第13話(2)
エリザがニーナの邸宅に着く頃には、もう辺りは真っ暗になっていた。
ニーナの家は、煌々と明かりが灯されている。
(久しぶりだわ…ニーナのおうちに入るのは)
エリザがまだ幼いころ、よくニーナの家で彼女の遊び相手をしていた。
今考えてみたら、友達と遊ぶと言うよりは、子守をしているようなものだった。
(相変わらず大きなおうちねえ…)
町からは少し離れた田舎だが、ニーナの家は一般的な家庭よりもだいぶ豪華な造りになっていた。
そんな家にふさわしい、立派な門扉をくぐりぬけ、玄関までの道のりを歩いた。
手入れが行き届いた庭には、秋だというのに花がまだ美しく咲き乱れている。
玄関までたどり着くと、少年少女たちの笑い声が聞こえた。
(きっと…学校のお友達がたくさん来ているのね)
エリザはふと、ノックをするのをためらった。
(私…場違いじゃないかしら…)
おそらく、学校の者でないのは、自分とジュリアンくらいだろう。
ジュリアンは、きっと学校でも有名だから、歓迎されているに違いない。
私は…
そのとき、突然玄関の扉ががちゃりと開いた。
エリザはびっくりして前を見た。
そこには、記憶より少し年をとったニーナの母親が立っていた。
「あ、あら…?どちら様かしら…」
「あ、あの…エリザです…覚えていらっしゃいますか…」
「ええっ?!あのエリザなの?!まあ、こんなにきれいなお嬢さんになって!!」
(きれいだなんて…大げさよ)
エリザは心の中でつぶやいた。
「まあ、本当に久しぶりね!ちょっと窓から人が見えたから来てみたのだけど…あなただったなんて!」
「あの…ニーナに誘われていたんです、今日のこと」
「そうだったの!あら、一緒に招待状作ったのに…ごめんなさい」
ニーナの母親は、申し訳なさそうに話す。
招待状をもらってないエリザは、少し困惑した。
(ニーナ…お母さまに私を誘ったことも伝えてなかったのね…やっぱり来ない方がよかったのかしら…)
ますます気が重くなるエリザであった。
◇
エリザはニーナの母親に笑顔で通され、広いロビーを抜け、大広間の扉の前に立った。
少年少女達の話し声や笑い声が、ますます大きく聞こえる。
エリザは次第に動悸が激しくなった。
「もうね、みんな揃って適当にやってるのよ。あなたも、楽しんでね」
「はい…」
そう言って、ニーナの母親は扉を開けた。
エリザの目の前に、高級な調度品が揃う広々とした大広間が広がり、そして想像以上の人数の、ニーナの友人らが目に飛び込んできた。
「ニーナ!」
とニーナの母親が呼ぶと、皆は一斉にエリザの方を向いた。
エリザはどきっとして、いたたまれない気持ちになった。
(ああ、絶対変な子が来たって思われたわ…!)
「ニーナ、エリザが来たわよ」
「えっ?!」
友人らの中央に座っていたニーナは、驚いて声をあげた。
いつもよりずっとかわいらしいドレスを着て、髪もお洒落に結い上げ、これ以上ないくらいのおめかしをしていた。
「エリザ!来ないと思ってたわ!」
そう言いながら、たたたとエリザの方へ向かった。
そして、エリザの姿を下から上までまじまじと見つめたあと、ぽかんとした顔をした。
「ニーナ、お誕生日おめでとう」
「あ、ありがと…」
「あの…来ない方が良かったかしら…」
「えっ?!何言ってるの?!そんなわけないじゃない!嬉しいわ!」
ニーナはいつもの無邪気な笑顔を見せて、エリザの腕を掴んだ。
「さあ、ここに座ってね!飲み物は何がいい?好きなものを食べていいのよ!」
「え、ええ…」
そう言って、ニーナは扉に一番近いカウチに座らせた。
「お母さん、エリザの飲み物お願いね!」
「はいはい」
そう言って、ニーナはたたた、と元いた場所に戻って行った。
エリザから、一番遠く離れた席であった。
(ニーナ…)
エリザは寂しそうな顔をして、ニーナを見つめた。
そのとき、ふとニーナの隣にいるらしい、金色の髪の少年の姿が目に入った。
たくさんの少女達に囲まれよく見えないが、エリザはそれが自分に服を贈ってくれた人物だと確信した。
(ジュリアン…!!)
エリザは嬉しそうに、そちらの方を見た。
(ジュリアン、見て…!あなたが贈ってくれた服を着て、今日ここへ来られたわ…!!)
