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風車のある風景  作者: 神奈
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28/46

メイリード

 真っ暗な暗闇の中、肌に風を感じないというのに耳にだけはいやに風の音が届いている。

 風洞街。柱の中空構造には、一定間隔で節のようなものが存在し、直径二キロの円空間が広がっている。

 下から節を数えてふたつ目。

 だいたい風下街七番地付近にある風洞街二番地、今そこに数人のもののけたちが降り立っていた。

 本来の入り口である風下街七番地の扉は管理局が封鎖しているが、彼らはその上にあるすでに廃棄された街である九番地から侵入したのだ。

 当然床の高さは合っておらず、飛び降りる形にはなったが彼らにとってそれはさほど問題にはならないハードルだった。

「しっかし真っ暗だねぇ」

 彼女らの持っている明かりでは、この空間を照らし切ることはできない。

 だが、それでも彼女の後ろに並ぶ五〇人ほどのもののけたちを照らし出すには十分な光量がある。

 そしてその集団の前に、唯一といっていい構造物が鎮座していた。

「光当てても真っ黒なんだねぇ。時間が停滞してるからぁ? よくわかんないけど」

「よく見ると浮いてない? これ」

 ユズのすぐ横にいたタイヤのようなもののけが、ころころ転がりながら黒い塊に近付いて呟いた。

 言われてよく見れば、たしかに接触しておらず、かすかに浮いている。

「あ、触ると体持ってかれるよぉ~。ここに運び込むときに、管理錬金術師が何人か大怪我したって言ってたし」

「うわっ! そういうのは早く言ってよ! いつも大事なこと言わないよねユズは!」

「えぇ~、今そういうこと言うのぉ~?」

 いやまったくそのとおりだ、という背後の肯定を無視してユズはポケットからペンのようなものを取り出した。

「早く終わらしてくれよ、俺ぁ眠いわ」

「だったら帰ればいいのに」

「馬鹿言うなよ、一応とはいえ王と王の親のご対面だぜぇ、見逃す手はないだろうよ」

「一応って何よぉ……、ちゃんと仕事はしてるじゃない。ただ一番若いってだけなんだから、そんな期待されても無理ってもんだよぉ」

 王らしさなど別に関係なくただ新しい、それだけの肩書きとしての王に笑いが出る。

「まぁ~、確かに焦らしても誰も喜ばないし、さっさとやっちゃいますかぁ。……よっと」

 ペンのような装置の蓋を取る。中に入っているのはリグの母親であるアーセルから受け取った錬金術を殺す錬金術。

「間違えるなよ、ユズ」

「そうだぜぇ、俺たちはたしかに望んでベルフレアに行くけどよぉ、だからといって無駄遣いされていい訳はねぇんだ。そこんとこ頼むぜ」

「わかってるよぉ……わかってる」

 蓋の開いた細い筒の中から、かすかに泡立つ音。アーセルの言っていた言葉を思い出す。

 ――放っておけば自分を消す、だっけ。

 抑制装置があっても使用可能な期間は短く、外せばすぐにでも己を消してなくなる錬金術。

「んじゃ、いくよぉ」

 振りかぶり、そして一瞬だけメルのことを思い出す。

 友人二人を犠牲にして作り上げた時間回廊を消してしまったら、彼女はどう思うだろうか。

 自分の人生を狂わせたこの結界を壊して喜ぶだろうか。

 閉じ込められた母親を救い出して感謝するだろうか。

 ――そんなわけ

「ないじゃん!!」

 手は止まらない。

 ケースから残らず飛び出した液体は、飛沫となって目の前にある黒い構造物に余さずかかった。

 ――もう、本当に。後戻りなんてできない。

 何もかも遅かった。タイミングが悪かった。

 どんな錬金術も壊す錬金術の存在を知らなければ。

 ニノが記憶を掘り出さなければ。ニノがヘイズにやってこなければ。

 支店長がいなくならなければ。メルたちがロケットを作らなければ。メルが空を望まなければ。

