夢夜景
やまぬ風が風車を回し続ける。
土地も資源もないこの世界ではこのやまない風こそが最大の資源だと言ってもいい。
そして風車の修理工といえばこの世界で一番ありふれて一番人気のない業種だった。
生まれてから死ぬまで風車を見続けるこの世界で、仕事まで風車に携わりたいと思う人はまれだ。
無論、風車は回り続けそして壊れ続ける。
新たに生産され、古いものは破棄されそうでないものは直される、修理工に休まる日はない。
日々舞い込んで来る修理の依頼に、どこの修理業者も毎日忙しない。
業務結果報告書に埋まっていく修理の文字。いくら風車が好きだって、これだけの数が並ぶと嫌気だってさす。
実に200機以上、先日の柱の最上部に並んだ風車の一斉点検の結果だった。
その1つ1つが同じ作業ではない、型番を照らし合わせ修理結果をまとめた調書を報告書へ書き写す。そんな作業を朝からずっと繰り返していた。
「……あーもう!」
勢いよく机を叩き、メルは椅子から跳ねるように立ち上がる。
音に驚いたリグがびくっと震えながらメルを見た。
「先輩?」
事務所とガレージは窓一枚で繋がっている。
発電機を収納できるほど大きいガレージの端っこで工具を整備していたリグは、事務所から飛び出したメルを目で追いかけながら何もできずに見送った。
開きっぱなしの扉が、軋みをあげて揺れている。
「あ、油切れた」
走り去ったメルよりも、事務所とガレージを繋ぐ勝手口の蝶つがいが気になるらしい。
リグは、近くにあった油差しを手にとって鼻歌交じりに扉の蝶つがいに近づいていく。
ふと振り返った背後、まだ昼を過ぎたばかりの街はにぎやかでいつもどおり活気にあふれていた。
随分昔からあるその工場兼事務所は、ほんの少しだけ開けた場所にあった。
古びた看板にはこう書かれている。
ヘイズヘルヘブン。
随分と、ご大層でこっぱずかしい名前だが、それが彼女たちの勤めている風車整備会社の名前だ。
看板の端っこには、思い出して付け足したかのように小さい字で『風上街22番地支店』と書かれていた。
柱に巻きついた螺旋状の街には境目がない、境目がないのでこうして数字を割り振って区分けをしている。
一番下の風上街1番地。
次が右回りに風雨街2番地、風下街3番地、そして風砂街4番地となる。
ゆっくりと螺旋を描きながら伸びる街は、そうやって5回ほど回ることで22番地へと到達する。
番地は高さだけではなくて街そのものを特定できる数字なので、番地だけで呼ばれることもある。
会社を飛び出したメルは、手に焼き鳥のような串と酒を持って楽しそうに街を歩いていた。
空を見上げれば、この場所は何も邪魔されることなく青空を見渡せる。
柱に張り付いた上の街は、22番地ほど柱から垂直に離れて発展をしていない。
おかげで柱から離れたこの場所は――いや正確には20番地ぐらいからだが――世界の中心的な街として賑わっていた。
足元の圧縮木材の感触も上々で、所狭しと伸びる風車は、柱に近くなるほど高くなってまるで小高い丘に広がる街のようにも見える。
「ん~、本社に報告するのは今月末だし……急がなくてもいいよね」
昼間から酒を煽る背徳感に口元をほころばせながら、メルは街の中心を走る通路を歩く。
一番広くて重要なこの通路ですら、幅は大人2人が手を広げたぐらいしかない。しかし、十全に広くはないとはいえ誰もがこの通路の重要性を理解しているので、家がいきなりできるなんてことはない。かわりに、ほかの場所はやりたい放題なのだが。
今日通った道が、次の日には誰かの家の玄関になっていたりする。
それどころか、家の上に家は立つわ、通路がなくなるわ、程度は日常茶飯事で、へたしたら今まさに住んでいる家をぶちぬいて通路が作られることもある。
朝起きたらお隣さんが変わっていた、増えていたはざらで、自分の家が移動していたなんてことだってあるのだ。
