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第14話

ある日の夜、夕飯が終わり食器を片づけたあと、エリザは鏡の前に立って、髪をとかしていた。

エリザはニーナの誕生日会の日から、毎日髪をとかすようになっていた。




(私って…馬鹿ね…)




エリザは鏡の前の自分に向かって、心の中でつぶやいた。


自分は何のために髪なんかとかしているのか。

それもこんな夜、なんの予定があるわけでもない。

誰が来るわけでも…




(もう…来てくれないわね…)




エリザはくしを鏡台の上に置いて、暗い顔でうつむいた。



(あんな風に泣いて…きっと困らせたに違いないわ)



誕生会の日、まともに話せなかったどころか、涙を流して別れてしまった。

ジュリアンの、自分を見て驚いた顔が頭から離れなかった。



(もう、文字を教えてはくれないの…?)



次を約束していたわけではなかった。

でも、また文字を教えてほしいと言ったとき、彼は確かに「ああ」と返事をした。


あの誕生日会の日以来、エリザは心のどこかで彼が来るのを期待していた。

また文字を教えに来てくれると、約束したから…

だからこうして、少しでもきれいと思ってもらえるように、エリザは毎晩髪をとかしているのであった。


ぼさぼさだった髪をとかし、赤紫色の美しい服を着た自分を見ても、きれいとうなずいてくれなかったジュリアンに、少しでも…





(今、何をしているのかしら…)




エリザは、ふとぼんやりと考えた。

ジュリアンが誕生日会の日、自分自身にやっていたように、今ごろ客の体を優しく撫でているのであろうか。

それとも、あの黒髪の美しい少女に…?






(あの子と、会っているの…?)






そう思った瞬間、エリザの瞳はうつろになった。

あの日の夜の、見つめ合いながらダンスをする美しい二人が、頭の中をぐるぐると回る。


自分と別れた後、二人はどうなったのだろうか。

一緒にニーナのうちに泊まったのだろうか。

それともたった二人だけで、どこかに…








そのとき、こんこん、と扉をノックする音が聞こえた。


エリザはがたっと立ちあがり、扉の方を振り返って、じっと見つめた。

するとまた、こんこん、という音が聞こえた。





(ジュリアン?!)





うつろだった表情がぱあっと明るくなって、狭い部屋の中をばたばたと駆けだした。



(ジュリアンだわ!ジュリアンが来てくれたんだわ!)



