幻の光(下)
何が起こったのかは明白だった。だが目の前のメイリードから目を外すわけにはいかない。距離を取るように一歩下がる。目を離してはいけない。言い聞かせるように――
「メル!」
そのレイナの叫び声が最後の踏ん張りを崩してしまった。
思わず勢いよく振り返った。メルはいなかった。家にして三棟離れた辺りの柱に瓦礫から埃が舞い上がっている。
敵を眼前にして視線を逸らすなど、愚の骨頂。
余所見は、意識の焦点のズレは、生存放棄に等しい。相手がクリエイターであるならば尚更だ。
そんな事判っていたのに。
「ごっ! ぐあああああああああああああ!」
メイリードへの敵意が膨れ上がった瞬間、体中がこわばるような激痛が走りユリシーズは叫んだ。
「ユリシーズ!!」
狼の姿をしたユリシーズの首元に、メイリードの腕がつきこまれていた。
見れば既に手首まで沈んだメイリードの腕に、ゆっくりとエリクシルが流れている。それはユリシーズに流れ込むのではなく、むしろユリシーズからメイリードへと流れていた。
「めいりーーどぉぉぉ!」
叫び声は、メイリードの前方から風を切って飛んできた。
瓦礫を吹き飛ばし、一足飛びにやってくる人影。メルだ。
「その手を離せ!」
「あ? てめぇのモンみたいに言うんじゃねぇ……これは私のだろうが」
かみ締めた歯が、ぎしりと軋むのを聞きながらメルはまったく縮まらない彼我の距離に苛立つ。
一歩。向かい風の中、体中が重い。焦っても体は前に出ず、腕を突き込まれたユリシーズはただ叫び声をあげるしかできないでいた。
冷静な部分が、態勢を立て直せといっている。ユリシーズを掴んだメイリードの動きは制限されている。
それを利用するべきだと、誰かが言っている。
――でもそれはダメだ。
ユリシーズが叫んでいる。無視できる訳がない。体を限界まで前に倒し、隙間だらけの床をかける。
ユリシーズから受け取った欠片を手で押さえながら、体に刻まれた錬金術を起動していく。
――ぶん殴る!
硬化、質量増加、重量軽減、摩擦減少、効果強化。
耳長族の肉体を限界まで酷使した、本来錬金術師とは無縁の肉体攻撃。むやみやたらに強化とそれに耐えられる補強を繰り返し、つぎはぎだらけだがほんの一瞬莫大な腕力を得る。
「相変わらずバカの一つ覚えだな、失敗作」
手が届く距離。と、メルが踏み込んだ足が床をひしゃげさせた。へこみが踏み込みを遅らせる。刹那にも満たない微かだが絶望的な時間。神経の効果強化を受けた視界の中、メイリードが振りかぶる拳が魔法のように目の前に伸びてくるのを見ながら、体だけがどうしても動かなかった。
レイナから見たら、きっと何が起こったかも判らなかっただろう。
風を置きざりにするその攻撃は、まるで当たるのが当たり前であり、外れる事などなく、また既に当たっている、とばかりに絶対的な殺意で届く。頬を打ち抜かれる衝撃に気がつくよりも、体が前に進まなくなった事を先に感じた。
「ひっ!」
いきなり眼前にあらわれたメルが、メイリードの拳で顔面を打ち抜かれていた。
レイナにはそう見えた。
一拍を置いて、メルを追いかけるように風が巻き上がる。
「メル!!」
鼻っ柱を綺麗に拳で打ち付けられたまま、メルが笑っていた。口の端を引き上げ獣のように。
笑い方は、本当に親子だ。ユリシーズがそんな事を思った瞬間、旋風が巻き起こった。打ち抜かれた拳に取りつくように、メイリードの伸びきった腕に足をからめた。顔面すら囮に、自分の重心を支点に足を上へ。
「!」
腕に抱きつくような格好になった瞬間、乾いた音をユリシーズは聞いた。電精が流れる音だ。
「はいつくばれ!」
重量増加。
あまりにも早い起動だった。最初から用意した杖にある錬金術とは話が違う。媒体を用意しエリクシルを用意し、世界を書き換えていく力。肉体的な攻撃などに合わせて使えるほうがどうかしていた。
「な、なんなの」
目の前で起こっている現象一つ一つは理解できるだろう。だが、なぜそれがこんな早くこんなにも大量に、そして正確に行われているのかがレイナには理解できない。
メルの重さにメイリードは堪らず倒れた。
