小さくて白い決意
別に柱が雲海を進む列車の上に乗っている脆弱な存在だとして、――だからといって何も変わるわけではない。
相も変わらず雲は風上から風下へ流れていくし、風はいつものように止まらずに吹き続ける。
雲海にぽつりと突き立つ柱の存在もいつものように何も変わらずだ。
「そういえばさ、前に停電したときに風止まったことあったよね。つまりあれって、電車ごと止まったってこと?」
「巨大風車の発電力がこの柱のほとんどの電力供給をしてるって言ってたから、たぶんそう。私たちの電気の使用量が増えて電車が走れなくなったのね」
「なるほどねぇ。でもよくもう一度走り出したね」
真っ暗闇にも慣れてきたのか、おぼろげに部屋の輪郭がリグの目にも見えるようになってきた。
額の上でファルが眠そうな目をしながら船を漕いでいる。布団で寝ればいいのにと言ったが、妖精は主を決めたらその主の頭の上が寝床なのだと言って聞かなかった。
「安全装置でもあったんじゃないかな? 私たちの風車の発電力じゃ、結局この柱の足しになんかなってないってのは、ちょっとショックかも」
「私は、柱が動いてる方がショックだわ」
「停電がよく起きてた頃あったじゃない。あのとき、対策として風車をたくさん新しく建てる注文があったんだけど、それも管理局からの仕事だったじゃないかな」
「ん? あーー、柱の天辺の修理とかしてた頃?」
「そう、きっとあの手の起電陣の風車は、柱を動かす足しになるのね。管理局は最初からそれを知って設置させてたんだと思う」
「そうなの? だって発電量大体一緒じゃない。むしろ機械式の方が安定してるし」
――グリフジーンにでも聞けば分かるだろうけど。
「結局構造もよく分かってないんだから、分かんないことだらけだけどね」
そうねぇ、と言ってファルは大欠伸をする。
「寝よう。明日も早いし」
「はいはーい。しかし、この生活にも慣れたもんねぇ」
「もう二週間以上経ってるんだし、慣れもするでしょう」
二人は、結局グリフジーンの元でロケットを作る手伝いをさせられていた。
一番地の古い家は、さすがは錬金術師の始祖の工房といったところで、扉はよく分からない広い空間に繋がっている、ひとたび迷えば、どこに出るか分かったものではない。
また錬金術だけあって、リグにはその扉同士の繋がりは滅茶苦茶にしか思えず、覚えるのも一苦労だった。
それに工具類は強化錬金術がかかっていて逆に扱いづらいし、生活に重要な部屋へ行くのにだけ無駄に遠かったりするのだ。
「ね、リグちゃん。そろそろ教えて」
「ん?」
目を瞑り、リグは音を聞く。
「あなた、何しようとしてるの?」
「……」
リグは何も答えない。だが沈黙はすぐに彼女の口によって破られる。
「大丈夫、私はただグリフジーンの手伝いをしてるだけよ。ほかに何もしないし、しようとも考えてない」
「……そう」
「お休み、ファルちゃん」
「うん、お休み」
一番地の夜は静かだ。だからこそ、寝づらい。
自分の吐息が、こんなにも耳につくものだなんて、リグはここに来て初めて知った。
この場所に来てから、彼女はほとんど眠れていなかった。睡眠不足はこの静けさのせいか、でなければ――
目を瞑り体の力を抜く。
眠れなくても、体を休める必要はある。
どれだけ腹に沈めたものが多くて寝苦しくても、やらなくてはいけないことは明白に存在しているのだから。
■
夜空を誰にも邪魔されず見上げられる場所がある。
この柱の一番上、金属樹の生い茂る直径二キロの床。そこに、ぽつぽつと金属樹が生えていない広場のような場所が存在している。
物好きが野営をしたり、犯罪者が警備団から身を潜めるために使われたりと、いろいろと人気の高いスポットである。
今そこに、ふたつの影があった。
月明かりは金属樹に遮られ、彼らの姿は暗闇に輪郭を溶かし、おおよそのシルエット程度しか判然としない。
実際この場所までやってくるには、それなりの装備が必要で最低でも顔を覆える防刃服がなければ、金属樹の葉に体をずたずたに切り裂かれてしまう。