しかし、自分に気付かないのか、少女達が大勢いて見えないのか、ジュリアンはこちらを振り向かない。
エリザからもジュリアンの姿がよく見えず、エリザは残念に思った。
「はい、エリザ」
すると、ニーナの母親がエリザに冷たい飲み物を運んできた。
「ごめんなさいね、学校の子ばかりで…エリザはあまりなじみがないでしょう」
「いいえ、大丈夫です」
「まったく、あの子ったら、あんな大きなお兄様に夢中でね」
母親は苦笑して、ニーナの方を見た。
エリザは下を向いて愛想笑いをした。
「男性なのに、とってもきれいな方よねえ…学校の方じゃないみたいだけど…」
エリザはどきっとして、こう言った。
「さ、さあ…」
なぜだか目を泳がせているエリザの様子を不思議そうに見て、ニーナの母親は笑顔でこう言った。
「ニーナの同級生はまだ小さいけれど、あなたと同じくらいの子たちもたくさん来てるから、退屈しないと思うわ」
「はい、ありがとうございます…」
ニーナの母親は、優しく微笑んで、部屋から出て行った。
(はあ…)
エリザはとりあえず頂いた飲み物をぐいっと飲んだ。
甘くて、爽やかなのどごしに驚いた。
(自分の家から出ると、おいしいものであふれかえってるのね…)
飲み物をじっと見つめて、ふともう一度ニーナの方を見た。
すると、先ほどまでいた少女達が何人かその場を離れており、いつのまにかジュリアンの姿があらわになっていた。
ジュリアンは、少し長い髪を整え、シャツにはネクタイをし、サスペンダーでズボンをつっていた。
いつもより少し大人っぽい雰囲気のジュリアンに、エリザは見惚れた。
(素敵よ、ジュリアン…)
すると、ふとジュリアンがこちらを振り向いて、二人は目があった。
エリザは嬉しくなって、思わず身を乗り出した。
「ジュ…」
しかし、そのときジュリアンはニーナに腕を引っ張られ、ジュリアンはそちらの方を向いてしまった。
そのあとすぐ、元いた少女達が戻ってきて、再びジュリアンの姿は見えなくなった。
(…)
エリザは、しょんぼりして下を向いた。
(はあ…どうしようかしら…)
エリザは、ふと他の少年少女達を見まわした。
たいていの少女達は、ニーナとジュリアンの周りに集まってはしゃぐようにおしゃべりをしている。
エリザから見て左側のソファには、主に少年たちが騒いでいる。
そしてエリザから見て右側のカウチには、エリザと同じくらいの年の少女が、数人で話をしていた。
その中の一人の少女に、エリザは釘付けになった。
(なんてきれいな人なの…)
漆黒の長い髪に、陶器のようにつるつるの白い肌、そして大きな瞳をした大人びた雰囲気の少女であった。
少女はふとエリザの視線に気づき、にこっと微笑んだ。
エリザはどきっとして、同じようにほほ笑んだ。
微笑んだ表情は、彼女をますます魅力的に見せた。
(あんな風に美しかったら…みんな好きになってしまうわね)
エリザは下を向いて少しだけ悲しそうに、ふふ、と笑った。
「ねえ、君、エリザ?」
突然話しかけられ、エリザはびくっとして上を向いた。
すると、見覚えのある顔の少年が、自分の目の前に立っていた。
「ええ…あの…」
「あれ、もしかして忘れちゃったの?夜の市で会ったじゃないか、フランクだよ」
「あっ!!」
エリザは驚いて、フランクを見た。
「ごめんなさい、私ったら…ちゃんと覚えてるわ!少し…あの時より素敵に見えたから」
お洒落をしているフランクを見て、エリザは正直に答えた。
フランクは、照れながら答えた。
「な、何言ってるんだよ。君の方こそ、この間と全然違うじゃないか」
「え?」
「こいつ、君が部屋に入ってきたとき、固まっちゃったんだぜ、見惚れて!!」
「お前!!」
他の少年たちにからかわれて、フランクは慌てて殴るポーズをとった。
少年たちはおかしそうに身を固めている。
「わ、私…今日変じゃないかしら。こんな恰好するの、初めてなの」
エリザははにかみながら話す。
少年たちはぽかんとした顔でエリザを見た。
「変どころか、すごくき…」
「え?」
何か言いかけて、フランクははっと口を押さえた。
少年たちはにやにやしている。
そして、フランクは意を決したようにエリザを見てこう言った。
「君、今日すっごくきれいだよ」
そう言って、恥ずかしそうに目をそらした。
面と向かってそんなことを言われ、エリザは顔を真っ赤に染めた。
そして、ぱあっと明るい笑顔を見せて、こう言った。
