彼方へ
ここから、二巻の内容となります。といっても、特に区切り的なものなどはありませんが。
世界は2本の柱である。
昔大地に住んでいた人々の過去は忘れ去られ、今や微かに史実に残るのみとなっていた。雲海はどこまでも広がり、山の1つも顔を出さず目に痛いほど日の光を反射している。
一様に一面に一色の世界にそびえる2本の柱はあまりにも頼りなく、いつ崩れてもおかしくないようにすら見えた。
だが近づいて柱を見てみればそれは一変する。柱にツルのように巻きついているのは街だった。家の上に家が建ち、通路の上に家を建て、家の上に通路を通し、階層なんてバカらしくなるほどに積み上げ広がる街は、柱に螺旋を描き張り付いていた。
そして街には例外なく風車が立ち並んでいた。
羽が見えないほど勢い良く回る風車もあれば、のんびりと回る風車もある、おのおの風を受け風を切り回っていた。
世界は賑やかであった。
もう日は高く、中天を抜け後は暮れるのを待つばかり。風車以外の風切り音が耳にうるさい柱の屋上で泣き声が響いた。
「ぜんばぁいぃ」
リグの鼻水交じりの声に、前を行く小柄な少女が振り返る。
彼女の顔もまた、少し困った顔だった。人より少し長い耳が力なく垂れていた。
「無理して来るから……高いところダメなんでしょう? 雲海だって見えないのに。なんで風車の修理工なんてやろうと思ったのか、未だに私は理解できないんだけど」
「う、うぅ。い、まそんなこと言わなくてもいいじゃないですか。大体、高所恐怖症でも風車は直せますし」
「ほら、日が暮れる前に行くよ。暗くなったら金属樹の森なんて歩けやしないんだから」
そう言って、彼女は目の前に生えている木の枝を手折るが、木は折れず曲がった。この森は、柱の金属を吸い上げ育つ金属の木でできている。それだけならいいのだが当然金属なので、その枝葉は普通の木など比べ物にならないほどに危険だ。
「あぁぁ。待ってください、先輩~~。メル先輩ぃぃ」
「座り込んでも這いずっても柱は低くならないよ。そんなの人間じゃない私にだって分かる」
「びぇぇぇぇ」
鼻水と涙でぐちゃぐちゃなリグを見下ろして、メルはため息を1つ。
彼女の実家の人間がこれを見たら一体どう思うのだろうか。
リーズフリオ・グリーフベルア。メルが勤める風車修理業者の後輩である。
世界中といっても、世界は柱に巻き付いた街だけではあるが、そんな人々が住む生活圏の工業製品ほぼすべてのシェアを独占するベルフレア社。そのCEOの長女である。にわかには信じられない大富豪の娘だが、仕事は親が面倒を見ないという家の教えの所為でこんな場末の修理工に落ち着いたらしい。
メルにしてみたら、それでも親の権威は届きそうだし、なんの意味もなさそうに思える。だが、人間はよくそういった無意味なことに熱意を傾けることを知っているので口には出さない。耳長族である彼女にとって、そういうことは人同士でしか理解し得ないものであると十分に経験してきた。
「今からでも戻る?」
「だ、いいいじょうぶでず」
全然大丈夫じゃない声で答えるリグに飽きれ果て、メルは座り込む彼女の前に腰を下ろす。
見上げると、金属樹の枝葉の隙間から空が見えた。金属樹の森をすり抜ける風が立てる甲高い風切り音が、絶え間なく響いている。目的の、開けた場所はもう少し森の奥にある、この場所では落ち着いて空を見上げることもできやしない。
息苦しそうに息を吐き出しながら、メルは後輩を見る。
こんなでも、大事な後輩だし修理工の技術は確かなものだった。耳長族であるメルは種族的に機械が苦手なので人間のリグを頼りにしている。むろん、それがなくても大事な後輩に変わりはないのだけれど。
「ほらもう少しだから、がんばって」
「ううう、まだ歩くんですか」
「柱の端より真ん中のほうがいいでしょ」
柱のちょうど中心あたり、金属樹の森が開けた場所がある。
