縮んで伸ばしただけなので
失敗した。
ユズは空を見上げながらそんなことを考えていた。
そもそも街の長さ的に一七番地へは直接降りられないことを思い出すべきであった。二〇番台の街は大きく柱からせり出しており、柱の天辺からは一七番地など、かすかにだって見えやしない。
上手く風に乗って風上の二二番地横を通り過ぎるつもりだったが、風に煽られてそのまま二一番地に引っ掛かってしまった。
それだけならばよかった。衝突の衝撃で気絶し、そのままユズは二一番地を落下、気が付いたら一番地にいた。
たぶん雲の下に落ちたのだろう。雲の下に住んでいるもののけに一番地まで戻されたのだ。
「んー」
伸びをしてみると、柱の天辺から落ちたときよりもずいぶんと体の大きさが戻ってきていることに気が付く。
どれくらい経ったのだろうか。ずっと気絶していたのでさっぱり時間感覚を失いながらも、彼女はふらふらと体を動かしつつ一番地を眺めた。
実際彼女は二週間ほど気絶していた。正確には二一番地で気絶した後、不幸にも子供に蹴り落とされたのだ。それから四番地まで墜落。坂を転がりながら風下街の三番地まで転がり、そこでユズを見つけたもののけが手当てしていたのだが、まったく回復の兆しがなく手当てに飽きて捨てられた。
そんなことを繰り返して一番地まで辿り着いたという次第である。
「せっかくだし、本社に顔出しておくかぁ」
子供ぐらいのサイズになったユズは、人間の姿には戻らず獣の姿で一番地を行く。
相変わらずの湿気と陰気臭さは変わらない。久しぶりの一番地は懐かしい匂いがした。
羽音が低くなってる。そのことに気が付いて、必死で踏ん張り回転数を上げる。だが気を抜けばすぐにでも羽音は低くなり、速度は落ちる。まだ一四番地にも到達していない。急がなければ。
――急がなければリグが危ない。
『お願いがあるの、ファルちゃん』
そう言ってリグは採光窓を開けた。そもそも風を取り入れるためではない窓は少ししか開かず、小さな隙間からは風もほとんど入ってこない。
『先輩に伝えて。私が危ないって』
『へぁ!? 何言ってんの』
『お願い』
『だって、別に危なくないじゃない』
『これから危なくなるの。大ピンチなの』
そう言って、リグは笑った。
今なら交渉の余地があるのだ、リグは言った。ロケットを飛ばすのは、作るのと同じぐらい気を使うし大変な作業なのだと。
自分の有用性はグリフジーンに嫌というほどこの一ヶ月見せてきた、発射の前に私に抜けられるのは避けたがるはず。
だから、今しかないの、と。
リグはファルを窓の隙間へと導くと、
『そしてあなたがこの家を出た瞬間、あの人は気が付く。窓ガラスに意味消失の呪いをかけるぐらい慎重な人だから。だから、この窓を出たら全速力で先輩を呼んできて。私がまだ無事でいられるうちに。お願い』
そう言って、ファルの返事を待たずにリグは隙間からファルを追い出した。
急がなければいけない。
急がなければ、リグが危ない。リグは間違いなくグリフジーンに正面きって反抗する気だ。
彼女がここのところずっとまともに眠れていないことをファルは知っている。
眠そうな顔どころか、目の下にクマすら作らない彼女はさすがというか、一体どういった錬金術を使っているのかと不思議になるほどだった。
だが確実に睡眠不足は彼女の体力を蝕んでいたし、またその睡眠不足の理由が、あの場所にいる限り、グリフジーンがロケットを飛ばすことを諦めない限り、解消されないこともよく分かっていた。
ひと時とはいえ、己の主になっていた人の気持ちが分からなければ妖精ではない。
ほんの少しだけ、意識を取り戻すまでヘイズを待って二人で策を、なんてことも頭をよぎりはしたが、ファルは上を目指すことを選んだ。
それは先程まで自分の主だったリグの願いでもあったし、それに今まで自分と共にいたヘイズが必ず追いついてきてくれると信じていたから。
「絶対間に合わせてみせるから」
