第6話
早朝、いつもならもう起きる時刻だというのに、ジュリアンはいまだベッドから出られずにいた。
「…」
眠いというよりも、全身が重くだるさも抜けず、起き上がることができない。
ジュリアンはこの数日、朝も昼も夜も「仕事に勤しんで」おり、身体が悲鳴を上げていたのであった。
普段は、毎日のように朝昼晩とぎっちりと予定が詰まることはそうない。
しかしジュリアンはそれらの依頼をひとつも断らず、全てこなしたのであった。
(行かなきゃ…)
ジュリアンは重たい身体をゆっくりと起こし、グチャグチャの頭を手で押さえた。
しばしこの状態のままじっと動かず、はあ、とため息をついてベッドから降りた。
そして顔を洗い、髪をとかし、服に着替えて鏡を見る。
そこにはいつもの冷めた目つきの自分が映っていた。
しかし、やはりどことなく疲れが抜けきってないような、ぼうっとした表情をしていた。
彼はそんな自分の顔が気に食わないのか、小さく舌打ちをし、くるっと鏡の前から離れた。
そしてテーブルの上に散乱している林檎をひとつ手に取り、おいしくなさそうにかじる。
林檎をかじりながら、ジュリアンはある一点を見つめていた。
彼の視線の先にあるのは、テーブルの隅に置いてある、古めかしいランプであった。
(これ…やっぱり返した方がいいんだよね…?)
エリザにこのランプを借りて以来、彼は朝から晩まで依頼者の家を走りまわっていたので、彼女に返す暇はなかった。
(めんどくさいなあ…たかがランプなんかでなんでわざわざ僕があのうちに行かなきゃいけないんだよ)
彼はランプを見つめながら、馬鹿にするように笑った。
しかし、ふと先日のエリザ宅での会話が頭をよぎった。
――ランプだってどうせひとつしかないんだろ
――ふふ、大丈夫よ、気にしないで
おそらく、自分のせいで今頃あの少女と老婆は、真っ暗闇の中で不自由な生活を強いられていることだろう。
特に、あの老婆はきっと自分の悪口を言っているに違いない。
ジュリアンはちっと舌打ちをした。
(やっぱり行きたくない)
すると突然、あのときあの少女が言った言葉がふっと頭に浮かんだ。
――あなた、とってもいい人だわ
ジュリアンは、ぼんやりとその言葉を頭の中で何度も巡らせた。
人から容姿が美しいと言われたことは何度もあったが、それはたいてい自分の客の言葉であり、知人に自分が言われることと言ったら、暴言か陰口ばかりであった。
それは、彼が身体を売って生計を立てていることや娼婦の息子に生まれついたことだけではなく、彼自身の性格の悪さからくることでもあった。
彼自身、誰かに優しい言葉をかけたり、気遣ったり、思いやったりした記憶はないし、そうしたいと思ったことさえもない。
ましてや、他人からいい人だと言われることなど…
そういう自覚のある彼が、エリザから言われた言葉は、少なからず彼に衝撃を与えるものであった。
その言葉と同時に、あの少女の汚れのない、優しい笑顔がふと蘇った。
ランプの光に照らされて、キラキラと輝く薄茶色の瞳に、小さな唇。
思わず見つめてしまった彼の脳裏に、その笑顔はしっかりと焼き付いていた。
(あの子は…僕がやっていることを知っても、いい人だと言い切れるのだろうか)
彼はランプの方へ顔を向けていたが、もっともっと、ずっと遠くにある何かを見つめているような、どこか切ない表情をしていた。
◇
ジュリアンは、家を出て近所にある娼婦屋の扉を開いた。
そこは、いつもと同じく酒の空き瓶とグラスが散乱し、足の踏み場もない状況になっていた。
ジュリアンは相変わらずの調子ですたすたとそれらを上手に避けて通りながら、カウンターの男の元へ向かう。
「よお、おはようブルジェ少年」
「これ、ためてた分」
あいさつもせず、ジュリアンは数枚の札束をぶっきらぼうに男に渡した。
これは、ジュリアンが男に数ヶ月に一度渡す、仲介手数料であった。
「直かよ。相変わらず色気がねえな」
男は笑いながら剥き出しの札を受け取り、毎度、というように札をぴらぴらと振った。
「で?今日は?」
「ああ、今日は午前中と、夜だ。午前中の客は一見だ。ってジュリアン、そろそろ急がねえと午前中の客に間に合わねえぞ」