森があげる風切り音も真ん中まで来ると随分静かになって、落ち着いて空が見上げられた。
「もう日が暮れ始めてるし……」
げんなりとしたメルのつぶやきは、風に乗って掻き消える。
振り返ると、中央部に来てようやく落ち着いたリグが、うずくまるように丸くなって寝ている。
「まったく、困った後輩だ」
言いながら困った風でもなく、メルは近くの金属樹に貼ってある札を1枚はがす。
少し厚みのある封筒のような札には、
「グリフジーン……」
この柱を作り上げたと言われる、希代の錬金術師グリフジーンの名前が刻まれていた。
実際はそんな名前など書かれていないのだが、認識を曲げられている。どんな言語を扱おうが、言葉を持たない者だろうが、錬金術によってそこに書かれている文字をそう認識することができるといった代物だ。
まるで世界の支配者気取りである。死んだ創造神まがいの名前にメルは顔をしかめ、一息に札を破った。
紙の中で起動していた錬金術が、式を乱されて霧散する。すぐに、忌まわしい名前は読めなくなった。
代わりに封筒状になっていた紙の中から出てきたのは小さな電池のような丸い塊。
錬金術を起動させ続けるのに必要なエリクシルを呼び寄せ、さらに世界の理を繋ぐ触媒の役割も果たすものだ。いわば錬金術のバッテリーである。無論出力はあまりなく、寄ってくるエリクシルも大した出力ないふらふらの電精がいいところである。
だからメルはもう1枚、札を取っては破いた。
「錬金術なんて使うつもりなかったから、用意してないし」
いくつかのバッテリーを集め終えると、錬金術を組み上げ始める。子供の頃の記憶。母親がやっていたやり方だ。母親から盗んだやり方だ。
忌々しそうにグリフジーンの名前を睨む母親と、その母親をしかめっ面で見上げる自分の記憶。
――それで結局、あいつと同じことしてるわけだ。
気に食わない気持ちを飲み込み、今は暖をどうにかする必要がある。生死にだって関わってくる問題だ。仕事以外で錬金術など使いたくはないが、我侭は言っていられない。
金属を木へ。世界の根源は1つである。それは物理的な話ではなく、もっと別の理の話。今ある物を分解し、欲しい物に組み上げる。錬金術が追い求めた1つの答え。金を作り出す術の応用。金属樹を木へ、金属の床を土へ。
簡単な焚き火も、この場所では気を遣わなければいけない。金属とほとんど変わらない熱伝導率、焚き火などしようものなら、近くに寄ることすらできなくなるだろう。
「まぁこれで、凍死はないか」
持ってきた鞄から、毛布を出してリグにかける。気が付けば、日も完全に傾き空が赤く染まり始めている。
鞄を開けて忘れ物がないことを確認する。1晩分の食料も明りもある。毛布はリグにかけたので全部だが、焚き火があるなら自分には要らないだろう。
鞄の底をさらうと、硬い感触が手に当たった。
「ん、あったあった」
大事そうに鞄から引き出したのは、ボロボロの1冊の本。中身はメルにとってよくわからない数字の羅列ばかりなのだが、時折夜空の記録が載っていた。そこには、綺麗な星の絵が描かれているのだ。
小難しいことが書かれているのでまじめに読んだことはないが、それでもメルはこの本が好きでいつも柱の屋上へ来るときは持ってきているものだった。
「ん……」
リグが毛布に包まりながら寝返りを打つ。森の真ん中を通る風は勢いをなくし静かにメルの頬をなでた。
彼女は金属樹だった薪をくべながら、本を開く。
『ただ、我ら見上げた空を忘れず』
冒頭の書き出しに書かれた言葉。空の天辺に、一際輝く星が出ていた。
■
目が覚めれば夜。すでに日は落ち暗くなり、あたりが寒くなり始める時間。だけど周りは明るくて、寒くはなかった。
目の前で揺れる焚き火を見て、リグは特に疑問も覚えず暖かいなぁ、などと考えながら泣きはらした目をこすった。
――本?
