。そういうことなら、こっちもそうするべきだわ。使えるものは何でも使わないとね」
アーセルは静かに立ち上がる。
もう十分に深夜といった遅い時間だ。
だが、通話機の向こうで相手は起きてるだろう。アーセルは、ため息をつきダイヤルを回す。
本来知られていない連絡番号は鳴るはずのない通話機の着信を告げる音を響かせた。
風洞街一番地。
管理局のある真っ暗で風のない街の一角で着信音が響く。
■
真っ暗だが目はよく見えた。雑誌に載っていた、耳長族が好んで使う視力増強の錬金術とは違う、メルお手製の視力強化の錬金術。
あまりに見えすぎて、一瞬声を上げてしまったほどだ。
――さすがメイリードの娘といったところなのでしょうか。
それとも、彼女は自分で築き上げてきたのだろうか。
昼のように見える庭に立ち、モモはメルに言われた仕事を始める。
『罠を張る。いいね、バランスを崩す落とし穴。脚の動きを止める接着、重心を崩す局所重量増加、足を滑らせる摩擦軽減、そしてこれが一番重要』
そう言って見せられたのは、よくある光源の錬金術だ。
だが、細部がかすかに違っていた。
『これは、リミッターを外してあるから気をつけて』
燃費は最悪も最悪。エリクシルの無駄遣いの代名詞だ。別名もののけ殺し。
下手なもののけが近くにいたら、瞬きする間に存在を食らいつくされるという代物だという。
メルは式をモモの手首に刻みつけながらこちらを見上げてくる。
エリクシルさえなければ、グリフジーンとはいえただの人間。上手くいけばニノから引き剥がせるかもしれない。そう言ってモモの膝の上に座ったまま笑った。
今、モモはその式を床に転写している。
式そのものがエリクシルで焼き切れないように、退避用の式がいくつも追加されているが、単純な式だった。
だが試しに起動してもらった式は、そこらじゅうのエリクシルを一瞬にして吸い取る、とんでもないものだった。
『いいかい、モモが前に出る。だからモモが戦いやすいように設置してくれていい。靴の裏には共鳴起動の式を張り付けておくから、実際グリフジーンと対峙したときは、その裏の共鳴起動を使って床の式を起動させていけばいい。私のことは忘れていい。一人で戦うことを想定して自分の思うように式を設置して』
真っ暗な庭を見回し、モモは考える。
目を瞑って走り回れるほど慣れた庭だ。
何度も父親と模擬戦だってやってきた。
人間なのに、一度だって力押しでねじ伏せられたことはなかった。
モモが覚えた体術は、型として動きを覚え込まされた、決まった動作の塊である。
理屈が根本のところで理解できない耳長ゆえの対処。
応用が利かないただの操り人形。
かすかな重心のずれひとつ体で感じたところで、自分の動作をどう変えればいいのか分からないのだ。
結局どうしても父親には勝てなかった。
いかに複雑な力も、すべては筋肉と骨、関節と腱から表現される。
単純な力比べだって、モモは父親に勝ったことなどない。
耳長族が人より何もかも優れているなど、嘘だ。
少なくともモモはそう感じている。
もし、優れている点があるというのなら、その長い寿命と錬金術を理解することが可能であるということぐらいだ。
代わりに欠点の方が目立つほどである。
だから、モモは生まれてこの方一度だって慢心などしたことはない。
けれど、己を信じるだけの自信も経験もなかった。
だが今回は違う。
結果的にとはいえ、メルとメイリードとの間に入り、図らずともメルを助けることもできた。
今考えうる暴力の頂点決戦と言ったっていい世界に割り込めた。
「できます……」
いや、やるのだ。
恐怖は拭えない。未だ、あの白色の炎の色が目に焼き付いて離れない。
