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第16話

町の学校が夕方前に終わり、生徒たちがぞろぞろと外へ出てくる。

大きい学校ではないので、学年が違う者同士でも、仲良く挨拶を交わしている。



「ねえニーナ!今日町のカフェに行かない?!」



少女達が連れだって後ろ姿のニーナに声をかけた。



「えっカフェ?!」


ニーナは嬉しそうに振り向いた。

しかし、その後気まずそうに目をそらしながら、こう言った。


「う、うんでもあたし…今日はやめておくわ」

「あら、どうして?」

「え、あ、うん、ちょっとね…買いたいものがあって、お金貯めてるの」

「あら、なあに?!新しい髪飾り?!」

「ええ、まあ、そんなとこ…」


うふふ、とニーナは笑った。


「でも、町に行けば…ねえ?」

「そうよ!ジュリアンに会えるかもしれないのに!」


ニーナはジュリアンと聞いて、どきっとした。


「ニーナのお誕生日会のときも、ジュリアン、いつの間にかいなくなってたしねえ…」

「本当、真夜中までお話しできると思ってたのに!」


ニーナの友人たちは、つまらなそうに話しだした。



「じゃあそういうわけで、あたし帰るわね!さよなら!」



友人たちの話を振り切って、ニーナは足早に学校を後にした。



「ニーナ、どうしたのかしら…」



少女達は、ニーナの後ろ姿を不思議そうに眺めながらつぶやいた。






(あと…少し…)





ニーナは歩きながら、ポケットに入っているお金を手でぎゅっと握りながら、ぶつぶつと考えていた。



(あと少しお金を貯めれば…あたしも…ジュリアンと…)



顔はどんどん紅潮し、目はぎらついていた。



(あたしだってもう大人よ。絶対大丈夫、うまくやってみせるわ)




次第に足の歩幅が広くなり、手は血が滲みそうなほど、強く握られていた。






(絶対…絶対エリザなんかに…エリザなんかに取られてたまるもんですか!)













ジュリアンが食べ物屋の仕事を始めてから数日経つが、あまりの忙しさに家に帰っては泥のように眠る毎日であった。

おかげで、近いうちに行こうと思っていたエリザの家にも、行けず仕舞いであった。




(しかも…稼げるお金はこれだけ…)




こんなに働いているのに、体を売って金をもらっていた頃の10分の1にも満たない額しかもらえず、ジュリアンはうんざりした。


(いっそ、あの頃に戻った方がいいんじゃ…)


思わずよからぬことが頭をよぎったが、ふとエリザの顔が思い出され、ジュリアンはふっと頭を振った。


(働くって、こういうことなんだな、多分…)



そして、ため息をついて店を出ようとした。




「おい、ジュリアン!」

「え?」



ブノワがジュリアンを呼び止め、こっちに来るよう合図した。



「だいぶ疲れたろ、明日は休みだ。ゆっくり休めよ!」

「え?」

「毎日働いてたら、死んじまうぜ!みんな交代で休みもらってるんだ」

「ああ、そうなんだ…」

「そうなんだって、お前一生毎日働き続けるつもりだったのか?!」


そう言って、ブノワはわはは、と笑った。


「まあそういうことだから、明日は思いっきり羽根をのばしてくれよ!恋人と過ごすのもよし!」

「恋人…?」

「なんだ、お前いい人いないのか?それともなにか?たくさんいすぎて選べないのか?!」

「違うよ…何言ってんの…」

「いいや、お前みたいなやつはたいていそうなんだ。会うたび違う女連れてさあ」

「だから、違うってば…」



ジュリアンは疲労で怒る気力もなく、ただため息交じりに相槌を打つだけであった。




「ま、なんだかんだで女の一人や二人いるんだろうけど、あんまり無茶すんなよ!一気に二人も妊娠したら大変だからな!わははは!」

「…帰る」

「おう、お疲れさん!」




ジュリアンは、大人のつまらない冗談を聞かされ、ますます疲れを感じた。

町の中をふらふらと歩きながら、ジュリアンはふと思った。




(そういえば…もう一週間以上誰とも…ないな)




以前は毎日のように客を相手にしていたので、ジュリアンにとってはだいぶご無沙汰のような感覚なのであった。


(まあ…別にどうでもいいけど)


ふっと鼻で笑って、ジュリアンは家路を急いだ。




家について、ベッドにどすんと横になると同時に、ジュリアンは夢とうつつの境をさまよった。




(明日…エリザに会いに行こうかな…)