「嬉しいわ!ありがとう!」
フランクと少年たちは、そんなエリザの笑顔に釘付けになった。
「ねえ、ちょっとこっち来て話そうよ!」
「そうだよ!」
フランクをはじめとする少年たちは、エリザを自分たちの中へ招き入れた。
◇
「まったくさ、みんなジュリアンジュリアンって…」
「そうだよな、男はジュリアンだけじゃないっての!」
少年たちは不満そうに、口々に文句を言う。
「女の子はみんなジュリアンのところへ行っちゃうから、俺たちはこの通りさ」
苦笑いをしながら、フランクはエリザに話す。
「ジュリアンも退屈そうだけどな」
そう言われて、エリザはもう一度ジュリアンの方を見た。
ジュリアンは肘をついて、黙っていた。
「ところでエリザ、ジュリアンとはどういう関係なの?」
「えっ」
フランクに尋ねられ、エリザは困惑した。
そう言われると、よくわからない。
「ええっと…彼がおとしたハンカチを拾ったの。そのあと、偶然会うことが多くて…」
「それで?」
「それで…色々話すようになったの」
「ふうん…」
フランクは、肘をついた手で顔を半分隠し、エリザの方をじっと見た。
「ねえ、エリザ」
「え?」
「ジュリアンが普段どういうことしてるか、知ってる?」
「え…?」
「あいつ、学校行ってないだろ?どうやって生活してるか、知ってるかい?」
「…知ってるわ」
それを聞いて、フランクは意外そうな顔をした。
「知ってて、普通に付き合ってるの?」
「ええ、そうよ」
「変なやつだとか、思わないの?」
「思わないわ」
「軽蔑したり?」
「ええ」
「じゃあさ…」
フランクは、まっすぐエリザを見てこう言った。
「あわよくば、自分もジュリアンに相手してもらいたいな、とか…」
「えっ?!」
エリザは驚いてフランクを見た。
「そんなこと、思わないわ!」
「ごめん、悪かったよ」
エリザが急に語気を強めたので、フランクは焦ったように手を上げた。
「でもさ、ちょっとでもそう思ったことない?相手はあの美貌のジュリアンだぜ。あんな男と仲良くしてたら、そういう気持ちになることだってあるだろ?」
「…ならないわ」
エリザは無表情でそう言った。
笑顔がないエリザを見て、フランクは思わずつぶやいた。
「じゃあ君、別にジュリアンのこと好きってわけじゃないんだ…」
「え…?」
「きゃあっ!!!」
突然、ニーナ達の方から黄色い歓声が聞こえ、エリザ達はそちらを振り返った。
ある少女は興味津々な顔つきでジュリアンを見つめ、ある少女は顔を真っ赤にして両手で覆っている。
「なんだなんだ、どうした」
「教えろよ、ニーナ」
少年たちは、面白そうにニーナ達の輪に混じりだした。
年上の少女達も気にしている様子である。
ニーナは恥ずかしそうに笑いながら、目を泳がせていた。
「え…だ、だってジュリアンが…」
「なんだよ、ジュリアン」
ジュリアンは、無表情でこう答えた。
「別に。ベッドの上の『仕方』を教えてあげてるだけだけど?」
「お前なあ!!」
フランクはあきれて大声を出した。
「だって、いつかは誰だって経験することだろ。知ってて何が悪いんだ」
「そうかもしれないけど、今ここでするような話じゃ…」
「あっそ、じゃあ聞かなければいいよ。そっちはそっちで楽しくやってれば?」
そう言って、ジュリアンは不敵に笑った。
「おれ、聞きたい!!」
すると、突然別の少年が面白がりながら手を挙げた。
そのあとに続いて、俺も俺もと、少年たちが騒ぎだした。
「私も聞きたいわ」
その中に少女の声が混じったので、皆はびっくりして声のする方を振り返った。
声の主は、美しい黒髪の少女だった。
「アリーヌったら!」
周りにいた同年代の少女達が、おかしそうに笑う。
ジュリアンが、その少女をじっと見つめると、アリーヌも見つめ返した。
「ねえジュリアン、続きは?!」
ニーナがわくわくしながら、ジュリアンにせがんだ。
「ああ、どこまで話したっけ」
「ええっと…こうやって優しくキスするところまで」
そう言って、ニーナは別の少女の顔に手をあてキスをする真似をして、周囲を笑わせた。
「ああ、そうか。そのあとはね、相手の唇からゆっくり下の方へ移動させて、首筋をなぞるように舐めるんだ、舌でね」
ジュリアンは、自分の手を唇に見立て、自分の唇から首筋にかけてゆっくりと指を這わせた。
聞いている者たちは、真剣なまなざしでジュリアンを見ている。