だが、それでも尻込みなどせずにまっすぐ立てるだろう。
それだけで十分だった。
地味な作業は続き、床には色々な状況を考えた式の罠が張り巡らされた。
モモの拙い手だろうと、ただ持っている式を転写するだけの作業、何も問題は起こらず式は床に張り付いていく。
唯一手が止まったのは、メイリードの放ったあの炎で焼け落ちた穴の辺りに来たときだった。
「ほんとよく、生き残ったというか」
生き残らされたというべきか。
この穴がなければ、リグが作ったロケットの隠し場所も気が付かなかっただろう。
抜け落ちた穴に、隠し場所への横穴が繋がったのだ。本来使われていない通路だったそこを辿って着いたのがあの隠し場所だった。
「見つからなかったら、今頃何してたでしょうね……」
そういえばメイリードは今、何をしているのだろうか。
あれから一ヶ月、顔すら出さないどころか噂すら聞かないのだ。
まるで消えてなくなったかのように。
モモは立ち上がり庭を見回す。
「何だかこういうときは、考えておいた方がよさそうな気がしてきました」
グリフジーンと共にメイリードがやってくるという、最低最悪の事態に備えて。
「もう一度、罠を張り直しましょう……」
ファルが来てからずいぶんと経つ。そろそろグリフジーンがやってきていいとも思ったが、まったくその気配もなく夜は更ける。
見上げた中天に、今輝く星はなく、まるでのっぺりとした黒の書割が広がっているようにも見える。
視力の強化を受け、そののっぺりした書割にも、かすかに濃淡があるのを知る。
意識すれば、見えないはずの小さな星も見えてくる。
目に入る力と、眼球の動きから脳が理解したその星の距離は、途方もなさすぎて目眩がした。
世界は本当に広いのだと理解する。
目が見せてくれたのは、夜空ではない宇宙そのもの。
「広い……」
あまりにもそれは広く遠かった。
柱なんて、何本並べたって誤差にしかならないほどのスケール感。
あんな世界を、リグは子供の頃から目指していたのか、そう思うと体中に鳥肌が立たつ。
一体どれだけ遠くを見ていたのだろう。
耳長族よりも拙い視力で、錬金術による強化もせずに、すでに彼女の焦点はあの深遠のその先に合わさっていたというのか。
「必ず。お嬢様、必ず私が……」
もう一度この広い宇宙を見上げられるようにしてみせる。
家の中から、話し声が聞こえる。
このまま何もなければいい、そんなことを考えながらモモは床に淡々と罠の錬金術を張り付けていった。
■
二二時が終わる。
新しい日付が始まった。
モモは、静かに庭の中央に立ったまま目を閉じていた。
呼吸は浅くゆっくり、ともすれば立ったまま死んでいるようにすら見えるほど、ぴくりとも動かない。
彼女のメイド服とセミロングの髪の毛だけが風に揺れていたが、真っ暗な庭ではそれを知る者もいない。
庭にある三軸風車も今は羽を外され布が掛けられたままになり、風を受けて回ることはなかった。静かに時間だけが風と一緒に庭を通り過ぎる。
夜は未だ動かず、月明かりだけが庭を照らしていた。
どこかで何かが落ちるような重たい音を聞いた。
遠くはない。遠くはないが、音は篭っていた。
モモは目を開け、伏せていた顔を音がした方へと向ける。
視覚の強化を受けているとはいっても、障害物の向こう側が見えるようなことはない。それでもモモはじっとその方向を見た。
そして、何も言わず振り返りもせず彼女は走り出した。
罠の上をほとんど音もなく駆け、すぐに庭の門へと辿り着く。鉄格子の扉に手をかけることはせず、走ってきた勢いを使って一気に体を沈め込ませると、そのまま体をばねのように伸ばし飛び越える。
