妹と
僕が大好きな女の子、その子は画面のなかにいる。僕が世界で一番好きな女の子、その子は僕の頭のなかにいる。
僕は、真っ暗な闇の中で薄気味悪く光るパソコン画面を眺めていた。画面上では、綺麗な女の子が恥ずかしがりながらこちらを見つめている。照れながらも、僕は画面へと自分の顔を近づけていった。
キスをしよう。
僕は画面に映る彼女にだけ聞こえるくらい小さな声でそう呟いた。彼女はなおも恥ずかしがってはいたが、僕の声が聞こえて安心したのか少しだけうなずいた。思い詰めた顔だった。
どくどくと、僕の心臓が音を立てて鳴った。これほど素敵なことがもうこの世界には無いように感じていた。彼女の心臓の音まではっきりと聞こえてきた。そっと僕は彼女の唇に口づけをした。
苦い味が舌の奥まで広がった。その瞬間、夢心地の気分が覚めてはっと我に返った。
見渡すと辺り一面、真っ暗である。ただパソコンの液晶画面だけが爛々と光っている。僕は数秒考えて、やっと自分が一介の高校生で、ここが自分の部屋であることを思い出した。
まだ夜なのか。
窓のカーテンはいつも完全に閉めきっているから、僕には昼夜の感覚がなかった。しかしだからといって、今が夜なのかカーテンを開けて確かめる気にもなれなかった。
目まいと吐き気が押し寄せてきた。どれくらいの時間、パソコンを凝視していたのか。わからない。一時間か、一日か。時間の感覚が失われるくらい、パソコンに潜む宇宙に魅せられていたようだ。
僕は美少女ゲームが好きだ。
僕は二次元美少女が大好きだ。
彼女にすべてを捧げたい。僕の心も身体も彼女のものだ。彼女がいないこの現実は、僕にとっては無に等しいものであった。本当の愛は、画面上の可愛らしい女の子の瞳に隠されている。現実には愛など存在しない。むしろ美少女ゲームが僕の現実だ。
ドンドンドンと下から誰かが上ってくる音がした。階段がその震動とともにギシリギシリと不安げな音を立てている。こういう邪険な仕草はあの子の大雑把な性格をよく表している。
ああ、あいつか。
別に驚きもしなかった。毎朝のことだ。僕の時間の感覚は彼女だけが握っている。これからが面倒だなとは思った。しかし少し楽しみでもあった。
バタンとけたたましい音を出して部屋のドアが開いた。暗闇の部屋に朝の光が射して随分まぶしい。時間をかけてようやく光に目が慣れてくると、ドアの前に身長150cmの女の子が憤怒の表情で立っているのがわかった。紹介しよう、僕の妹だ。
「おい、ご飯だ。早くしろ。」
怒るときに眉を寄せる癖がある彼女は乱暴にそう言いはなった。もとよりその頼みに僕が応じないのはわかっているだろう。僕には下まで降りて家族と食事をするという悪趣味はない。画面のあの子といつも食べている。
僕の許可もなく、怒りの少女はずんずんと部屋の中に入ってきた。部屋のカーテンを全開にし、窓を開け放った。暗闇の部屋に一気に光が満ちて新鮮な空気がふきこんでくる。僕は心地よかったが、同時に溶けて自分自身がなくなってしまう感覚に襲われた。
「早く、ご飯食べるよ。」
妹は誰かに渡された台本をそのまま読み上げるように、ぶっきらぼうにそう言った。実際毎朝毎朝彼女も面倒なのだ。母親に言いつけられて仕方なく来ているだけである。僕のお世話をすることは妹の義務だ。僕のいない家族会議でそう決まったらしい。しかしありがた迷惑というものだ。僕はこの家の寄生虫、つまりゴキブリのような存在だが、ゴキブリにお世話係がいるなど聞いたことがない。
妹は中学二年生である。ショートカットの髪の毛でいつもヘアピンをしている。身内で言うのもどうかと思うが、まあ一般的に言って美少女の部類だろう。くりくりした丸い目をしていて、まつ毛が緩く優しげなカーブを描いている。鼻はちょこんと小さく中央についていて、唇は薄いきれいな桃色である。顔の輪郭は卵型で、おでこが広いのを本人は気にしているが、僕は彼女のおでこが一番好きだ。ヘアピンで斜めになった髪の毛から覗いているおでこの肌色が、可愛すぎて触りたくなる。
妹は僕が全然この場から動こうとしないので、いつも通り長いため息をついた。そしてパソコンの画面を見てもう一度長いため息をついてこう言った。