できればゴーグルも欲しいし、足も金属用スパイクか高摩擦素材の靴が欲しいところだ。
だがふたつの影は、そんな装備などしていなかった。
そもそもふたつの影のうちひとつは四角いシルエットである。
そして影は二つのように見えるが、よくよく見ればその二つの影のそばにもう一つ、一人分寝転がっているような影がある。
「すまないね、いろいろと迷惑をかけたかな」
四角ではない、普通の人間のシルエットのが、ぽつりと呟いた。
「進行中」
返すのは当然四角いシルエットの方だ。
「そうだった。そうだったね。君は私のことを許してはくれないだろうが、それでもやはりここまで来て手放すつもりもないんだ。どうか、せめて目一杯怨んでくれ」
「拒否。罰を与える役は、ほかに依頼するべき」
厳しいね。そう言って人が笑った。
「同意。自己嫌悪に沈め」
四角い影は、動かずただゆっくりとした口調で浪々と答えを返す。
「こんなこと、しなくてもよかったのかもしれない。そんなこと、毎日思っているよ。でもね、だめなんだ。目の上のたんこぶ、とは言った物じゃないか。そう思うだろう? 忌々しい……存外頭上に何かあるっていうのは、邪魔なのさ」
金属樹が風に揺れる。
広場に落としていた影が、風に乗って掻き消された。
一人は、老人だ。長い髭と顔に刻み込まれた皺がそれを物語っているが、月明かりに照らされたその肌はどこにも年齢を感じさせる質感はなかった。
髭同様、長い髪の毛に隠れて耳は見えていないが、肌の劣化具合からみて彼は耳長族で間違いなかった。
もうひとつの影は、四角い姿をしていた。
壁牛と呼ばれる、柱に住む動物たちの一族。
四角く角ばった体と、磁力のようなものを蹄に発生させ垂直の壁に住む、牛に似た生物。そして行方不明になっていたヘイズヘルヘブン22番地の支店長。
「私はただ帰って、無事を知らせたい」
「すまないね、いま彼らはゴタゴタしていてね」
「他人事のように言う」
「他人事さ。僕のしたことなんて、君を誘拐したぐらいじゃないか。ゴタゴタしてるのは僕のせいじゃないさ」
風に揺れる己の髭を撫でながら、老人が吐き捨てる。
「心からそう思っていたら、怨むこともやぶさかではない」
「そうだなぁ、そうだよなぁ。あの子が生まれたときから、思いついちゃったんだ。仕方がない。仕方がないって言い訳をしてる僕は誰に罰せられればいいんだろうか」
「最高責任者は己で己を裁けばいい」
「厳しいねぇ。この年でもまだその勇気は持てないな。人間ならきっとできるのだろうね。僕たち耳長族は、長い人生をどうしても思ってしまうから。それにどうやら僕たちは自傷行為というものがなかなかできないように初めから作られているみたいなんだよ。種族別の自殺者数を知ってるかい? 耳長族は過去一人だっていないさ」
壁牛は答えず、老人の呟きは吹き続ける風に流れて散らされる。
「メイルが生まれたとき、何もかもが繋がったんだ。過去から残された忌々しい空の本。馬鹿げた絵本。この柱の構造。柱の真上から離れない星。本来見つけられないであろう彼を見つけられたのは、ほかでもないメイリードのお陰だ。その功績だけで彼女は罪をすべて許されてもおかしくないんだけどね」
「語れば軽くなるのか?」
「ははは。そうだね、そんなことはないだろうね。でもほら、言い訳ぐらいさせてくれてもいいじゃないか。……クリエイターが永久幽閉だなんて、本来ありえないさ。メイルが生まれて、大風車の羽が一枚落ちて……」
昔を思い懐かしむように、影はゆっくりと空を見上げてそしてため息をつく。
「耳長族は母親の胎内から出たとき、母親の力を使ってエリクシルを大量に吸い込む。まぁ、母親がメイリードだからといって、まさか大風車を支える強化錬金術すら一時的に停止するほど吸い取ったのは前例がなさすぎて、今でも懐疑的なんだけどね」
「自明の理」