一回転。
月明かりに縁取られた彼女の軌跡は美しい真円を描く。
着地を片足で行い、勢いを殺さずそのまま前へと跳ねるように進む。
誰もいない街道は一度曲がればあとはまっすぐ柱にまで届いている。
出っ張った屋根や看板を器用に抜けながら、モモは無言で駆けていた。
曲がり角を曲がり、柱を視界に収めた瞬間。
「!」
光を見た。夜道を照らす街灯の明かりではない。
何かが燃える炎の光だった。
不安に駆られたのか、モモはさらに加速、両足に施された錬金術が彼女の意思に呼応して起動、瞬時に筋力増加と摩擦強化が発動する。
恐ろしいほどの速度に、一瞬モモは己の足を見た。
だがそれ以上のことは考えない。
心はすでに別に費やされていた。目の前の炎を見据え、彼女は駆ける。
一歩で家をふたつ。
すぐにゴンドラが強化をやめた視覚にも捕らえられる。
「お嬢様!?」
ゴンドラの近くで転がっている人影がひとつ。
かすかにウェーブのかかったロングヘア、背の高いシルエットは見間違えるはずもなくリグだ。
グリフジーンが街を壊しながらやってきたのだとばかり思っていた。
リグを無理やり連れながら、これ以上街を壊されたくなかったら手を貸せと言っているのだと思ってた。
だが違った。リグは今確実にグリフジーンの襲撃を受けている。
ゴンドラから弾き出され気絶しているリグに近寄り、息を確認する。
「お嬢様!!」
だがリグの反応はない。
呼吸もしていない。というか、そもそも人の体温にしては低すぎる。
「!!」
馬鹿な。
グリフジーンはリグが必要なのではなかったのか。どうして、こんなことに。
どうして。どうして。
どうしてこんなことが許されるというのか。
もう少し自分が早く飛び出していたら。
もう少し自分が早く走れていたら。
もう少し自分が――
「お嬢様ぁ!!」
どうして。
顔を上げれば、目の前の炎の中に人影が見えた。
「……どうして」
どうして。こんなことを。
「どうして!」
グリフジーンだ。
初めて会ったとき、やりたい放題されたあの少年の体をしたグリフジーンが立っている。
「ふむ。思ったよりゴンドラは脆かったな。見た目では何も分からないと王も言っていたが、まさにそのとおりだ」
「……答えろ、グリフジーン!!」
怒気の篭ったモモの叫びに呼応するように、炎が割れ中からグリフジーンが顔を出した。
「事故だ。どけ、その女に用がある」
「貴様ァ!!!」
しゃがみこんでいた状態から、とんでもない体捌きでモモは前に飛んだ。無理に体を押さえ込んだ左足の太ももの筋繊維がいくつか千切れる音が聞こえたが、まったく気にはならない。弾丸のようにモモの体は低空で瞬時にグリフジーンとの距離を詰める。
「だから」
ゆっくりと彼がこちらを見上げるのが見えた。
吹き飛ぶように近づいた回転する体を、足を開いて制動。
床に着いた片足を軸に、勢い任せの回転蹴り。
「どけと言っている」
その足は、まったくグリフジーンの体に届いていなかった。
まるでそこで最初から止まっているかのように足は動いていない。
そして速度の残滓すらどこにも見つからない。
瞬時に世界が凍り付いたかのように、何もかも動きが消え去っていた。
「な……」
「体術を使うのは知っている。そういう野蛮な文化は、この柱を作る頃には根絶させたはずだったんだが、やはり完全という訳にはいかなかったようだ。たしかに、この蹴りには覚えもあるぞ。王に害をなそうとしたバカな団体の生き残りだったか。まったく、懐かしい記憶だ」
忌々しそうに吐き捨てると、グリフジーンは軽く右手を振り払う。モモの動きの止まっていた足が、何かに掴まれたかのように引き上げられていく。