人の熱から得られる熱精はかすかではあるが、瞬間的に莫大なエリクシルを得られる。妖精はそもそも、主から長い間離れないからまさにうってつけの熱量ではあった。
だが彼女はもう主を持たない宿無しに戻った。
リグから離れた瞬間、体中にあった熱精を使い一気に体を打ち出す。
ロケットの要領だ。
空になったエリクシルを水精で補充、体からは水精が上げる飛沫が熱精の発する熱で蒸発し雲を引く。
それでもなお、速度は足りなかった。
行くだけでは済まないのだ、メルを連れて帰れなければいけない。
このままでは往復だけで次の日になってしまう。
せめて日が暮れるまでには一七番地へ。赤みが差し始めた陽の光に、水精の飛沫を散らし宿無しの妖精が空を駆け昇る。
■
天井を開け、完成したロケットを見上げているのはみっつの影だ。どの影も小さい。
そんな小さい影が己の四~五倍はあるロケットを無言で見上げていた。
頬は煤や油にこびり付いた埃で真っ黒だったし、よく見れば火傷の跡もある。怪我をして巻いた包帯の上から、油汚れと煤は容赦なく堆積し、汚れた肌との差がなくなり始めていた。
小さな工場は天井を開けるとずいぶんと広くなった。
ロケットを立てても新たに広がった天井までは届かない。
天井はロケットの形に合わせたかのように三本の柱が伸び、上で合わさっている。
三角錐のような飛び出たその形にロケットはぴったりと納まった。最初からそうするようにできていた。
リグが、最初から全部考えていてくれたのだ。
「あんたの娘は、本当大したもんだ」
「あの子は一人で育ったの、誰も何も教えちゃいないわ。私も、夫も、兄たちもあの子には何もあげられてない。むしろ私たちはやめさせるようにいつも必死だったし」
「奥様、そんなことは」
「いいの、分かってるから。あの子はたぶん、生まれたときから完成してたんだわ。できたことなんて、この隻腕で抱き締めてたことだけだもの」
「その程度なら、里帰りなんてしないよ。さ、とりあえず発射台は完成、今までお世話になったここを掃除しようか」
この小さな工場は、そのまま発射台になる設計だった。
床は緩衝材を剥がせば、すぐに街を支える巨大な支柱に行き当たる。
これならばロケットの発射の際の噴射熱にぎりぎり耐え切るだろう。それに、天井からはこれまた街に流れる上水管から引いた管が設置されている。
発射の際はこの管から大量の水が流れ出し、爆音と熱を緩和する仕組みらしい。
天井だと思っていた板を外して現れた本来の天井は、三本の柱が支えている。この柱にはワイヤーが伸びており、ロケットを組み立てるときはもちろん、組み立て終わってからも支えとして役に立った。
「これで、いいのか。私はちゃんとできたかな。リグ」
今は三本の支柱は布で覆われていて空は見えない。
ゆっくりと夕日に近付いてきた赤い日の光が布を赤く染め上げていた。
星は見えない、だが行く場所はもうどれだけ遮られても分かる。
「先輩、本当にあの子たち使わないの? ここまで来て、逆にやっぱりやめとくじゃ私も示しがつかないのだけども……」
「もののけは燃料に使わないってば。私が軽くなった分、電精槽は積み込めるんでしょ? それで十分」
「嘘よ、この程度の重量で積める電精槽じゃ行きの分の燃料にもならないもの。それぐらい私にだって分かる。電精槽はそもそも媒体が入っていて重たいんだから、重量的な意味での発電量なんてたかが知れてるわ」
「大丈夫。上手くやるから。衛星に着いたら衛星のエリクシルももらえるし問題ないってば」
そう、問題なんてない。
三人が掃除を終えたのは完全に陽が傾き、辺りが赤く染まり切った頃だった。
真っ赤に染まる空を見上げ、三人は空を見上げていた。
相変わらず小さいシルエットだったが、三人の影は夕日に長く引き伸ばされている。
「何か聞こえませんでした?」
モモの声にメルが首を傾げる、とくに変わった音は聞こえない。
街中の喧騒、誰かが誰かを呼ぶ声、扉が勢いよく閉まる音、いつもどおりの街の音だ。
――ん? 誰かを呼ぶ声?