座ったままの姿勢で器用に眠るメルの膝上に乗っている。強い風が吹いたら焚き火の燃料になりそうな気がして、思わずリグは手を伸ばす。
「わ、紙の本」
木材資源はほとんど街の基礎や家を建てるのに使われるので、紙は高級である。仕事などで使う分にも再生紙が基本で再生紙は白くはない。だというのに日焼けはしているものの目の前の本は、白だった。再生紙特有の灰色とごわごわした表面ではない。
珍しさに、慎重に持ち上げタイトルを読む。
「……んー、すたーげいざー、かな?」
かすれてよく読めないが、そんな言葉が書かれていた。耳長族の言葉だろうか、意味は分からない。
開けばそこに書かれていたのは、数字だった。
「なに、これ……」
重力偏差による遠恒星距離補正について。二点間観測による星間計測。変光星周期表一覧。自転速度。地軸傾斜とその影響。
光学観測の精度向上と、観測方法の模索。人工衛星。
思わず空を見上げた。かすかにしか残っていない空の学問であることだけは分かる。リグは自分でもそれなりに高等な学業を修めてきたことを自覚している。それは自己評価などではなく事実だ。だからこそ分かる。だからこそ理解できない。
星を見る学問。本を持つ手が震えた。
思わず見上げた空、今まで意識したことのなかった夜空には、目が痛くなるほどの星が輝いていた。
「……あ」
星空を見上げた子供の頃を思い出して、リグは思わず声を上げた。まだ自分が高いところが怖くなかった頃だ。
――今までずっと忘れてた……。
幼い頃から共に育ったメイドであるモモと一緒に、屋敷の屋根に上って星を数えた記憶。
――あの頃から自分は機械いじりが好きで。
星が数え切れると信じていた。モモはいつも傍で笑っていた。耳長族であるモモは成長が遅く、リグの一番古い記憶でもまるで姉妹のように見えた。リグはモモの笑顔が好きだった。耳長特有の長い耳を真っ赤にして笑うのだ。興奮するとすぐ体温が上がるらしく、怒っても泣いても、彼女の耳は真っ赤になっていたものだ。
あのモモの笑顔が見たくて、色々な話をした。機械の話が特に好きなモモにせがまれては、学校で覚えた話をいつも聞かせていた。あの星を見ながら。
そう、星を見ながら。
――あの星に行くことだって、できるんだから……か
空の学問の授業で惑星と宇宙を知った。強力なエンジンを積んだ頑丈なコンテナがあれば、この柱を飛び出して宇宙にだって行ける。子供の考えそうなことだ。当然無理な話である。強力なエンジンを組み上げるならそれだけ頑丈さが要る、頑丈にすれば重くなる、重くなればエンジンを強くしなければいけない、いたちごっこだ。今人が作れるものでは到底たどり着かないだろう高効率なエンジンが絶対的に必要で、さらに頑丈で空気を逃がさない密閉機構が必要だ。そして、太陽の光から搭乗者を守るシステムに、軌道計算、帰還するための大気圏突入ポッド。数えればきりがない。
「こんな本あったんですねぇ。図書館でも見たことないんですけど……」
古くなった本を傷つけないように丁寧にめくる。めくるたび、埃とメルの匂いがした。大事にしまっていたというより、これは大好きで何度も読み返してボロボロになった、というのが正解かもしれない。そしてそれはページをめくるたび確信に変わる。手垢で黒ずんた紙の端、何度も読み直しただろう紙についた癖。そしてリグは1つのことに気が付いた。
――星の絵があるときだけだ。
本についた開く癖。手垢。すべてが、星の挿絵があるところに集中していた。本の内容はリグでも難しい数字の羅列だ。メルにはさっぱり分からなかったのだろう。
いつも空を見上げているメルを思い出して、リグは笑みをこぼした。
「でも先輩、星は遠いんですよ。見上げても届かないです。ほら、この本にだって書いてあるんですから」
観測可能な恒星の距離の時間差計測。自転と公転を使った三点観測だ。それによると、最短距離の星でも気が遠くなるほど離れていた。一番近いのは月だろう、これであっても万単位で距離が離れている。
「星が広がっているから、先輩は苦しいんですか?」
答えはない。風の音にまぎれてかすかなメルの寝息。そしてページをめくる乾いた音。
ふと視線が落ちたその先、本に書かれた一言にリグは思わず息を止めた。
「え、なにこれ……」
■
薪の爆ぜる音。火は管理をしなければいけないという、基本的なルールに、もやがかかっていた思考が晴れ渡る。
「ん、あ」
寝ていたらしく、メルは自分の体が動かない気持ち悪さに苦しそうに息を吐き出した。