「そうしながら、片方の手で相手の胸を撫でてやるんだ。でも撫でるだけじゃだめなんだよ…わかる?ニーナ?」
ジュリアンがニーナの名前を呼ぶのを聞いて、エリザはなぜか心臓がずきっとした。
急に名前を呼ばれ、ニーナはおどおどしている。
「ふふ、指先でつねったり転がしたり…舐めまわしたり、舌でかんだり…この辺」
そう言って、ジュリアンは挑発的に皆を見て、シャツの上から、自分の胸の突起物をつまんで見せた。
少女達はまたきゃあっという叫び声をあげた。
少年たちは生唾を飲み込む者もいた。
ジュリアンは、ほんの少しだけ顔が火照り、甘い吐息をもらしていた。
エリザは下をむいて、目をそらした。
「そ、それから?」
ニーナは興奮気味にジュリアンの方に前のめりになる。
「それから…お互いの一番大事な部分を、痛くしないように優しく手で撫でて…」
エリザには、もはやジュリアンの声は聞こえていなかった。
ジュリアンの生々しい語りを聞かされて、未知だった事の真相を容易に想像することができた。
きっとジュリアンは、ベルガー夫人とも、優しく口づけをしたあと、今と同じようなことをしていたのだ。
普段絶対に見ないようなところを、その真っ赤な唇で撫でたり舐めたりするのだ。
そうやって、いつもベルガー夫人の心と体を満たしているのだ。
そうやって、もっともっとたくさんの、自分の知らない誰かの身体を…
そうやって…
そうやって………
「エリザ、どうしたの?」
声をかけられて、エリザははっとしてフランクの方を見た。
フランクはびっくりして、こう言った。
「エリザ、泣いてるの…?」
「えっ…?」
エリザの目から、一筋の涙がこぼれおちた。
「あっ…」
エリザは自分でも驚いている様子だった。
「あっエリザが泣いてる!!」
すると、一人の少年が大きな声でエリザの顔を指差した。
「どうしたの、大丈夫?」
「気分が悪いの?」
それに気付いたエリザと同年代の少女達が、心配そうにエリザに声をかけた。
「ジュリアンがそんな話するからいけないんだよ!」
「あーあ、女の子泣かせちゃった、ジュリアンのせいだ!」
少年たちが、ジュリアンに向かって茶化すように責め立てた。
「な、なんでもないの!ごめんなさい!」
エリザは慌てて頬を拭って、笑顔を見せた。
「本当にごめんなさい。私、ちょっと外に出てるわ」
そう言って、エリザは逃げるように部屋から出て行った。
「エリザ!」
フランクはエリザを呼びとめたが、エリザは戻らなかった。
ニーナは、その様子をじっと見ていたが、もう一度ジュリアンの方を向いて言った。
「ねえ、いいからジュリアン続き!早く!」
しかし、ジュリアンは返事をしない。
ニーナはむっとして、ジュリアンの肩を揺らした。
「ジュリアンったら!!」
すると、ジュリアンははっとして周囲を見渡した。
「何をぼうっとしているの?続きはったらあ!」
ニーナは怒るようにジュリアンに言った。
「もうこれ以上は言わなくてもわかるだろ」
「わからないわよ!」
「そのあと男のあれを女の穴に入れたら、はい、お疲れさん。終わり」
「なんだよそれ!!」
少年たちと年上の少女たちはどっと笑った。
ニーナやニーナの同級生は、不満そうな顔をしている。
黒髪の少女が、ふと見回すと、そこにはフランクの姿がなかった。
そして、もう一度ジュリアンの方に目を向けた。
ジュリアンは、少女達の甲高い声が全く耳に入っていないのか、遠い目をして、部屋の扉の方を見つめていた。
◇
「さあ、お菓子ですよ」
良く通る声で、ニーナの母親がたくさん盛り付けた焼き菓子を持ってきた。
「できたてだから、あったかくておいしいわよ。まだたくさんあるからね」
「おかあさんありがと!」
母親に礼を言って、ニーナは焼き菓子をひとつ、手に取った。
「ねーえジュリアン、このお菓子ねえ、すっごくおいしいのよ!はい、食べて!」
「いらないよ」
「あら、お母さんの手作りなのに、失礼じゃない?!」
「…」
そう言われ、しぶしぶニーナから焼き菓子を受け取った。
そして、黙って立ちあがり、すたすたと歩いて行った。
「ちょっと!どこ行くのよ!!」
「関係ないだろ」
「ねえニーナ、これいくつずつ食べていいの?!」
「あっ一人でそんなに食べたらみんなの分がなくなるじゃない!」
焼き菓子に夢中になる少女達を止めるのに必死になって、ニーナは一瞬ジュリアンを引き留めるのを忘れた。
ジュリアンはそのすきに、扉の外へ出て行った。
(エリザ…どこ…?)
