第23話
しんと静まり返った真夜中、平屋の一室できいきいと揺り椅子が動く音が聞こえた。
座っていたのは、その古ぼけた揺り椅子に似つかわしくない、うら若き少女であった。
エリザは盲人のように焦点が合わず、ただゆらゆらと揺れては自分の膝で見え隠れする靴の先端を見ていた。
「優しい夢を見て…お眠りなさい…」
まるで、夜更けになっても寝付かない自分自身のためかのように、エリザはぼんやりと歌った。
「母の胸に抱かれ…お眠りなさい…」
「悲しみと痛みを…全て洗い流すように…」
うまく音程を取ろうという気もなく、ほとんどひとり言のように、ぶつぶつと歌う。
「いつまでも…いつまでも…歌い続けるから…」
突然、どんどんと激しく扉がたたかれる音がした。
エリザはびくっとして、扉の方を見た。
(…何かしら…)
こんな真夜中に人が訪ねてくることなど今までなかったので、エリザは激しい不安感に駆られた。
しばらく様子をうかがっていたが、またどんどんと扉が叩かれた。
(こわい…)
エリザは揺り椅子につかまって、震えながら扉を見つめた。
すると、扉の外から男性の声が聞こえた。
「夜分遅くに申し訳ねえ!怪しいもんじゃねえんだ!」
男性の声だけ聞くと、何やらとても困ったような様子がうかがえた。
「おいら、ここいら辺のもんじゃねえんだけど…ちょっと道端で人倒れてたもんで…」
(人が倒れてた…?)
エリザは訝しげな顔をして、揺り椅子から立ち上がった。
しかし、まだ恐怖心は拭いきれず、扉を開けることを躊躇した。
「本当に、頼むよ、誰かいないのかい?助けてくれよ、この辺はここくらいしか家がないもんだから…」
男性は嘆くように哀願した。
エリザは仕方なく、ランプに火をつけ、扉の前まで持って行き、そっと少しだけ開けた。
「…」
「あ、ああ!よかった!おるなら早く出てくれよ、はあ…」
「あの…」
安堵の表情をする男性をよそに、エリザは不審そうに尋ねた。
「人が倒れてたって…」
「あ、ああ、ほらこの通りだ…」
そう言って、男性は背中に何かをおぶさっているのか、よいしょと態勢を直した。
「道っていうか、土手の下にこの子が…その…倒れててさ。息はあるんだけど意識がないみてえでさ…」
「え…」
「ほんと、馬車乗ってたらほんと、たまたま見つけちまってさ…参ったよ」
「そうだったんですか…」
「だから、悪いんだけど、ちょっと手当てしてやってくんねえかな…頼むよ…」
どうやら、男性の言っていることは本当らしいので、エリザは少しだけ開けていた扉を、全開にした。
すると、エリザのランプに照らされたひげ面の男性は、エリザを見たとたん急に落胆したような顔になった。
「あんた…こんな若いお嬢さんだったのかい?」
「え…?」
「あんた、おうちの人は?」
「…いません…」
「一人で…?」
「…はい…」
「そうかい…はあ、弱ったな…」
「あの…」
エリザは不思議そうに男性を見た。
男性の肩には、負ぶわれている人間の髪が、ゆらゆらと揺れていた。
男性はしどろもどろでこう言った。
「いや、あのさ…とりあえず、ちょっとこの子、寝かせてやれるところはないかね?」
「えっと…」
急なことでエリザは戸惑ったが、大伯母のベッドが空いていたのでエリザはそちらを指差した。
「あそこなら大丈夫です、お手伝いします」
「い、いやいいんだ!ちょっと灯りを降ろしてくんねえか?」
「え…?」
エリザは意味がわからず顔をしかめたが、男性の慌てぶりを見て、とりあえずそうした。
すると男性は、なぜか後ずさりするように後ろ向きで歩き出した。
まるで、背負っている人間を隠すかのようであった。
「いや、理由は後でちゃんと話すから、な、ちょっとそこで待っててくれな」
(どういうことかしら…)
男性はぼんやりした灯りを頼りに背負っていた人間をベッドに寝かし、毛布をかけてやった。
はあ、とため息をついて、手を振ってエリザを呼んだ。
エリザはランプを持って恐る恐る近寄り、ベッドに寝かされた人の顔を覗いた瞬間、悲鳴を上げた。
「ああっ…!!!」
エリザが目にしたのは、顔を血まみれにして目をつぶっている、ジュリアンであった。
「ジュリアン…!!!」
「え…?」