ふと、エリザの温かい笑顔が頭をよぎった。

しかし、そのあとすぐ、その笑顔は最後に別れたときの泣き顔に変化した。




(…もう…僕のことなんて…きっと…)





ジュリアンは顔を歪ませながら、深い眠りへと落ちて行った。













その日の夜も、フランクはエリザの家を訪ねて、エリザに文字を教えていた。



「そうそう、あってるよ」

「…これは?」

「これは、こうじゃなくて、こう」



フランクは自分も鉛筆を持って、エリザが書いた文字を訂正する。



「じゃあ、《私はエリザです》って、書ける?」

「多分…」



そう言って、エリザはゆっくりと鉛筆を動かした。



「あってる?」

「うん、完璧!」


そう言ってフランクは笑った。

エリザも、ふふ、と微笑んだ。




「じゃあ、今日は帰るね」

「うん、今日もどうもありがとう」



二人は扉から外に出た。

ぱたん、と扉を閉めると、二人の間に沈黙が流れた。



「…」



エリザは不思議そうな顔で、フランクを見る。

フランクは、真剣なまなざしで、エリザを見た。

フランクは、ジュリアンほどではないが長いまつげに、澄んだ茶色い瞳、きゅっと整った唇をしていた。




「エリザ…俺のこと、どう思ってる?」

「え…?」


突然の問いかけに、エリザは困惑した表情で、フランクを見た。


「どうでもいい子のところなんかに、こうして毎日のように尋ねに来るわけないってことくらい、わかるだろ?」

「…」

「エリザ…」



すると、フランクは突然エリザに歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。


「…!」


エリザは驚いたが、どういうわけか声が出なかった。

男の子の、自分より少しだけがっしりとした体格を、ただ肌で感じていた。



「俺が君のこと、どう思ってるか…わかってるだろ?」



そう言って、フランクはゆっくり顔を近づけ、エリザに口づけした。

ニーナの誕生日会のときのようなものではなく、恋人同士がするような、濃密な口づけであった。



「んんっ…」



舐めるように、吸いつくように、フランクはエリザの唇をもてあそんだ。

エリザは初めての感覚に思わず声を出したが、顔は歪んでいた。


フランクは次第に息が荒くなり、抱きしめていた背中から腕をゆっくり這わせ、エリザの腰のあたりを撫で始めた。

その瞬間、エリザはびくっとなって、思わずフランクを突き飛ばした。



「…」

「…エリザ」



エリザは下を向いて、身体を守るように小さくうずくまった。

フランクがそっとエリザの肩に手を乗せると、エリザの身体は一瞬硬くなった。



「エリザ、また来る」

「…」


フランクはエリザの髪を撫でて、去って行った。

エリザはうずくまったまま、そこを動かなかった。













「ニーナ!!」





翌日の学校で、少女達が駆け足でニーナに近寄った。



「ニーナ!驚かないで聞いてよ!」

「なあに?」

「昨日、あたしたちだけでカフェに行ったじゃない?!」

「ああ、どうだった?おいしかった?」

「それどころじゃないのよ!あのね、あたしたち見ちゃったの!」

「え?何を?」

「ジュリアンがね、町のお料理屋さんで働いてるとこ!!」

「え?!」




それを聞いて、ニーナは目を大きく見開いて、話した少女の腕を掴んだ。


「それちょっとどういうこと?!」

「知らないわよ!窓越しから見ただけなんだけど、普通に給仕係をやっていたわ」

「…」

「どうしちゃったのかしら、ジュリアンって、ほら…」

「そうよね、大人の人相手に…よね…」



周りにいた少女達も、こそこそと話す。



「どういう心変わりなのかしら。そういうところがなんだかミステリアスで素敵だったのにねえ!」



少女の一人がそういうと、他の少女達も大きくうなずいた。

ニーナは、少女達の話が耳に入らず、ただ頭が真っ白になっていた。




(ジュリアン…どういうこと?どうして急にやめちゃったの…?)