「……ル!……メル!!」
声が聞こえる。自分を呼ぶ声だ。小さく甲高い声は、妖精の特徴だ。
「ファル!?」
辺りを見回すと、空に水飛沫のようなものが舞っていた。水精の発する水飛沫だ。
間違いない、ファルだ。
目を凝らせば、風に煽られた妖精の小さな影が見える。もうほとんど翅は動いておらず、風に煽られながらそれでもこちらに向かって飛んでいた。
「あら、ファルちゃん?……凄い久しぶりね」
ファルの状況が飲み込めていないアーセルが呑気な声を上げている。
今日だけは完成パーティーをつまみに酒を飲もうと、そんな予定を勝手に立てていたが、ほぼ確実になしになるだろう。
そんなことを考えながら、メルは空に向かって手を伸ばした。
■
ぼろぼろの姿で、それでも無理矢理メルを引っ張って一番地へ行こうとするファルを何とか家に押し込め、ようやく一息ついた三人は、ファルの言う要領の得ない話を理解しようと必死に頭を捻っていた。
「つまり、グリフジーンにリグが殺されると?」
「そうだよ! 早く助けに行ってあげてよ! こんなことしている場合じゃないんだって!」
「落ち着けって。それはないから」
「はぁ!? 何を根拠に! リグちゃんは柱を守るためにグリフジーンと戦うって言ったのよ?」
「だからあいつにはリグを殺す意味がないんだって。記憶を壊すことはできても、記憶を残して言いなりの人形に変える錬金術は、今すでにグリフジーンは実行中だ。リグにまで使えない」
「どうして使えないって言い切れるのさ!」
「使えるなら、もうとっくにリグはグリフジーンに乗っ取られてるから。ほかの理由としても、たとえば好きなときに好きに使えるものではない可能性とか。だからどっちにせよ、今すぐ危ない訳じゃないってこと」
「だからってリグちゃんが危険なのに変わりはないでしょ」
「リグはあいつにとって、有用な人間のはずだ。殺さず幽閉して言うことを聞かせるのが一番。こういう場合、言うことを聞かせる方法なんて昔からひとつしかない」
「脅す?」
「そうだね、そうなるだろう。さて、リグに効く脅しは、いや、リグじゃなくても一番簡単で効果的な脅しは何だろう?」
「お前を殺すー、でしょ?」
モモが持っていたタオルで顔を拭きながらメルは首を振る。
真っ黒な汚れがタオルに付くが構わずにゴシゴシと顔を拭くと、タオルが真っ黒になった。
それを見て顔をしかめながら、メルは話を続ける。
「違う、本人に価値があってそれを本人が自覚してる場合、その脅しはまったく意味がない。腕ひとつだって傷付ける訳にはいかないだろう。時間をかけていいのなら痛め付け方はあるけどね。でもあいつは急いでいたんだろう? だから一番早く簡単な方法を選ぶはず」
「家族を殺す?」
「そういうこと。そしてグリーフベルア家であいつがすぐに場所を特定できて警備の薄い相手は誰でしょう?」
「……アーセル」
呼ばれて、アーセルは嬉しそうにファルに向かって手を振った。
「お久しぶり。何年ぶりかしらねファルちゃん」
「あ、うん。お久しぶり。って違う!」
テーブルの上でファルが地団駄を踏むが、大して音も立たず、何だかおもちゃのようにしか見えなかった。
「さて、感動の再開でもしてなよ。私は、モモと風呂に入ってくるから」
「はぁ!? メル! あんた今がどういう状況か!」
「分かってるよ。だからこそモモと裸と裸の付き合いをしておこうと思って。いいだろう、アーセル?」
メルの言葉にアーセルは無言で頷く。
「ちょっと!」
「モモ、いってらっしゃい。先輩ちっちゃいからって、気を付けなきゃだめよ☆」
「あー! もう! あんたら、真面目にやんなさいよ!!」
■
叫び疲れたファルがようやく静かになるのを見計らって、アーセルは温かいミルクをコップと小皿に入れて持ってきた。
「ありがと……」
「あなたが急いで来てくれて、本当に助かったわ。ありがとうね、ファル。私の娘のために」
「だったら、急いで助けに行ってあげなさいよ……」
「グリフジーンは来るわ。たぶん今晩にでもリズを連れてこの家に来る。私を殺すためにね」
「はぁ? だったら何でアーセルはまったく焦ってないのよ。ていうか、あんたらみんな何か変だよ!」