叫ぶようにエリザが少年の名前を呼んだので、男性は驚いてエリザを見た。
「あんた、この子を知って…」
「どうしてですか!!なんでジュリアンがこんな血まみれになってるんですか!!」
エリザは男性の問いかけを遮って、男性に詰め寄るように大声を出した。
「し、知らねえよ!!本当にたまたま通りかかったんだ!」
「うそ…なんでこんな…どうしてこんなことに…」
エリザは震えながら膝まづいて、ジュリアンの方へ顔を近づけた。
ジュリアンの顔からはたくさんの汗と血が流れ出ていて、べたべたとしていた。
「も、もしかしてすごい大けがをしているんじゃ…?!」
エリザははっとして、毛布をのけようとしたが、男性が慌てて止めた。
「お嬢さん、だめだ!!ちょっと、そのまま待っててくれ!!絶対開けちゃだめだぞ!」
そう言って、男性は慌てて外に飛び出した。
そしてすぐに戻ってきたが、腕には何か衣服らしきものがかけてあった。
「実はさ…その子、ほとんど何も着てないんさ…」
「え…?!!」
エリザは驚いて、ジュリアンを振り返った。
「どういうことですか…?!」
「…」
男性はうつむいて、目を泳がせた。
「いや…あんたみたいな若いお嬢さんにこんなこと言うのは…ううん…」
「教えてください…」
エリザは声を震わせて頼んだ。
男性は、はあとため息をついて答えた。
「土手にさ、倒れてたんだよ。こう仰向けになってたくさん血を流してさ…」
「…」
「そんで他にも殴られた後とかたくさんあって…そんで…」
「…」
「まあその…誰かに…無理やり乱暴されたんだろうなあ…」
「…!!」
それを聞いて、エリザはぎゅっと拳を握った。
「男でも変なやついるからなあ…この子、まあなんていうか器量がいいからな、かわいそうに…」
「…」
―――女だけじゃないんだけどな?そういうことするの
エリザは過去にジュリアンが笑いながら言っていた言葉を思い出した。
しかし、ここまでひどいことをする人間がいるなどと、想像もしていなかった。
「ひどい…」
エリザは震えながらつぶやいた。
もはや、自分がジュリアンに乱暴されそうになったことなど、頭から吹き飛んでいた。
「あんた、この子の友達かい?友達がこんなことされて、あんたもショックだよなあ…」
「…」
「しかし、どうするかな…いくら友達だからって、女の子のところに置いて行くわけにもいかねえしな…」
男性はううむと考えた。
「しかたねえ、あんたに手当てしてもらったら今晩はおいらの馬車の中で寝かせて、目が覚めたら送ってく…」
「いえ」
「ん?」
エリザは男性の方を向いてこう言った。
「私が…私が預かります」
男性は慌てて否定した。
「いや、でもそれはまずいだろう」
「大丈夫です。私にそうさせてください、傷もだいぶひどいみたいですから」
「でもなあ…」
しかし、男性はエリザのまっすぐなまなざしを見て、はあとため息をついた。
「まあ、おいらとしてもそうしてもらえるのが正直一番ありがたいんだけどさ…」
「はい、ならそうしましょう!」
エリザは思わず明るい顔になって、返事をした。
「じゃあ、これ、この子のズボンと…腰巻?渡しとくから、目が覚めたらあげといて」
「はい」
「まあ…この子としても、こんな恰好で目が覚めたら、ちょっと複雑なんじゃないかと思うけどな…」
「…」
「しかたねえ、とりあえず頼むよ。ほんと、悪かったね」
「いいえ、お気をつけて」
男性はエリザに会釈して、馬車に戻って行った。
エリザはしばし見送っていたが、手当の準備をするために、大急ぎで駆けだした。
◇
エリザはたらいに水を用意して、布巾を湿らせジュリアンの顔をそっと撫でるように拭いた。
何度か繰り返していくうちに、血まみれだった顔から元の真っ白な肌がようやくあらわになった。
「どうして…こんな目に…」
エリザは辛そうな顔をしてつぶやき、ジュリアンの口元を拭きとった。
そして首筋の辺りまで拭いてやったところで、何気なく毛布の裾を持ち上げた。
「…!」
ジュリアンが着ているシャツはボタンがほとんど取れた状態で、胸は完全にはだけており、痛々しいあざが垣間見えた。
エリザはそっと毛布を戻し、うつむいた。
(痛かったでしょう?悔しかったでしょう?)