そして、思わずスカートの上から、金が入っているポケットを握りしめた。




(おかしいじゃない…絶対何かあるわ…)




ニーナはまるで、13歳の少女とは思えない、嫉妬に狂った女の目をしていた。













エリザは、今日もシリルを見ながらショールを編むが、相変わらず進む気配が見られない。

少し編んでは、はあ、とため息をつくばかりであった。



すると、がちゃっと扉が開く音が聞こえ、ベルガー夫人が中へ入ってきた。



「エリザ、ただいま」

「おかえりなさい」

「今日もありがとうね、お疲れ様」

「ええ、こちらこそ…」



エリザは下を向きながら微笑んで、いそいそと帰る準備をした。

それを見て、夫人はエリザに声をかけた。



「ねえ、エリザ?」

「…え?」

「あなた、最近あまり元気がないようだけど…どうかした?」

「え?ええ、なんでもないです。大丈夫です」


そう言って、にこっと微笑んで見せた。


「そう、ならよかったわ」


エリザの笑顔を見て夫人も微笑んだ。そして、そのあとため息をついた。

エリザはそれを見て、



(ベルガーさんもあまり元気がないようだけど…)



と思った。

そして、最近夫人にシリルを預かるよう、頼まれることがないな、とふと思った。




(この間からもうだいぶ経つのに…)



「ベルガーさんも、なんだか疲れてらっしゃるみたい」

「え?あらいやだ、そんなことはないわ!」


夫人はほほほ、と笑った。




「あ、そうそう、エリザ」

「はい?」

「シリルったら、最近川で遊びたいなんて言いだして…」

「あら…」

「まだ小さくて泳げもしないのに、落ちたりでもしたら危ないったらありゃしないわ」

「そうですね」

「だから、シリルがだだをこねても、絶対連れて行かないようにしてね、エリザ」

「はい、わかりました」



夫人は笑って、エリザを送りだした。

エリザはシリルの頭を優しく撫で、帰路に就いた。





(…帰りたくないわ…)




きっと、今日もフランクがうちにやってくるだろう。

そして、いつものように文字を教えてくれて、そのあと…



(…)



エリザは思わず口を拭った。

どうしてすぐ抵抗できなかったのか、エリザはわからなかった。

少し強引だが、優しくて、笑顔が明るくて、心底自分のことを思ってくれるフランク…



(…私…)



自分がわからず、エリザはため息をつくばかりであった。





気付くと家に辿り着いており、エリザは力なく扉を開いた。

そして、夕飯の支度をして、大伯母に食べさせた。


テーブルには相変わらずノートと教科書が広がっている。

テーブルの端の方には、表を伏せた石板がひっそりと置いてあった。


(お勉強…しないと…)



大伯母は、今夜はベッドに入らずに、揺り椅子でゆらゆらと揺れていた。

エリザは椅子をひいて、鉛筆を持ちノートに文字を書こうとした。





そのとき、こんこん、と扉をノックする音が聞こえた。

エリザはびくっと体を震わせたが、鉛筆を持って下を向いたままであった。



「…」

「エリザ」



大伯母はエリザに声をかけたが、エリザは返事をしなかった。



「エリザ、来客だよ」

「…出たくない…」



扉の向こうで、またこんこんと音が鳴っている。



「出ておやり」

「…」



エリザは黙って席を立ち、下を向いたまま音の鳴る方へ向かい、扉を開けた。

扉を開け、エリザの顔は硬直した。




そこには、記憶よりも少し長くなっている金色の髪をなびかせた、懐かしい少年が立っていた。













(…怒ってるのか…?)





固まったまま、自分をじっと見つめるエリザを見て、ジュリアンは緊張で顔がこわばった。

エリザは何も言わない。




(エリザ…)




ジュリアンは、声をかけたかったが、口にすることができなかった。






「ひどいわ…」





突然、エリザが震える声をだした。



「え?」



ジュリアンは思わず聞き返す。




「ずっと、待ってたのに…全然来なくて」

「…」

「あなたのこと、嫌いになりそうだったわ」

「え?」



ジュリアンは、エリザらしくない発言を聞いて、思わず顔を覗き込んだ。

すると、エリザはジュリアンの方を向いて、ぱあっと明るい笑顔を見せた。




(ああ、エリザ…!!)




