モモ・ベリドット
最初からそうだった。
どこにも出られなかった。
出るつもりもなかったけれど。
モモ・ベリドットは恵まれている己の環境に不満などなかった。
生まれたときからそうだったから。グリーフベルアの家のために生きていたから。
たとえ屋敷から出られずとも、彼女は不満などなかった。
それを息苦しいとは感じていなかった。
それでも、その外への憧れがなかったといえば嘘になる。
ただ外のことを広そうだと感じていた。
それは外を知らない彼女の幼い想像だったのかもしれない。
だが、その幼く拙い想像を支えてくれた者がいた。
「あの星にだって、行けるようになるの」
そう言って、彼女は夜空を指差し胸を張った。
そして、その言葉をまったく疑いもなく言い放つその姿を見てモモは育った。
いつか、あの星にも行けるようになる。
そう言って指差した中天に瞬く小さな星までの距離すら知らずに。
ただその言葉を信じていた。
そして、今もまだそれを信じていた。
それはこの屋敷から出られないモモにとって、大切な、
――とても大切な言葉だ。
大きな荷物を指差して、これを屋根に運ぶと言って聞かないリグのために、モモはその小さな体で必死に荷物を運んだことがある。確か、一〇年近く昔の話だ。
荷物の中身は、巨大なライトとそれに繋がるコードであった。
風車の発電量では足らず、変圧器を自作でこしらえ地下室に穴を開けた。
街の維持のために供給されている電力を掻っ攫い、莫大な光量を発するライトであった。
その頃のモモにとってリグの説明は難しくてよく分からないものであったが、今思い返してみればある程度のことは分かる。
少なくとも一〇歳前後の子供が簡単に作れるような物ではないことぐらいは。
屋根のちょうど中央、大人一人分ぐらいある重さのライトを備え付け終わると、リグはそのライトを点けたり消したりを繰り返し始める。
「お嬢様? 何をされているんですか?」
モモの質問に、リグは何度かライトを明滅させたあとにゆっくりと振り返った。
かすかにライトの隙間から漏れる光に、リグの嬉しそうな笑顔がおぼろげに浮かび上がっていた。
そこでようやくモモは、ライトを点けたり消したりしていたのではなくシャッターを使って塞いだり開けたりしていただけなのだと理解した。
「これはね、メッセージなの。私がそこに届くまで、待っていろ、ってね」
「ライトの点滅で伝わるんですか?」
素朴な疑問に、リグはさらに鼻息を荒くしてまくし立てる。
「文字をね、〇と一の数字に置き換えるの。AからZまで二六文字。二進数ならそれが――」
リグの言っていることはちんぷんかんぷんで、モモにはよく分からなかったけれど、とにかくライトの点滅を文字に当てはめれば、どんな遠くにだって言葉が届くのだと、そういうことらしい。
「すごいですね」
モモの賞賛に、リグはさらに気を良くしてにんまりと笑う。リグの機嫌が良いのはいいことだと、モモも笑う。
「でも……そこに行くまで、じゃないんですか?」
なぜ〝届くまで〟なのだろうと首を傾げる。
「だって、とても遠いから。どれだけ速い乗り物に乗ったって私が生きてる内には辿り着けないから」
モモにはその遠さが理解できなかったが、仕方ないと言ったリグはちっとも悔しそうではなかったので安心する。
そういうものなのだと、ただ理解し納得した。
「いつか、その場所まで届くから」
それを繰り返し空へと叫んだライトは、次の日には街の錬金術のいくつかを機能不全に追いやり大問題になった。
昔の思い出だ。
そのあとのライトの取り外しで屋根から落ちそうになったリグを助けてモモが代わりに怪我を負った。
そして彼女は、何をしたのか大人たちに問われても頑なに口を閉じ続けた。
親指をぎゅっと握り込んで何かに耐えるように、ただ何も言わず罰を受けた。
そんな笑い話だ。
笑い話のはずだ。
だがリグは、あの頃から、屋根に上らなくなった。
あの頃から、空を見上げることは、少なくなった。
今でもなおモモは、自分の怪我が発端でリグが高所恐怖症になったのだと思っている。
きっとそれが理由の全部ではないだろう。
だが、少なくともきっかけであり理由のひとつではあるだろう。
モモにとってそれだけで十分だった。
リグが望むのならば、どんなことでもいかなる難題でも叶える。
従者として、モモができるただひとつの誓いであり、贖罪であった。
だから、たとえ相手が管理局だろうと一歩だって引くつもりはなかった。
目の前に立っているのは、青年風の水棲族と年齢不詳の耳長族だった。
彼らの顔にモモは見覚えがある。
騒音がうるさいので屋敷を調べさせろと、幾度となく突っかかってきた二人組である。
