ファル・ルーニ
今回より、日次投稿となります。
湿気が酷い一番地は、いるだけで体が濡れてしまう。
さらに太陽の光は舞い上がった雲に遮られ届きづらい。
翅を広げれば、すぐにでも霧は露になってこびりつき体は重く動かなくなるだろう。
ただ、何事にも例外はあるもので水浴びの好きな妖精、というのもたしかに存在するのだ。
「ただいまぁ~っと」
翅に付いた水滴を払うように力強い旋回をして、ヘルヘイズヘブンの社長秘書が窓から会社に戻ってきた。
相変わらず代わり映えのしない社長室とは名ばかりの小汚い部屋を見下ろすと、これまた代わり映えのしない社長が通話機片手に頭を抱えていた。
「ああ、了解。こちらでも調べておくよ……それじゃ」
「なになに、どったの?」
通話機を置きながらため息をつくヘイズの上、ファルはふらふら回りながら物珍しそうに覗き込む。
「え? あぁ、帰っていたのかファル。おかえり」
「ただいま~。じゃなくて、どうしたのさ」
「どうもしないよ。それより散歩、珍しく早いじゃないか」
ポットから淹れたばかりの熱いコーヒーを片手に、少し疲れたような足取りでヘイズは己の椅子に腰をかけた。
「あ、そうだ!! あのねあのね!」
ただただ嬉しそうに、ファルは満面の笑みを湛えて散歩中に見た出来事を話し始める。
錆び付いた古い風車の軋む音がかすかに届く。
湿気が多く雲が埋め尽くす街の中を、曇った音が静かに染み込んでいった。
もう昼は過ぎ、ゆっくりと日が暮れ始める。
穏やかな日差しは撒き散らされた雲で拡散して、街を一様に白に染め上げていた。
「まじかよ! 大スクープじゃないか!」
「でしょでしょ。早く皆に知らせないと」
「まぁ待て、実際自分の目で見ないと、な」
にやりとヘイズは口に笑みを湛え体を歪ませる。水棲族の彼は体の形は自由自在だ。
今更驚くことでもないがグネグネ動く姿は見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
「ちょっと体を伸ばしてこっそり覗いてくるよ。ファルはメルにでも報告してきてくれ」
「合点承知!」
そう言ってファルは勢いよく部屋を飛び出した。
散歩の途中、ニノとリグが連れ立って歩く姿を見たのだ。あれは間違いなくデートの類である。リグがニノのことを気にかけていたのは又聞きではあるがファルも知るところであったが、まさかここまで仲が急展開するとは想像だにしていなかった。
「大ニュース!」
一人テンションが上り切った妖精が、ゴンドラを使わず単独で柱を登っていく。水精を大量に取り込んだ翅が、飛沫を散らして唸りを上げた。
「つーか、いねーし! って、休みだからいないのか」
メルが借家にしているオンボロ長屋の窓枠にへばりついてファルが叫んでいた。
――どこ行ったんだろ? リグちゃんが一番地で逢引してるってことは、ロケットは今日お休みなのかな。
主のいない部屋の窓に腰けてファルは首を捻る。
「あ、そうか。いないメルを探すなら、居場所の分かるヒトのとこ行けばいいじゃん! さっすが私、冴えてる!」
ぽん、と手を叩いて勢いよく窓枠を蹴り付けると、慌しくファルはまた飛び立っていった。
「たしか、二三番地だっけかな。予約入ってたのは」
そこならば、本日仕事のユズとニノがいるはずだ。
「伝えなきゃね、伝えなきゃ。ユズとニノ君に……って、あれ? ニノくん一番地にいたじゃん。あれ?」
そこに至って、ようやくファルはおかしいことに気が付く。
かといって、疑問に答えは出ず、疑問符を頭に浮かべながら彼女は今現在仕事をしてるであろうユズのもとへと飛び続けるほかなかった。
だが、すでに状況はおかしいで済むような問題ではなかったし、今更どう足掻いても何もかも遅すぎた。
ニノに吹き飛ばされた管理局の二人の連絡は、場所柄通話機が少なく探すのに手間取ったとしても、彼らを責める意味はない。たとえ彼らが吹き飛ばされて間髪を入れずに連絡ができたとしても、もうすでに間に合っていなかったのだ。
朝、ニノの不調がピークに達したときにはすべてが終わっていた。
未だメルは、リグの実家でモモに看病されながら気持ちよさそうに眠り、その横でモモはじっと俯き、出ていったリグのことで身動きが取れずにいる。
きっと、最初から何もかも遅かった。
柱ができたそのときから決まっていたのだから、彼らに非はないのだ。
ファルは気が付けば夕方になった空を、いい加減飛び続けて疲れた翅越しに見る。
水棲族に憑いているせいで、水精を帯びた翅は、相変わらず透明度が低い。少しぼやけた向こう側を、特に感慨もなく覗き込んだ彼女は、すぐに目を逸らす。目的地が近付いてきた。
「お、見えてきた。たしか、あの辺りに……」
よく見れば、風車のギアボックスに取り付いている人影が見える。
「やっほー、ユズ~。おひさ~」
ファルの声に、少し驚き目を丸くしたユズが顔をあげた。
「おりょ、珍しいねぇ~。おひさしぶりぃ~。なになに? サボってないか偵察にでもきたぁ?」
辺りを見回してみるが、風車の根元に依頼人らしき人影があるだけで、ニノの姿はやはり見当たらなかった。
「あ、やっぱりニノ君いない?」
「ん? あ~、なんか体調悪いとかでぇ」
「そっか……」
「どったの?」
「いや、一番地でニノ君見かけたから」
一瞬動きが固まったユズの手から、トルクレンチが滑り落ちた。
「やばっ!」
――下には依頼主が!