 ――こんなことにはならなかったのにねぇ……

「なんか本当に――」


 仕組まれたみたいじゃん、これ。



 静かに、だが確かに風が動くのを感じた。

 五〇人近くいるもののけの誰もが身じろぎひとつしなかった。誰もが緊張して動けないでいた。

 これは、彼ら全員の悲願でもあるのだ。新たなもののけを作り出してくれる可能性のあるクリエイターの存在。

 だからもののけの誰もが反対しなかった。たとえ、それが歴代クリエイターの中で一番好戦的で傍若無人で常識なんてものがかけらもない耳長族であろうとも、だ。

 人間たちがそれを許さないであろうことも、わかった上で、彼らは王に従った。

 自分の親に会いたい。

 もしも叶えられるのなら、叶えてやりたい。

 それはきっと彼らの、いやユズのための――

「メイルゥゥゥゥゥゥゥ!」

 大絶叫が響いた。

「……お。お? 何だぁ? 回廊結界がなくなったのか? はん、結局失敗作かよ、使えねぇ」

「お……」

 暗闇の中、なお暗い黒髪が風もないのに揺れていた。

 凄惨を通り越した、他人に絶望しか抱かせない笑みを貼り付けて、メイリードはゆっくりと辺りを見回す。

「錬金術を喰う呪い、か。小賢しいものを作るな。お前が作ったのか? んなわけねぇか、だがこの私を知ってて解放したんだろう?」

「お、お母さん……」

「あん? あぁもののけか。おい、どれぐらい経った? あのくそ餓鬼が私を閉じ込めてからどんだけ経ったんだ」

「四〇年ぐらい、かなぁ」

「メイルはどうしている?」

「え」

「メイルジーンだ、私を封印した耳長族がいただろう?」

 そろそろ伝説になってるだろう? そんなことを言いながらメイリードは笑っている。

「教えたら、メイルが殺されちゃうし……」

「はぁ? 殺さねぇよ。ちょっとばかしぶちのめすだけだ。知ってんなら教えろ。もののけなら、思い出せるだろうが」

「お母さんでも、教え……られないなぁ」

 自分のわがままでやったことだ。ユズはせめて、メルのことを巻き込みたくはなかった。

 じわりと広がる圧迫感が、よくいう殺気というものだと理解したときには、もう遅かった。

「じゃぁ、お前は消えてなくなれ」

 ユズへ伸びた腕が、一瞬にして彼女の体に突き刺さる。ずぶりとユズに潜り込んだ腕が遠慮なしに動いた。

 じっとこちらを見据える目に、ユズは息を呑む。

「それと、私を親と呼んでいいのはメイルだけだ」

 錬金術が起動する。

 辺りを漂う電精たちはもちろん、一番近くにいたもののけのエリクシルも吸い取って。

「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!」

 叫び声が風洞街に響いた。


 ■


 体感で数十秒だって経っていない、だというのにすでに世の中は四〇年も経ったという。

 メイリードは到底信じられないとばかりに、軽く頭を振った。

 ある程度の、時代遅れは仕方がないが早いところ面倒は済ませてしまいたい。

 意気込んで、彼女は風洞街を抜けるためにあるき出した。



 だが、実際外に出てみれば何も変わってはいなかった。

「……進歩のねー街だよ、ったく」

 辛気臭いのも相変わらずだ。

 日の光はないが、かすかに街の明かりはある。

 七番地は柱の後ろにあるため風車はあまりないが、それ以外の街の造りはほとんど変わらない。

 足元に倒れている錬金術師を見下ろしながら、メイリードは面倒臭そうに息を吐き出した。

「とりあえず、あの馬鹿餓鬼に会いにいくか……」

 長期に渡る時間の乖離のためなのか、いくばくか体に違和感を覚え彼女は軽く体を動かしてみる。

「ま、どーでもいいこった」

 言葉に応える者は居ない。

 取り残されたのは倒れた管理錬金術師二名と、ぽっかりと口を開けた何十年も開くことのなかった扉の残骸。

 風が吹いている。柱の裏側に巻き込まれ複雑に流れる風が、自由気ままに踊っていた。