その瞬間、ジュリアンはエリザを胸に抱き寄せたい衝動に駆られた。

その懐かしい笑顔が、ジュリアンの心を揺さぶる。

しかし、エリザに一歩歩み寄ったところで、思いとどまった。



「ジュリアン、いらっしゃい!ずっと待ってたのよ!入って!」



そう言って、エリザは大きく扉を開けた。




「はい、ここに座ってね」



エリザは、ジュリアンのために椅子をひいて、微笑んだ。

ジュリアンは、相変わらず黙ったまま座る。

大伯母は、エリザの方を見て、ふっと笑った。



「今日ね、何も用意してないの、ごめんなさい」

「そんなのいいよ、急に来たんだから」

「そうよね、いいわよね、別に!」



エリザは、おかしそうに笑ってジュリアンを見た。

無邪気にはしゃいでいるように見えるエリザを見て、ジュリアンも顔がほころびそうになった。


しかし、ふと、エリザは笑うのをやめて、ジュリアンを見つめながらこう言った。




「ジュリアン…私…お誕生会のとき…変だったでしょ」

「え…」

「ごめんなさいね、変な別れ方したまんまだったから…」



エリザは少しうつむきながらしゃべっている。

ジュリアンは、エリザを見て、思い切ってずっと気になっていたことを尋ねた。



「あのさ…なんで泣いてたの?」

「えっ…?」

「部屋にいるときも、帰るときも…」




すると、エリザは顔が少し赤くなったように見えた。

ジュリアンは不思議そうな顔をしている。



「…あの…だって」

「?」

「…あ、あの、そういえば」



突然、エリザは話題を変えようとした。



「あの…あの子とは…今も仲良くしているの?」



ジュリアンは一瞬何のことかわからず、顔をしかめた。




「あの子?」

「ほら、あの黒髪の子…ジュリアン、その子と踊っていたじゃない」

「…ああ」



そう言われ、ジュリアンはアリーヌのことをやっと思い出したが、興味なさそうに返事をした。



「あれ以来、一回も会ってないよ。あの子、ドミニクと付き合ってるんだって」

「えっ?うそ」



それを聞いたエリザは、突然叫ぶようにつぶやいた。

ジュリアンは不思議に思った。



「どうして?」

「え?ううん、いいの…そうなの…そうだったのね…」



そう言って、エリザはにこっと微笑んだ。

そして、少し顔を赤らめてこう言った。



「全然来てくれないから、ジュリアン、その子とばかり会っているのかと思っていたの…だからその…さみしくて」

「え…?」



ジュリアンは、エリザの言葉を聞いて、気持ちが高ぶるのがわかった。

エリザがそんな風に思っていてくれたなんて…

ジュリアンも、顔がどんどん紅潮した。



「い、今さ、町の料理屋で働いてるんだ」

「えっ?!」


それを聞いて、エリザは思わず叫んだ。

大伯母も、思わず顔を上げた。


「お料理屋さんで?!ジュリアンが、どうして?!」

「今までの…やめたから。普通に働くことにしたの」

「どうして…?」



エリザはびっくりした顔のまま、ジュリアンをじっと見つめた。




君に、誠意を見せたくて…




理由を問われて、ジュリアンはそう答えたかったが、彼にそんな勇気はなかった。

ジュリアンは、困って下を向いた。



「いや、あの…飽きちゃったっていうか…どうせいつまでも続けられないしさ、あんなこと」

「…」

「お店、すごい忙しくて割に合わない気もするけど、それなりにやってるよ」

「そ、そうなの…」



エリザは心なしか、体が少し震えているように見えた。

そして、かすかに笑みを浮かべながら、こうつぶやいたのが聞こえた。




「じゃあ、ジュリアンはもう、誰とも…」



「え…?」




その瞬間、エリザははっとした様子を見せ、みるみるうちに、顔が真っ赤になった。



「え、あの…」

「…どうしたの?」

「ううん、なんでもないの!」


そう言って、エリザは慌てて笑って見せた。



(変なの…)



