小さな先生
「!」
首を掴まれ、女の尖った指先に突かれる直前――女の気が逸れた。
鋭い音を立ててすぐ側の氷壁に突き立てられたのは『鉾槍』。俺と女の視線が一点に集中する。
「はあ…はあ…」
そこにはすでに腰まで凍り付き身動きのとれなくなったオーウェンがいた。振り絞った力でここまで槍を投げつけたのだろう。惜しくもそれは女の頬を掠めただけであったが…
「このガキ……」
女のワントーンさがった声を合図に、辺りがさらに深々と冷えてゆく。
「いいだろう…まずは貴様からだ」
女の腕が離れたかと思うと、地を這う蛇のような動きで女がオーウェンに迫る。オーウェンの顔が一瞬焦りの表情を浮かべ…諦めたような笑みに変わった。
行かせるか…!!
「待て!」
「!!!」
びくっと体を鞭打たれたように硬直させて、女の動きが止まった。
『お前、いい加減にしろよ…。低級の水虬が何様のつもりだ?
俺を誰だと思っている…』
何故だろう。自分の口を借りて誰かがしゃべっているみたいだ。
ミズチってなんだ?俺はそんな言葉は知らない…はずだ。
けれど今はそれを気にしてる場合ではない。
糸に吊られたように女はゆらりと振り向くと、なにも言わずに指先を宙で横に切る。すると俺の腕を拘束していた氷がパキパキと音を立てて砕け落ちる。自由になった足で着地し、うなだれたように顔をうつむけ浮かんでいる女を見上げる。
『それでいい。消えろ、目障りだ』
自分でもぞっとするほど冷たい声が空洞に反響した…。
女の顔がはね上がると絶望の色に満ちて――その体は氷のように亀裂が入る。
「どうか、お許しを…!」
女の悲鳴のような嘆願を最期に、その体はあっという間に崩れ落ち――白い灰と化していた。
あの魔物にしてはあまりにあっけない最期であった。
しかし憐れに思う気持ちは微塵も湧いてこない。むしろ白い灰を見ていると気持ちがささくれ立ってすら来る…。悪態をつきながら蹴散らしてしまいたいほどだ。
「…あんた、ハヤトだよな…?」
女が消えたことで氷付けの魔法が解けたのか、自由になったオーウェンがおそるおそるといった体でそんなことを聞いてきた。うしろでは同じく氷から解放されたティファが静かに佇んでいる。
「当たり前だろ」
フードの下からオーウェンを見返すと彼はやにわに目を見開き…「そうだよな…」とぎこちなく笑うのだった。
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「軽い凍傷だけど、しもやけみたいなものね。すぐ治るわよ」
エミリーの両手からぽぅ…と放たれる淡い光を見下ろしながら、オーウェンはどこか上の空に頷いた。そしてその瞳は離れたところで岩の上に腰を落とす青年――ハヤトに向けられる。
彼は今ティファを隣に侍らすのみで、深く被ったフードの下に隠れた顔はどんな表情を浮かべているのか窺い知ることは出来ない。
つい先ほどのように思い出すやりとり。
本来は深い青に煌めく瞳がそのときだけは『漆黒』に塗れていた。それが何を意味するのかは分からない。けれどずっとその瞳に見つめられるのは…想像するととても不快な気分になった。
「…あいつ何者なんだ?」
オーウェンはすぐ横で治療の様子を眺めていたグラドにそっと尋ねてみる。
「あいつ?」
グラドはオーウェンの視線をたどり…ああ、と合点したように頷いた。