「ですから、そんなものはないです。お引き取りください」
何度言ってもモモの言葉を聞き入れない二人は、ただ首を振って調べさせてくれの一点張り。
特に今日は強情で、引き下がるつもりはまったくなさそうだった。
本当に何もないなら面倒臭さに屋敷に入れてしまっていたかもしれない。
そんなことを考えながら、モモは門を挟んだ二人にお引き取りくださいとただ繰り返すしかなかった。
すでにやり取りは長時間に及び、昼前だった時刻は昼を過ぎていた。
朝食すら摂っていなかったので、モモは空腹を覚える。
だが二人の管理局員はまったく疲れも見せず、引くつもりもないのか、さらに声を荒らげてモモに突っかかる。
「別に捕って食おうって話じゃないんですって。ほら、何もないならちょっと見せてくれるだけでいいですから。そしたらこっちも住民の方に何もないって説明できるでしょう?」
「何度言われましても、許可のない方をお屋敷に入れる訳にはいきません。正規の手続きを行ってください。そもそも何もないのですからお見せする必要すらありません」
「ですから! ベルフレアの受付には何度言っても取り次いでもらえすらしなかったと言ってるじゃないですか」
当たり前である。受付にはすでにモモが手を回して管理局を名乗る二名の話は通すなと伝えてあった。
手口の旨い詐欺集団であるから、たとえ身分証を見せられても通すなと言ってあるので、残念ながら彼らの訴えがCEOやアーセルに届くことはないだろう。
必死な水棲族の青年の背後で、いつも無言でじっとしていた耳長族の視線が、ふとずれた。
今までじっと動かなかっただけに、その視線にモモも思わず釣られてしまう。
まるでその視線は、風に吹かれて飛んでいった物を追いかけるような、そんな動きだった。
だからだろう、最初にその視線の先に気が付いたのは耳長族の男ではなくモモだった。
背の小さな、少年だった。
人間。
人間で間違いない。一〇歳かそこらの少年だった。
背格好だけは。
「……」
異様だったのは、その少年の表情だ。歪みに歪んだ、まるで人ではないような表情をしている。
人の顔を粘土細工にして好き勝手に歪ませたような、そんな顔だった。
「君は」
かろうじて声を搾り出したのは耳長族の男だった。
信じられない、と口の中で呟いた言葉がモモの耳にかすかに届く。
水棲族の青年もまた、異常事態に気が付き振り返った。
「ニ、ノ? ニノ君か?」
その名前はモモも聞いたことがあった。リグがいつも嬉しそうに語った、自分に初めてできた後輩。
管理局の錬金術師だけど、なぜかヘイズヘルヘブンに入社して仕事をしてくれていると、そう聞いていた少年の話を思い出す。
とても綺麗な子だと、そう言っていた。
たぶんそれは瞬きひとつの時間もなかったと思う。
どれだけモモが思い出しても、その前兆はなかった。
気が付けば、ニノと呼ばれた少年はモモの後ろにいたのだ。
消える以前から後ろにいたのかと思うほどの刹那、すでに少年は鉄格子でできた門扉を越え、モモの背後を歩いていた。
すぐにモモが反応できたのは、錬金術をよく知らなかったからにほかならない。
もしもよく知っていたら彼女もまた、管理局の二人のように驚きで動けなかっただろう。
皮肉なことに、不運なことに、何も知らないモモだけが己の職務に忠実に動いた。
少年の前に立ちはだかるように体を滑り込ませると、じっと彼を見下ろす。
「お引き取りください。御用がありましたら、ベルフレアの受付を通して――」
鉄格子がひん曲がり、軋む甲高い音を立てた。飛び出したのは扉の向こうにいた管理局の二人。
鉄格子を力任せに曲げ、できた隙間から飛び込んできたのだ。
あのメイドは何もわかっていない!
その焦りは二人を決断に導いたが、結局――
立て続けに起きた強烈な打撃音によって無意味とされた。
手を一振り、まるで埃を振り払うように無造作に振り抜いた少年の手の動きに合わせて二人が吹き飛んだ。
埃が風に舞うように、軽々と数メートルの距離を大人の二人が吹き飛んだのだ。
恐怖よりも驚きよりも先に、眼前に存在する少年が敵である、とモモは認識。
彼女は一息で少年との距離を取ると、そこで初めて呼吸をしたかのように息を吐き出すモモ。
――危険です。
驚きも恐怖も疑問も飲み込み、眼前の存在を見据える。
この状況で彼女の反応は、完璧だったといえる。
だがそれでもなお、目の前の存在は異常であった。
気が付いたときに視界に映っていたのは、鉄格子の門の前に倒れ込んだ二人の管理局員でもなければニノと呼ばれた少年の姿でもなくて、空だった。
――え?