「そうだなぁ。彼女だもの。あれは、絶対わざとさ。グリフジーンの痕跡が残ったのも、それのお陰。狙ったんだろうね。バカやってるように見えて抜け目ないから……」
老人は言葉を切ると、ゆっくりと振り返った。
その視線の先、木の幹に寄りかかるように一人の女性が寝息を立てていた。
「まったく……。娘大事さに、平気で無茶をする人だ」
「母親だ」
壁牛は身動ぎすらせず、ただじっと夜の闇に沈むままだ。
風に任せて尻尾が揺れるが、それもすぐに消えてなくなる動きだ。
「そうだな、母親なんだろうなぁ。お陰でメイルは、私の望むとおりに育ってくれたよ。これで、私たちは解放されるという訳だ。あの星からも、柱の生みの親からも」
「疑問。メイルは、メイルだ」
「彼女は、友のためにグリフジーンに盾突くことを決めたようだよ。黙って娘が死ぬのを見逃す人じゃあない。さらに、いくらグリフジーンとはいえ、器の肉体はあの子供だ。小さな体ではろくに動けまい」
「反吐が出る」
「僕も僕に愛想が尽きたさ。とうの昔にね。そうだね、錬金術が使える人間を殺して回ったときからかな。僕の友人も死んだ。管理者の一人だった人間の長ですら殺した。僕が殺したのさ。グリフジーンがニノ君を選ばざるを得ない状況を作り出すためだけにね!」
老人とは思えないほどの、怒気と怨嗟のこもった叫びだった。だが、金属樹も、壁牛も、寝息を立てるメイリードも反応はしない。
「もう後には引けないんだよ。もしも、ここでやめてしまったら、僕は僕からも許してもらえない」
「自分に酔いすぎ」
「そうかもしれないね。少なくとも楽しくはあるよ。でもそもそも、誰が最初にこんなことをしようとし始めたのかも覚えてないのさ。誰が言い出したんだっけかな、まぁいいか」
老人は笑う。引きつった、痙攣のような笑い声だった。
「たとえどんなことになったって、この柱は守ってみせる。あの星が落ちたら、僕も一緒に落ちよう。だがそれまでは立ち止まるつもりも、手放すつもりもないんだ」
すまないね。そう言って、老人は空を見上げた。
それはまったく欠片もすまなそうな語調を含まない、平坦な言葉だった。
「ミサイル、飛ぶといいなぁ。あの星を打ち落とすミサイルさ。この世界の天辺に陣取った神様気取りを打ち壊す、絶対的な破壊の塊だ。そしてこの世界の救いだ」
「行きなさい」
壁牛の呟きに、老人が視線を彷徨わせる。
「……誰か、いたのかい?」
見回しても壁牛の姿と、木の根元で影と一体化しかかっているメイリードの姿しか見えない。
「己を許さないなら、いつか贖罪の機会は巡ってくる」
「へぇ? んー、まぁいいっか。耳長族はみんな、自分に一番優しいからねぇ。仕方がないんだ、僕だけは最初から僕のことを許してしまっているんだ。何もかも、仕方がない、ってね」
「耳長族は、やはりここに留まるべきではない」
「種族差別とは君らしくもないね。僕の真似かい?」
「そういう主旨ではない」
「じゃあどういう意味さ。僕らはどこに行けばいいんだ?」
「哀れ。俯き地を這う貴様には理解できない」
「……そうかい。じゃぁ深い意味は考えないようにしておくよ。僕の、最近増えた新しい友人の忠告だ、心に留めておこう。しかしそうなると、僕らはどこに行けばいいのかな。どこかに行く場所はあるのかな」
老人は寂しそうに辺りを見回す。
「おや、お早いお目覚めだ」
木の根元で寝ていたはずのメイリードの姿はなくなっていた。音も気配もなく、忽然とその姿は消え、何も残ってはいない。きっとそこにいた熱すらないだろう。
まるで最初からそこにいなかったかのように何も残ってはいない。
「ゆっくりしていけばいいのにね。しかし、彼女は何も変わっていないね。まぁ時間回廊にいたんだ、彼女の時間は動いてないんだから当たり前か。一人で未来に来た気分だけでも、聞いておけばよかったかな。この世界の最初のタイムトラベラーにさ」
壁牛は何も答えない。
目を伏せ。耳も伏せ、老人の声など届かないとばかりにただじっとしている。