反射的に飛び出したファル。目の前を自由落下するレンチに手を伸ばす。
「くっ」
――届かない!
翅が重い。背後で、ユズが警告を叫ぶのが聞こえる。
が、修理業者ではない依頼主は声に反応して上を見上げるだけだ。
「逃げて!」
手を伸ばすが、やはり届かない。無理に伸ばした体勢でまた少し速度が落ちる。
もしもファルが、一番地からその身ひとつで昇ってこなければ。
反応がもう少し早ければ。
メルの家に寄らず、直接ユズのいるところへ向かえば。
ここが二三番地ではなく、十分に水精のいる一番地だったならば。
間に合ったかもしれない。
しかし、もしもの現実はなく、疲れ切ったファルが出せる速度では自由落下するレンチに届かない。
すでに風車の支柱の半分は過ぎ、はっきりと依頼主が見えてくる。
少し背の高い、初老の男。夕日に金髪が赤く染まっている。しっかりとした服装と、人がよさそうな目尻の皺。こんなときでなければ、思わず「おぉ」と声を出して見つめてしまったであろう、整った顔立ち。
彼は驚きに、少し口を開けている。
――お願い、逃げて。
コースは最悪。このまま落ちれば、確実に頭でなくても彼の体のどこかに当たってしまいそうなほどぴったりど真ん中。
ようやく、依頼主の男が反応して体を動かし始める。
そのまま後ろに下がって、とファルが心の中で叫ぶ中、彼はレンチを防ごうとしたのか手を前にかざした。
と、男の口が開く。
「ティック」
短く呟いた言葉が、風を切る音をかき分けてファルの耳にも届いた。
のそりと彼の頭が動く。何がと思ったときには、金色の髪の毛から影が飛び出していた。
ファルの速度など児戯に等しいほどあまりにも早いその動きは、一瞬にしてレンチを追い越し方向転換。
――妖精!?
ファルには目もくれず、妖精は一気に加速。瞬きすら追い付かない速度でレンチを確保した。
■
「申し訳ありません!」
ぐい、とユズの頭を押し下げてファルは謝罪を繰り返す。
先程から何かに気を取られていたユズも、ようやく思い出したかのように謝罪を述べる。
「いやいや、気にしないでください。結局何も起こらなかったわけですし」
初老の紳士は、見た目どおりの紳士で笑みを崩さず二人のことを責めなかった。だが、
「妖精の癖に遅いとか、マジありえないっしょ」
彼に憑いている妖精は不機嫌そうに呟く。
「水精使ってる妖精なんて、初めて見たわ。宿無しにしたってもう少し速く飛べるわよ」
「ティック。黙りなさい」
「でも!」
「ティック」
むぐ、と不満そうにだが、ようやく妖精は口をつむぐ。
「失礼しました。どうか気を悪くしないでください。少々気が立っているようで。お恥ずかしい」
「いえ……こちらの不手際ですから」
宿無し。
妖精は人に憑くことで生きていく種族である。
ある一定以上何かに秀でている人間に妖精たちは憑き、人間の体温を糧に生活している。
代わりに妖精たちは、己の宿主となった人間をすべての面においてサポートすることで共生しているのだ。
人にとって妖精憑きというのは、己が優秀であるといったステータスと簡単な手伝いをしてくれる存在である。
が、妖精側から見れば話は変わってくる。人間に憑くというのは、己で生活する力を持った一人前としての証。さらに、人の体温から得られる熱精を糧に活動ができるということだ。
空を飛ぶことを唯一許された種族である妖精たちにとって、それはまさに己の存在そのものといってもよかった。
宿無しというのは、つまるところその対義語。
役立たず。半人前。
それ以上に、妖精としての存在意味を否定する言葉。
結局ファルは何も言い返せず、ただ頭を下げ続けるほかなかった。
「ごめんねぇ、私のせいで」
仕事を終え、ユズとファルは二二番地にある支店へと向かっていた。
すでに日は落ちて、辺りは家から漏れ出る光に縁取られている。修理道具があるため、人通りの多い大通りを避け小道を歩くユズと、その横を荷物を持って飛ぶファル。
「レンチ落としたのは、私のせいだし。ユズのせいじゃないよ。てか、ニノ君に反応してたけど、どうしたの?」
「あ、いや~~。え~っと。連絡受けたとき、すっごい体調悪そうだったからねぇ、一番地に降りる元気あったのかと驚いてさぁ」
あからさまな話題そらしに、ユズは何も言わずに乗ってくる。その優しさが、ありがたい。