ジュリアンは外に出て、エリザを探した。
(エリザ…泣いてた…)
ジュリアンは、悲しそうな顔をして、エリザのことを思った。
(どうして…なぜ泣いたの…?僕があんな馬鹿な話をしたから…?)
ジュリアンは、自分以外の男の子に囲まれ、楽しそうにしているエリザに嫉妬していた。
とりわけ、あのフランクが、エリザにあんなに顔を近づけて…
少しでも目立つ発言をすれば、遠く離れたエリザに近づけると、ジュリアンは思っていた。
しかし、エリザは泣いて、どこかに行ってしまった。
もっとちゃんと、堂々と話しかければよかった…
(あんなに…きれいだなんて…)
自分が贈ったドレスを着て現れたエリザは、あまりに美しく、ジュリアンはずっと見ていることができなかった。
一瞬目が合ったとき、自分の顔は変でなかったろうか。
もうエリザがここへきてだいぶ経つのに、一言も言葉を交わせていないなんて…
(エリザ…どこにいるの…)
色々な思いが交錯しながら、ジュリアンは広い庭の中、ひたすらエリザを探した。
すると、物陰に人影があるのが目に入った。
エリザだと思って近づこうとしたが、はっと何かに気付いてやめた。
(…)
物陰にいたのは、確かにエリザであったが、エリザに寄り添うもうひとつの人影は、フランクであった。
フランクは、うつむくエリザの肩に、抱え込むように優しく手をあて、何か話している。
「ねえ、どうして泣いてるの?」
「違うの、大丈夫」
「おかしいよ、確かにさっきのジュリアンの話は女の子にはちょっとやりすぎだったと思うけど、泣くほどのことじゃ…」
「ううん、本当になんでもないのよ…」
「…」
「…」
「エリザ…こっち向いてよ」
「…」
そう言われ、エリザはフランクの方を向いた。
するとフランクは、エリザの頬を流れる涙を指で優しく拭い、エリザにそっと口づけをした。
それを見た瞬間、ジュリアンは体中に電流が走る感覚に襲われた。
(今の…なに?)
エリザは口を押さえて、顔を真っ赤にしている。
フランクは慌てている様子であった。
しかし、ジュリアンの頭には二人の会話は聞こえて来なかった。
二人を引き離したいのに、両足は震えるばかりで、動こうとしなかった。
すると、エリザは口を押さえたまま、家の方へ駆けだした。
フランクも慌てて、エリザの後を追った。
だだっ広く暗い庭に残されたのは、自分自身だけであった。
「うぶよねえ…」
突然、後ろから声が聞こえ、ジュリアンははっと振り返った。
そこには、真っ黒な髪に、大きな瞳の、美しい少女が立っていた。
「あの子…きっと初めてのキスだったんでしょうね」
少女はくすくすと笑いながら話す。
「さっきもあなたの話を聞いてたら、泣きだしちゃって。信じられないわ」
おかしそうに笑って、ジュリアンにゆっくりと近づいてきた。
「あたし、アリーヌっていうの…あなたと、前に一度会ったことがあったかしら?」
「覚えてない…」
「あたし、あなたのこと、ずいぶん前に見たことがあるの…そうそう、町の橋のところで」
「は?」
「ドミニクと一緒にいたわよね」
「…」
ああ、あのときか、とジュリアンは思った。
ドミニクが、確かこの少女に愛の告白をしようとして、失敗するようわざと嫌がらせをしたときだ…
しかし、今のジュリアンにはそんなことはどうでもいいことであった。
「私ね、今ドミニクと付き合ってるのよ」
意外なことを聞かされ、ジュリアンは少し驚いた顔をした。
「ふうん。君みたいな子が、あんなのとね」
「意外でしょ?たまにはいいかしらって。ああいうのも」
ふふ、とお茶目に笑って、アリーヌはジュリアンを見た。
「でもね、私、本当はあなたみたいな人が好きなの」
そう言った瞬間、突然アリーヌはジュリアンの股の間に手を突っ込んだ。
「ちょっと!変なとこ触らないでよ!」
ジュリアンははっとして、アリーヌをにらんだ。
アリーヌは、気にせずジュリアンの下半身をまさぐり続ける。
「んっ…」
アリーヌの慣れた手つきに、ジュリアンは思わず声を出した。
それを聞いたアリーヌは、大きな黒い瞳をぎらつかせた。
「だってねえ…ドミニクったら、あたしの手すら握らないのよ。信じられる…?」
アリーヌはそう言うと、ジュリアンが焼き菓子を握っている方の手を持ち上げ、かじりついた。
そして、ジュリアンのネクタイを掴み、彼を思い切り自分の方へ引き寄せ、食いつくように口づけした。
「んんっ…」
アリーヌは口の中で砕け散る焼き菓子を、舌を使ってジュリアンの口の中へ押し入れる。
そして、ジュリアンの口を覆うように、自分の口を押し付けた。
ジュリアンは入れられた焼き菓子を飲み込み、アリーヌを押しのけ口を拭った。
「あら、なによ、こういうことするの、好きなんでしょ?」
「お金くれないやつに、あげる体はないよ」
ふん、と笑って、ジュリアンは行こうとした。
アリーヌは慌ててジュリアンの腕を掴んだ。
