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ひとり  作者: 朝陽 遥
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 律子の左手の小指はほんの少し外側に曲がっていた。別れて何年も経って、顔や声を思い出すことさえほとんどなくなってからも、その曲がった指の感触だけを、やたらと鮮明に覚えている。

 好い女だったと言えば嘘になる。器量のいいほうではなかったし、気が利くとか頭がいいとか、そういう魅力のある女ではなかった。

 むしろ一緒にいても、苛々させられる場面のほうが多かった。たとえば会計のたびに小銭を出すのにまごついていちいち待たせるところだとか、ただ歩いているだけだというのにしょっちゅう人だの物だのにぶつかっては、小さくなって謝るところだとかに。

 だが、あれのそういう鈍くささだったり、要領の悪さだったりというような、長所とは言いがたいような部分をこそ、俺は、必要としていたのだと思う。それこそ、あまり誉められたものではない理由で。

 変形した小指のわけを確かめたことはなかった。生まれつきのことなのか、骨の病気か、あるいはもっとわかりやすく想像のつく理由なのか。たとえば、そう、父親か、でなければ前の男にでも振るわれた暴力のために、折れて歪んだままになっているのだとか、そういうような。

 要はそのたぐいの挿話がいかにも似合う女だったのだ。何をしていても目つきや仕草の端々から、かすかに不幸のにおいが立ちのぼっていた。たとえばちょっとした好物を食べているときや、テレビを見て笑っているときにでさえ。

 そんなところに庇護欲を刺激されたとでもいうのならば、まだしも聞こえがよかったのかもしれない。だがあれは、その種の善良な人間に巡り会うだけの運も、持ちあわせてはいなかった。そういうことだったのだろう。

 つまるところあの女は男から粗略に扱われることに慣れていて、慣れているのだからそのように扱ってもかまわないと、男に思わせるような女だった。

 とはいえ何も一緒に暮らしていた当時から、こういうことをいちいち筋道立てて考えていたわけではなかった。意識するようになったのは、律子が短い書き置きひとつ残して、この部屋を出ていったあとのことだ。

 


 あれは何のときだったのか。真夏の、昼間だったことだけは覚えている。どこか出先でのことで、二人で連れ立って旅行などしたことはなかったから、買い物か何か、日常のちょっとした用事の途中だったのだろう。

 俺は律子を雑に扱う一方で、日々の買い物には、たいてい律儀についていった。いつもぼんやりしていたあの女に自分の財布を預けたまま目を離すのが、どうにも不安だったからだ。

 俺は良識的な人間とは言いがたいが、それでも生活費を女に出させることを恥と思う感覚には、かろうじて持ち合わせがあった。だからあれに財布を渡しはしたが、目を離して自由に買い物をさせることまではしなかった。

 律子もあの日まで、そのことに文句を言ったためしはなかった。あるいは持ち前の鈍さで、俺がついてゆく理由をいいように誤解していたのかもしれないが。

 それは、何の気なしのことだった。車から降りるのに手間取った律子に、俺は舌打ちをして、

「ったく、とろい女だな」

 そういうようなことを吐き捨てた。

 俺のそうした言動は、その日にはじまったことではなかった。それは一緒に暮らした二年あまりの間、もうほとんど口癖のようになっていた言葉だったし、律子もいつもであればそんな悪態はぼうっと聞き流して、たいした反応を見せもしなかった。

 だが、あのときだけは違っていた。

 風の無い、炎天下の昼下がりだった。蝉がわんわんがなり立てていた。

「信さんはさ」

 降りしきる蝉しぐれの中だというのに、その声は、やたらにくっきりと耳に届いた。

「信さんは、なんでも器用にやれる人だから、あたしみたいなのには、苛々するのかもしれないけど」

 律子はそこで言いよどんで、かすかにうつむいた。

 そのときまで俺は、律子が文句を言うのを聞いたことがなかった。それどころか、あれが誰かに文句を言うことがあるということさえ、想像してみたこともなかった。

 律子が話を再開するのを待たずに、俺は憎まれ口を叩いた。「俺が器用なんじゃなくて、お前が特別にのろまなんだ」

 その声は、自分で思っていたより何倍も荒かった。反抗など一度もしたことのなかった律子が、前触れもなくあらわにした不満に、動揺したのだろうと思う。

「そうかもしれないけど」

 言いかけて、律子はまた黙った。その白い首に汗が伝って、後れ毛が頬にはりつくのを見ているうちに、口が勝手に開いた。

「お前みたいな女は、」

 俺はあのとき、何を言おうとしたんだろう。

 お前みたいな鈍くさい女は、黙って何でも俺の言うとおりにしていればいい? 何をしたって人様に迷惑を掛けずにはいられないくせに、人並みに口答えするなんて生意気だ?

 どっちだっただろう。だがどちらにせよ、口から出る前に、自分の言おうとした言葉の理不尽さに気がつくだけの半端な分別が、俺には残されていた。

 それが結果的に良かったのか、悪かったのかはわからない。ともかく俺は、とっさに言葉をすり替えたのだった。

「お前みたいなのは、おんなじような、すっとろくて平和ボケしたのを見つけたほうが、よっぽどましなんじゃないのか」

 言い終えてしまってから、自分で妙にぎくりとした。

 律子はじっと黙ったまま、ぴくりともせずに突っ立っていた。凍り付いたようなその無表情は、いつものぼんやりとした面差しとはどこかしら違っていた。

 この女が、自分の頭でものを考えているのだということを、俺は、考えたことがあっただろうか。

 ずいぶん長いこと、阿呆のように二人そろって炎天下の中、突っ立っていた。

 顎を伝って落ちた汗が、アスファルトにぼとりと落ちたのを覚えている。まったく、頭がのぼせ上がりそうな暑さだった。

 やがて、いつにないことに、律子のほうがくるりと踵を返して、先に歩き出した。

「おい」

 俺の呼びかけに、律子は聞こえないふりをした。

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