贖罪
モモは焼け付く熱気の中で必死に音を聞いていた。
鼻に届く臭いは、どうしても頭が理解したくないらしく、考えようとするたびによく分からなくなる。
目もまた、白い炎を直視した所為でまったく見えていなかった。
代わりのように耳がはっきりと音と距離を教えてくれている。遠くの喧騒が手に取るように分かる。
だが、それでも聞こえない。
――ない。
聞こえない。
聞きたい音だけがモモの耳に届かない。聞きたくない音はいくらで耳に届いているのに。
重たい体を動かす微かな音。
関節のいくつかに不備があるのか、そうでなければ他の人とそもそも構造が違うのか、不吉な軋みを伴った音。すぐにそれが誰の体から出る音か分かった。
――メイリード。
体が震えている。未だ残る灼熱の残滓が肌を焼いている。
逃げないといけないと、体が言っている。
床を踏む重たい音。
耳だけしか外を知ることができないというのに、たしかにメイリードがいることが分かる。そして、彼女は間違いなく今こちらに向かっている。
歯の根が合わない。
ガチガチと無様な音が体中に響く。
それでも耳は世界を知ろうと必死に音を拾い続けている。閉じられない口から漏れる呼吸音、まるで大人数が歩き回る足音に似た心音、だがやはり聞きたい音が聞こえないのだ。
それは困る。
本能に逆らってでも立ち上がる必要があった。
これでは困るのだ。
嘘だ。逃げ出しそうな体を必死で押さえつける。
こんな終わりでいいはずがない。
手
体中の毛穴という毛穴が開き切った。焼けて何も映さない瞳孔が、それでも何かを見ようと限界まで開いた。
モモの思いも願いも覚悟も何もかも投げ捨てるように、彼女の体は動物のように背後へと飛んでいた。
「っち、やっぱ見えてんのかよ」
そして、追いかけるようにやってきたのは明確な殺意とは裏腹の、嫌に軽い言葉。
崩れ落ちてるモモを掴もうとして空を掴んだ手はそのままに、メイリードは静かに飛び退ったモモを見ていた。
「はっ……はっはっ……はっ」
己の呼吸の煩さすら、もうすでに気にはならない。
体が勝手に反応したおかげで、今自分がどこにいるのかも分からないような飛び方をしてしまった。
相変わらず鼻はおかしいし、目も相変わらず回復しない、呼吸はままならず歯を食いしばることもできず、足は震えている。
到底、戦える状況ではなかった。
それでもモモの心はまったく別のことを考えている。
さっきからずっとだ。あと少し逃げ出すのが遅かったらメイリードに捕まっていたことも、自分が置かれている絶望的な状況も、本能の叫び声も、モモにとってはどうでもよかった。
頭はずっとさっきから何も変わらず、音を聞いていた。
音を聞いて、ずっと探している。
――絶対信じない。
「絶望的状況、ってやつか? ま、運が悪かったと思え。最初からずっと端っこに隠れてたら気が付かなかったかもしれねぇけどよ。もう、おせぇわ。んじゃ、ちょっくら軽く死んでおけ」
体は正直に反応した。
震える足からそんな脚力がどうやって出るのか不思議で仕方がないほどの大跳躍。
前へ。
「は!?」
さすがにこれはメイリードも予測できなかったのか、驚きに反応が鈍る。
そんな彼女の上をモモの体は悠々と飛び越え背後に着地。
さらに間髪を入れずに距離を開けるようにもう一度飛んだ。
まるで動物の動きだった。そもそも、モモは思考などしてはいない。
世界から隔絶された彼女の思考は、ただただ己の目的にのみ研ぎ澄まされていくのみだ。
目も鼻も利かない彼女が唯一残している耳の感覚は、もうすでに彼女が生き抜くためになど動いてはいない。
「メル様……」
いない。
音が聞こえない。
呼吸する音が聞こえないどころか、心音が聞こえない。
どこにいるというのだ。どこに。
聞こえない。
さっきから聞こえるのは、歩くことが煩わしそうな足音。
メイリードの近付いてくる音だけだ。
「やっぱり見えてねぇみたいだな。聴覚強化もかけてないみたいだが、どういう手品だそれ?」
軽い語調と肌を焼くような殺気は何も変わらない。
これ以上逃げても視力が回復する前に捕まえられるのは必然だった。
立ち上がり、せめてもの臨戦態勢を取るしか彼女に道はなかった。
それはたぶん、針の穴ほどの生き残る可能性のある選択。
あまりに死が目の前に転がっていて、まったく現実感がなく心がついてきていない。彼女にできたのは、今まで培ってきた体術にしがみつき恐怖も戸惑いも不安も絶望も嚥下することだけだった。
相変わらず膝が笑っていて、拳もまともに握れてはいない。
それでもモモは立ち上がった。
「錬金術の殺し合いってのは、大抵殺しあう前に決まってるって、聞いたことあるか?」
――何を?