「ま、待って!」
そう言って、後ろから抱きつき、先ほどジュリアンが自分自身にしたように、彼女はジュリアンの胸をいじくった。
「やめてってば…」
ジュリアンは顔を歪ませて、思わずアリーナの両手をぎゅっと握った。
「ジュリアン…こっち向いてよ…」
アリーナはそう言うと、一瞬力が抜けたジュリアンをくるりとこちらに向けて、もう一度口づけした。
先ほどのとは打って変わって、今度は優しく、包み込むような柔らかさがあった。
(こんなの…すぐ突っぱねられるのに…)
ジュリアンは顔を歪ませたまま、先ほどのエリザとフランクの行為を思い出していた。
(エリザ…)
ジュリアンは、いつの間にかアリーナの体を強く抱きしめ、自ら彼女の舌に自分の舌を絡ませていた。
手に持っていたはずの焼き菓子の欠片は、いつのまにかどこかへやってしまっていた。
◇
エリザははあはあと息を切らしながら玄関の扉を開け、ぐいっと口を拭った。
(今の…なんだったの…?)
エリザは口を押さえたまま、呆然とした。
すると、後ろから自分を追いかけてくるフランクの足音が聞こえた。
エリザはびくっとして、後ろを振り向いた。
「エリザ…」
「…」
フランクは恐る恐るエリザに近づく。
「本当にごめん…その…」
「…いいのよ、私こそびっくりして…ごめんなさい」
エリザは笑ったが、フランクの顔は見ることができなかった。
「ね、ねえ…中庭で何かやってるみたいだよ…行ってみない?」
「…」
大広間とつながっている中庭から、何やら音楽が聞こえてきた。
「…うん」
エリザが返事をしたので、フランクはほっとした表情をした。
「なんだろうね、誰かが演奏しているのかな」
「バイオリンかしら…上手ねえ…」
エリザは微笑みながら口元に手をあてた。
フランクはそれを見つめて、見惚れている。
二人が大広間に入ると、ほとんどの者が開放された中庭に移動していた。
まだ部屋に残っていた数人の少年たちが、フランクたちを見つけて嬉しそうな顔をした。
「あっ来た来た!大丈夫かい、エリザ」
「ええ、大丈夫。本当にごめんなさい」
「うちの紳士様は、いったいどんな手を使ってなぐさめたんだろうねえ…」
「お前らなあ…」
少年たちにからかわれ、フランクは赤くなった。
エリザはそんな様子を見て、微笑んだ。
(とってもいい人たちだわ…)
「今さ、ほら、ニーナの同級生の子がバイオリン持ってきて弾いてるんだよ」
「まだ12歳なのに、上手だよなあ」
エリザはそちらの方を見ると、小柄な少女が楽しそうに体を揺らしながら、バイオリンを弾いていた。
軽快な曲調に合わせ、ニーナをはじめとする少女達が腕を組んで踊っている。
「かわいいわねえ…」
エリザは優しい笑顔で、彼女たちを見た。
「ねえ、俺たちも行こうよ」
「うん!」
「さあ、エリザも」
「うん」
フランクに誘われて、エリザ達は中庭の方へ出た。
(ジュリアン、いないのかしら…)
てっきりニーナ達と一緒だと思っていたエリザは、ジュリアンの姿が見当たらず、不安になった。
(まさか、帰っちゃったのかしら…)
もしや、ジュリアンが話しているとき、突然自分が泣きだしたから、怒ってしまったなんてことは…
エリザはそう考え始め、表情が暗くなった。
フランクは、エリザの様子がまたおかしいことに気付いた。
(ジュリアン…こんなに近くにいるのに、あいさつもできないなんて…)
エリザは、また泣きそうになった。
(どうして…?ジュリアンのことを考えると…)
「エリザ」
隣から、自分を力強く呼ぶ声が聞こえた。
「ねえ、俺たちも踊らない?」
「え…?」
そう言って、フランクはエリザの手を取った。
「え、でも私、踊れない…」
「いいんだよ、適当で」
フランクは明るく笑って、エリザを引っ張りニーナ達の方へ駆けだした。
「エリザ!」
ニーナはエリザに向かって無邪気に声をかけた。
「そうそう、エリザ!上手よ!」
皆に必死に合わせるエリザに、ニーナ達は明るく声をかけた。
エリザは、恥ずかしそうに笑顔を見せた。
(楽しいわ…こうやって、お友達と踊ったりするの、初めてだもの…)
フランクやニーナ以外の少年少女たちとも、手を取り合ったり輪になったりして、長いことエリザはくるくると踊り続けた。
「ああ、疲れた!」
ニーナは大きな声を出し、中庭の椅子にどさっと腰掛けた。
他の者も、くたくたになって息を吸った。
「ねえ、コレット、次はもう少しロマンチックな曲にしてよ」
ニーナはバイオリンを弾いていたコレットという少女に、リクエストした。
「いいわよ」
そう言って、バイオリンを持ち直して弾こうとしたとき、ニーナが突然叫んだ。
「ジュリアン!どこに行ってたの?!」
それを聞いたエリザは、どきっとしてニーナが向いている方を見た。
ジュリアンの後ろには、あの黒髪の美しい少女が立っていた。
(ジュリアン…?)