ジュリアンは不思議そうな顔をして、エリザを見た。




「ねえ、ジュリアン、お料理屋さんではどんな仕事をしているの?!」


エリザはいまだ焦った様子で、ジュリアンに尋ねた。


「給仕係なんだけど、客が本当にわがままで、大変」

「そうよね、想像つかないけど、きっと休む暇もないのでしょうね」

「あと、変な客がたくさんいて困る」

「変な客って?」


エリザが尋ねると、ジュリアンはふふっと不敵に笑ってこう言った。



「僕のお尻を触ってきたり、店が終わるまで待ち伏せしてたり、お酒飲ませようとしたり…自分の体に触らせようとしたり」

「えっ?!」



ジュリアンの話を聞いて、エリザは思わず顔を歪めた。

想像通りの反応に、ジュリアンは思わず吹き出しそうになった。



「なあにそれ!!無礼にもほどがあるわ!人をなんだと思ってるのかしら!」



エリザは、以前ジュリアンに無理やり酒を飲ませ泥酔状態にさせた客の話を聞いたときよりも、激しく怒っていた。


「いくら気に入ったからって、普通そうやってすぐ手を出そうと思うかしら、信じられない」

「仲良くなりたいなって思うなら、普通にお話すればいいじゃない!」

「だいたい、見ず知らずの男性に対してそんなことするなんて、下品よ!女性としての品格を疑うわ」


エリザはますますヒートアップする。





「…女だけじゃないんだけどな?そういうことするの」





突然、興奮するエリザを制止するように、ジュリアンは面白そうな顔をしてつぶやいた。


「えっ…」


エリザはきょとんとした顔をしたあと、顔がまた赤くなった。


「男の人も、そういうことしてくるの…?」

「そうだよ、気持ち悪いよね、男が男のお尻を触ってくるなんてさ」


そう言って、ジュリアンはおかしそうに笑った。

それを見たエリザは、急に不機嫌そうな顔になった。



「…ジュリアン、なんだか楽しそうね」

「え?」

「こんなに心配しているのに…怒って損したわ」

「…」

「私をからかったのね?」



ジュリアンはエリザの顔を覗き込むと、エリザは顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をしていた。

ジュリアンはびっくりして、思わず立ち上がった。



「ちょ、ちょっと…」



「……ばか」



それを聞いて、ジュリアンは驚いてエリザを見降ろした。

普段優しくて笑顔を絶やさないエリザが、怒ってそんなことを言うなんて…


睨むように、ジュリアンを見上げる瞳は、くりっと大きく、愛くるしかった。

ジュリアンはそんなエリザが可愛くて可愛くて、どうしようもなかった。




「…ごめん」




ジュリアンはそう言って、思わずエリザの髪を優しく撫でた。

今までよりも整われたその髪は、しっとりとして心地の良い手触りであった。


エリザはジュリアンにそうされると、顔を赤く染め、恥ずかしそうに下を向いた。

ジュリアンは、はっとして後ろを向くと、大伯母がにやにやとした顔でこっちを見ていた。




(くそババア…)




ジュリアンは顔を赤くしながら大伯母を恨めしそうに睨みつけ、椅子に座った。




「僕も…最初は嫌だったよ、そういうことされるの」

「…」

「でも、いちいち怒ってたらきりがないって、店の人に言われた」

「そうなの…」

「だから、今はうまくあしらってるよ、こうやって」



そう言って、ジュリアンはおもむろに立ちあがり、そばにいた大伯母の顎に優しく指を添えた。



「僕がもう少しいい男だったら、あなたの相手ができたのに、残念です。って」



それを聞いたエリザは、突然大笑いした。


「それじゃ、お客さんはきっと期待しちゃうわ!だめよ、それはだめ!」


そう言いながら、腹を抱えて笑い続けた。




「それよりも、おばさん…!!」




まるで、貧しい老婆が王子様に優しくエスコートされているかのような、不思議なシチュエーションに、エリザの笑いは止まらなかった。


「なんなんだよ、これは一体」


大伯母は、面白くなさそうにそっぽを向いた。

少しだけ、照れているようにも見えた。


ジュリアンは、してやったり顔で、老婆を見てくすっと笑った。





「ところでさ…」

「なあに?」



ジュリアンは、家に入ってからずっと気になっていたことを、エリザに尋ねた。



「それ…なに?」

「えっ…」


ジュリアンが、テーブルに置いてあった教科書とノートを指差すと、エリザの表情は急に固くなった。


「こ、これは…」

「え?」

「文字をね、勉強したいって言ったらね、ニーナが、くれたのよ」

「ニーナ?」



エリザはとっさにうそをついた。




「うん。ジュリアンが教えてくれるって言ってたのに、ごめんなさい」

「別に、それはいいよ…僕が来なかったんだから」


しかし、エリザの様子が急に不自然になったことに、ジュリアンは違和感を覚えていた。



「ね、ねえジュリアン!私ね、自分の名前が書けるようになったのよ!」

「へえ…」

「それから、簡単な文章も、だいぶ書けるようになったわ!すごいでしょ!」

「よかったね…」


エリザは、おもむろにノートを取り出して、鉛筆でゆっくりと何かを書きだした。

ジュリアンは黙ってそれを見つめる。



「ほら!」



書き終わって、エリザは嬉しそうにノートを見せた。

そこには、たどたどしい字で「私は、エリザです」と、書いてあった。




(《Elisa》…)