とにかく適当、道という道はなく、圧縮木材で作られた通路はいつまでそこにあるかなんてわからない。明日には誰かの寝床になっているなんて珍しくもなんともないのだ。
「おや、メルちゃん。サボりかい? かーちゃん元気か?」
屋台を出している耳長族の老人が、メルを見つけて店から顔を出す。
「元気じゃない? もう五〇年ぐらい会ってないけど」
「そうかそうか! よし、これ持ってけ。おら、焼きたてだ」
なんだかよくわからないものをクレープの皮でくるんだ、そんなものを渡される。
子供が好き好んで食べる甘いお菓子だ。
メルも嫌いではないが、酒のつまみにはさすがに合わない。
手にある酒に視線を落として目の前のお菓子と見比べ彼女は首を振った。
「子供じゃないんだ、別にいいよ」
「いいからいいから。持ってけって」
「もう80過ぎだよ。20、30の子供じゃないんだ勘弁してよ、爺さん」
「240の俺からすりゃあ、まだまだしょんべんくせぇガキさ。ほら、持ってけ」
無理やり渡されたクレープのようなものは、焼きたてで暖かく懐かしい匂いがした。
結局渡されたそれを一口かじって、合わせて酒を飲む。
「……うぅむ……」
合わない。
まずくなるほどではないが、特に一緒に口に入れるものでもない。
片方ずつやっつけようと、彼女はあきらめてため息を漏らす。
思ったより酒臭い自分の息に、情けなくなって彼女は肩を落とした。
酔っぱらいがたどり着いたのは、22番地の中でも柱から一番離れた場所だ。
一番大きな街ということは、柱から一番離れた、遠い場所である。
この世界で一番風上の場所だ。
風の生まれる場所、なんていうこっ恥ずかしいコピーで観光客を呼び込んでいるが、こんな場所よりも街の中心のほうが店も娯楽も充実してるので結局ここは一目見てみな帰ってしまう。
そもそもこんな場所長い時間居たいと思う人間は多くなかった。
よく見れば家もほとんどなく、あるのは屋台と土産屋ばかり。
柱から離れるということは、それだけ不安定で崩落の危険もある。結局この場所は、面白観光地のひとつでしかないのだ。
だが、メルはこの場所が好きだった。
ここから見上げた空は、柱のいっとう上から見上げた空と同じで何者にも邪魔されない。眼下には雲海が、頭上には空が、それだけだ。
既に酒を何本も空けたのか、空を見上げる彼女の頬は赤く染まっていた。
酔った肌に風が心地よい。
メルは目を細め、風を全身で受け止める。ふと重力すら感じなくなる感覚。自分が宙に放り出されたような錯覚に、メルは思わず頬をゆるめた。
空はどこまでも広がっていた。青く澄んだ空間を感じて、ようやく彼女は息苦しさから開放される。
ゆっくりと深呼吸、体中が透明になったようだ。
誰にも邪魔されない空のてっぺんにいる自分を意識する。
体はどんどんと加速していき、空は次第に青さを忘れ暗くなりはじめる。
空気が薄くなり、太陽の光は反射するものがなくなって、そのまま素通りしていく。
代わりに自分にだけは光が当たっていていやに陰影がはっきりしていた。そこは誰よりも、どこよりも高い空。世界でいっとう高い場所だ。
――日が落ちたのか。
瞼に当たる日の光はいつのまにかに、やわらかくそして弱くなっていた。
寝ていたのだということを告げる重苦しい頭痛と力の入らない体。
呼吸が熱く、体が寝ぼけている。二、三度瞬きをして、ようやく目の前に何かがあるのだと気が付いた。それが影を落として暗くなっていただけらしい。
その証拠に、隙間から見える空は明るかった。
寝ぼけた頭は、そこまで理解するのに五秒以上をかけた。
「先輩、せんぱい」
体中から凝り固まった重い血が流れ切るまで、メルはその声の主が誰だかわからなかった。