「ぐおっ……てめぇ」
「ユリシーズ! 離れて!」
つきこまれた腕が緩んでいる。メルに言われるがまま、ユリシーズは身もだえするようにメイリードから離れる。
「このまま腕を貰う!」
「糞ガキがぁぁぁ!」
だがもうメイリードにエリクシルはない。いま現在起動しているメルの重さへの対抗手段の錬金術もすぐに消え去ってしまうだろう。そして実際に消え始めた。
ゆっくりとメイリードの硬化の錬金術が消えていく。
「レイナ、こいつにエリクシルをやるな!」
「がってん!」
そういって彼女が取り出したのは、燃焼の呪い札。
燃費の悪い焚き火用の錬金術だが、まさに炎のように激しく燃える。エリクシルの吸引率はぴか一で、対錬金術師などで使われるものだ。
一瞬にして天井を焦がすほどの大出力で符が燃える。
「ぐあああああ」
目に見えてメイリードの錬金術がほどけていく。
「そら!」
メルが勢いをつけて体をひねった瞬間、
ごきん、と聞きなれない太い音が聞こえた。
耳長族の骨が折れた。
頑丈といわれ続けた彼らの骨が折れたのだ。
「――!」
確実にメイリードの骨が折れたのを確認して、メルがゆっくりと手を離した。
「ぐああああ! ってめぇ!! ――っ!!」
メイリードは右腕を押さえ、うずくまったまま呻く。耳長族であるがゆえ、骨折の痛みを知るはずもない。
「レイナ、捕縛を」
目の前でメルはうずくまる母親を見下ろしながら、ゆっくりと息を吐き出した。
あっけなかった、と思う。
こんなものだ、とも思う。
荒れた息を整えるように、大きく息を吸った。
「任せて――んぎゅっ」
手が伸びていた。見慣れない手だと変にさめた思考が頭の隅でポツリと呟いた。
「レイナ!?」
メイリードの手だ。しかも折れたほうの手が伸びていた。完全に油断していたのだ。だれも、これ以上の反撃があるなんて思っていなかった。
右腕は動かないと、そう踏んでいたのだ。
かすかなエリクシルで無理やり骨をつなげ痛みを気合で無視したのだ。痛みを無視する事などできるはずがない、勝手にそう決め付けていた。そんな予想を鼻で笑い、ゆらりとメイリードは立ち上がった。
「てめぇえええええええ! この不良品があああああ!!」
右腕を振り上げレイナを投げつけようとして、そこで――
「ん?」
手を止めた。
「へぇ、……珍しいな、これ」
「離せ!」
「うるせぇよ、人様に使われるために作られたくせに、いっちょまえに意見とかするな」
「あ、がっ!」
ぎり、と音がするほど握り締められたレイナは、肺から搾り出すような声を出して動かなくなる。
「レイナを離せ!」
「うごくな、手が滑ったら本当に壊れるぜ?」
言いながら、レイナをずいと突き出す。
「こいつ生態錬金組織が二つあるんだ、が――」
一歩。近づいてくるメイリード。だがメルはレイナから目を離さないことぐらいしかできなかった。
「しっているか? 一つは浮遊だろうけどよ」
「……しらない」
生態錬金組織が二つある。だが別に驚きはしなかった。管理錬金術師団の大半は、そういった特殊な技能なり生まれなりを持った者たちだからだ。
「はん、そうかよ」
「ああああああああああああああああああああ!!」
「メイリード!!」
到底妖精の小さな体から出せるとは思えないような悲鳴が響いた。
「そんな怖い目をするなって。解析がおわったら離してやるからよ。ま、その後動くかどうかはしらねぇけど。おっと、今、動くなよ? 手が滑ったら壊れちまうからな」
と、レイナから何かが落ちた。
「杖?」
「ヘイズの杖だ」
横でユリシーズが呟く。
「なんだこれ? はじめてみるな……」
ゴトゴトと、さらに落ちてくる雑多な物。小物から、大きな物では杖のようなメルの身長以上の物まで、落ちてくる。それがメイリードの足元にどんどん溜まっていった。
「っと、これで最後か。ふん、回廊化か?」
回廊化。
いままで、どこからともなく出していたのは全部レイナの生態錬金組織。
「こりゃおもしれぇな」
「やめろ!!」
「うるせぇつってんだろうが、右腕の礼は後できっちりしてやるから黙ってろよ。っと」