「さてな。あいつも自分のことが分からないんだ」
「…なんだそれ」
「あてどなく彷徨いていたのを拾ったんだ。それまでどこで何をしていたのか、俺にも分からん」
そう言ってグラドはやおらに立ち上がり…どうしたものか考え込むように目の前の光景を見下ろす。足下が崩れ落ちた空洞は、来たときとはかなり様相が変わってしまっていた。
「ま、ここのことは先のギルドで報告すりゃいいだろ…。で、お前はどうだ、歩けるか?」
「平気だっつーの、これくらい…」
グラドのからかうような視線を受けて、オーウェンはむっとしたように立ち上がる。まだしびれのようなものが残るが、動けないわけでもない。
「じゃあ、まだ日のあるうちに進もうかね。それでも今晩は野宿になるかもしれないけど」
皆がドリィのかけ声に立ち上がり…先導するグラドに続く。
ドリィの瞳が後ろで腰掛けたままのハヤトを捉えると、彼も一拍おいて立ち上がるのを見てホッとする。
空洞の底で何があったのかよく知らない。が、途中まで昇ってきた彼らと合流したとき、少し様子が変わっているのが気になったのだ。人が変わったとまでは言わないが、そんな感覚だった。
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今日は雲が多くて夜空を拝めないのが少し残念だった。
枯れ草の上にローブを広げて寝転がり、仰いだ夜空は雲があっても薄明るい。
そよそよと流れる風は寒くもなければ暑くもない。風に揺れて葉の擦れ合う音が耳に心地よくて、ざわつく心を静めてくれる。
側には薪の爆ぜる音を上げながら橙色の炎を踊らせるたき火がある。それを見下ろし、火が絶えないように薪を継ぎ足しているのはグラドだ。寝ずの番とはいえ、眠くないのだろうか。
「なんだ、眠れねぇなら代わるか?」
たき火の明かりに照らされて、グラドがいつもの笑みを浮かべた。
手にはおそらく酒の入った瓶が握られている。その割に顔には酔いが回った様子が一切見受けられない。まぁ、この程度で酔うような見た目でもないしな。
体を起こすと側で体育座りしたままだったティファがたき火を見ていた目をこちらに向けた。
「嬢ちゃんはいつも無口だな」
グラドがつまらなそうに言う。どうせ会話するようなこともないだろうに、不思議なことを言うなぁ…。
「基本的には俺以外の人間と受け答えしないみたいだからな」
だが洞窟内でオーウェンに意見したときのことを思えば、会話ができないわけじゃないようだ。ティファにとって会話は必要であるかそうでないかで判断されているのだろう。その基準はあいまいだが。
特に寒くはなかったがたき火に当たるためにティファの横に腰を落とした。
「あんたがくれた剣、役に立ったよ。ありがとう」
「そりゃあ何よりだ」
ふと洞窟内での戦闘で思いの外活躍した剣のことを思い出し、選定者であるグラドに礼を述べる。すると思ったより穏やかな顔つきでいらえがあった。ふむ、これはチャンスかもしれないな。
「…あんた、以前暇があれば稽古つけてくれるって言ったよな?」
俺が切り出した言葉にグラドはたき火に落としていた視線を寄越した。そこにはどこか楽しむような、しかし剣呑な光が見えた気がした。
グラドは言葉を返すことなく立ち上がるといつも背負っている大剣ではなく――真新しい短剣に手をつけた。さすがに大剣を手に取られたらどうしようかと思ったぜ!