「全く。朝から何考えてるんだよ…」
「それには俺も同感だ。朝っぱらからよくそんな元気があるよな。お前もお前だけど」
「…」
ジュリアンは睨むように男を見た。
「おっと。へへ。あ、午前中の客は、中央から入ったとこのカフェで待ち合わせ、だそうだ」
町の中央広場から、いくつか道が分かれているが、この場合の「中央から入ったとこ」というのは男やジュリアンたちが住まいとしている、町外れの区域のことである。
「ま、比較的若くてきれいなマダムだったぜ。場所も近いしよかったじゃねえか。ちなみにこれが夜の客の住所だ。マダム・バシェレリーか…微妙だな」
男はざまあみろ、とでも言いたげな顔で笑った。
ジュリアンは気にせず、マダム・バシェレリーの住所が書いてあるメモを見た。
すると、ジュリアンは何かに気付いたようにはっと目を見開いた。
「ねえ、もしかしてここってダンビエールの家の近くじゃない?」
「ああ、そうだ。ダンビエールより少し遠いかもしれないがな」
エリザにランプを借りたのは、確かダンビエール邸から帰る途中、彼女の家の近くで偶然出くわしたからであった。
(ということは、今日もあの子のうちの前を通ることになるのか…)
ジュリアンは、ぼうっと何かを考えるような表情をした。
「おいジュリアン、どうした」
「いや、なんでもない」
ジュリアンは我に返って、「じゃ」と男にそっけなく挨拶をし、くるりと背を向けた。
そして、中二階にある部屋をちらりと見やって、外へと出て行った。
男は出ていくジュリアンの後ろ姿を見つめ、哀れむような表情でこうつぶやいた。
「お前の母ちゃんは…お前がどんなに頑張っていようが、全然気にしちゃいないんだぜ」
◇
ジュリアンは待ち合わせのカフェに、客より一足先に着いていた。
(眠い…)
眠気とだるさで、彼はどこを見るでもなく、ただぼうっと肘をついているだけであった。
このまま誰も来なければいいのに、とさえ思っていた。
すると、ジュリアンとは別の席に座っていた女性が、彼の方へ向かって歩いてくる。
ジュリアンはそれに気付き、女性の方へ顔を向けた。
「ねえ…あなた、ジュリアンじゃない?私、今日お願いしていた者だけど」
「ああ、こんにちわ」
ジュリアンは、女性に対してにこりと微笑みを向けた。
「あなた、ここにずっといたのね。あなたかしらと思っていたのだけど、自信がなくて」
30代後半くらいのその女性は、苦笑いをした。
ジュリアンはそれに合わせて笑みを浮かべた。
「ねえ、もう行きましょう。そこの宿屋にもうお部屋を取ってあるの」
女性はジュリアンの分の会計も済ませ、彼とともに店を出た。
そしてすぐ向かいにある洒落た宿屋の階段を上り、観音開きの扉を開け、中に入った。
そのとき、ジュリアンがふと中央広場の方へ目を向けると、彼の目に、髪の長い女性が広場の方へ駆けていく様子が映った。
ジュリアンは一瞬、どことなく見覚えがあるような気がしたが、特に気にもとめず女性と共に扉の奥へと入って行った。
◇
二人は宿屋の廊下を渡り、小さな扉を開けて部屋に入る。
部屋は小奇麗な雰囲気で、真ん中に一人用のベッド、部屋の隅には鏡台、小さな出窓には鉢植えが飾ってあった。
女性は扉を閉め、ジュリアンにすり寄る。
「ねえジュリアン…私ね…男の人に攻められるだけって、あんまり好きじゃないの」
そういいながら、彼女は自分の胸元に結んでいたスカーフをするりとほどいて、おもむろにジュリアンの両手首を後ろで縛り始めた。
ジュリアンは抵抗せず、黙って受け入れる。
「ねえ、あなた、今日は何もしなくていいのよ。私の言うとおりにしていればいいから」
女性はにやりと笑って、ジュリアンの手を縛った状態のまま、ベッドに寝かせた。
そして、自身はジュリアンの両足の上にまたがり、彼の両肩を握るように掴むと同時に、いきなり激しい口づけを始めた。
「んっ」
ジュリアンは息苦しそうに声をあげた。
女性は興奮したのかどんどん激しさを増し、自分の舌をジュリアンの口の中に入れ、かきまわした。
ジュリアンはそれに応えるかのように、お互いの口の中に入れるのを繰り返す。