「ぎ、がぁぁああああああああああああ」
レイナの叫びが一際高く響く。
風が吹いていた。すぐ近くの逆さに生えた真っ白な風車は、動きをとめ静かにたたずんでいる。
ユリシーズは、その動かなくなった風車を見上げている。
先ほどからの戦闘の余波で壊れたのだろうか。そこまで考えて、理由に思い当たり思わずメルに視線を投げる。
メルは一瞬だけユリシーズの視線に合わせると、微かに頷いて返事をした。
――判っている。
「ったくやっぱ妖精はすぐ壊れていけねぇな。お前は頑丈だけがとりえだが、弄るのは楽でいい。それぐらいしかいい所ねぇけどよ」
「待て! ……もうレイナを離せ」
「あん? なにいってんだお前? たしかに、もう解析は終わったけどな。本当に離すとか思ったのかよ? つくづくバカだな不良品」
生態錬金組織は、内臓と何も変わらないものだ。無理やり抉り取られればそれで死に至るし、たとえ正しい手順で摘出したところで、組織は二度と動かず体もすぐに弱ってしまう。妖精たちが持つ浮遊の錬金術がいまだに実用化された錬金術としては存在していないのもそのためだ。取り出すことができないので、解析がすすまないのだ。
そんなものが取り出され、あまつさえ
「よっと、何でも回廊化できるとはな。面白いなこれ。まったく空間回廊なんてくだらねぇ使い方とかするんじゃねぇよ。もっと人様の役にたて――っと、よしこうだな」
無理やりそれを解析、起動させられるということは、体の中に手をつきこまれて動かされているのと同義だ。
「あああ!! あががが!!」
痙攣するように、レイナが叫んでいる。
「回廊の対象がなんでもできるっつーことは、物が増やし放題っつーことか。試しにてめぇの杖を回廊化してやるよ!」
言い終わらないうちに杖が強烈な重さになり、メルの手から滑り落ちる。
聞いた事もないような重たい音を立てて杖が落ち、跳ねもせず床に突き刺さった。そして一瞬の空白時間のあとに、床を打ち抜き下へと落ちていった。
「はっ! はは!」
「……もういいよ」
「あん? なにがもういいんだよ?」
「別にあんたになんかいっちゃいない! ヘイズ!」
「あ? なに――がぼっ!」
ぼとりと、天井から水が降ってきた。いや、それは確かな意志をもってメイリードの顔に纏わりついた。
「ごぼっ!! ごぼぼ」
「あんたになんか話しかけてないっての。ヘイズそのまま生精ぬいて!」
「……いいのかよ」
生精を強制的に移動させることは、難しい話ではない。だがそれは命そのものでもある。やり方を間違えてしまえば、衰弱死だ。
「殺すつもりでいいから!」
「指令は捕縛だろうが!」
「ばか! このままじゃレイナが! 早く!」
反論ができず、ヘイズはそのまま己の体を構成する水をメイリードの体に滑り込ませていく。幾度となく彼女の手が水を掻き出そうともがくが、水が掴めるはずもない。
肌から、粘膜から、メイリードの命を溶かしていく。
それは緩やかな倦怠感と驚くほど優しい疲労感。
次第にもがく手にも力がなくなりはじめた。
「レイナをっ! 離せ!」
無理やり手に取り付き、掴まれたレイナを奪い返す。だが簡単にその指が外れることはなかった。
じれったくなって、勢いよくメイリードの腕を引っ張る。
――ごきん
先ほど無理やりつけていたはずの骨が、メルの手でもう一度折られる。
「う、わ」
見ていられないと、ヘイズが顔を背けた。
声も出せず、もがき苦しみ床にうずくまる。もうその手にはレイナは握られていなかった。
_
無言でうずくまっていても、叫んでいるのが分かるほどに震え憤っているメイリードを見下ろしても、何も感じなかった。メルにはもっと酷い事をしてきたのだから、この程度で罪が消えるわけがない。
ユリシーズはレイナを抱えて叫んでいるメルに視線を向けた。必死で回復を試みているのか、幾度となく遠慮なしにエリクシルを抜き出されている。
だがユリシーズは判っている。いやメルにも判っているだろう。メイリードに取り付いたヘイズすら判っている。
もうレイナが助からない事を。
既に解析を終え、生態錬金組織は意志を無視して起動した。