「ジュリアンったら、アリーヌと一緒にどこへ行ってたの?!」
「別に。ちょっと庭を散策してただけさ」
「ほんとかあ?怪しいな!」
少年たちは、相変わらずの調子でからかった。
ジュリアンは、不敵な笑みを浮かべている。
エリザは、ジュリアンをまともに見られなかった。
(あの子と…何をしていたの…?)
エリザは、次第に動悸が激しくなった。
「もういいわ!コレット、お願いね」
ニーナはふくれっ面で、コレットに指示した。
コレットはニーナとジュリアンのやりとりに興味がないのか、無表情でバイオリンを持ち直し、美しい旋律を奏でだした。
ゆったりとした、優しい音で、なんとも言えない心地よさが感じられた。
「ニーナ、俺と踊れよ」
「いやよ、ジュリアンと踊りたいわ!」
「ジュリアンはだめだよ、ほら、あの通りだ」
「…」
「な!」
そう言って、少年がニーナを連れて中央へ出た。
それに続いて、何組かの即席のカップルが中央でゆっくりと踊り出した。
エリザは、それらの様子をぼんやりと眺めていた。
それを見たフランクは、様子を窺うようにエリザに話しかけた。
「エリザ…踊ってみる?」
「え…」
「いやならいいけど…」
「いやじゃないわ。でも、さっきので少し疲れちゃったから…」
「そっか…」
「ごめんなさい…」
フランクは、がっかりした様子で諦めた。
エリザは申し訳ない気持ちになったが、踊りたい気分ではなかった。
そして、ちらっとジュリアンの方を向いた。
ジュリアンは、まだあの黒髪の少女の隣で寄り添うように座っている。
ニーナの隣に座っていたときとは、明らかに様子が違っていた。
(ジュリアン…あの子と仲良くなったの…?)
エリザは心臓を締め付けられたような感覚に陥った。
痛くて苦しくて、咳込みそうになった。
すると、二人はおもむろに立ちあがって、並んで中央へと出てきた。
そしてお互いの手をとり、ゆっくりと踊り出した。
踊る二人は、まるで周りに誰もいない、たった二人だけの世界にいるかのように、見つめ合っていた。
金色の髪をゆらゆらとなびかせるジュリアンと、漆黒の長い髪を躍らせるアリーヌは、この世のものとは思えないほど、美しかった。
踊っていた者たちも、二人のあまりの美しさに、思わず踊るのをやめて見惚れた。
あんなに不満そうだったニーナでさえも、同様だった。
エリザは、頭が真っ白になって、ただただ美しい二人の踊りを眺めていた。
何も考えられなかった。
見つめ合う二人は、世界で一番似合いの恋人同士としか思えなかった。
(ジュリアン…この子が好きになったのね…)
ふっと下を向いたとき、音楽が終わった。
周りから、盛大な拍手が起こっていた。
「すてきよ!アリーヌ!」
「やっぱりジュリアンは違うよな!なんだかんだ言ってさ!」
口々に、二人の美しさをほめたたえた。
エリザは下を向いたまま、黙っていた。
フランクは、エリザの様子をじっと見つめていた。
「さあ、そろそろ冷えるから、部屋へお上がりなさい」
ニーナの母親が声をかけ、皆はぞろぞろと大広間に戻った。
「うちに泊まる人!!」
ニーナは、大きな声でこう言った。
ニーナの同級生たちは、全員「はい!」と手を挙げた。
「おい、俺らもいいのかよ」
少年の一人が、にやにやしながらニーナに尋ねる。
「別にいいけど、あんたたちは私たちの部屋から一番遠い部屋だからね!」
「なんだよ、お前意外といいやつだな!」
少年たちは、楽しそうに笑った。
「エリザはどうする?!」
ニーナはエリザに話を振った。
エリザははっとして、返事をした。
「あ、私は…おばさんがいるから、帰るわね」
「えっエリザなら私の部屋に泊めてあげたのに!」
「ありがとうニーナ。でも今日は帰るわ」
「つまんないの!」
ニーナはべっと舌を出した。
エリザはそれを見て微笑んだ。
「エリザ、夜道は危ないわよ?大丈夫?」
「ええ、平気です。慣れてますから」