「きゃぁっ!」
片足を掴まれ大男に持ち上げられているような格好。
足を無遠慮に上に引き上げられ、まるでおもちゃのようにモモはひっくり返ったまま身動きが取れなくなった。
「ふん、メイド服の癖にドロワーズまでしっかり穿いているとは……まったく分かっていないな。まったく必要のない文化だけは残る。なかなか上手くはいかないものだ」
「!」
慌てて捲れ上がったスカートを押さえるが、今さらそれが何になるというのか。
モモは耳の先まで赤く染めグリフジーンを睨む。
「従者は従者らしく、悲鳴を上げ逃げ惑っていればいいものを。たいした気概も使命も矜持もなく金に仕える貴様らは、一番それが似合っている」
その言葉に体中の血が逆流した気がした。
足を上にひっくり返されているからではない。
純粋な怒りだ。だが思考も体も冷えていくのが分かる。
「……我々が、お嬢様方に仕えるのは」
思考の回転数が上がっていく。
世界中の解像度が上がっていくのをどこかで意識しながら、モモはゆっくりを息を吸い込んでいく。
「生まれたときからそう決まり、そうであり続け、そうしたいと望んだからです。あなたの薄っぺらそうな人生で、私たちベルフレア社に使える従者の欠片でも語れるとでも考えているのなら、それこそ」
空中に固定された右足。同調同期による遠隔操作だ。
『モモ、特に気を付けなきゃいけないのは。メイリードが使うような直接的攻撃じゃなくて、遠距離から自由を奪える同調系の錬金術だ』
同調同期が始まれば、相手の思いのまま。
だから、そういうときはすぐに同調を切ること。
「哀れな人ですね」
グリフジーンの意識が、確実にモモ本人に飛んだ瞬間。
モモはそれを見逃さず、掴まれていた右足のふくらはぎを己の両手で掴み――
「っ!」
爪で肉を抉った。
「ずいぶん古臭い逃げ方をするな」
「あなたのお子さんから教えていただいたことですから」
体を丸め、モモは着地。爪で傷付けた右足は皮膚表面だけではなく肉にまで達してはいるが、動作に支障はない。確認するようにモモは一度右足を床に押し込んだ。
『いいかい、モモ。同調してるのだから、違うものにしてやればいい。なに、簡単さ』
同調された部分を、軽く傷つけてやればいい。同調するために最初は壊れた部分が一瞬治るが、すぐに同調は式ごと焼き切れる。焼ききれない式を作ることは、さすがのあいつでも遠隔じゃむりだ』
メルの言葉は、しっかりと頭に焼き付けている。
「さて、我々を侮辱すること自体は、あなたの浅く無意味な人生では仕方がないので不問といたします。ですが、お嬢様を傷付けた罪は、無知では拭えません」
無知。そう言われて、グリフジーンの顔がみるみる引きつっていく。
なんとなく、この男の扱い方がわかってきたとモモは、軽く息を吐きだした。
「怒りは思考を鈍らせるというが……、貴様らのような失敗作を世に出してしまった自分に腹が立つ」
「ならば、そのまま自己嫌悪に沈みなさい」
背後に、リグの気配を感じている。
もう動かないリグが、背後に倒れている。
急いで体を起こさなければいけない。
汚れた床に伏したままなんて、あってはいけないことだ。
モモは音もなくグリフジーンとの距離を詰めた。
その速度に驚き、一瞬グリフジーンの目が見開かれた。
すでに、手を伸ばせば触れられる距離。
「餓鬼が……」
「目すら追いついてませんか。愚鈍にも程がありますね」
三発。間髪入れずにグリフジーンの腹部に叩き込んだ。
さすがに三発目には対応されたが、二発は確実に体に届いた。
『物理干渉の錬金術は、必ず式ごとに限界が存在する。一撃で壊せなくても』
――打ち続けるっ!