「くそ! 止まらない! なんで!」
幾通りも組み合わせを試した。まったく手探りで根源錬金術に近い生態錬金組織を、術者以外が止めるなら、完全な構造把握が必要不可欠だ。鍵のかかった家を壊す事はたやすいが、家の中の物が壊れてしまえばそれこそ意味がない。鍵を開けて扉から入る必要がある。
「いつもなら、こんなの!」
驚くほどの速度で、解除を試すが全てが空振りに終わる。焦りから、錬金術の精度が酷く悪く、まるで素人のようだ。
「メル……」
「もうちょっと! もうちょっとだから!」
解除が出来ないだけならいいが、解除しようと組み上げた錬金術が暴走してあたりに火花を散らしている。
「メル! いい加減にしろ!」
ヘイズの叫びにびくりとメルが震える。
「もういい……もういいから」
「……あと、ちょっとなんだ、……ほら、こうしたら」
暴発。行き場のない熱量が術者の使っていた錬金術の式の上でただの熱になって消費される。
爆風でメルの頬が焼けた。
「もういい! どっちにしてもレイナは助からねぇ!」
「……あ」
「メル……はやくメイリードの確保を」
「いやだ! ぜったい! 嫌だ!!」
レイナを抱きあげ、メルが叫んだ。
開いていた手で自分の頬をはたき、涙で真っ赤になった目をこする。そこでようやく、自分の手の中にいるレイナに気がついた。
「あ……」
まだ微かに息のある彼女は、静かにメルを見上げている。もう声も出ないし、目もはっきり見えていないだろう。
それでもしっかりとその魂はメルを見上げている。
「ごめん。……私が」
返事はない。
だが返事の代わりに、レイナから引きずり出された錬金術がさらに動き出した。
「レイナ……」
その錬金術は、レイナそのものだ。彼女はこの錬金術を認められて管理錬金術師になったのだから。
せめて、せめて最後に。
「――ごめん」
せめて、この錬金術で。
許してもらえるとは思っていない。
回廊化の対象は空間ではなくて時間にした。
メイリードが解除を行ったときにはもう既に世界は一回りして何千年も経っているだろう。
ざまぁみろだ。組みあがっていく錬金術を見上げメルは呼吸すら忘れた。この錬金術がレイナの命にすら思えたのだ。出来ればこのまま止まらないでくれとも思う。だがその式は、あまりにも美しかった。生態錬金組織の機能をそのまま錬金術に移したとは思えないほど美しいものだった。
消えていく。時間は行き場を変更され、幾度となくその場で回りだす。その回転は次第に他の時間も巻き込み大きく広がっていく。回転は渦をつくりだす。
まるで銀河を形成する星屑のようにきらめいていた。
ユリシーズからエリクシルを貰いながら、腕の痛みで溺れかけているメイリードに回廊化の錬金術が発動する。彼女の時間が、彼女の体を流れる時間だけを無限大に遅く。
既に遅くなり始めたメイリードが、ゆっくりとメルの方を向いた。
笑っていた。
じりっとエリクシルが吸われる感触に、ユリシーズは思わず顔をしかめる。
時間が遅くなり、加速度的に遅延していき次第にメイリードだけが薄暗くなりはじめてきた。彼女に当たった光が遅くなっていって少しずつ光量が減ってきているのだ。
このまま行けば彼女に当たる光は波長を変え、返ってきた波長は可視光から外れていくだろう。
そして無茶な対象を回廊化したしわ寄せがやってくる。
「あ、あぁぁぁぁ!」
もう十分だと、錬金術を止めようとしたメルが叫ぶ。
既にメイリードから体を切り離したヘイズが、視線をよこしてきたのでユリシーズは狼の大きい口を引き上げ笑った。
――判っている、覚悟もしていた。
ゆえに自分は楽しかったといえる。
ならばもののけとして何も問題はない。
自分の手で二人も知り合いを消してしまう彼女には、申し訳ないと思っている。ユリシーズは涙でぐちゃぐちゃになったメルをただ見るしかできない。もう体が小さくしぼみ始めているのだ。
「い、やだ! なんで、止まらないの」
泣かせてしまった事はすまないと思う。もし記憶をなくした自分が再生したら、メルの事を気にかけてほしい。
体に刻むように、ユリシーズは願う。
――ああ、そんな顔をしないでくれ。