「そう…じゃあ、ランプを持って行ってね」
「はい、ありがとうございます」
そう言って、ニーナの母親はランプを取りに奥へ入った。
「エリザ、帰っちゃうの?」
「もう少しお話したかったわ」
少年たちや同年代の少女がエリザに近寄る。
「ありがとう。また、機会があったらお話してね」
エリザは優しく微笑んだ。
その笑顔を見て、少年少女達は嬉しそうに笑った。
ニーナの母親が灯りをつけたランプを持ってきて、エリザに渡した。
「本当に、気をつけてね」
「はい」
「エリザ!」
そのとき、奥からフランクの声が聞こえた。
「俺、うちまで君を送るよ」
「えっ?」
「だって、こんな夜更けに女の子一人じゃどう考えたって危ないだろう?」
「いいのよ、いつものことだわ」
「でも…」
「本当に大丈夫。ねえ、あなたが行ってしまったら、お友達ががっかりするわ」
「そんなこと…」
「フランク、どうもありがとう。でも、大丈夫なの。さようなら!」
エリザはフランクに手を振って、駆け足で外に出た。
フランクは、ぼうっとエリザの後ろ姿を見つめた。
門の近くまでエリザは走って、立ち止まった。
そして、とぼとぼと歩きだした。
(私…)
ランプを持つ手が、かすかに震えだした。
歩きたいのに、足までも震えだし、うまく歩けない。
(どうして…)
すると、後ろから誰かが駆けてくる足音が聞こえた。
(フランク…)
もう、誰とも話したくなかったエリザは、震える足を引きずるように、足早に歩いた。
足音はどんどん近付いて、もうエリザの真後ろまで迫っていた。
「ねえ」
しかし、その声は、フランクのものではなかった。
年齢の割に少しだけ高く、甘い声。
エリザはぴたっと足を止め、後ろを振り返った。
立っていたジュリアンは、驚いた顔をして自分を見つめていた。
「泣いてたの…?」
「…」
ジュリアンの顔を見て、エリザの涙は止まらなくなった。
「ジュリアン…今日は…」
「え?」
「服を…服を、どうもありがとう…」
「…」
「すごく、嬉しかったのに…早くお礼が言いたかったのに…ごめんなさい…」
とめどなく流れる涙を飲み込みながら、エリザはとぎれとぎれに言った。
「いいよ、別に…」
ジュリアンは顔をそらして、そっけない返答をするばかりであった。
「私、今日は…きれいかしら…」
そう言って、エリザは泣きながら微笑んだ。
ジュリアンは思わず「えっ」と叫んで、下を向いた。
それを見たエリザは、悲しそうに笑って、こう言った。
「いいの、私、あの子みたいにきれいじゃないもの…」
「あの子?」
ジュリアンは不思議そうな顔をして、エリザを見た。
「ジュリアン」
すると、ジュリアンの後ろからアリーヌの声がした。
エリザは一瞬顔が引きつった。
「さようなら!」
そう言って、駆けだした。
◇
「待って!」
ジュリアンははっとして、エリザを追いかけようとした。
しかし、アリーヌにがしっと腕を掴まれた。
「ジュリアン、どこへ行くの?」
「…」
「ねえ、さっきの続き、しましょう?」
そう言って、いやらしい手つきでジュリアンの襟元から、そっと手を入れた。
「触るな!!」
ジュリアンはばしっとその手を振り払い、アリーヌを睨みつけた。
アリーヌは、その鬼のような形相に、一瞬たじろいだ。
ジュリアンは、門をくぐりエリザの後を追った。
真っ暗な道をひたすら走り続けた。
自分が贈った服を身にまとい、見違えるほど美しくなったあの子に「きれい」の一言も言えなかった。
それどころか、好きでもない少女と口づけを交わして、あの子の目の前で恋人同士のように踊って…
涙を流すあの子の頬を優しく拭うどころか、涙の理由を聞くことさえもできずに今日が終わってしまう。
終わってしまうのだ。
「エリザ!!!」
ジュリアンは、どこまで走ってもたどり着けない少女に向かって、大声で叫んだ。
しかし、その声は誰に届くわけでもなく、むなしく真っ暗闇に飲み込まれていくだけであった。