ジュリアンは、それをぼんやりと見つめた。

《Elisa》という文字は、自分が教えるはずのものだったのに…




そのあと、二人はしばし沈黙した。

二人で、黙ってノートに書かれた文字をじっと見つめるだけであった。




「そういえば、石板はもう使わないの?」

「えっ?!」


ジュリアンは、ふと石板がテーブルの隅に追いやられていることに気付いた。

《jurien》《Elisa》と書かれた表が伏せられている。


「えっと…」

「ま、こんないいものがあるんなら、あんなの必要ないよね」


意地悪く、ジュリアンは笑った。


「違うの!あれには…」






エリザが、慌ててわけを話そうとしたとき、突然扉がこんこん、と音を立てた。



その瞬間、エリザの顔はひどく歪んだ。

ジュリアンは驚いてエリザを見た後、扉の方を振り向いた。



「…どうしたの?」

「…」

「出ないの?」

「…」



エリザは顔を歪めたまま、下を向いて黙りこくった。

そして、ふらふらとした足取りで、扉の方へ向かい、小さく開けた。




「ごめんなさい…今日は来客があるからだめなの…」


「お願い、今日は帰って…」



エリザは、扉の前の誰かに必死に説得している。

相手は誰なのか、ジュリアンにはよくわからない。

大伯母の顔を見ると、憂鬱そうな顔をしていた。



(誰なんだ…?)




すると突然、扉がばん、と開き、エリザは「きゃっ」と小さく叫んだ。

ジュリアンがその様子に驚いて、後ろを振り返った。

そして、立っている人物を見て、自分の顔が固まったのがわかった。




椅子に座っている自分を見下ろし、冷たい眼差しで見つめるフランクが、そこに立っていた。













「やあ」




無表情で、フランクはジュリアンにあいさつした。


「…」


ジュリアンは、黙ってフランクを見つめた。


(なんでこいつが…)



「フランク…」



エリザは困惑したような顔で、フランクに呼びかけた。


「どうして?俺がいちゃなにか悪いことでもあるの?」

「そうじゃないけど…」

「ならいいじゃないか。ここ、座っていいよね?」

「…どうぞ」



そう言って、フランクはエリザの隣の席に着いた。



「エリザ、今日はどこから始めようか?」


「えっ…?」



フランクの言葉に、ジュリアンは思わず声を出した。

エリザは黙っている。



「ああ、俺ね、エリザに文字を教えてるんだ。このノートも教科書も、俺があげた」

「え、でもさっき…」

「ジュリアン…あ、あのね…あの…」



エリザは、うそをついたことがジュリアンに知られてしまったのを焦ってか、次に続く言葉がしどろもどろになっている。


(ニーナじゃなかったのかよ…)


ジュリアンはエリザから目をそらして舌打ちした。

一瞬、エリザはびくっと体を震わせたように見えた。




「そういえばさあ」




突然フランクがジュリアンに話しかけた。



「アリーヌとは仲良くやってるの?」

「は?」

「ジュリアン、お前、ニーナの誕生会のとき、アリーヌといい雰囲気だったじゃないか」

「…覚えてないよ」

「うそつけ。ダンスのときだって、見つめ合いながら踊ってたろ」

「あれは…」



ジュリアンは、あのときのことを思い出して、うつむいた。




お前たちを見て、ただやけになってただけ。




しかし、そんな情けないことが言えるはずもなく、ジュリアンは黙ってうつむくだけであった。

フランクはふっと鼻で笑って、こう言った。



「お前がアリーヌのことどう思ってるか知らないけど、あいつはドミニクと付き合ってるんだからな。せっかく可愛い彼女ができるかもしれなかったのに、残念だったね」



ははは、とフランクはおかしそうに笑った。


(こいつ…何が言いたいんだ)


ジュリアンはフランクの言動が理解できず、眉をひそめた。


「別に、あの子のことなんてどうでもいいんだけど」


ようやく、ジュリアンは自分の意見を述べることができた。

しかし、フランクは無表情でジュリアンを見るだけであった。



「ねえ、エリザ、今日は新しい単語を覚えようよ。教科書は、こっちを使おう」



フランクはジュリアンを無視して、エリザに優しく話しかけた。

エリザは急に話を振られ「えっ」と困ったように答えた。



「もうだいぶ書けるようになったよね。毎日来てた甲斐があった」



(毎日…?)



