第24話
ジュリアンはふと目が覚めてぼんやりと目の前のものを見つめた。
そこにはただ、汚らしい天井が見えるのみであった。
(エリザの夢を見たような気がする…)
天井を見つめながら、ジュリアンは働かない頭でそう思った。
しかし、だんだん意識がはっきりするにつれ、ここが思ってもみなかった場所であることに気付いた。
(ここ…エリザの家…?!)
そのことに気付いた瞬間、ジュリアンは完全に目が覚めた。
確か、ドミニクとのことがあってから、自分はそのままその場で意識がなくなって…死にそうになっていたはずなのに。
エリザの家のベッドで今寝かされていることが、ジュリアンはにわかには信じられなかった。
痛い体を少しだけ起こし、ジュリアンは辺りを見回した。
部屋はだいぶ暗くなり、窓から見える空は赤く染まっていた。
(ここでずっと寝ていたのか…)
ふと、部屋の方を振り返って、ジュリアンはびくっと体を動かした。
テーブルの椅子に腰かけたまま、エリザがくうくうと寝息を立てて眠っていたのである。
(エリザ…!!)
エリザとは、実際は2、3日前に会ったばかりだったが、もうだいぶ長いこと会っていないような気がしていた。
ジュリアンはふと顔の爽快感を覚え手をあてると、血やら何やらがきれいに拭きとられ、傷口に絆創膏が丁寧に貼られていた。
(エリザが手当てしてくれたのか…?)
はっとして、もう一度眠っているエリザを見た。
エリザは、先日の時と違い、安らかな表情をしていた。
ジュリアンは思わず微笑んだが、すぐに顔を曇らせた。
(どこまでも優しいんだね…君は)
ジュリアンは、暗い表情でこれからのことを考え始めた。
(もう、エリザの前に現れるわけにはいかない。僕の顔を見て、君は本当はきっと殺してやりたいくらいだったろう?)
両手で顔を覆って、ため息をついた。
(早くここを出ないと…エリザが目覚める前に)
ジュリアンは、そっと立ち上がろうとしたそのとき、とんでもないことに気付いた。
(…)
自分が今、ほとんど裸の状態だという事実を知って、死にたい気持ちになった。
(ああ、そうだ…ドミニクとやったあと、そのまま服も着られなかったんだ…)
ジュリアンははっとエリザの方を向いたとたん、冷や汗が体中からにじみ出た。
(エ、エリザに見られた…よな、うん)
ジュリアンは情けなさのあまり、うなだれた。
(こんな姿見て…どう思ったろう。笑ってくれただろうか)
ジュリアンは、思わずふっと笑みをたたえた。
そして、きょろきょろと部屋を見回すと、揺り椅子のところに自分の衣服らしきものがかけてあることに気付いた。
(どうか、エリザが起きませんように…)
全身にひどい痛みを感じながら、ジュリアンはあられもない姿のまま忍び足で揺り椅子に向かった。
そして、そっとズボンを取り、急いで身につけた。
ジュリアンはほっと一息ついて、もう一度安らかな寝顔のエリザの方を見つめた。
(君が助けてくれたんだね…ありがとう。君が無事でよかった)
そして、辛そうに顔を歪めた。
(たくさんひどいことしてごめん。許してほしいなんて思わないけど…)
ジュリアンは、最後にもう一度、エリザに触れたかった。
しかし、ジュリアンは拳をぐっと握り締め、くるりと扉の方を向いた。
「さようなら…」
そして、扉を開けて体を引きずるように、ジュリアンはゆっくりと外へ出て行った。
◇
夕日に辺りは赤く燃え上がり、さわさわと吹きすさぶ風が肌寒い。
ボタンがほとんど取れているシャツを片手でつなぎとめながら、ジュリアンはゆっくりと歩いた。
(とりあえずこのまま店まで行こう。ブノワに謝らないと…)
ジュリアンは体中の痛みと闘いながら、必死に町を目指した。
(もしかしたらもう…クビかもな。二度も店を抜け出して…)
肌寒さを感じながらも、体の痛みとだるさがつらく、ジュリアンの体からじわじわと汗が染み出てくる。
息は次第に切れ、だんだんと腰が老人のように曲がる。
(もしクビになったら…何をしよう。また元の自分に戻るのか…)
もう一度、あの汚い商売を始めるのか?