エリザは顔を紅潮させて、扉までの道のりを走る。

狭い家にも関わらず、扉までがずいぶんと長く感じた。

大伯母は、揺り椅子に揺られながら、そんなエリザをじっと見つめていた。





がちゃっと勢いよく扉を開けて、家の前に立っている人物を見て、エリザは思わずがっかりした顔をしてしまった。




「や、やあ…」




立っていたのはフランクで、少し気まずそうな顔をしていた。



「フランク…どうしたの?」

「いや、あの…ニーナにここだって聞いてさ」

「そうだったの…わざわざ来てくれたのね、ありがとう」

「迷惑だったかな…」

「迷惑だなんて…そんなことないわ」

「そっか…よかった」



フランクはほっとして、エリザにほほ笑んだ。

エリザもにこっと笑った。



「どうしてうちに?」


エリザが尋ねると、フランクは頭をかいて目をそらした。



「いや、別にどうってわけでもないんだけどさ…ほら、あの日…君、あまり元気なかったろ」

「…」

「どうしてるかなって思って…」


フランクは、少し顔を赤らめて答えた。

エリザは微笑んでこう答えた。



「元気よ。大丈夫。心配かけてしまって、ごめんなさい」

「そうか、それならいいんだ。安心したよ」



二人は笑ったが、そのあとすぐ無言になった。

フランクは、このあとどうしたらいいのかわからないといった感じである。



「ねえフランク、中に入って。何もおもてなしできないけど」

「えっいいの?」



フランクはとっさに顔をあげて嬉しそうに返事をした。

エリザは笑顔で中に通した。




「おばさん、お友達が来たわ」

「…」


エリザは大伯母に知らせたが、大伯母は黙っている。


「ねえ、おばさん、フランクよ」

「…いらっしゃい」

「こんばんわ、お邪魔します」


フランクは礼儀正しく大伯母にあいさつをした。

大伯母はフランクをじっと見つめた。



「フランク、ここに座って」



エリザは、テーブルの椅子に座るよう、手でうながした。

フランクは自分で椅子をひいて、座った。

大伯母はエリザをちらっと見た。



「フランクは町に住んでいるの?」

「ああ、まあ小さなアパートだけどね」

「そう、学校のお友達も町の子が多いのね」

「そうだね、半分くらいはそうかな」

「へえ…」


エリザはにこやかに話す。


「ねえエリザ、君はどうして学校に通ってないの?」

「ふふ、うちは見ての通り貧乏だから…学校に行く余裕がなくて」

「え、そうかなあ」



それを聞いて、フランクはきょとんとした顔をした。

エリザはそれを見て不思議に思った。



「なあに?」

「だって、ニーナの誕生会のとき、とても素敵な服を着ていたじゃないか」


エリザはどきっとした。


「ちょっと失礼かもしれないけど、あれ、結構上等なものだと思うけど…」

「そ、そうかしら…」



エリザはふと目をそらした。

なんとなく、ジュリアンにもらったものだとは言いづらかった。


「まあ、一枚くらいは…ね」


そう言って、エリザはごまかすようににこっと笑った。

フランクは少し頬が赤くなる。



すると、フランクはテーブルの上にあるものに気付いて、エリザに尋ねた。



「これ、なに?」

「えっ?」


フランクはエリザの席の横に置いてあった石板を指差した。

エリザは慌てて石板を自分の手元に引き寄せた。

石板には、たくさんの《Julien》の文字が書いてあったからであった。

そして、その文字をさりげなく手で消した。



「こ、これね、石板。ジュリアンがくれたのよ」


エリザは、今度は正直に答えた。


「ジュリアンが?どうして?」


フランクは、ふと怪訝そうな顔で尋ねた。



「私ね、学校に行ってないでしょ。だから文字が書けないのね」

「そうなんだ…」

「うん、だからジュリアンが小さいころ使っていた石板をくれてね。これに書いて覚えてねって」



エリザは、思わず嬉しそうな顔をして話した。

フランクは面白くなさそうな顔をしている。


「自分が子供のころ使っていた石板で済ますなんて、けちなやつだな」

「え?」


フランクはぼそっとつぶやいた。

エリザは反論することなく、黙っていた。



「ところで、何か文字は覚えたの?」

「え…えっと」


まさか書けるようになった単語が《Julien》だけだとは言えず、エリザは困ってしまった。


「まだ一つも覚えられてないの。せっかくもらったのにね」

「なんだ、あいつ石板あげただけで教えてあげようっていう気持ちはなかったのかよ」


フランクはおかしそうに笑った。


(そんなことないわ…)