ジュリアンは思わずエリザの顔を覗き込んだ。

エリザの顔は、ますます歪む。




(僕が来なかった間…二人は毎日会っていたのか…文字の勉強をしに)




本当だったら自分がしていたはずのことを、ずっとフランクがしていたのか。

真新しいノートと教科書を使って、古めかしい石板を追いやって。


自分がうじうじとしている間…ずっと。


ジュリアンは、拳をぎゅっと握って、下を向いた。




すると、先ほどまでずっと黙っていたエリザが突然口を開いた。



「わ、私、スープを作ってくる!みんなおなかすいたでしょう?!」

「エリザ、いいよそんなの」

「…」

「いいの!作らせて、ちょっと待ってて!」



エリザが慌ただしく席を立つと、フランクもさっと席を立った。



「じゃあ俺も手伝うよ」

「え…」

「いいから、行こう」



そう言って、フランクはエリザの肩をそっと抱いて、台所の方へ向かった。

エリザはジュリアンをちらりと見たが、ジュリアンは下を向いたまま、二人を見ようとしなかった。














「…」






ジュリアンはただ椅子に腰かけ、黙っていた。



「…どうした、お前さん?」



一部始終を見ていた大伯母は、ゆっくりとジュリアンに話しかけた。


「別に」

「別にってことはないだろう。いいのかい、二人を行かせちまって」

「…」

「全く、このままじゃ負け犬になっちまうよ、あんた」

「…」





そのとき、がたっと奥から物音が聞こえた。

ジュリアンははっとそちらの方を見た。



(エリザ…?)



ジュリアンは席を立って、そっと台所の方へ向かった。

大伯母は、ジュリアンの後ろ姿をじっと見つめていた。





ジュリアンは、二人がいるであろう台所をふと覗いて、目を疑った。





二人は壁にもたれかかって、お互いの唇と唇と重ね合わせ、じっとして動かなかった。

フランクは、エリザの手首をぎゅっと握って離さない。


「…」


フランクは顔を左右に揺らしながら、舌をエリザの口の中へ忍び込ませていた。



「んっ…」



エリザは声を出して、フランクを受け入れているように見えた。








「…何してんの?」





その声に、二人ははっとして、唇を離した。

エリザとフランクの間に、どちらのものともわからない唾液が、つつ、と糸を引いているのが見えた。




「見ての通りだけど」



フランクは無表情で答える。

エリザは、身体を震わせながら、ジュリアンを見ていた。




「へえ、なんだか可愛いね。二人とも、盛りのついた猫みたい」



そう言って、ジュリアンはふふっと笑った。


「なるほどね、文字の勉強だけ教えてもらってるのかと思ってたけど、こういうこともお勉強してたんだ」


ジュリアンはエリザの方を見て、そう言った。


「ジュリアン…違うの…」

「違うって、何が?」


震える声でエリザは否定したが、ジュリアンは一蹴した。



「別にいいけど?好きにしなよ。でも、もう僕が文字を教えに来る必要はないみたいだね」

「違うの…」

「石板も使わないみたいだし」

「ジュリアン…」

「あと、僕、そういう色っぽいことは教えてあげられないからさ」



ふっと笑って、ジュリアンはくるっと背中を向けた。



「待って、ジュリアン…」

「君って…意外とだらしないんだね」





ジュリアンは、ぼそっとそう吐き捨てて、台所から出て行った。







すたすたと歩き、大伯母の前を通り過ぎようとすると、大伯母に突然手首を掴まれた。

思わず大伯母の顔を見ると、大伯母は驚いた顔でジュリアンの見上げた。




「お前さん、何て顔してるんだい…」

「え…?」




ジュリアンは、今自分がいったいどんな顔をしているのかわからなかった。

何も考えられず、ただ、早くこの場から立ち去りたかった。



「離してよ」

「いいや、だめだね」

「離してよ!」



ぶん、と掴まれた方の腕を振って、無理やり大伯母から手を離した。



「これを持って行きな」



大伯母は、いつもより早い動作で立ち上がり、テーブルの上に置いてあるランプを持ち、ジュリアンに差し出した。


「いらない」

「だめだ、これを持って帰って、また、うちへ返しに来るんだ」



大伯母は無理やりジュリアンにランプを押し付けた。

ジュリアンは震えながらランプを握りしめたかと思うと、ばんと扉を開き、全速力で駆けて行った。




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