ヘイズ・カイズ
出会った頃のことは、もうあまり覚えていない。
ただ、宿無しだった自分を受け入れてくれた物好きの水棲族、というのだけは覚えている。
熱精を糧にするはずの翅は、気が付けば水精を糧に羽ばたき始め、事務仕事に埋没していれば宿無しだということを忘れるには十分だった。
どこか、自分はもう人間に憑くことはないだろうとそんなことを思いながら。少なくとも有能な人間を探すという気力はとうになくなっていた。
「おや?」
ヘイズヘルへブンの本社に近付くと、明かりが点いていないことに気が付く。
「どっか出かけたのかな?」
覗き込んだ窓には、しっかりと施錠がしてある。それは誰も会社にいないということでもあった。
仕方なく扉を開けてファルは室内へと入った。
慣れた手つきで照明を灯すと、いつもと違った何かがすぐにファルの目に留まった。
それは、ヘイズの机に乗った一枚の手紙だ。
『もしも僕がまだ帰っていなかったら、すぐにメルのところへ行きなさい。彼女が見つからないなら、管理局に保護してもらいなさい。僕はたぶん捕まってしまっているだろう。下手したら蒸発しているかもしれない。絶対にニノ君とリグ君を見かけた近くに行ってはいけない。すぐに会社からも離れるんだ』
「……なに、これ」
意味が分からず手紙がファルの手から落ちる。彼女の大きさに合わせられた小さな手紙は、ひらひらと舞いながら床に落ちた。
手紙は二枚綴りになっていたらしく、床には二枚の手紙。呆然と見下ろした彼女の視界に入ったのは、
『――だろう。だから、リグ君に憑きたまえ。贔屓目に見ても彼女に妖精憑きの能力があることぐらい僕にでもわかる。だから――』
目の前が真っ赤になる、という表現は比喩としては上手い表現だ。
なんて思っていた自分が恥ずかしい。
「ふざっ」
ありえるのだ。それはたぶん、間違いなく彼女の中で事実として刻まれた。
「ふざけんな!!」
一番地に戻って水精を溜め込み終えた翅が怒り任せに震える。
爆散した水精は空気中から水蒸気をかき集め、部屋は真っ白な煙に埋め尽くされていった。
――あの汚水溜り!!
許せない。
気が付けば、リグとニノを最後に見た路地まで来ていた。
ファルはやり場のない怒りを視線に込めるように辺りを見回す。
と、真っ暗で何も見えないはずの路地に小さな明かりが漏れているのを見つけた。
光に誘われるように覗き込んだ窓の向こう、予想どおりにリグとニノがいた。
小さな部屋に机を挟んで二人は向かい合っている。その机には大きな紙がいくつも広げられていて、それを押さえるように古ぼけた一冊の本が乗っている。
近付いてみると、二人の声が漏れ聞こえてくる。
「つまり、壁牛の生態はそもそものところ生体磁界を発生させるところから語らなければいけない」
「そんなことより、マグカップが宙に浮くことについての説明がまだです。だいたい、ゴンドラの乗り心地が悪いのがいけないんですよ。明日明後日には工事が始まるはずじゃないんですか」
「それならすでに明日の天気が晴れになることで説明しているだろう。ただ、着眼点は明瞭だな」
――はぁ?
二人の会話に疑問を覚え、思わず窓に手をかけていた。
「だいたい身長のことの前に、水の重さについての数字がまったく考慮されていない理由はなんです? こんなんじゃ、椅子の足が安定する訳ないじゃないですか」
そして気が付いた。言葉と口の動きが合っていない。
――意味喪失の呪い!?