「気持ち悪い。こんな絵よりも現実の女の子を見なさいよ。」
現実?現実ってのはなんだ、僕がいま生きているこの世界のことか?僕は心のなかで妹の発言に反論していた。現実世界も美少女ゲームの世界も、すべて僕にとっては同じだ。僕の頭のなかの世界、僕の目から見た世界でしかない。人が生きるこの世界だけが真実で、パソコンの中の世界が虚構だというなら、この画面に映っているこの美しい乙女は死んでいるのか。冗談じゃない。そんなことあるものか。
画面の少女は生きている。まぎれもなくそこに生命が息づいている。それを何もなかったようにみる残酷な目。冷徹な目。僕はえへへと妹に弱弱しく微笑んだが、心の中は静かな憤りに満ちていた。妹に対する復讐に燃えていた。
はっきりと言おう。現実なんていうのはつまらない。
当たり前の日々。ありきたりの日常。人間が機械みたいに動いて、ただただ何の考えもなく、何の思慮もなく退屈な時間の流れの中に身を委ねているだけだ。自分が幸せになることだけに無我夢中になって、どこかに本当の快楽があるように錯覚している人間たち。人間は自分に終わりがあることを知っているくせに、自己の滅亡と同時に個人の幸福も消えてしまうという事実をひた隠しにして、一瞬が気持ちよいならそれでいいと思っている。
そういう考えにはもううんざりなんだ。
僕は人類に絶望し、到底救いようがないとわかったから、学校に行くのをやめた。美少女ゲームというもう一つの現実に入ることにした。しかし正確には、僕は美少女ゲームの世界の住人ではないのだ。あくまでも僕は傍観者であり、僕の化身だけが主人公としてゲームの世界と関わりを持つ。
それでよいのだ。
傍観者になることによっていっそう少女のために身を捧げることができる。己の欲望を排除し、彼女のためだけに生きることができる。僕が生きるこの現実では、どうしたって僕自身の利益を考えずにはいられないだろう。しかしゲームの世界では、少女の幸福のために僕は生きることができる。なぜならその世界に僕はいないからである。
自分を捨てることによって、僕は自分自身の価値を見出だしたのだ。
僕は現実に失望したが、逃避したわけではない。また一つ別の現実を見つけ出しただけだ。美少女ゲームは、生きる人間の理想を極端に凝縮した一つの現実である。その世界には、人間の中でもっとも大切なことーすなわち愛の奉仕ーを目に見える形で表した、つまらぬ世界に生きる人の大いなる願いが詰まっている。新しい現実を夢見てやまない彼らが生み出した、生きる世界よりもずっと人間らしい世界がある。
一つ、試してみたくなった。
生きる現実とゲームの中の現実、どちらが本当にすばらしいのか。そんなに現実がすばらしいなら、妹よ。一緒にこの世界に夢を作ろう、理想を作ろうではないか。そうすれば生きる現実のために、僕は喜んで愛の奉仕をしよう。
僕は妹の前に近づいていった。妹は少し戸惑っていたが、それでもなお眉を寄せて怒りの表情を浮かべていた。妹が戸惑うのも無理はない。いつもなら今頃僕が一言も話さず、その場に座り込んでびくともしないために、妹が呆れて部屋を出るところなのだ。
誰かの命令に関係なく、いま初めて自分自身の意思のために僕は行動していた。妹にさらに近づき、妹の肩を僕は動かないようにガッチリと自らの手で捕まえた。
さすがに妹は驚いたようだった。
必死に僕の手を振りほどこうとするが、僕の力が思ったよりも強いのか全然相手にならない。僕の顔が妹の顔にじりじりと近づいてくる。妹は気が狂ったように奇声をあげて、僕の足を力一杯蹴った。瞬間、僕と妹の足がもつれ合い、バランスを失った僕たちは後方のベッドに倒れこんだ。
気がつくと僕はベッドに仰向けになって倒れている妹を上から覆い被せるようにして抱き締めていた。妹がしきりに僕から解放されようとするが、僕の力が思ったより強くて全然相手にならない。僕は妹の顔を見つめた。妹の丸い可愛らしい瞳に吸い込まれていた。
「君が、好きだよ。」
僕は妹にしか聞こえないような小さな声でささやいた。久しぶりに言葉を話したような気がする。すると妹はなんだかトロンとした瞳になり、これ以上抵抗は諦めたのだろうか、ぴたりと動かなくなった。