はあはあと息を荒らげながら、女性はジュリアンのシャツのボタンを一つ一つ外し、胸をはだけさせた。
そして、シャツを肩まで降ろし、ジュリアンの胸をちろちろと舐め始めた。
ジュリアンはぞくっとして、思わずあえぎ声を上げる。
その後も女性はジュリアンの胸元の突起物を舐めたり噛んだり撫でたりつまんだり、好きなようにもてあそんだ。
いつの間にか自分自身も乱れた恰好になっていた彼女は、ジュリアンのズボンのボタンをはずし、ぐいっと勢いよくおろした。
そして何の抵抗もなく、彼の下半身をむさぼるように咥え始めた。
ジュリアンはその瞬間、身体がぐっと熱くなり、叫び声をあげて快楽に身をよじった。
両手の不自由さがもどかしく、しかしそれがまた快感でもあるような気がした。
はあはあと熱い息を吐きながら彼は言った。
「ねえ…僕こういうの…初めて」
ジュリアンは頬と唇を真っ赤に染め、上目づかいで女性の見つめた。
長いまつげの奥に潜む、うるんだ大きな瞳が艶めかしい。
「そうでしょう…でもまだこれからだから」
女性はジュリアンの下半身に手を添えたまま口づけをし、もう一度先ほどと同じ行為を始めた。
そのあと、女性は自らジュリアンの上に馬乗りになって、最高の快楽を得た。
ジュリアンは、ただ女性の下で果てるのを待つだけであった。
その行為自体は、さほど長い時間ではなかった。
「…ねえ、どうだった?」
「…すごくよかった」
と、ジュリアンは答え、再び艶めかしい笑顔を浮かべた。
それを見て、女性は満足そうな顔をして、ジュリアンの隣に寝そべった。
ジュリアンの胸を優しくさすりながら、まだ足りないような様子を見せた。
ジュリアンは「これ、ほどいてくれない?」と女性を促すと、彼女は言われた通り彼の両手を縛っていたスカーフをほどいた。
「上乗せしてくれるなら、もう一回だけやってあげるけど」
ジュリアンは隣で寝そべる女性の髪を撫でながら、交渉に入った。
物足りなさを感じていた女性は、考えるまでもなく了承した。
間を置くことなく、今度はジュリアンがリードするような形で、再び二人は抱き合った。
◇
二度目の行為が終わり、ジュリアンはさすがに精魂尽き果てていた。
どさっとベッドに倒れ込み、しばしじっと動かなかった。
女性はそんなジュリアンを愛しむように見つめながら、彼の髪を優しく撫でた。
するとジュリアンは一息ついて、ベッドからむくりと起き上がり、服を着始めた。
「あら、なあに?もう行ってしまうの?」
「ああ…うん、予定が立て込んでるから」
そう、と言って、女性は起き上がり用意していた金を小さなテーブルの上に置き、さらに財布の中から札を一枚取り出し、上に重ねた。
「もう少しいてくれるのかと思ったわ」
「いつも、終わったらすぐ帰ることにしてるんだ、ごめんね」
(今日は特にだめだ…早くここから出ないとここで夜まで寝てしまいそう)
ジュリアンは心の中でつぶやき、テーブルの金を受け取ってポケットにしまう。
「じゃあね、またよろしく」
彼は不敵な笑みを浮かべながらそう言って、部屋から出て行った。
宿屋を出て、彼は一旦自宅へ戻った。
あまりの疲れで、そう距離のない道のりが、果てしなく長いものに感じられた。
ふらふらと娼婦屋の前を通り、自宅のアパートの階段を上り、扉を開け、部屋に入ったと同時に彼はどさっと倒れた。
(だめだ…眠くて死にそう)
ほんの数秒で、彼は深い眠りへと落ちて行った。
◇
ジュリアンがふと目を覚ました頃、辺りはすでに暗くなっていた。
彼ははっとし、慌てて窓の外を覗いた。
まだ日は暮れておらず、部屋に日の光が入っていないだけであった。
(危なかった…)
寝過ごしたのかと思ったジュリアンはほっとして、一旦椅子に座った。
眠気は覚めたが、身体の疲れはほとんど取れていないようであった。
(ああ…行きたくない…)
夜から、もう一件仕事が残っていた彼は、憂鬱な顔をしてうなだれた。
そして乱雑に散らばる部屋の衣装を見つめた。
母親は、おそらく昼ごろ帰ってきて、玄関で倒れていた自分をひょいとまたいで、また出かけたのであろう。
彼は口をきゅっとかみしめて、顔を歪ませた。