かすれていく視界の中、泣きそうなメルを見た。
と、いきなりそのメルの顔が静かな表情に戻る。
既に涙もなく、もう目の前のレイナのこともユリシーズの事も気にかけていない顔だ。
そしてゆっくりとその視線はこちらを見た。
「もう、いいでしょう? ――ニノ」
声に、ニノは弾かれるように跳ねた。声と逆方向へ、逃げ出すように。記憶酔いを追い出すように頭を軽く振る。
「メル、さん……」
肩口からと右頬を黒く焦がしたメルが立っていた。
その足元に、ユズが倒れていた。
「ユズ」
「ん……にゃ」
体の形はとっくに崩れたはずなのに、気がつけばユズのいつもの体に戻っていた。
――記憶再現? ユズさん本人を呼び起こしたのか。
「錬金術、つかえるのね」
メルの言葉に感情は感じられない。怒りも、敵意も、警戒心も見出せない代わりに、優しさの欠片もなかった。
「これ以上やると、ユズが消えちゃうから悪いけどやめてもらうよ。まぁこれ以上やる意味はないでしょ? もう知っているだろうし……」
ねぇ? 管理錬金術師さん。
顔の左半分、それと左手。残っていたメルの肌が一瞬にして黒く焦げた。記憶の中で見たのと同じ、早送りでもしてるような超高速の錬金術励起。
――死
反射的にニノは逃げ出すように距離をとった。掴みかかれたら、ただの人間である自分に対抗手段はない。それどころか、一瞬でひき肉にされるだろう。
「はっ……はっはっ」
恐怖と興奮から息があがる。
「もういい?」
一歩、踏みしめるようにメルが前に進む。
と、いきなりメルはその場でしゃがみこんだ。
思わず悲鳴をあげそうになったが、すんでのところでニノはそれをこらえきる。
「ユズ、おきろ」
「んぁ……あぁ、メイル。久しぶり」
いきなりはっきりした口調でユズがしゃべった。
「ばか」
べちっと、遠慮なくユズの頬をはたく。
「にゃっ! ……お、おぉ? おー、メイルぅ~」
「まったくいきなり連絡してきたとおもったら、倒れるから宜しくって。意味わかんないでしょ」
「うひひ~、でも本当だったでしょう?」
「あのとき……」
すでに連絡されていたのだ。トイレにいくと、店にはいったときに。メルに既に連絡が行っていた、これからされる事に気がついていた。ということ。
「お手上げですね」
ニノは肩の力を抜く。この状況で必要な事は戦うことでも口止めすることでもなくて、逃げ出すことだ。
「ユズたてる?」
「ん~、ねぇメイル」
「なに」
「錬金術つかったでしょ」
「……」
びくりと、メルの動きが止まる。
「仕事じゃないのに、つかったよねぇ」
面白そうに、黒く焦げたメルの頬に手を伸ばすユズ。
「……こうでもしなけりゃ」
ただ忌避していただけで、特にそういった約束や契約があるわけでも罰があるわけでもない。
ただ使いたくないから使わなかった。
誰も救えない錬金術などいらないと。ヘイズはそんな彼女のために、ならば人の役に立つ錬金術の使いどころを用意しよう、と風車の修理業者を始めたのだ。
説得には随分時間を要したが、こうして仕事なら錬金術を使うことをよしとするところまではきた。
「助けられたじゃない」
「……なにをいってるの」
「私を助けてくれたじゃないぃ~」
ぺちりと、メルの平手がユズのおでこを叩いた。
随分と力のない平手打ちだった。
「あんたねぇこんな事のために……、消えるところだったんだよ? 判ってんの?」
叩かれた額をさすりながら、ユズが立ち上がった。
「こんな事? 違うよぉ。とても重要なことさぁ。とってもとっても重要なことだよぉ
「どこが――」
重要なのだと言おうとして、口を噤む。
「私の後輩のお願いだもの、とっても重要だよ。そして彼女にとってもメイルの為にってだけじゃないしねぇ」
「……まったく」
まいった、とはこのことだ。メルは深くため息をつくと、めんどくさそうに立ち上がる。
「ニノ。もうすぐヘルプにリグがくるから。よろしく」
「へ……、え?」
思わず素っ頓狂な声がでた。
なにを言っているのだ。たしかに意味の分からない言動が多い耳長族だが、さすがに意味がわからなすぎた。