今度は、誰かの気を引くためではなく、ただ生きるためだけに。
(そうさ、別に誰に負い目を感じることもない。自分のことだけ考えて生きて行けばいいだけなんだから…)
ジュリアンは自嘲的に笑った。
好きな人の元を去った今、もう誰に構うことなどないのだから。
もう、喜ぶことも、悲しむことも、傷つくことだって、きっと…ない。
「…リアン」
かすかに、遠くの方から声が聞こえた。
「…」
ジュリアンは、構わず歩き続けた。
「…リアン、ジュリアン…」
少女の声で、自分の名を呼んでいる。
「…」
ジュリアンは、力を振り絞って精一杯歩いた。
「ジュリアン!ジュリアン!!」
もう、声はすぐそこまで迫っていた。
ジュリアンはそれでも、歩くのをやめなかった。
「ジュリアン、待って!待ってよ!!」
ついに、ジュリアンは声の主に腕を掴まれ、止まった。
しかし、ジュリアンは振り向こうとはしない。
「どうして?!どうして行ってしまうの?!」
エリザはジュリアンに問い詰めた。
「まだ怪我もひどくて歩くのもままならないのに…!」
エリザはジュリアンの腕をぎゅっと握った。
「…痛いんだけど」
ジュリアンがつぶやくと、エリザはぱっと手を離した。
「ご、ごめんなさい…」
「どうして…?」
「え…?」
「どうして追いかけてきたの…?」
エリザの顔を見ないまま、ジュリアンは尋ねた。
「だって…だって怪我が…そんな体で歩いちゃだめよ…」
エリザが答えると、ジュリアンはふっと笑った。
「本当、優しいよね…」
「え…?」
「どうしてそんな風に優しくできるの…?」
「え…」
ジュリアンはシャツを強く握った。
「どうしてそうやって気遣うことができるの…?そんなにいい人でいたいの…?」
「ジュリアン…?」
ジュリアンの声は、だんだん震えだし、聞き取れないほど小さくなった。
「僕のこと、嫌いなんだろ?殺したいほど憎いんだろ?」
「ジュリアン…!」
「君にひどいことして…おばさんを殺した僕に…死んでほしかったんだろ?」
「…!!」
エリザはジュリアンの言葉を聞いて、声にならない声で叫んだ。
「わかってるよ、僕がおばさんを殺したんだ…だから君に恨まれても仕方ないと思ってる。でも…」
「ジュリアン…!!」
「うそでも優しくされるとね、思っちゃうんだよ…」
そのとき初めてジュリアンはエリザの方を向いた。
「もしかしたら、許してくれるんじゃないかって」
傷だらけの顔に涙の筋をたくさん流して、ジュリアンは苦しそうに顔を歪めていた。
それを見たエリザは目を見開いて叫んだ。
「違うの!!違うのよ!!もういいの、私が全部悪いのよ!!」
そして顔を覆ってわあっと泣きだした。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私のせいよ、あなたは悪くない…悪くないの…」
エリザの言葉に、ジュリアンは驚いて、ただ見つめていた。
「私、あなたに乱暴されそうになったときも、おばさんが死んだ時も、あなたが憎かったわ」
エリザは泣きながら叫び続けた。
「だけど気づいたの。私があなたにあんなひどいことさえ言わなければ…あなたを軽蔑するようなことさえ言わなければ、こんなことにはならなかったはずよ、そうでしょ?!」
エリザはジュリアンの目を見た。
「本当は、ずっとあなたのこと考えてた」
「…」
「あなたが憎くてしょうがなかったはずなのに、ずっとあなたのこと考えてたの!!死んでほしいなんてうそなのよ!!」
そう言った瞬間、エリザの目からまた涙があふれ出た。
「…だけど、僕が君を傷つけたのは…おばさんを失わせたのは事実だよ」
ジュリアンはぼそっとつぶやいた。
「だからもう…君のそばにはいられないよ…」
「いや…!!」
エリザは去ろうとするジュリアンの腕を掴んだ。
「だめだよ、離して」
「いや、いやよ、行かないで!!」
「離してよ」
「いやよ!」
「離してよ!!」
ジュリアンは大声で叫んだ。
「つらいんだよ…もう…どうしたらいいのか…わからない…君が許してくれても…僕は…」
ジュリアンはあふれる涙を抑えきれなかった。
エリザからの言葉による安堵の気持ちと、それでも消えることのない罪の意識が入り混じって、まだ幼い少年の心をかき乱した。
「おばさん…言ってたの…」
「え…」
エリザは涙を流しながら静かに言った。
「亡くなる前の日に…あの子はいい子だって…」
「え…?」
「あの子は…繊細で…弱い子だって…」
「…」
「そんな子が…おばさんを死なすだなんて…私に乱暴するだなんて…できるはずないわ」
そう言って、エリザは微笑んだ。
「全部…うそよ。ジュリアン、悪いのはあなたじゃないの」
そしてまた、エリザの目からとめどなく涙があふれた。
「だからお願い、行かないで、一人にしないで…」
ジュリアンはエリザの言葉を聞いて、エリザと同じように涙をぼろぼろとこぼした。
しかし、その顔はようやく安堵の表情を取り戻していた。
「僕…ずっと苦しくて…つらかった…ずっと謝りたかったけど…できなくて…」
ひっくひっくとすすり泣きながら、ジュリアンは何度も同じ言葉を口にした。
「ごめんね、ごめんね…」
エリザはジュリアンの手を取った。
「謝らないで、私が悪いのよ、ジュリアン、ごめんなさい、ごめんなさい…」
二人は泣きながら、何度も何度もお互いの許しを請うた。
そして、エリザはぐいっと涙を拭いて、優しく微笑んだ。
「ジュリアン、体が冷えるわ、行きましょう…」
「…」
「あなたって、意外と泣き虫なのね」
「き、君だって…」
そう言って、二人は笑い合った。
そして、エリザはジュリアンの肩をそっと支えて、二人は家の方へと向かって行った。
日はだいぶ傾き、二つの影はどこまでも長く伸びていた。
遠くの方で、一人の少年がその揃いの影を眺めていた。
拳を爪が食い込むほど握りしめ、夕日に照らされて、まるで真っ赤な血が流れているかのようであった。