(あんな変な寝方していたのに、声もかけないなんて…)
膝の上で拳をぎゅっと握り、彼は何かに耐えるように小さく震えた。
そして、その手を顔に押し当て、猫のように背中を丸め、しばし動かなかった。
外は少しずつ暗くなっていく。
気が済んだのか、彼は無表情で顔を上げ、出かける準備をした。
身支度を整え出かけようとしたとき、テーブルの上のランプを見た。
(今日…やっぱり返そう)
ジュリアンは勢いよくランプを掴み、家の扉を開けた。
◇
町からエリザの家までの道のりは長かった。
早くしないと、またランプが必要になるくらい暗くなってしまう。
ジュリアンは早足で田舎道を歩いた。
川沿いをだいぶ歩くと、正面に平屋の家が見える。
灯りはついていないようであった。
(あの子…いないのかな)
ジュリアンはてくてくと家に近づき、家の扉の前に立った。
家の中は、しんと静まり返っている。
(多分…あのババアはいると思うけど)
ジュリアンはエリザの大伯母に会いたくなかった。
自分の中を見透かすような、不敵な態度が気に食わなかった。
(あの子…何時まで子守をやってるんだろう)
ジュリアンはエリザのことを考えながら、少しの間扉の前に突っ立っていたが、ますます日が落ちてきたことに気付き、ランプをがしゃんと扉の前に置いて、駆け足でその場を離れた。
ある程度走ったところで彼は息が切れ、はあはあと息を荒らげながら立ち止まった。
そしてゆっくりと歩き出す。
いよいよ、外は暗くなり、目の前が見えづらくなっていた。
(急がないと…)
ジュリアンはてくてくと先を急いだ。
するとその時、後ろの方から誰かが駆けてくる音がした。
「…リアン…リアン!!」
ジュリアンははっと振り返って、自分の名を呼ぶ誰かを見つめた。
「ジュリアン!!待って!!」
その声は、まぎれもなく平屋の家の少女であった。
ジュリアンは、まさか彼女が追いかけてくるとは思わず、びっくりして立ちつくした。
エリザは、ジュリアンの目の前で立ち止まると、はあはあと苦しそうに呼吸を整えた。
「…なに?」
「はあはあ…ジュ、ジュリアン…はあはあ」
エリザはあまりに苦しくて、なかなか話ができないようであった。
「私ね…今帰って来たのだけど…扉の前にランプを置いてくれたの、あなたでしょ?」
暗くて顔がよく見えないが、エリザが笑っているのがかすかにわかった。
「わざわざ返しに来てくれたのよね?ありがとう!嬉しいわ!」
エリザは本当に嬉しそうに、明るい声でジュリアンにお礼を言った。
ジュリアンは、そんなエリザに対し、そっけない感じで答えた。
「別に…ついでだったから」
「そうなの」
エリザは優しい口調で返す。
「ていうか、わざわざこんなところまでお礼言いに来たわけ?本当に暇なんだね」
ジュリアンは相変わらずの憎まれ口をたたき、意地悪く笑った。
エリザは黙って微笑んだ。
「じゃあ僕、これから用事があるから」
ジュリアンがくるっと後ろを向いた瞬間、突然めまいがしてよろめいた。
「ジュリアン!」
エリザはびっくりして、思わず地面に四つん這いになりそうになったジュリアンを、膝立ちして抱きあげた。
ジュリアンは、突然のことで何も考えられなかった。
彼は地面に膝をついてエリザにしがみつき、顔をエリザの胸にうずめるような格好になっていた。
自分が、客以外の誰かとこんなことをするなんて考えられないことであったが、今自分がどういう状態で、どういう行動をとればいいのかという思考が、全く働かなかった。
ふと、エリザの長い髪の毛が、ゆらゆらと彼の顔にかかる。
そして、今まで嗅いだことのない匂いが、ふわりと彼の鼻をくすぐった。
(なにこれ…)
自分の客や軽薄そうな仕立て屋の針子、そして町の娼婦が漂わせているような、鼻につく香水の匂いとは全く違った。
それはまぎれもなく、身体から自然と漂ってくる、その少女特有の匂いであった。
(なんか…変な感じ…)
花やフルーツのような、いわゆる芳しい匂いではない。
しかし、ジュリアンはその匂いに酔ったかのように、頬を赤くし、エリザの胸に顔をうずめたまま、ぼんやりとした表情を浮かべた。
「はあっ…」