「あ、先輩。おはようございます。もう夜ですけど」
「寝てた、のか。おはよう。今何時?」
「えっと、もうすぐ日が変わるぐらいですね」
空を見上げると、小さな広場になっているこの場所からはよく空が見えた。
その中央に、チカチカと瞬く星がある。昼でも見えるほどに明るいくせに小さな星。そしてその星を覆いつくそうとする月が出ていた。
「間に合ったからいいか……」
「間に合ったってなんですか?」
手に持っていた本を置いて、リグが首を傾げる。
「今日は丁度真ん中に月が昇る日だったから」
言って指をさす。欠けた月がゆっくりと中天に輝く星に重なり始めている。
「ん、リグその本」
「あ、これ。焚き火の燃料になりそうだったんで。あ、読んだらダメでした?」
「いや。別にいいけど」
子供の頃から読んでいた、メルにとっては絵本のようなものだ。少し気恥ずかしい感じがして、目をそらす。
「これ、面白いですねぇ。天文学の教科書か何かですか?」
「テンモンガク? いや私は学校なんて金持ちの行く所なんて行ってないよ。貰い物だから何の本かもわかんないし」
実際誰から貰ったか判らない。物心付いたときには持っていた。それが母親のものではないことぐらいしか分からない。
――あいつはそんなもん、興味ないし。
「でも、面白いですねこの本」
「へ? ……あぁ、そうかリグなら読めるもんね。私はさっぱり。何が書いてあるの?」
言うと、リグは嬉しそうに空を指差した。指の先を追って空を見上げれば、月に覆い隠されてもなお眩しい明滅する星。
「先輩は星までの距離を知ってますか?」
「さぁ? すごい遠いんでしょ? そういやヘイズがなんか言ってたかな……億単位でも足りないって」
「そうです、でもですね」
リグは大事そうにメルの目の前に本を開いて差し出す。
「あの星は……、空の真ん中にあるあの星は、すごい近くにあるんだそうです。ほらこれ」
指を指された項目に書かれている文字。
「人工、衛星? 衛星って、月とかのこと?」
「そうです、月まででも十万単位ですが。あの星は三万しか離れていないんですよ。行こうと思えば」
言葉を飲み込み、一瞬ためらうように空を見上げるリグ。
「行ける距離です。それぐらい近くにあるんです! 大出力のエンジンと、頑丈な箱さえあれば、今だって打ち上げられるんですよ」
あの星はすごく近くにある。
その言いようのない息苦しさを感じ、思わず胸に手を当てた。発電室に入ったときのような、締め付けられる、押し込められる、閉じ込められる、そんな息苦しさだった。
肺に入っていた空気を一気に吐き出す。
「先輩も、あの星まで行けば治るかもしれませんね」
「――え」
「あそこまで高い場所へ行ければ、もうきっと息苦しくなんかなりませんよ」
――ああ、そうか。
いっとう高いこの場所でも、本当の息苦しさなんてなくならなかった。
――あの星があったから。
「……行ってみたい」
メルの口からついて出た言葉は、まるで水底であえぐように掠れていた。
いつもより苦しそうな顔をするメルが目の前に居る。
連れて行こうと思った。昔の夢物語が急に色を帯び現実の目的になっていく感覚。昔、屋根の上で語った子供のバカ話。おっきなエンジンと頑丈な箱、あの星に向かってただ一直線に飛び立つロケット。
連れて行けるかなんて分からない。
だが、連れて行けるかもしれない。
だから、連れて行きたいと願った。
炎の光に照らされてる自分の顔のほてりを感じている。
大きく吸い込んだ息は、その熱を肺に届けて、むせ返りそうになる。それでも――
「必ず、先輩が苦しくないところに連れて行きますから」
苦しそうにあえぐメルがすぐ横にいる。焚き火に照らされて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
助けてと言われた気がした。
だから、連れて行こうと思った。
そして、連れて行きますと約束した。
必ず、連れて行くと決めた。
メルが顔を上げる。少し青白い顔をしていたが、笑っていた。きっとメルはリグの決心など分かっていないだろう。でも自分のための言葉だということは理解していた。
だから――
「ありがとう」
のけぞるように見上げた空に、月と星が輝いている。
「そういえばさ、リグ」
「はい?」
「屋上大丈夫なの?」
「……え……あ」
今度はリグが青くなる番だった。
叫び声が屋上にこだまする。
それは中天に輝く星にも届きそうな叫びだった。