 ■


 日が暮れて、夜が来てもメルは目を覚まさなかった。

 主がいない大きな屋敷はほとんどの明かりが落とされていたが、一室だけメルが寝かされている応接間だけは明かりが点いている。

 メルは、いつも寝ている布団より何倍もふかふかなソファの上にいた。

 相変わらずの深い寝息を聞きながら、心配そうに覗き込んでいるのは、この屋敷を一手に引き受けるメイドのモモだ。

「……」

 彼女の顔に浮かぶ心配そうな表情とは裏腹に、メルは心底幸せそうな顔をして寝ている。

「メル様、そろそろ起きてください……」

 揺すってみると、くすぐったかったのかメルは身じろぎして寝返りをうった。

 最初の頃はよく寝ているし、何だかそっとしておいた方がいいのかもと何もせずに見ていたのだが、それもそろそろ限界であった。

「メル様!」

「ん……」

 ぐい、と耳を引っ張ると顔を歪めて悲しそうな顔をする。だが、それでも彼女は目を覚まさない。

 ――お嬢様もどっか行ってしまいましたし……。

 アーセルも昨日から見当たらない。

「メル様……起きてください」

 頬をつついてみたら、今度はニヤニヤと笑い出した。

 あまりに幸せそうで鼻でも摘んでやろうかなどと思ったが、そこまでさすがに失礼なことはできないと手を伸ばして諦める。

 同時、ちょうど背後の方で金属音が響くのを聞く。

 何の音だと疑問に思い、モモは振り返った。

 音の方向からすれば庭、それも門のあるところだ。

 ――また管理局の人でしょうか

 疑問に思い立ち上がる。応接間は採光のための窓が多く、庭が一望できるようになっている。

 すでに日は落ち街の明かりがぽつぽつと見える程度だったが、門の辺りに人影が見える。

 無造作に扉を破り侵入してきた人影はひとつ。いつもは二人だったと不思議に思いながらも、無法者を追い出すためにモモは立ち上がった。


 夜の闇に飲まれてなお黒い髪が揺れている。

 風砂街である一七番地は風上に向かって上り坂になる形で柱から伸びているので、風下街ほどではないにしろ風は乱れやすい。

 まるで生き物のようにその黒髪が揺れていた。

「……申し訳ありません。お客様、本日は家の者がおりませんのでお引き取り願います」

 言葉は尻すぼみになった。目の前のその黒髪の女性は、ただじっとモモのことを見下ろしている。

 それだけだというのに。

 ――なんなの。

 息が詰まりそうだった。だが威圧感はない。殺気だって微塵も感じない。

 彼女はただそこに立っているだけだ。だというのに、息苦しい。

 柱を見上げたときの、あの圧迫感。巨大な物を見上げたときの圧迫感にとても似ていた。

 黒髪のボリュームを除けば、むしろ小柄だといっていいだろう。

 背の小さな髪の長い女性、といった表現がとても合っている。

 そのはずだが、何故かそういった表現がまったく似合わない雰囲気を纏っていた。

 ――まるで、爆弾みたいな。

「いない? いや、いるね。いるだろ?」

 口が裂けるような、獣のようなといった方が合っているだろうか、そんな笑い方だった。

 思わず後ずさってしまい、モモは佇まいを直す。

 圧されてしまえば、なし崩し的に相手の要求を呑むことにもなろう。必死で体を奮い立たせ、モモは胸を張る。

「いえ、主人も奥様も在宅ではありません。ご用件でしたら、また後日お伺いしますので――」

「いるだろう? メイルが」

「!」

 反応してしまった。


 しまったと思ったときにはもう遅い。

 予想外だったが、それでも失態だった。十分に予想できる事態だったのに。

 彼女が応接室から視線を外していない事実からも、メルがいることを確信しているのは間違いなかったのに。

「別に、隠さなくてもわかってる。こいつは、確信ではなくて事実だ。なんせ」

 黒髪の女性の笑みがさらに深くなる。むき出しになった歯が応接室から漏れる光を反射してぬらりと光った。