逆の拳を二撃。そのまま膝を同じ場所に。腰の入りが甘いゆえに反動で距離が少し開いた。
だがそれは予定どおり。
遠心力を使った大振りの蹴りが射程に入った。
『そうすれば、必ず壊せる。式は破壊されたら作り直す以外に回復する術はない。だから機能停止される前に必ず壊していくのが大事。新たに式を張り直される前に、先に用意された全部を壊せれば勝利だ』
感触が変わるのを足先に感じ、モモは距離を詰めるように前へと跳んだ。
「……っ!」
「おおおおっ」
回し蹴りの勢いをそのままに、逆足でそのまま後ろ回し蹴り。
布が破れるような音。そのまま、足は止まらない。
そして、グリフジーンへ足が届いた。
鈍い音をたてて、あっけなく子供の体が吹き飛ぶ。
だがモモはその姿に追い討ちをすることもなく、その場にたっていた。
気が付けば頬に涙が伝っているのか、風が頬に冷たかった。
どうして、間に合わなかったのだ。
ここまでしたのに、ここまで来たのに。
「お嬢様……」
答える声はない。
気を抜いたら膝から崩れ落ちそうだった。
未だゴンドラは燃え続け、辺りには煙が広がり始めている。炎に照らされ、風に煽られた黒い煙が異様な形に広がりながら街の上に流されていく。
振り返りたくて仕方なかった。
今すぐリグの元に駆け寄りたい。
だが、視線の先にはゆっくりと立ち上がるグリフジーンの姿が見えている。
人間の体で、一体どうやったら耳長族の渾身の攻撃を受けて生きていられるのだろうか。
それどころか、まったくダメージを受けていない風であった。体に付いた埃をはたきながら、彼はゆっくりとこちらへと歩いてくる。
「入れ知恵だけで、よくもまぁそこまで吼える。面倒臭くなったな、もういいだろう。死んでおけ」
「――っか」
喉に突き刺さる痛み、一瞬視界が真っ白に染まった。喉を押さえ、モモはその場に倒れ込む。
「力で正面から貴様をねじ伏せるのも気分がいいだろうが、俺はここに遊びに来た訳ではないし、ましては暑苦しく殴り合いをするつもりもない。さっさと面倒臭い用事を済ませて一刻も早くあそこへ到達しなければならない」
倒れ込み、何もできないモモに視線すら向けずグリフジーンはリグに向かって歩き出した。
『次に怖いのは、広域毒。たぶん、リグが近くにいたら使わないと思うけど。使われたら、咳き込まないようにその場から逃げ出すか、息を止めてチャンスを待つこと』
鼻水が止まらず、涙もとめどなく流れている。
モモのよく知る催涙系の毒ガスだ。
よく暴漢の制圧に使われるものとそっくりだった。
リグが近くにいるために無害だが、十分に戦力を削ぐことのできるガス。
たしかに普通の人間相手なら効果は絶大だっただろう。
だが対策を知っている相手に準備されては効果は半減する。すでにモモは息を止め、目を瞑り、粘膜からの摂取すらも必死で押さえ込んでいた。
近付いてくる足音が、己を無視してそのまま通り過ぎる。モモは動けず、じっとその場にうずくまったままだ。
「記憶の再構成ならば問題ないだろう。ここで作業をしたいところ、だが……ああ、そういうことか。これはさすがに俺の落ち度だな。まったく失敗し――」
グリフジーンが横に吹き飛んだ。
太い幹を斧で打ち付けるような、鋭く重たい音が響く。冗談みたいに横に吹き飛ぶグリフジーンに振り向きもせず、モモはリグに駆け寄っていた。
「お待たせしましたお嬢様。すぐに、お屋敷へ帰り……え?」
リグの尻の辺りから、尻尾が生えていた。
見覚えのある狐の尻尾。
「えーっと……」
何かのコスプレだろうか。
と、尻に目を奪われている間に今度は頭に狐の耳が生えていた。
これも見覚えのある毛並みだ。
「……ユズ、様?」
「うひひ、ばれたかぁ」
にゅるりと、リグの体が揺れたかと思ったときには、見覚えのあるユズの姿がモモの目の前に現れた。
「え……っと、一体どういう……」
「リグちゃんなら、もうお屋敷に向かってるよぉ。もうすぐ着くんじゃあないかな。正直、グリフジーンが追ってくるのが早すぎてねぇ。あーゴンドラ……、ベルフレアで修理持ってくれないかなぁ」
ぽりぽりと、呑気に頭を掻きながらユズは笑う。
体中の力が今度こそ抜け、溜め込んでいた息が肺から遠慮なくこぼれた。
「驚かさないでくださいよ……」