ふと昔会社を辞めた後輩のことを思い出したりもする。むろん彼女がここには居ないことをメルは知っているし、理解もしている。ほかにも昔の同僚や、昔馴染みの友人などを思い出すが全部が違う。違うことだけはわかる。
焦点の合わない視界に、影が広がっている。
よく見えないので、目を凝らしてみるが、随分ソレは近くにあるらしく、なかなか焦点が合わなかった。
「先輩ってば」
「んが」
メルは、自分が気が付いている事を教えたくてなんとかしようとしたが、出たのはよく判らない呼吸だけだった。
まだ寝ぼけているらしい。
「また昼間からお酒飲んで」
なんだか聞きなれた声に、ようやく目の前の顔がリグだと気がつく。
「んにゃ」
「先輩、風邪引きますよ。ほら、帰りましょう」
そう言ってメルの視界からリグが消えた。彼女はため息とともに文句を吐き出して無言、よしとひとつ頷くと床に寝そべっているメルを引っ張りだした。
驚いたメルは、眼を白黒させるが、酔っ払っていてよく判っていないらしくされるがまま引きずられていく。
■
リグはメルを引きずって歩いていた。
彼女の体格で小さいメルを引きずっているとなんだか犯罪臭もするが、メルが傍から見てもわかるほど酔っ払っているので大丈夫だろう。
いや大丈夫じゃないかもしれない。だがまぁ、どうとでもなる。
見上げた先、夕日に染まる赤い柱が見えた。
柱の反射率は高く、まぶしくて直視していられないほどだ。
「ほら、先輩。真っ赤な柱。すごいですねぇ」
「ん~うひひひ」
完全に出来上がってる酔っぱらいが返事をする。
「先輩、飲みすぎですよ」
耳長をここまで酔わせた酒の量を想像し、リグはそれだけで酔えそうだった。
振り返れば雲海が赤く空も赤く、そして振り仰げば柱が赤い。すべてが赤く染まっていた。
視界の端にまぶしさを感じて、リグは顔を上げる。
「あ」
先日柱のてっぺんで見つけたあの星がまた出ていた。
とても明るい星で、昼でさえ見えそうな星だった。
事実いま日が落ちていない空でも十分にそれが見える。
メルに伝えようと思うが、むにゃむにゃと彼女はよくわからないことをつぶやきながら眠たそうな目をゆらゆらと揺らしていた。
それが少し面白かったので、このままにしようとリグは声をかけるのをやめて笑う。
笑い声に気を良くしたのか、メルもつられて笑い出した。
■
くるくると回る世界に、くるくると回る風車がはえている。
にょきにょき伸び続ける柱に、必死で追いつけとぐるぐる巻きつく街。
がたごと電車が揺れていて、それがなんだかふわふわと気持がいい。
ひっきりなしに吹いている風が辺りにぶつかっては文句を言うようにうめいていた。
それをたしなめるように、風車の羽が風を切り裂く。
微かに震える羽の音が、重なり合わさって耳に届く低い音になる。
音が聞こえている。
メルはいつだってにぎやかなこの街が好きだった。だけど今日は何かが引きずられる音がして気になった。
なんだろうと目を開ける。
それでようやく、自分が引きずられていることに気が付いた。
アルコールで身体感覚が麻痺していてわからなかったのだ。
振り仰げば、見慣れたリグの背中。背筋がぴんと伸びていて、足音を立てないで歩く上品な歩き方なのも相変わらずだった。自分を引きずっていたり、ツナギなんか着ていたりしていなければ、育ちのいいお嬢のようにだって見えるかもしれない。
――そういえば、リグの生まれなんて知らないなぁ。
そんなことを思いながら、メルは引きずられるままアルコールで鈍った頭でくるくる笑う。
空は真っ赤で、もうすぐ夜がやってくる。肌に当たる風が優しく首筋をなぞった。
「うひひひ」
「もー、先輩ったら」
空の向こう、あるはずのない場所に、星を見た気がした。
それが、随分と綺麗で思わず手を伸ばした。
手で隠れた空の向こう、きっと星は手のひらに収まったに違いない。