「私の娘だからな」

 反射的にモモは振り返り、走り出していた。


 目覚めたのは悲痛な叫び声を聞いたからではない。

 叫び声が耳に届く前、メルはソファから飛び降りていた。

 体中に埋め込んである錬金術の式が疼く。思い出すのは、身を置き慣れた恐怖と緊張。

 そして、胃の底が締め付けられるような感覚。

「そんな」

 忘れはしないし、間違えもしない。

「メイリード!」

「メル様!!」

 同時に窓の外から、悲痛なモモの声。

 そしてモモの背後に暗闇に染まってもなお暗い髪が揺れているのが見えた。

 体は面白いように反応した。

 理由も理屈も疑問も何もかも吹き飛ばして、メルは窓を力任せに開けて外へと飛び出す。

 まるであのときの続きを待っていたかのように。

「早く屋敷の中に!」

「メル様!?」

「いいから!」

 疑問も質問も後回しだと叫ぶメルに、モモはしかしその場にピタリと立ち止まった。

 立ち止まり振り返ろうとしているモモの横を抜け、メルは力いっぱい息を吸い込んだ。

 間違いない。メイリードがそこにいる。

 肌が粟立つ。大量に取り込んだ電精が、行き場を求めて体中を駆け巡る感覚。


 重量軽減、摩擦増加、構成強化、重心転移。


 いっぺんに起動した。

 応えるように体に埋め込まれた式が火を噴くような速度で動き出す。

 走る。

 メイリードとの距離は、残り五歩。

 握り込んだ拳の上げる悲鳴を無視。

 冷静な誰かがメルの頭の後ろ辺りで笑う。ずいぶんこなれている、と。そもそも何をしようとしているのか、と。

 いつものように。

 いつもだったあのときのように、まるで変わらずぶれず繰り返す。

 メルができる、全力の拳。

「よう、メイル。ずいぶん育ってんな?」

 大口を開けて笑ったメイリードに向けて、その拳を振り抜いた。

「おおおおぉ!」

 夜空が見えた。

 なんだか、いつもより狭くて近い。

 そんなことを思いながら夜空を、


 見下ろしていた。


「メル様!」

 あ、と思ったときには床に激突。

 背を馬鹿みたいに打って、もう一度跳ね上がった。

 ごろごろと転がってる自分を、どこか別の場所から見下ろしてるような感覚。

 ――なんで、あいつがいるんだ。

 確かに殴り付けたであろう拳の感触を確かめながら、頭の冷静な部分が回り始める。

 時間回廊はどうなった。レイナとユリシーズを犠牲にしてまで作り上げた時間回廊がなぜ外れている。

 そもそも、風洞街に幽閉されていたんじゃなかったのか。

「どうして」

「あぁ? 何だ? よく聞こえねぇぞ」

 あまりに近くから声がして、驚いて顔を上げると目の前にメイリードの顔があった。

「なんで……」

「なんで? あー、あれかあのうっぜぇ時間回廊のことか? ま、私がここにいるっつーことは、壊れたんだろ? あんなチンケな術、すぐ壊れるに決まってるけどなぁ」

 残念だったな。

 目がそう言っている。

「年取ったなぁ、おい。何歳だ? 四〇年ぐらい経ったっつーと、七〇ぐらいか? っぷ、相変わらずチビだけど、肌は老けてやがる。時の流れは残酷だなぁ? おい」

「……あんたは成長の欠片も見られないけどな」

「はぁ!?」

 倒れたメルの体に、容赦ない蹴りが突き刺さる。

「老けたくせに、年上を敬うことすらまだできねぇのか。ほんと救えねぇ……礼儀は教えただろうがよ」

「がっ」

 さらに蹴りが飛ぶ。

 起き上がれないメルに、何度も何度も蹴りが入った。

「まったく失敗作にも程があるだろっ!」

 一際大きく振り上げた足が、メルの腹部へと遠慮も加減もなしに振り抜かれた。

 ボールのように吹き飛んだメルは、二、三度床を跳ねて力なく転がる。

「がっ……ごほっ」

 耳長の体は頑丈だ。これだけの衝撃を受けても、骨のひとつも折れてはいない。

 口から血を吐くどころか、鼻血の一滴すらこぼれてはいなかった。

 だからといって、痛みに鈍い訳ではない。