「なに? 記憶のぞいたら、もう用無しだから会社やめる? ならもう一人ヘルプだすけど」
「え……と」
「やめないなら仕事先にはじめといて、時間制限あるでしょ? いそいで。私はユズつれて早退するから」
「……は、い」
なんだか判らないうちに、ニノは頷いていた。
いまだ少し形の定まらないユズと、彼女が持っていた荷物を軽々と担いでメルは街道を歩いていた。
「ねぇ、リグちゃんはさぁ」
「わかってるから。もうやんないとか言わないから」
「うひひひ~、メイルは優しいねぇ」
不貞腐れたように頬を膨らませてメルは俯く。何もかもしてやられたとしか思えない。ニノをけしかけ、メルを呼び出し、リグの願いを叶えてみせた。
「まったく、アホっぽくせにこういう悪知恵は働くんだから。油断もなにもできやしない」
「うひひ」
「いつから気がついていたの?」
「ニノ君が錬金術使えることぉ?」
「それもだけど、私の親の事調べているって」
「最初からかなぁ。すっごい名前きにしていたしねぇ。耳長の名前は親族関係の意味しかないからさぁ」
「ユズでも気がついているってことは、リグも気がついているか。あの子は気がついていても何もしないか」
よいしょと、ユズを背負いなおしてメルは歩き続ける。
「ニノ君の事、大好きだしねぇ」
「私よりニノのほうが大事なのね。ねえ、ユズは母親に会いたいと思ったことある?」
「えぇ? えと、あの人のことぉ?」
自分は母親などに興味はなかった。生まれたときからあんな扱いをうけて愛を感じられるほど変態でもない。ない物をねだるような年でもないけれど。
「うひひ、私はどうだろうねぇ……」
「ま、時間回廊から出てくる事もないだろうけど」
メイルの肩の上で見上げた空は随分と綺麗だった。
「どうかなぁ、いつか会えるんじゃないかなぁ」
「永久拘束だよ? でてくるわけないでしょ……あいつが時間回廊解除して帰ってくるの待っているってわけ?」
「んふふふ~。あの人ならもしかしたらあるかもよぉ」
平気で恐ろしいことをいう。
「そしたら私は逃げないとね」
「うひひ。あの星にでも逃げるぅ? さすがにクリエイターだってリグちゃんが作るロケットみたいなもの作れるなんて思えないしねぇ」
「……それもいいかもね」
己の焦げた掌を見つめメルはため息をついた。
アレルギーだけは治りそうにない。でも、後輩のためでも自分のためでもあるというのならくだらないわがままの一つぐらい無視してもいいだろう。自分が手を貸したところで、簡単に空になど行けるとは思えないがやらないよりは、やって諦めようと、そう思った。
と、前から見慣れた人影が走ってくる。
「あ、せんぱ~い」
リグだ。背には修理用の工具。ニノのヘルプに行くのだ。
「よろしくね」
「はい。ニノ君は先に?」
「先にいったよ、ちょっと疲れているとおもうから宜しく」
任せてください。そうっいてリグが胸をはった。
「あ、先輩。先輩って」
「なに?」
「フルネームなんですか?」
思わず、笑いが出る。後ろでユズも苦笑していた。
「メイルジーン・ベルベット。……柱の創造主、グリフジーン・ベルベットの直系だよ。自称、だけどね。私が生まれるまでは生きてたらしいよ。私は見たこともないけれど」
「へぇ……え? えぁ? ええぇ!?」
リグが素っ頓狂な声をあげた。
叫び声に、観光客たちが振り返る。
それじゃ後を頼む、そう言ってメルはユズを背負ったまま走り出した。
「うひひ、メイルは意地悪だ」
「そう? 犯罪者の娘っていうよりは、いいでしょ」
「そうなのかなぁ~」
背に感じるユズの重さに、ほんの少し懐かしい気持ちになりながら、メルは人ごみを軽快に走り抜ける。
いつまた止まるかもしれない風を体に受けながら、目を細めてみる。いつもとたいして変わらない街並みに、いつもと変わらない人ごみ。人だらけだが、たまに見かける水棲族や耳長族、足元や屋根の上にもののけがちらほらと見える。
いつもの22番地だった。
いつか空に行ったら見れなくなってしまうかもしれない、そう思うと、この景色も少しは覚えていてもいい。そんな風に思えた。