「常識、らしいが。私には通用しねぇ。だが、私以外に通用しねぇやつがいたのは初めて知った」
もう、三度は殺せたはずだ。
それは、脅しでもなければ怒りから出た言葉でもない、至極淡々とした事実を告げるような口調だった。
「あの糞娘相手に準備した式だ、準備が足りねぇって訳じゃない。相性でもねぇ。お前、褒めてやる。だから、ひとついいことを教えてやるよ」
ようやくだが、視界がかすかに戻ってきた。
真っ暗な夜の庭先に、星明かりと街明かりでおぼろげに照らし出されているのはメイリードだ。
「そこに転がってるのが、ほら、そうお前の足元。そろそろ見えてきてるんじゃねぇか? そうだよ、ほらそこ。見えるだろ? 黒いの。そうそれ」
――足元?
言われて視線を下げると、黒い塊が見えた。何だろうと目を凝らしてみるが、何だかよく分からない。何かがあるのはたしかだ。何かが……。
「それは私の娘だったものだ」
辛うじて悲鳴は飲み込んだ。
同時、腹部が爆発したかと錯覚し、耳に届いた風の音に自分がメイリードに腹を殴られたのだと知る。
「がっ……」
痛みに横隔膜が痙攣、かすかに残っていた肺の空気が意思を無視して飛び出る。
血中酸素を手放すまいと、必死で呼吸を整えようとするが、横隔膜の痙攣がそれを許さず浅い呼吸しかできない。
「やーっぱ、なんか頑丈だな。物理防御も、衝撃拡散も、動いてないように見えるんだが……どういう手品だ? 何かあれか? 科学技術なのか?」
腕を軽く振りながら、メイリードがこちらを見ている。
近付いてくるつもりはないようだ。
地面にうずくまってゆっくり視界をめぐらせれば、少し離れた場所に黒い塊が見えた。体中の肌が粟立つ感覚を飲み込み、その塊がたしかにメル一人分に十分たる容積を持っていることを理解する。
モモは理解、してしまった。
「あ……メル……様」
それはだめだ。
許されないことだ。
リグの夢を叶えてくれるはずの人だったのだ。己の主人の夢を叶えてくれる、叶えられる唯一の人だった。
モモの大切な幼馴染を、救ってくれる人だったのに。
「ああ……」
あの星へ届くための。
「そんな」
理解していた。その思いが、リグのためではないことを。
「あ? 何言ってんだ?」
あの星へ届くため――
リグがあの星を見上げるための唯一の手段。
もう一度空を見上げるための。
「これじゃもう……」
リグはまた空を諦めてしまう。
「それじゃぁ、私は」
モモは、あの日からずっと変わらない。リグが空の星にメッセージを飛ばした次の日から。何も変わらない。
空を、高い場所を、怖がるようになってしまったリグ。
「私は許されない!!」
目の前の傍若無人な存在を認めるわけにはいかなかった。
もうこれは、ただの八つ当たりだと理解し、それでもなお体は熱を帯びていく。
「あなたのせいで!」
正面からモモは叫んでいた。悔しさと、己のあまりの矮小さにすべてが許せなかった。この焼け焦げた風の匂いも、何もできずに転がっていた自分も、錬金術も、研鑽し続けた体術も、全部が全部許せなかった。
「ああああああああ!」
全身を使った跳躍は、彼女を前へと飛ばす。
低く前へ飛ぶような軌跡は、一瞬メイリードの視界から外れる。
思わず視線を横に振ったが最後、その数秒でモモはすでにメイリードの懐に入り込んでいた。
さらに前へと踏み込む足。
まるでメイリードを無視したような遠慮のない踏み込み。
バカみたいに軽快な音が響き床が揺れたと同時、メイリードは体に張り巡らせていた衝撃拡散の錬金術が悲鳴を上げるのを聞いた。
「んなっ、アホかっ!」
衝撃拡散障壁は、エリクシルの許容量分、外的衝撃を広げ薄め衝撃を和らげる、いわば緩衝材のようなものだ。
式そのものに限界はない。
だが流せるエリクシルの流量に限界はあり、それによる性能限界が存在する。
メイリードが、体に張っていた衝撃拡散の式は三枚。巨大な風車の羽先にぶつかってもびくともしない計算だ。
だというのに今、目の前で式が悲鳴を上げている。
ギシギシと軋む式の悲鳴に、そのありえない衝撃に、メイリードの顔が引きつる。
「あああああああああああ!」