エリザは心の中でつぶやいたが、口にはできなかった。


「じゃあ、自分の名前は?書ける?」

「いいえ、書けないわ」


エリザがそう答えたと同時に、フランクは「貸して」と言ってエリザから石板を奪った。


「あっ」


エリザは思わず声を上げ、フランクの方を見た。

フランクはそばにあった石筆を手に持ち、石板に何か書きだした。

エリザはそれを黙って見るだけであった。



「はい」



フランクが書き終わって、石板を見せた。


「これ、エリザの名前だよ」

「え…」


石板には《Elisa》と大きな字で書かれていた。


「これ見て練習しなよ。自分の名前、書けるようになるよ」

「あ、ありがとう…」


エリザは石板をじっと見つめて、そう言った。

フランクは満足そうな顔をして、エリザを見つめていた。













フランクは、そのあと少しエリザと会話をして、時計を見て「じゃあ、そろそろ帰るよ」と言った。

エリザはフランクを玄関まで送り出した。

フランクは大伯母に会釈をして、外に出る。

大伯母は小さく会釈を返して、出ていくフランクの後ろ姿を見つめた。



「エリザ、今日は急に訪ねてきてごめんね」

「あら、いいのよ。来てくれて嬉しかったわ」


エリザは笑って答える。


「あのさ…」

「え?」

「この間のこと、怒ってる?」

「え…?」


フランクは少しうつむいて、緊張した面持ちでエリザに尋ねた。

エリザは、誕生日会で、彼が突然自分に口づけをしたことだと察知した。


「お、怒ってないわ、ちょっとびっくりしたけど…」

「そっか…」


フランクはうつむいたままだったが、少しだけ微笑んだ。


「ねえ、また遊びに来てもいいかい?」

「ええ、もちろんよ」


エリザが答えると、フランクは嬉しそうに、明るい笑顔を見せた。


「じゃあ、またね、エリザ!」

「さようなら、気をつけてね」


フランクは大きくエリザに手を振り、町の方へ駆けて行った。

エリザはフランクに向かって手を振り返した。

しかし、フランクが小さくなると、暗い顔になってそのまま家の中へ入って行った。




テーブルの上に置いたままの石板を、エリザはふと見つめた。

石板には、フランクが書いた自分の名前が大きく記されていた。




(ジュリアンに、教えてもらいたかったのに…)




エリザは悲しそうな顔をして、石板から目をそらした。













「今日はまだいてくれるの?」




自分の隣で寝そべっている女が、ジュリアンに話しかけた。

ジュリアンははっとしてそちらを見た。



「いつも、終わったらすぐ帰っちゃうのに、今日は…」



女は少しはにかみながらそう言った。


「…何もしなくていいなら、もう少しいるよ」

「嬉しいわ、ジュリアン」


女は毛布の下で、ジュリアンに体を絡ませながら寄り添った。

ジュリアンは、ただ薄汚れた天井をぼうっと眺めるだけであった。




(なんで泣いてたの…?あんなに苦しそうにして…)




エリザのことを思うたび、ジュリアンの顔は辛そうに歪んだ。

彼には、エリザの涙の理由がどうしてもわからなかった。



(…)



ジュリアンは何も考えたくなくなり、そっと目を閉じた。

すると、自分の体を何かがもぞもぞと這うような感覚を覚えた。

はっとして見ると、隣にいる女が自分の体を指でいじくり始めていた。



「…ちょっと。やめてくれる?」

「あら、どうして?」

「何もしないって言ったでしょ?」

「あなたは何もしなくてもいいのよ。あたしが勝手にやってるだけ」

「はあ?ふざけないでよ。ただで遊ばせてあげるほど暇じゃないんだけど」



そう言って、ジュリアンはがばっと起き上がった。

女はきゃっと叫んで横に倒れ込んだ。

そして慌ててジュリアンにすがった。



「ごめんなさい。ちゃんと今の分もお金払うからもう少しいてよ」

「…今日はもう終わり」




ジュリアンは冷たい目で女を見た。

女はしょんぼりして、裸のまま起き上がり、ジュリアンに金を渡すために立ちあがった。

ジュリアンは黙って服を着る。


そしてお金を受け取り、ばたんと部屋の扉を閉めて出て行った。













町の小さなアパートをそっと出て、ジュリアンは外に出た。

日はまだ明るかった。




行き交う人々の肩に、たまにぶつかりながら、彼はあてもなく歩いた。

ズボンのポケットに手を突っ込んでみると、先ほど相手をした女から受け取った札が数枚、手に触れた。

その感触が、ジュリアンにとって果てしなく虚しいものに感じられた。




今の自分にとって、この「仕事」は一体何の意味があるのだろう。




ジュリアンが今の仕事を始めた理由は、今の彼にとってもはや「理由」として意味をなさなくなっていた。



ただ、母親に自分を見てほしい。

気にかけてほしい。



ただ単に、それだけの理由であった。

しかし、彼の心の中の多くを占めていた母親の影すらもなくなりつつある今、好きでもないこの仕事をやり続けることに、いったい何の意味がある。




「…」





ふと、町の料理屋の窓のところに貼ってある、貼り紙が目に入った。

ジュリアンがそちらの方に歩いて見てみると、それは店の店員を募集しているポスターであった。



(厨房か、給仕係…)