もうとっくに風で催涙ガスは流れていた。
かすかに残り香はあったが、目や喉を焼くような濃度ではない。軽く咳ばらいをして、モモは佇まいを直した。
■
「ごめんねぇ。グリフジーンから逃れるには、これぐらいしか手がなくて。モモちゃん来てくれなかったら、私蒸発してたかもねぇ。うひひ、助かったよ~」
ユズは立ち上がり、先に立って歩き出す。
「ささ、リグちゃんの家もどろー」
「は、はい。では、急ぎますので。失礼します」
そう言って、モモはユズを持ち上げる。お姫様抱っこのような格好に、ユズが慌てて身をよじった。
「や、あ、の」
「……参ります」
ユズは同時耳元で何かが爆発したかと思った。
実際は、とんでもない速度でモモが走り出しただけだったのだが、あまりの速さに体が吹き飛ばされたと勘違いしてしまったのだ。
「んにゃ……っ!」
風が酷く、体が千切れそうだ。必死で体を丸め込み、モモから落ちないようにとしがみつく。同時、直角にモモが曲がった。
「うひいいい」
今までモモの体が支えだったが、いきなり足の方向に引っ張られる形になって滑り落ちそうになる。もう千切れそうとかよりも、体が落ちそうでさらにモモにしがみつく。
だがすぐに軽い音とともに加速がやんだ。
耳に届く相変わらずの風の音。薄目を開ければ、空を飛んでいた。見下ろしたのはリグの家。
その家の庭に錬金術が大量に張り巡らされているのを見て、ユズは思わず笑ってしまった。
きっと迎え撃つつもりだったのだろう。
あのグリフジーンをだ。
あのおとぎ話に出てくる創造主相手に、モモはメルと共に真正面からやりあうつもりだったというのだ。
「くふっ」
笑った。
グリフジーンを正面から!
「ふははははっ! ひひ」
「ユズさま、暴れないでください」
これが笑わずにいられるか。
バカらしいわけじゃない、むしろ逆だ。最高だ。
諦めのいい保身しかしない管理局のバカどもなんかじゃこんなことできやしない。
やろうともしないだろう。
メルがいる。
毎日母親に一泡吹かせようと、ただ一人子供の癖にクリエイター相手に盾突いたあの子供が帰ってきたのだ。
ユズがもののけたちの記憶でしか知らない、あのメルが帰ってきた。
よく見れば、庭先にリグがいた。
その前には、ずいぶんと縮んだメルの姿とアーセルもいる。
「お嬢様!」
耳元で、モモが叫んで思わずユズは落ちそうになった。
「お嬢様!」
着地と同時に駆け出すモモ。
だが、もうユズをしっかりと支える力はどこかへいってしまった。
「あわわ、おち、落ちるぅぅ」
「あ」
べちゃりと、背後で音がした。体が急に軽くなって、モモが振り返ると床を転がっているユズが見えた。
「申し訳ありません!!」
勢いがありすぎて二人とも止まれない。
ユズは転がって制動どころではないし、モモも止まりたいという気持ちと止まりたくないという気持ちがいったりきたりで、体の動きが迷いすぎていた。結果、
「きゃっ」
あまりにどっちつかずのモモは、そのままくるりと一回転。
べしゃりと、重たい音を立てて床に倒れた。
「まぁ、悪くはないと思うよ。うん」
メルの言葉にリグが返事をするように笑った。
「先輩」
「うん。いい加減リグが私を放してくれたら何もかも完璧なんだけど」
メルの言葉に、リグはわざと両手を強く抱き締めた。
「早く身を隠してくれないかな。さすがに私も余裕がないんだけども」
「だめです。だって、先輩がこんな可愛くなったなんて。もー! 早く言ってくださいよ! すぐにこっちに来たのに! ロケットとか関係ないですから!」
小さいメルを抱き締めて、リグは身悶えするように叫んだ。
抱き締められたメルは、面倒臭そうに大きく息を吐き出してリグのされるがまま揺れる。
「もういいから放してくれ!」
「だめです!」
二人の叫び声が夜空に響く。
相変わらずだが、久しぶりなやり取りにユズはただ口元を引き上げるだけで何も言わない。
モモもまた、二人を見てて静かに己が崩れ落ちるに任せる。
もうなんだか、何もかもバカらしくなった。
だが、これは最後だ。かすかに漂い肌を焼く緊張は、隠し切れない。
誰もが予感している。
これが、最後の静寂なのだと。
評価、ブクマ、いつも励みにさせていただいております。
ありがとうございます。