しかしその一撃はたしかに受け切った。障壁はエリクリスの流量限界に達し一枚焼き切れたが、モモの突進からの拳に耐え切った。
それでも想像以上、強化なしの拳がここまでの威力になる理屈が彼女には理解できなかった。
思わず怯み、そしてまだ二枚残っていることに安堵する。
「あっ……ぶね」
二度目の、床が跳ね上がるような衝撃。密着状態からの第二撃。動きの止まった拳を使った、震脚と腰の回転からの追撃が振り抜かれる。
「んな!!」
また一枚、衝撃拡散の式が焼き切れた。
式の回復を、とメイリードが己の腹に手を伸ばした瞬間。
「っおおおおおおおおおお!」
もう片方の拳がメイリードの腹に突き刺さった。
振り切った体をバネのようにして、切り返しの逆手。
打ち上げるような拳に衝撃を殺し切れず、メイリードの体がとうとう浮いた。
「ごほっ」
咳き込み息が乱れ、錬金術の制御が甘くなった瞬間、紙が破けるような音とともに式が焼き切れる。
まるでパチンコで打ち出された玉のように、メイリードは夜空に吹き飛んだ。
「――っ!」
床に無様に転がるメイリードを確認すると、モモはすぐに踵を返し、先程の黒い塊へと駆け寄る。
「メル様! メル様! 返事してください!」
黒い灰は、触るとたしかにしっかりとした感触があり、メルでなくても何かが焼けた後であることは間違いなかった。
すでに人の形はしていないが、それが逆に気味の悪さより、絶望を増していく。
何度も確認して、そして確認するたびに言い訳ができなくなっていく。
「てめぇええええええ! ぶっ殺す!!」
遠く、立ち上がったメイリードが腕を振り上げて叫んでいるのが見えた。
そこから何ができるというのか。距離にして十m以上。一足飛びに詰められる距離じゃない。モモは無視して、目の前の黒い塊に触れる。
――まだ熱い。
まるでこの場所だけ、熱を保持し続けてるかのように熱かった。
手を伸ばし塊の端の辺りを掴んでみるとボロリと崩れる。炭のように脆い。
手に付いた黒いカーボンを眺めようとした瞬間。
「きゃぁ!」
大質量の何かに体中を潰された。
それが遠隔で起動した質量増加の錬金術だと気が付いた瞬間、さらに倍加した質量が彼女を襲う。
息ができない。
腕が体の下に変な風に入って脇腹が痛む。
目玉が引きずり出されそうな感覚に、思わず目を必死で瞑る。
舌の重みで口が開きそうになる。膝が床に直接当たって痛い。
心拍数が跳ね上がって、体中が破裂しそうだ。
「そのまま潰れろ」
気が付けば、すぐそばまで来ていたメイリードの声。
だが顔を上げることもできない。ぎしぎしと床が軋むほどの重量。無作為に漠然と効果範囲に入っている物すべてに重量増加する、むちゃくちゃな錬金術。
「がっ……はっ!」
体が重量に慣れてきたと思ったときには、さらに重量が増加する。
終わらない、終わらせない、そう言っているようだった。歯を食いしばり、体の下になっていた腕を何とか滑らせるように外す。かすかに開いた瞼の隙間からメイリードが見えた。
「評価してやるよ。さすがベルフレアといったところか。いいもん飼ってやがる。どんな魔法を使ったか知らないが、少なくとも糞餓鬼よりは楽しめたしな」
ま、それも終わりだ。
そう言ってメイリードは腕を振り下ろした。
今までとは比べ物にならない重圧。
すでにこれは圧力といった類のものではなく、延々と続く衝撃のようなものだった。
血圧が質量に負けた。血が偏っていくのが分かる。あ、と思ったときには視界が真っ暗に染まっていくのが分かった。眼球の血管がちぎれる音を聞いた。
そんな中、床に転がったあの黒い塊が潰れていくのが見えた。
――あぁ。
何もかもが終わるのだ、そんなことを思った。
血が偏ってまともな思考すらできない。このまま床と一体化していく己の体は消えてなくなる。ぶつぶつという血管が切れていく音と、床の軋む音だけが断続的にモモの体の中に響いていた。
最後に星を見上げようと必死に眼球を動かすが、結局それは叶わない。
己の贖罪のためだけに望んだ星は、きっと輝くことはない。これは罰だ。
モモは静かに瞼を閉じる。
最後に吐き出した息は、なぜだか嫌に簡単に体から抜け出ていった。
床の軋む音が聞こえる。