「いいぜ、酔い覚ましに丁度良い」
そう言って鞘から抜くと、未だ獲物にありつけていない片刃剣がたき火に照らされて妖しく光った。
「あーだめだ」
ぐでーんとのっぱらで大の字に寝そべる俺を、グラドが鎧を脱いだ身軽な姿で呆れたように見下ろしていた。
結果だけを言うなら、もちろん惨敗である。
そりゃばりばり現役でなおかつ紫水晶ランクの冒険者に、ついこの間まで一般人だった俺が敵うわけ無いだろ。いくら魔王の体を間借りしてるとはいえ中身がこんなんじゃ形無しもいいところである。
が、やはり魔王の体は打たれ強かった。
いくらグラドが加減しているとはいえ、真剣の峰で打たれれば本来は悶絶するところだろうが、痛くもかゆくもないのだ。いくら動いても息切れしないし。が、グラドに打たれまくって心のほうが折れてしまった。無念である。
「お前ホント剣じゃなくて魔法を習い直した方がいいんじゃねぇか?」
「そんな時間あるかなー…」
グラドがいっそ哀れむようなことを言って酒瓶を煽った。おい、酔い覚ましのつもりじゃなかったのかよ。
「しかしいきなりどうした。いよいよ焦ってきたか?」
「うーん…」
それもあるけど。
「『魔眼』に頼りすぎるのはやばい気がしてな…」
空を仰ぎながらぽつりと溢す。いつの間にやら雲が晴れて明るい夜空が広がっていた。
通りでよく見えると思った。
グラドはなにも言わなかったが、きっと洞窟の底で何かがあったことは悟っているのだろう。俺の返しにふぅんと興味なさそうに呟くと、剣を鞘にしまってたき火の前に腰を落ち着ける。火の小さくなったそれに薪を追加し、俺は夜空に立ち上る煙をぼんやりと眺める。
「もしかして、あんたもみんなも俺の魔眼で操られてたりして」
「…ほぉ?」
ぽつりと独りごちた俺の言葉を拾いグラドが挑むような視線を投げてきた。
「言っておくがな、お前に使った諸経費は利子つけてしっかり返してもらうつもりだぜ?」
それは暗に、「お前に操られるようなタマじゃない」と言っているようなものか。
「ふふ、分かったよ。…悪かったな」
グラドらしい返事に思わずふきだし…急に申し訳ない気持ちになって謝れば、グラドはそれ以上突っかかることはなかった。冗談でも人の好意は無下にするもんじゃないな。
「…魔法は俺にもドリィにも無理だが…そこの小さいのに聞いてみたらどうだ」
体を起こしてグラドが顎をしゃくったほうに目線を向けると、ローブの上で体を丸めてすやすやと眠る三人組の姿があった。
「メガネの嬢ちゃんは癒師を目指してるとか言っていたな。治癒魔法は習得が難しいからな…他の2人よりは詳しいかもしれんぞ」
ふむ。空洞を通る前にそんなことを言っていたな。朝に少し話をつけてみよう。
ああ、それと…。
「技能試験っていつあるんだ?」
地味に気になっていることを聞いてみる。到着してすぐ開始はなるべく避けたいのだが…。
「そうだな…明日の昼に着くとしても三日は猶予があるし焦らんでもいいだろ」
こっちの世界の暦がよくわからんが、すぐではないことにホッとした。
試験を受けて冒険者になれたら金を貯めて…。
暇ができれば『王都』に行ってみたいな。
…あれ?俺ってやつはすっかりこっちの世界を満喫しようとしてね?
……ま、気楽に行くか。
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「ウェン、ウェン」
ひそひそ声で服の裾を引かれ、オーウェンは声の主をうっそりと振り返る。そこにはシオンが訝しげな顔を浮かべて歩いていた。
「あれ…なんかあった?」
そう言ってシオンは視線の先にいる妙なコンビを指差した。
エミリーとハヤトだ。何やら真剣な顔つきで会話しているが…。
「さあな。朝二人で話してたと思ったらあんな感じだぜ?」
「ふぅん」
シオンはどこか複雑そうな表情を浮かべ、しばらくその様子を見ていた。オーウェンは色恋沙汰には興味がないが、シオンが抱えた感情は彼にとってあまりになじみ深いものだった。
「…ヤキモチ焼いてんの?」
普段は何でも器用にこなす幼馴染が珍しく嫉妬しているのを、ここぞとばかりにからかってみることにした。
「な、違うよ」
慌ててかぶりを振るが赤くなった頬を見れば答えは一目瞭然だ。そりゃあ今までいつも一緒にすごしてきた同い年の女の子が、他の男に色目を使えば面白くはないだろう。
ハヤトは不思議な雰囲気を持ったヤツだ。