「さぁ、僕らもそろそろ帰ろうか。これからお祭り騒ぎだ。何もかも終わったら、彼女はどこかへ行くのかな」
「メイルは帰ってくる」
「あの煙の代名詞が帰ってくるわけないじゃないか」
「ここが一番上。貴様には理解できない」
「ここが一番上なもんか。あの星は、じゃあ一体何だってんだい。ま、それもどうでもいいさ。帰ってくるならそれもいいんじゃないかな。あの星さえ落ちてしまえばそれでいいんだ。静止衛星軌道に張り付いた染みみたいなもんさ。あれさえなくなれば何だっていい」
夜は更け、月はゆっくりと傾き続ける。
彼らを照らす光もまた、ゆっくりと少なくなっていく。青白く夜空の光を跳ね返す雲海だけが、この柱と外を切り分ける色だった。
青白く、熱の感じない月明かり。世界は青く染まる。
■
青い月が昇っているのを、街と街の隙間から見た。
夜空は狭く、耳に届く風の音は息苦しい。
そこで、ふと自分の耳はどこに行ったのかと手を伸ばした。ふさふさの狐の耳。自分が自分である証拠。
ユズは夜空を落ちていた。何の支えも錬金術もなく、ただただ落ちていた。
彼女は何も言わず、柱の天辺から落下していた。彼女が溜めていたエリクシルはほとんど絞り尽くされていて、もう彼女を彼女足らしめる塊は、大人の拳ふたつ分ほどしかない。
人の形も取れなくなり、獣耳の付いた白い塊に成り下がっていた。
そんな白い塊が夜空を落ちていく。
彼女は、ひとつだけ安堵していた。
それは、今の状況が何もかも仕組まれたことではない。己が生きていることでもない。支店長が元気であったことでもない。ただひとつ、
――メイルはまだ空を望む!!
ここ数週間、己の体の回復に必死になっている間、手に入るもののけたちからの情報はあまりにも絶望的だった。
メルはグリフジーンによって呪いを解かれ、もう空を望まないと分かった。
そしてそんなメルを助けるためにグリフジーンの助手になったリグに至っては、一番地でロケットを作っている。あのとき、ニノを縛り付けてでもどうにかするべきだったと死ぬほど後悔した。
そして、メイリードはメルとモモに大怪我を負わせたらしい。
何とかすんでのところで二人とも生きてはいたらしいが、その後アーセルと大喧嘩をしているのをもののけが見ている。きっと原因は自分だとユズは考える。
アーセルにメイリードを解放する錬金術を作るように頼んだのは、ほかならぬ自分だからだ。自分が産みの親に会いたいと、子供のような願いを叶えるためにこれほどまでに迷惑をかけてしまった。
そして何より、もうメルは空を見上げなくなってしまった。そう思っていた。
彼女を空に連れていくと息巻いていたリグは目的をなくしてしまったのだろう。そして、罪を償うためにロケットを飛ばすときの燃料になろうと考えていたユズもまた、己の行き場を失った。
もう二度と許されはしない。
許されるはずのないことをした。
償うことすら許されないことをしたのだ。
もし何か償いをさせてもらえるなら――
何だってしよう。そんなことを考えながら、ユズは人が来ない柱の天辺で身を潜め、回復を待っていた。
そこになぜか分からないが、耳長の老人と一緒に支店長がやってきたのだ。
――まだ、メルは空を望む!
それだけで十分だった。
たとえこれが何もかも仕組まれたことでも、自分が誰かの思いどおりに動いていても、そんなことは関係ない。
自分のしたいことがあるのだ。
メルのためにユズができることだ。
「ヒヒヒヒ」
小さい体で、精一杯笑う。
この体は、まだ使える。
そう思っただけで、笑いがこみ上げてきてしまう。
メルはまだリグの家にいるはずだ。
さぁ急ごう。急いで謝りに行こう。
そして、己を差し出して許してもらおう。もう思い残すことはない。
やりたいことはやった。ユズは笑う。
小さな、小さな体で夜空を落下しながら笑っていた。
評価、ブクマ、いつも励みにさせていただいております。
ありがとうございます。