そして、熱くなった吐息を、思わずエリザの胸に吐きかけた。
それと同時にジュリアンの手に力が入り、それはエリザの背中の辺りを押さえつけた。
「ジュリアン…?」
エリザは、胸にジュリアンの吐息、背中に握力を感じ、困惑した表情でジュリアンに呼びかけた。
そのとき、ようやく我に返ったジュリアンはがばっと上体を起こし、膝をついたまま顔を下に向け、動かなかった。
自分が、今していたことが、信じられなかった。
あまりの疲れで思考が働かないのはわかるが、こんなつまらない少女に危うく…
ジュリアンは背中につつ、と一筋の汗が流れたのがわかった。
「ジュリアン…疲れてるのね」
「…」
エリザはジュリアンを気遣うように話しかけた。
ジュリアンは答えなかった。
「私ね…今日、町に行ってランプを買いに行ったのよ」
ジュリアンはどきっとした。
ランプ屋は、自分が頻繁に出入りするあの娼婦屋に近い場所にある店だからである。
「…」
「でも、今日あなたが返しに来てくれたから、その必要はなかったみたいね」
エリザはふふっと笑って、ジュリアンに手を差し伸べた。
ジュリアンは、エリザの手を握ることなく、自分自身で起き上がる。
「あの…ジュリアン」
エリザは恐る恐る、ジュリアンに話しかけた。
「私…今日町のカフェで…あなたを見たわ」
ジュリアンは一瞬、心臓を突かれたかのような表情をした。
(見られていた…)
「あなたと一緒にいた人、すごく年上の人だったみたいだけど、あの人…あなたの恋人なの?」
エリザは少し緊張した面持ちで聞いた。
「君には関係ないだろ!」
ジュリアンはエリザを突き放すように叫んだ。
「あっごめんなさい!そうよね、関係ないわよね」
エリザは慌てて謝罪した。
そのあと少しの間、沈黙が続いた。
「でもジュリアン、もう日も暮れて…この先は何もないのに…」
エリザは遠慮がちにつぶやいた。
ジュリアンは何も答えない。
「ジュリアン…」
エリザはもう一度ジュリアンに呼びかけた。
するとジュリアンはエリザの目を見てこう言った。
「君さ、ちょっとおせっかいすぎるんじゃない?僕が誰といようがどこに行こうが、君には何にも関係ないじゃないか。そんなに僕のことが気になるの?今だってわざわざ走ってこんなところまで追いかけてきたし」
「そんなつもりじゃ…」
「悪いけど僕、君に全然興味ないから。これ以上構わないでくれる?」
「…」
「じゃあね、もう行くから。君のせいでもう歩けないくらい暗くなっちゃったじゃないか」
エリザは引きとめず、下を向いて黙っていた。
ジュリアンはエリザを横目で見ながら、ぷいっと感じ悪く後ろを向いて、真っ暗な道をすたすたと歩いて行った。
ジュリアンは振り返らなかったが、エリザは立ち止まったまま、自分の後ろ姿をいつまでも見送っているようであった。
ジュリアンは真っ暗闇の中ほとんど手探り状態で、ようやく夜からの客、マダム・バシェレリーの家に到着した。
それほど大きいというわけでもない家の扉をこんこんとノックすると、中から初老の女性が嬉々として出てきた。
「ジュリアン、久しぶりね、会いたかったわ!」
バシェレリー夫人は、まるで恋する少女のような顔をして、ジュリアンを中に入れた。
「主人はね、明日の夕方まで帰ってこないの。だからいつまでもうちにいていいのよ」
「今日が終わったらすぐに帰らないといけないんだ、ごめんね」
「あらそうなの…残念だわ。でもあなたをいつまでも独り占めできないものね」
バシェレリー夫人は素直にジュリアンに従った。
そして、今まで我慢していた欲望があふれ出てきたのか、突然ジュリアンをぎゅっと抱きしめた。
「ジュリアン…今夜だけは私のものなのね」
バシェレリー夫人に抱きしめられると、彼女がつけている香水のにおいが、ジュリアンの鼻をついた。
(こんなにおい…耐えられない)
ジュリアンは、思わず不快そうな顔をして、顔をそむけた。
そして、先ほどエリザに抱かれたときに感じた、恍惚とした感覚を、この老婦人にキスされながら無意識のうちに反芻していた。
(エリザ…)
知ってか知らずか、彼は少女の名を心の中でつぶやいて、ぼんやりと部屋の天井を見上げていた。