見かけはフードをのぞき込んだエミリーが見とれるくらいには整っている。妙に人を引きつけるミステリアスさがあるが、そのくせ気取った様子はない。他人に対する垣根が低いようで、誰に対しても自然な態度で接しているのがわかる。
シオンだって本来は人を区別せずに接するタイプの人間だ。それなのに、シオンはハヤトから自然と距離を置いている。
シオンも無意識に感じ取っているのかもしれない。
基本的に相容れない『何か』を――。
「何の話をしてるのか気になっただけだよ」
そう言ってシオンは二人に向けていた視線を無理やりひきはがすと、ハヤトの横をてくてくと歩くティファに目を留める。その視線はどこか…ぼーっと熱に浮かれているようだった。
あんな態度をとるくせに、自分だって初めて会った女の子に首ったけじゃねーか。
オーウェンはやれやれと肩を竦めたくなるのを我慢して、なんとかため息だけにおさめた。
まぁ確かに可愛いよな。
まるでどこかのお姫様みたいな出で立ちをしているし。
めちゃくちゃ無愛想だけど。
でも、あんな顔してアホみたいに強いんだぜ?…と言ってもシオンは信じないんだろう。ティファの戦いぶりを目の前で見たオーウェンでさえ、あれは白昼夢か?と思わずにいられないのだから。
彼女はいつもハヤトにベッタリだ。
兄妹にしては見かけが似ていないし、親子にしては歳が近すぎる。自分たちには理解の及ばない関係が二人には築かれているのかもしれない。それが信頼によるものなのか恋愛感情を絡むのかはたまた主従になるのか、他人の機微を悟るのが苦手なオーウェンにはわからない。
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海に面したアテライの街はめちゃくちゃでかかった。
どんくらいかというとラマンの街の7倍はあるらしい。
西で一番でかいギルドがあるのも理由の一つだろうが、西の玄関と言われるくらいいろんな地方の商人が集まり、この街から海を渡って南へ、馬車を使って北や東へ散って行くのだそうだ。
商人が集まるだけあって世界各地の品物がこの街一つで調達できるので、人が増え冒険者が増え自然とこの街は発展して行ったんだろう。港町は栄えるってのは異世界であっても共通の認識みたいだ。
さて、街に着いた俺たちは真っ先にギルドに向かうことになった。
技能試験の申し込みのためだ。それが終わったら自由時間となるらしい。
宿は受験者を対象にした宿舎があるらしいが、俺はティファがいるのでグラドとドリィについて普通の宿に泊まることになった。どんどん負債が溜まっていくぜ…。
ギルドはラマンの街にあった建物を大きくしたような門構えである。
受付のカウンター数やら依頼ボードの数はラマンの街とは規模が違う。
外には試験を行うための闘技場や宿舎などが併設されているため、ギルドとは一口に言ってもやたら広い。もちろんギルドに入り乱れる人の数も倍以上だ。シオンたちと同じ年頃の子供から老人までそろい、ラマンの市場並みに活気にあふれていた。
「さて、お前らとはここでお別れってことだな」
受付を終えて三人組を前にしてグラドが告げるとシオンが残念そうな顔をする。
「そうですね…報酬はお約束通り受け取りください」
ふと、シオンが何か言いたそうな顔になったので、グラドが「何だ」と促した。
「あの…グラドさん。僕にも鍛錬をしていただけませんか?」
「あぁ?」
「昨日の夜、ハヤトさんと剣を交わしているのを見たんです。どうか試験までの間おつきあいいただけませんか?」
真摯な眼差しで訴えかけられ、グラドは困ったように頬を掻いた。隣に立つドリィも呆気にとられた顔をしたが、すぐに面白そうな顔をしてグラドを肘で突いている。
「まぁ、なにも暇ってわけじゃねぇが…そうだな」
「じゃあ…」
「別料金で受けてやるよ、どうだ?」
さすがただでは転ばない男である。グラドのふっかけにシオンは逡巡したが、迷ったのはほんのわずかの間であった。
「わかりました。よろしくお願いします!」
ぺこっと体を折り曲げて礼を言うと、シオンは側にいたオーウェンに耳打ちをする。お前ものっかれと言いたいのだろう。しかしオーウェンは首を振ると…何故か俺の方に向いた。いや、厳密には横に立つティファを睨むように見つめている。
「俺はそっちの…ティファに稽古をつけてもらいてぇ」
「「「えぇっ?!!」」」
シオンとエミリーと…俺のびっくり声が一緒になって反響した。
なんとなく眼の使い方がわかってきたかも?