急いで窓から離れようとしたその瞬間。
「珍しいな」
ニノが振り返った。
しっかりと目が合ってしまい、思わずファルは動けなくなる。
何よりも、ニノだと思っていた人物の顔は、記憶のどこと照らし合わせても合致しない。
「だ――」
れ。の一文字は発することはできなかった。
■
「妖精というのは、私が作ったシステムの中では、まぁまぁ成功した方だと思うが。どうも、私の想像以上に人間のレベルというのが低すぎたようでな」
声に気が付いて、ファルは目を開ける。
そして体が動かないことに驚き、自分を見下ろした。
「ちょ、何これ」
「目覚めたか。しかし珍しい、水精を取り込んだ翅とは。そこまでして生き永らえて、ここに何しに来た。王も言っていたが、身の丈に余る好奇心は己を殺すものだぞ」
己が吊るされていることはすぐに分かった。体中を簀巻のように巻かれ翅の一枚も動かせない。
「貴様の知り合いか?」
そう言ってニノのようなニノではない男がリグを見る。
「……いえ、知りません」
リグが静かにファルを見つめていた。
ヘイズも同じ目に遭ったのかも知れないとファルは考え、話を合わせることにした。
「ふん。そうか。なんだか見覚えのある顔だがな。この体が覚えているらしい。さっきの水棲族と同じだが、しかし記憶定着が進んでいてなかなか思い出せん」
「妖精なんてみんな似たような姿じゃないですか、たしかにうちの会社に妖精さんいましたけどね」
「そうか。名前は何という」
「え、えーっと。たしか、ふぁ、ファムちゃんだったかな?」
「おい、貴様の名前は何だ」
「私? ファルだけど。だいたい何なの、知り合いとか何とか。私、ようやく宿になりそうな人間見つけて窓に張り付いてただけなんだけど」
「そうか。ならば解放してやる。そもそも貴様らは、そういうために存在しているのだ。せいぜい役に立て」
「……へ!?」
信じた!? 嘘でしょ!?
驚きに思考が止まるが、ニノの顔をした何かは、言葉遣いとは裏腹に丁寧に拘束を解いていく。
「え、信じるの?」
「なんだ、嘘でも言ったのか?」
「い、いや別に。嘘じゃないけど」
拘束を解かれ、半信半疑のままファルはリグに近付く。
「じゃ、じゃぁ。えっと、名前教えてくれる? 私はファル。ファル・ルーニ」
「あー、えっと。はい、リーズフリオ・グリーフベルアです。よろしくね、ファルちゃん」
結局吐き出した嘘を突き通すため、二人で引きつった笑いを交換するほかなかった。
「俺は、グリフジーン。今まで宿無しだった妖精とはいえ、知っているだろう?」
ニノの形をした何かが言う。
「名前は。でも、信じられない。大昔に死んでるはずでしょ。だいたい、あなたどう見ても一〇歳ぐらいだけど」
ゆっくり、ぼろを出さないようにファルは言葉を選びながら呟く。
リグと知り合いだとばれてもいけないが、ニノのことを知っていることもばれてはいけない。
「若いように見えるのは乗っ取った体が元々若かったからだ。別に信用しないのであればそれでいい。私が誰であろうと、関係などあまりない」
「ふぅん。乗っ取られた体の持ち主はどうなってるの?」
「記憶は上書きされる。時間はかかるが、完全に私の記憶で塗り潰されれば、私の記憶が消えても元には戻らんな。そもそも、この体は私がこうして活動するために作られた体、何の問題もない」
「なに、それ」
「人間のまま錬金術を行使できることが、生まれつきの特別な才能だとでも思ってるのか?」
「まさか、生態錬金組織……」
「ほう、妖精の癖に冴えているな。正解だ。私の血が入った人間は、隔世遺伝子によって確率的ではあるが生態錬金組織を己の頭に生み出す。その生態錬金組織が錬金術を行使するのに利用されるわけだ。使えば使うほど、私が復活したときにスムーズに記憶を上書きできる。が、この体は子供だ。やはり、完全に上書きするのに時間はかかる。お陰で、周りの状況は知れるが。それも、俺が俺として覚えてしまえば意味のない知識だな」
「じゃあ、あんたがさっさとロケット作って空に行ったらその体は元の子に戻るのね」
「こだわるな妖精。知り合いか? まぁいい。理屈は合っている。そのとき体がどこにあるか、私は知ったことではないがな」
「え。柱に戻ってこないわけ?」
首を傾げたファルの質問に、グリフジーンが歪んだ顔で笑った。
「柱はなくなる。そしてこの星は蘇えるのだ」
世界はこの柱だけで、世界はこの柱までだ。
「星?」
柱に張り付いた街は螺旋に延び広がっていく。
見下ろせば雲海。その下にある大地を見た人間はいない。
「星だ。すでに死に、岩と砂で埋め尽くされ人の住めなくなった星を蘇らせる。そのためにはロケットが必要だ。あの人工衛星に辿り着けるロケットが、だ」
グリフジーンが見つめる先は、遥か遠い中天に輝く星。
高度三万四先六百三.二三kmに位置する人工衛星。
柱はここまでだ。
だけど、世界はここまでじゃない。