 腹を蹴られて呼吸が続かず、掴んでいた電精の大半を手放し、起動できなくなった式が静かに停止していく。

「メイリード……」

 無理矢理手を使って体を起こし、メルはメイリードを見据え、そして目を丸くした。

「まだ仕置きは終わってねぇぞ。いいや、これは躾けだ」

 遠隔炎上の式がかすかに揺らめく。本来の錬金術にはありえない、何かを破壊するためだけに組み上げられた式。

 メルが手放した電精が一瞬にして吸い込まれ、メイリードの式を動かしていく。

「ゴミ屑みてぇに燃やしてやる」

 そして、メイリードが今度はゴミのように吹き飛んだ。


 ゆっくりと、まるで木の葉のように舞い降りたのはモモだった。

 メイド服のスカートの裾が面白いように広がって、そして彼女の着地と同時に元に戻る。

 顔面を振り抜く、強烈な回し蹴り。

 錬金術によるものではない、純然とした体術による蹴りは、メイリードの警戒をやすやすとすり抜けた。

 メルが見たのは、モモがメイリードの背後から飛び上がった瞬間からだった。

 驚くほど綺麗に、まるで踊るかのように静かに、だが力強い動きに思わず目を奪われていた。

 純粋に体の動きのみで繰り出された蹴りがメイリードを吹き飛ばすというありえない光景に息ができない。


 あれほど身体強化を施して完全にヒットさせた拳でさえ、少々よろめかせる程度で精一杯だというのに。

「お客様、お引き取り願います。御用は明日、しかるべき手続きを通してお受けいたします」

 静かに、だがしっかりとした言葉は、風の音を押し退けてメルの耳にも届いた。


 ■


 長いスカートで隠し、必死に両手を前で揃え、体を押さえ込んでも、それでもなお震えは止まらなかった。

 歯の根が合わない。

 ガチガチと鳴る音が、どこにも聞こえてなければいいとモモは願う。

「なんだそりゃ? てめぇ、親子の問題に他人が手突っ込んでいいと思ってんのか!」

 吹き飛んだと思っていたメイリードは、空中で体勢を立て直したのか、気が付けば平然とこちらに歩み寄ってきている。

「この庭は、グリーフベルア家の所有する個人資産です。招待されていらっしゃらないお客様に差し上げる礼儀も常識もありません。お引き取りください」

「……て、めぇ」

 蹴られた頭を軽くさすりながら、メイリードが完全にメルからモモへと視線を移した。

「モモ!」

 メルの叫びに、モモは一瞬だけ視線を向ける。

 大丈夫だ。と、自分に言い聞かせるように勢いよく肺に溜まった空気を吐き出す。

 もしも目の前にいるのが有名なクリエイターのメイリード本人だとしたら、下手をしたら殺されるかもしれない。

 だがもしかしたら、時間さえあればメルならば何とかできるのではないだろうか。

 メルが一体どうやってメイリードを封印したかは知らないが、それをできたのは事実として資料に残っている。

 間違いない現実であり過去だ。

「いっぺん死んどけ!」

 言うや否や、一〇歩以上あった距離が一瞬にして縮まる。

 反射的に、背後に力いっぱい飛び退った瞬間だった。

 ごりっ、と嫌な音が体に響いた。

 痛みより衝撃の方が早く伝わるのか。そんなことを考えた瞬間、風景が吹っ飛んだ。

 後ろに飛んだ速度なんか軽く超えた、まったくの不可視な拳が、モモの体を床へと縫い付けていた。

 あ、と思ったときには床が沈む感触を背に感じる。

 同時、肺に残っていた空気が押し出された。

「ひ……」

 食いしばった歯から漏れる悲鳴を他人事のように聞きながら、それでもモモは足を振り上げていた。

 まったく体の重心を無視した、力任せの蹴りは確かにメイリードに届いたが、届いただけだった。

「っは。さっきの手品はもうタネ切れか?」

 腹部にめり込むメイリードの拳。圧縮木材の床はひしゃげ今にも割れそうで、背骨が軋んでいる。

 目を回すほどに痛い。泣き出したくなるぐらい痛い。


 だが、

 

 ――痛いだけです!