ぼうっとした顔で貼り紙をじっと見ていると、店の中から男が出てきた。



「よお、もしかしてバイト希望かい?」



嬉しそうに、男はジュリアンに話しかけた。

ジュリアンはびくっとして男の方を見た。


「いや、そういうわけじゃ…」

「なんだよ、期待させやがって。今うち人手が足りなくて困ってるんだよ」

「知らないよそんなの…」

「あんた、学生さん?」

「違うよ。学生だったら別に働く必要なんかないだろ」

「まあな。しかしあんた、なかなかの男前じゃないか」

「…あっそ」

「ぜひうちの給仕係をやってくれよ。あんたみたいなのがいてくれたら、商売繁盛だぜ」



ひひひ、と下品に笑って、男はジュリアンの方を見た。

ジュリアンは嫌そうな顔をしている。



「ま、冗談だけどな。気が向いたらまた来てくれよ。もし本当に商売繁盛したら、特別に給金上げてやるからさ」

「さあね…」



そう言って、ジュリアンはすたすたと去って行った。


「待ってるぜー!!」


男はしつこくジュリアンに向かってアピールした。

ジュリアンはくるっと振り向いて、苦々しい顔をした。








(どうせ料理なんかできないんだから、給仕係をやるしかないよな…)


ジュリアンは町を歩きながら、一人でぶつぶつと考えていた。


(でも給仕係って愛想笑いとかしないといけないのかな?うわあ、最悪)


色々な考えを巡らせては、思わずげんなりとした顔になる。


(でも、普通の仕事をするようになれば、エリザに会える時間がきっと増えるは…)


はず、と思ったところで、ジュリアンはふと表情が曇った。




(僕…もう行かない方がいいのかな…)




エリザのあの涙は、自分のせいだったのではないだろうか。

自分がおかしな語りをしたことで、エリザに気味悪がられたのかもしれない。

でも、あそこまで泣くほどのことだろうか?


ジュリアンはまた頭がこんがらがり、はあとため息をついた。




(エリザ…フランクなんかとキスして…)




ジュリアンは一番思い出したくなかったことを思い出し、思わず舌打ちをした。


(初めてだったんだろ?いやなら拒否できたじゃないか…)






もしかして、いやじゃなかったのか…?






そう思った瞬間、ジュリアンは胸をきつく締めつけられたような感覚に陥った。


エリザが他のやつに触れられたなんて…

何も知らないうぶなエリザ…お前はそれでよかったのか。


ジュリアンは自分の胸元のシャツを、思わずぎゅっと握った。




気付くと、町の中央に辿り着いていた。

ジュリアンは、夜の市でエリザと二人で座ったベンチが目に入った。

ジュリアンはそこに一人座り、またため息をついた。





(自分はどうなんだ…)






エリザのことを言う前に、今の自分のあり方を考え直すべきではないのか。



(お金のためだけに、体を売って…なんになる?)



エリザは確かに、そんな自分を軽蔑しない、とはっきり言った。

しかし、こんなにエリザのことを思っておいて、自分は他の女を抱き続けるというのか。


こんな状態で、胸を張ってエリザに会いに行けるとでも…?