疑問の次にやってきたのは、物心ついたときから研鑽し続けてきた名もなき体術の反射的な動作。
呼吸するように己の重心を見極め体を丸めるようにすると、ようやく己が仰向けに吹き飛んでいることを理解する。
体を勢いよく丸め、重心が崩れたことによる軌道変化をそのまま利用してそのままバク転。
四肢を使い、まるで四足歩行する獣のような形で着地する。
顔を上げれば、まだ視界の先に少年がいた。
想像と違ったのは、己が後ろではなく横に吹き飛ばされていたということ。
屋敷からは離れてしまい、少年と屋敷の間に割って入ることも難しい距離にいる。
モモは少年を止めるだけの装置のようにただ前へと飛び出した。
一歩。
二歩。
想像以上に遠い距離と、まったく痛みのない体への不安を振り払うように前へ。
五歩目。
手が届く。
想像以上に華奢な肩に手を掛け、重心の足を力任せに蹴り上げる。
掴んだ肩を手前に引くと、魔法のように少年の体は臍を中心に複雑な回転を始める。
上下左右の感覚を奪い、そのまま床に突き落とす。
平衡感覚を殺し、受身すら取らせない対人投げ。
だが異変はすでに起きていた。
あとは重力に任せて頭から落ちるはずの少年の体は、まるでそこに固定されたかのように停止していた。
「な」
あまりのことに思わず立ちすくむモモ。
後ろに倒れるように、一歩下がってもまだ少年はそのまま空中で停止したままだった。
「時間も経てばこういうこともある、か。なかなか興味深いが俺は文化研究者ではないからな」
初めて少年の声を聞いて、モモはさらに一歩下がる。
くるりと、まるでコマを回すようにスムーズに少年がモモの方へと向き直った。
逆さまのまま、だが彼の服も髪もよく見ればまったく垂れ下がってはいなかった。まるで彼が立っている方向の方が正しいといわんばかりに平然とそこにいる。
「そういった設定では作らなかったはずだが。まぁいいか、どうでも。おい、そこのお前、答えろ、どこにある」
少年の言葉は、言葉だけを聞けば普通だった。
だが、少年の表情はまったく変わらない。まるで口の中から別の人間が喋っているような、被り物をした人間の会話を聞いているような、そんな違和感がある。
「答えろ。どこだ。俺は王にも気が長いと言われるぐらいだが、回答を待てるほど寛容ではない。答えろ、どこにある」
イラついた語尾。だが表情はまったく変わらず、奇妙に歪んだままだ。
そのまま固定されているようにすら見えた。
「もういい」
ポツリと呟いた瞬間、鼻に届いたのは電精が駆け巡るオゾンの臭い。
「下はこっちだ」
世界がひっくり返った。
スイッチが切り替わるように、一瞬にして天地は覆った。
空を見下ろしたモモの視界に、一七番地の上に広がっている二一番地の腹が見える。
高いところの恐怖。
何もない、誰もいない、空白の世界。体中がばらばらになる喪失感。
「モモ! 目を閉じろ!!」
声が誰かなのかも分からないまま、言われるがままにモモは目を閉じた。同時に体を抱きかかえられる衝撃に彼女は思わず目を開くが、目はぶつかってきた相手の手で覆われて何も見えない。
「大丈夫だ、落ち着いて。ただの幻覚。錬金術は魔法じゃない、平衡感覚を狂わされただけだ」
「メ、ル様」
ゆっくりと手が取り除かれて、眩しい光が目に突き刺さる。
思わず目を細め、そして覗き込んでいるメルがそこにいるのをモモはようやく認識した。
モモを抱きかかえたメルはしっかりと床に足を着けて立っていたし、少年もまた普通に床に足を着けて立っていた。
まるで何事もなかったかのように。
「あ……」
「まだこれの技術が残っていたのか。興味深いな。やはり俺ではこういったことは予測できない。王も得手不得手はあるものだから仕方がないとおっしゃられていたしな」
「残ってなんかいない。知っていた。いや、知らされていた。そして私はあんたを知ってる」
吐き捨てるように言ったメルの呟きに、ゆっくりと少年が視線をこちらへと向けた。初めてこちらを見た、そんな気がした。
「……ああ。そうか、なるほど。ふむ。俺はお前を知っているぞ。その右目、忘れるわけがない」
「反吐が出る。初めて会ったけど、予想どおり最悪だ」
「メル様?」
「あれは、私の――」
「お前は、俺の――」
「父親だ」
「娘だ」