 

 呼吸は整わず、体もまともに動かせない。

 それでも両の手は自由だ。手が動くなら、何とでもなる。

 モモは痛みに明滅する視界の中、己の腹に突き立てられているメイリードの腕を掴む。

 右に遠慮なく捻り込むと、拳を握る握力が一瞬緩んだ。

 腕を片手でホールド、緩んだ拳から親指を引き剥がす。その親指をさらに右へ。

「なっ……」

 耳長の体は頑丈だ。だが痛みに強くできている訳ではない。

 それはもちろん人間と比べれば十分に強いのだが、かといって痛みに耐えられるかどうかという点において、人も耳長も同じである。

 痛みによる反応の鈍化は避けられないし、痛みへの反射的な体の動きを制御する方法などない。

 もしも可能にする方法があるとするなら、それは慣れだけだ。

 腕を回され指を掴み上げられたメイリードは、まるで自分からその場に膝をついたかのように崩れ落ちた。

「……ごほっ……。手品ではありません。この家を守るための私の武器です」

 腕を極めながらモモは立ち上がった。

 交代するようにメイリードが床に倒れ伏す。彼女は何をされているのかさっぱり分からないとばかりに目を白黒させてた。

 錬金術がやたらめったら起動しているが、そもそもモモは錬金術など起動していないので、何も起こらない。

 メイリードが無理やりに引き剥がそうとしても、まったく外せる気配はなかった。

 筋肉は骨に繋がっていて初めて動きとして成り立つものだ。

 骨を引っ張り動きとするテコの原理。そこにはもう怪力も反射神経も関係ない。

「なん、だこれはああああああああああ!!」

「お静かにしてください」

 ぐい、と体重をかけ捩じ上げた腕を脇を使ってさらに押さえ込むと、膝でメイリードの背を押し込み床へ組み伏せる。

 腕や体から抵抗の意思はあるものの、そもそも力が入らずに容易にモモに押さえ込まれたメイリードは、辛うじて動く首を動かして、背後のモモを見上げた。

 視線が合う。組み伏せた相手から睨まれることには慣れていたが、その目はまったく違っていた。

「――死ね」

 それは、捨て台詞でもなければ悔し紛れの脅しでも、怒りの言葉でもない。

 まるで汚れがついた靴を払うときのような、面倒臭そうに邪魔なゴミを避けるような表情は冷め切り、言葉が耳に刺さる。

 思わず手が緩んだ。

 それは、ある意味正解だっただろう。

 本日二度目の衝撃に、モモは簡単に吹き飛んだ。

 思わず吹き飛ばされた方を見ると、メルが足を振り上げているのが見えた。

 同時、業炎が己のいた場所に吹き上がる。

 すでにかなりの距離を吹き飛んだというのに、それでも肌が焼けてしまいそうな気の狂った熱量を目にする。

「め、メル様!」

 力いっぱい開いた目と叫んだ口の中が一瞬で乾きそうな熱に、思わずパニックになりかける。

 ともすれば溶けてしまいそうな精神を必死で繋ぎ止めながら、モモは辺りを必死で見回す。


 夜空には星が散らばり、柱から伸びた街の明かりがちらほらと闇を優しく照らしている。

 その夜空に、まるで太陽とはまったく似ても似つかない、真っ白な炎が吹き上がった。

 一七番地から吹き上がったその業炎は、ちょうど真上の二一番地の腹をありありと夜空に描き出し、メルを飲み込み。

 そして消えた。

「メル様ぁぁぁぁぁぁ!!」

 鼻に届いたのは焼け焦げる臭い。

 モモの叫びは、夜空に響いて散った。



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