僕は妹にキスをした。
僕の唇は、妹の薄いピンクの唇に触れた。ぷにぷにした柔らかい感触が僕の唇から全身へ伝わってくる。そのとたん僕の脳はさっぱり動かなくなって、ただ男女の甘美に弄ばれるだけの存在に成り下がった。僕は妹を抱き締めながら時を忘れるくらいそのままじっとしていた。
もうどうなってもかまわない。妹のうっとりとした表情を見ながら僕はそんなことを思っていた。僕は美少女ゲームに真実を見ていたから、この世界に生きる僕がどうなろうと知ったことではなかった。どうせ自己の快楽に堕ちるなら、潔く墜落しよう。僕はやけくそのような気持ちで、妹の唇を貪っていた。
この妹との戯れは単なる僕の好奇心である。別に相手が妹でなくとも何の問題もなかった。この世界のキスがどのようなものか、それが僕の抱えるもう一つの現実のキスよりもすばらしいのかを単純に知りたかった。それだけに過ぎない。
しかし。
僕は自分が人間であり、そして自分勝手な愛に目覚めていることを打ち明けねばなるまい。この戯れに恍惚を感じていたのだ。獣のような僕。理性などどこかに投げ捨ててしまった僕。こんなものが愛なのか?いいや、これはすべてただ自分にだけ向けられた一人遊びなのだ。僕は、結局自分一人の快楽しか感じることができない哀れな人間にすぎない。その孤独を自覚した僕は、ますます妹の体にぴったりと吸い付いてなんとか他人の温もりを感じようと躍起になっていた。しかし感じれば感じるほど、ますます自分は個人でしかない存在だということをいたずらに思い知らされるだけであった。
突然、階下から声が聞こえた。
「かなちゃん、降りてきなさい。学校に遅れるよ。」
どこかで聞いたことがある。ああ、そうだ。母親の声だ。僕はやっと思い出した。母親とはろくに話していなかった。おそらくもう、自分などいないものとして過ごしているのだろう。そうしてくれた方が僕にとってはずいぶん都合が良かった。現実における自分の存在を僕はできるだけ消したかったのだ。
かなと呼ばれた美しい少女はその声でふっと我に帰ったようで、そのうっとりとした瞳もようやく現実味を帯び、落ち着いた調子に戻ってきた。僕もやっと己の快楽から解放されたので抱き締めていたその手の力を緩み、僕の唇は少女の唇と離れた。
改めて妹を見てとったとき、そこにいるのは僕がよく知っている彼女ではなかった。いままさに生まれ出でて「かな」という記号をもらい受けた全く新しい人間にしか思えなかった。興奮が未だ覚めやまぬように、彼女は小さく吐息をしていた。吐息と調和するように上下する肩、妖艶な目、真っ赤に染まった頬。すべてが彼女の色気を醸し出していた。生命の息吹が、彼女を包み込んでいた。
いまここに新たな人間が名前を受け、誕生の産声を高らかに上げている。
僕は自分の軽はずみな気持ちで彼女を変えてしまったことを悔いた。妹はもはや兄としてではなく、別の意味をもって自分を見つめている。彼女は僕を、愛し合う対象として、他人のために何もかも犠牲にしてよいと思える対象として、認識している。
兄と妹とは異なる全く新しい関係が二人の前に打ち立てられた。
互いを、愛し合うという関係だ。
しかしそんな関係は僕にとっては邪魔でしかなかったのだ。僕は現実の特定の誰かを愛することはできない。誰かに尽くそうとしても、結局は個人の快楽に終止してしまうのではないかという不安をいつも背負っているからだ。僕は他人を信用することもできないし、僕自身でさえ疑っているのだ。
いつしか妹から妖艶な姿はなくなり、妹はベッドから出て母親の声に応じながら僕の部屋から去っていく。恥ずかしくて僕は妹の顔を見ることはできなかった。妹はいま何を感じているのかさえ考えるのをやめた。
またいつもの静寂が僕の部屋に戻ってきた。何もかもが止まっている。
僕は窓を閉め、カーテンを閉めて部屋を真っ暗にした。妹の唇のふわふわした感覚がまだ僕の全身にこびりついている。僕はひどい自己嫌悪に襲われながらいま一度思いに沈んでいた。
とにかく自分をなくしてしまうことだ。
僕は自分を何度も何度もそう言って励ましながら真っ黒な部屋で一人パソコンの女の子と戯れ始めた。