「私を殺すのは脅しとしてでしょ。本当にリズの前で殺すのは、たぶんモモか先輩でしょうね。その後、私を捕まえて、殺されたくなかったら、というのが流れかしら。ま、私ならもっとうまくやるけど。まぁ、人を数字で数えられない人間は、この程度が関の山じゃないかしら」
アーセルのまったく目の笑っていない笑い方を久しぶりに見て、ファルは顔を引きつらせる。
「アーセルならどうするのさ」
「私なら最初に、一八番地を落とすわね。リズ相手には派手な方がインパクトあるでしょ。次は一七番地だ~、とか? あとは血縁、友人関係を軒並み拘束して、遅効性の毒を飲ませて、解毒薬との交換条件として手伝わせるとかかしら。解毒といっても、一時的に毒の進行を止めるだけの薬だったら素敵ね。人質が死ぬまでこき使えるもの」
うふふ、と上品に笑ったアーセルに、ファルはドン引きし何も言えない。
「あとはね、こんなのとか……」
そう言って、アーセルはファルに耳打ちをする。どんどんファルの顔色は青くなっていく。
「……あんた悪魔だわ」
そして、それでようやくそれだけ呟いた。
「あら、リズ相手だから精神的なダメージは最小限で考えているんだけど。開き直られたら終わりだもの。そしてそれは、たぶん相手も同じ」
「……分かったわよ。とにかく、グリフジーンがリグちゃんを連れてこっちに来るから、それまでに対策を取れるだけ取ると、そういうことなのね? それにしたってあんたらみんな呑気に見えるのは何でさ」
「ふふ。だってグリフジーンがわざわざ連れてきてくれるんですもの、私の娘。手間が省けて助かるわ~」
「もしかしてあんたら最初から」
「ええ、そうよ。最初から私たちはリズを取り返すつもりだったもの。何も変わらないわ。ちょっと手間が省けただけ。それだけよ。用意は万端とまではいかないけどね。今、先輩はきっとモモに錬金術埋め込んでる最中だろうし」
「……あー、それでお風呂に。というか、そういえばメル、何か縮んでなかった?」
「あら、今さら? よっぽど焦ってたのね」
■
耳長族は、肌が綺麗である。彼らの肌は紫外線などの刺激に対して人間の数十倍以上の耐性があるからだ。別に彼らの肌が常に回復しているという訳だけではない。なので、やはり長い時間動作などによって刻まれる皺などからは逃れることはできない。そもそも見た目で年齢の分かりづらい耳長族である、目尻の皺などからしか見た目で年齢を知る術はないといっていい。
「ずるいです」
ちっちゃくなったメルを前に抱き、モモは不貞腐れたように呟く。
メルは小さくなっただけではなく、皺もなくなっていたのだ。まさに正真正銘の若返りだった。
「モモだって十分若いじゃない。ていうか、私たちからしたら子供だし」
「そんな私より若返ってるメル様はどうなんです」
シャンプーハットを着けてぐりぐりとメルの頭を洗いながら、モモは隙あらばメルの頬や腹などを触ってくる。
「最初に皮膚表面とか骨から材料に使ったから、皮膚の再構成のときに余剰ができなかっただけだって。若くなったわけじゃないってば、ただ物理的に小さくなった分、皺もないし弛みもないにゃあああああああ」
メルの脇腹を指で撫でながら、モモは不満そうに口を尖らせる。彼女の両足に挟まれたメルは身をよじるが逃げ出せず、なすがまま悶えることしかできなかった。
「やめ、やめめ」
「いいなぁ。私も若返りたいです」
「あんた、んがっ、若返りたいとかああぁぁぁ、人間全員ひぃっ、敵に回すんにゃあああ、やめて! 脇やめて!」
「メル様は、すでに人間と耳長族を敵に回してます」
「やめ、やめぇぇぇ、んははっ、うひぃぃぃ」
■
笑い声と、バタバタと暴れる音が遠くから響いてくる。
「あれ、アーセルの言うとおりになれば、あなたを守ってくれる最後の砦じゃないの」
「……大丈夫よ、……たぶん」
さすがのアーセルも口元が引きつってるのをみて、ファルはため息をつく。
本当に何とかなるのだろうか。窓の外はもう暗く、太陽が沈んだ先にかすかに名残を残すのみだ。
風は相変わらず吹き続け、窓を揺らしていた。