「そうそう、リグちゃんも一緒にいたの! 絶対あれ逢引だよ! 間違いないね」
「え……」
ファルは初めて、ユズが体の制御を失敗するところを見た。
もののけの体は水棲族と同じく、基本的に無形である。
ゆえに、驚きは顔ではなく体全体に及ぶ。つまり、保っていた体の形を崩してしまうのだ。
「ちょ、ユズ! 崩れてる」
「お、おぉ! あ~。びっくりした」
「でしょでしょ!」
「あ、逢引かぁ~……」
ユズは少し思案するように立ち止まると、また歩き出す。
「年の差カップルすぎでしょ」
「なんか用事があったのかもよぉ~。偶然ゴンドラで会ったとかさぁ。そもそもリグちゃん、今日お休みだしねぇ」
「ユズは夢がないなぁ」
「そんなことないってぇ。そもそも、二人が逢引するよりかありそうな話じゃな~い」
周りが騒ぎ立てるのも、悪いしねぇ。
そう言ってユズは笑う。だが、ファルは違和感を覚えて首を傾げた。
楽しいことが大好きなもののけが、どうしてこんな楽しそうな話に乗ってこないのか。
そっちの方が、ありえない話だ。
「ねぇ、ユズ。なんかあった? もしくはニノ君たちのこと何か知ってた?」
「う。なんもないよぉ~」
「嘘。なんか知ってるでしょ」
ユズの前に回り込んで、ファルは通せんぼをする。
「ん~。ないしょ」
遠く、どこかで宴会の喧騒が小道にも響いてきた。遠くの騒ぎ声はさらにこの場所を静かにしていく。
「……もうニノ君も、そしてリグちゃんも帰ってこないかもねぇ~」
「なにを、いって――」
「だからさぁ」
ユズは失敗した、と小さく呟いて頭を掻く。
「ニノ君はグリフジーンに乗っ取られたんだよぉ」
「……はぁ!?」
「そしてリグちゃんはきっと、グリフジーンと分かって一緒についていったんだ」
だからもう遅いんだ。
ユズはそう言って、口だけで笑った。
■
すっかり日が落ちた真っ暗な街の上空を、きらきらと光の粒が舞っては風に流されていく。
光の粒の正体は月の光を反射した水滴だ。
水精をまとい空を行く妖精の軌跡が夜空に舞っては散っていく。
目指す先は一番地。風に逆らい重力に身を任せ、妖精が夜の空を突き進む。
彼女の表情は硬く、引き結ばれた口元には焦りが見える。
すでに今日二〇番地台まで単身かけ上った後だ、すでに疲れは限界まで達しているのだろう。
だがそれでも彼女は風に抗うことをやめず、自由落下の速度では飽き足らないとばかりに翅を動かし続けていた。
「きっとグリフジーンはリグちゃんの作ったロケットが必要なのさぁ。理由は知らない。でもきっと、管理局がロケット作るのを嫌がってるのと理由は同じなんじゃないかなぁ。そこんとこは、むしろしゃちょーの方がよく知ってると思うけどぉ?」
状況が飲み込めず詰め寄ったが、ユズからは何も教えてもらえなかった。
グリフジーンといったら、この柱を作った創造主の名前だ。
もう過去にいなくなったはずの錬金術師、耳長ならばまだしも、ただの人間が生きているはずがない。
たとえユズの言ったことがすべて事実だとしても、そもそもロケットを欲しがる理由がさっぱり分からない。
ただ、ファルは管理局がロケットの作成について嫌がっていることは知っていた。
――ヘイズに聞けば分かるはず。
そもそもニノを二二番地支店へやったのはヘイズだ。
管理局からの要請を受けた形ではあったが、特に彼は拒むでもなく話を進めていた。
彼が管理局の人間であることを理解していたし、メルとリグがロケットを作ろうとしていることを知っているはずなのに。
理由は分からない。あれよあれよという間に話がついていて、聞くタイミングを逃したのだ。
気が付けばニノも彼女たちと上手く仕事を回していたし、結局今の今までファルは管理局の言いなりになったヘイズへ文句のひとつも言っていない。
眼下に九番地が見えてきた。人が住まない街だけあって、夜は真っ暗で何も見えない。
だが今日はその様相が少しだけ違った。
明かりだ。照明のような明かりではなく、何かが燃えたり爆発すような火花の光。
その散発的な光に照らし出されるのは、もののけたちの群れ。
何をしているのだろう、と疑問を覚える頃には瓦礫の向こう側、すぐに見えなくなる。
一番地はもうすぐだ。疑問を頭の片隅に追いやってファルは加速する。
疑問はきっとヘイズが解決してくれるだろう。
元管理錬金術師団所属の問題児の一人が。