ジュリアンはがばっと顔をあげて、立ちあがった。

そして、暗がりへと続く細い道を、息を切らしながら駆けて行った。












はあはあ、と苦しそうに息を吐きながら、ジュリアンは娼婦屋の前に立っていた。

まだ夕方にもなっておらず、娼婦屋は開店前であった。


ジュリアンはがちゃっと娼婦屋の扉を開き、店の中へ入った。

開店前ということもあり、いつもは乱雑な店内も、比較的きれいに掃除されていた。



「なんだ、ジュリアン変な時間に」

「…」



店の男はジュリアンに気付いて、不思議そうに話しかけた。

ジュリアンは黙って男の元へ近づく。





「あのさ」

「ん?」

「僕、もうやめようと思ってるんだけど」

「あ?やめる?なにをだ」

「決まってるだろ」

「…お前、本当か」



男はびっくりした顔をして、ジュリアンを見た。

ジュリアンは真剣な顔で、男を見つめている。



「どういう心変わりだ。なんか、気持ち悪いぞお前」

「…」


相変わらずの口調で、男は言った。

ジュリアンは不愉快そうに男を睨みつけた。



「まあいいけどよ。まだ15歳だもんな。それが普通だよ、うん」

「だから、もう明日からやらないから。全部」

「えっ明日から?!それは困るよお前」


男は突然の話に、慌てふためいた。


「せめてあさってまでの依頼は受けてくれよ。きれいさっぱり消化してから足を洗えよ」

「…」


ジュリアンは、ちっと嫌そうに舌打ちしたが「わかったよ」と返事をした。




「ところでお前、これからどうする気だ。まさか学校にでも通うのか?」

「そんなわけないだろ、今さら」

「じゃあ、普通に仕事でもするのか?」

「…ああ。あてがないわけじゃないんだ」

「へえ…お前が普通にねえ…やっぱり気持ち悪いな」


くくく、と男は意地悪く笑う。


「女ができると、人って変わるのねえ…」


男は娼婦のような口ぶりで、ジュリアンをからかった。


「だから、違うってば!そんなんじゃないよ…」


ジュリアンは赤くなって反論したが、急に元気がなくなった。

男は黙って見つめる。



「まあ、お前みたいなやつなら、どこだって受け入れてくれるだろうし、うまくやっていけるよ。ただし、口の聞き方にだけは気をつけろよな。社会はそんなに甘くないぜ」

「…」

「お前も、ついに一人立ちかあ…」

「え?」

「ああ、いや」

「…」

「ま、とりあえずあさってまではよろしく頼むぜ。適当でいいからよ」

「ああ」



そう言って、ジュリアンは店を出た。












そろそろ空が赤くなる頃であったが、ジュリアンはもう一度、町の中央を通り元来た道を戻った。

そして、店員募集の貼り紙が貼ってある店の前に辿り着いた。

店は、夕方から書き入れ時を迎え、大いに賑わっていた。

中央広場にある食べ物屋ような大きな店構えではないが、雰囲気が良く、活気に満ちた様子であった。



(なんか、忙しそうだな…)



ジュリアンは店の窓から中の様子をうかがったが、先ほど自分に声をかけた男の姿は見えなかった。

厨房の方にでもいるのだろうか。



(しょうがない、出直すか)



ジュリアンは諦めて、その場から離れ、すたすたと歩き出した。

それからすぐ、後ろから大きな声で自分らしき人間を呼ぶ声がした。

ジュリアンが振り返ってみると、厨房着を着た先ほどの男が、手を振っていた。



「おおい、あんた!来てくれたんだな!ちょっと待ってくれ!」



そう言って、男はジュリアンの方へ駆けてきた。


「いやあ、今給仕係の女が、店の前にすごい男前がいるってはしゃいでたから、まさかと思ったんだけどさ!」

「やっぱりここで働きたいんだけど」


嬉しそうな男とは正反対に、ジュリアンは無表情で答えた。


「あんた、こういうところで働いた経験は?」

「ないよ」

「料理経験なんかもないかい?」

「ああ、だから給仕係希望で」

「そうか、わかった!じゃあ決まりだ!俺は店主のブノワ・オーバンだ。あんたは?」

「ジュリアン・ブルジェ」

「よし、ジュリアン!明日から頼むぜ!」


それを聞いて、ジュリアンは焦った。


「いや、仕事始められるのはしあさってからなんだ」

「なんだよ、できれば今からでもよかったくらいなのに。じゃあよ、来週からならいいだろ?」

「ああ」

「じゃあ、よろしくな!それまでに笑顔の練習でもしておいてくれよ!」

「…」



「じゃあな!」と言って、ブノワは笑顔で去って行った。

ジュリアンはくるっと店に背を向けて、こう思った。





(今のをやめて、食べ物屋での仕事を始めたら…エリザに会いに行こう)




ジュリアンは、少し明るい表情になって、前を向いて歩きだした。

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