エリザは汗で湿っているジュリアンの髪をそっと撫でた。
(乱暴するだけじゃなく、こんな暴力まで振るうなんて…)
ジュリアンの無数の傷を見て、エリザはジュリアンを犯した犯人を恨んだ。
(ここまでされたら、命を落としてもおかしくな…)
そう思ったとき、突然エリザの頭に自分がジュリアンに言い放った言葉が蘇った。
―――死んでよ
エリザはぎゅっと口をかみしめて、持っていた布巾を強く握りしめた。
「私は…なんてことを…」
私も、犯人と同じ。
私もジュリアンに暴力を振るったんだ。
「死ね」という、最低最悪の言葉の暴力を。
(この身体の傷よりも、きっと心の傷の方が深いわよね…?ジュリアン…)
エリザは唇を震わせて、閉じているジュリアンの目を見つめた。
あのとき怯えと衝撃に歪んでいた瞳は、安らかに閉じられていた。
(もう…許してはくれないわね…?)
ジュリアンを見つめながら、目に涙をためていたそのとき、ふっとジュリアンの目が開いたのがわかった。
「…!!」
エリザははっとしてジュリアンの顔を覗き込んだ。
ジュリアンはぼんやりとした表情で、エリザをじっと見つめている。
「ジュリアン…!ジュリアン大丈夫?!私よ…!!」
エリザは必死になってジュリアンに声をかけた。
ジュリアンは薄目を開けて、相変わらずぼんやりとした表情をしていたが、ふと、見たこともないような、優しい微笑みを浮かべた。
「怖い目にあわなかった…?無事だったんだね…?」
優しい声で、ジュリアンはエリザに尋ねた。
「何言ってるの?!私は全然なんともないわ!!」
エリザは夢中でジュリアンに話した。
それを聞いたジュリアンは、もう一度笑ってこう言った。
「そっか…よかった…」
そうして、再び目を閉じて、眠りについた。
「ジュリアン…どういうこと…?」
エリザは、ジュリアンの言っている意味がよくわからなかった。
自分が怖い目にあわなかったかどうか、心配していたようであったが、理由が見当たらなかった。
(ジュリアン、あなたのその怪我と関係が…?)
まるで見当がつかなかったが、本当ならば、ジュリアンへの暴力は自分へ向けられていたものだったのだろうか…?
ならばどうして…?
「ジュリアン…私を守ってくれたの…?」
眠っているジュリアンに、エリザは思わず問いかけた。
しかし、そんな彼から答えが返ってくるはずもなく、真相はわからないままであった。
「ジュリアン…」
彼の名をつぶやきながら、貧しいながらもそれなりに幸せな生活を送ってきた自分の人生が、なぜこんなことになってしまったのか、エリザは自問した。
しかし、エリザはその答えをとうの昔にわかっていた。
「…嫉妬してただけよ…」
そして、ぼろぼろと涙を流した。
「ニーナに嫉妬してただけよ…たったそれだけのことなのに…おばさんが死んで…あなたをあんなに傷つけて…」
エリザはジュリアンの手を取って、嗚咽した。
「全部…全部私のせいよ…ごめんなさいおばさん…」
エリザは嗚咽混じりに、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい…ジュリアン…」
空は、いつのまにか白み始めて辺りをぼんやりと映し出していた。




