第12話
昨夜シリルを連れて帰って来た時から、エリザは元気がなかった。
朝、大伯母との食事中も、いつもならエリザが話題を提供して、ほぼ一人でしゃべっていることが多いが、あれ以来必要なことしか話さない。
「おばさん、スープまずい?」
「…いいや」
「そう…」
大伯母は、今日も「まずい」と思っていたが、なんとなく正直に言ってはいけないような気がした。
しかし、うそでも「まずくない」と言ったのに、エリザは嬉しそうな顔をせず、そっけなく返事をしただけであった。
(子供を連れてきたときから、なんだかおかしいね…)
大伯母ははあ、とため息をついた。
エリザは黙ってスープを口にしている。
大伯母は、具体的な原因がなんなのかわからなかったが、おそらくあの少年が絡んでいるのでは、と踏んでいた。
そして少し考えた後、口を開いてこう言った。
「そういえば、今日はジュリアンが来るんじゃなかったかい」
それを聞いて、エリザは顔を硬直させた。
大伯母は、やはり、と思った。
「…多分、来ないわ」
「どうして」
「私、ひどいこと言っちゃったの…」
「え?」
「だから、きっと嫌われちゃったわ…」
「お前が言うひどいことなんて、たいていたいしたことじゃないよ」
「でも…きっと来ないわよ…」
エリザの表情は、悲しみと後悔、そして苦しみでひどく歪んでいた。
大伯母はそれ以上聞けなかった。
「今日は何をしようかしら。残りのお洗濯が終わったら、お庭のお掃除して…いつもと同じね」
エリザは力なく笑って、席を立った。
大伯母は、黙ってエリザを目で追った。
(そんなことくらいで…そこまで落ち込むかね…)
◇
ジュリアンはいつもと同じ時間に目が覚めた。
今朝は、娼婦屋の男の元へ行く必要がないからもうひと眠りしようとしたが、目が冴えてこれ以上寝付けなかった。
「…」
ただ天井を見つめるジュリアンの表情は、うつろであった。
(今日…あの子のうちに行くの…?)
ベルガー夫人宅でおかしな出くわし方をして、おかしな別れ方をしたエリザに、どんな顔をして会いに行けばいいのか、ジュリアンはわからなかった。
昨夜のエリザは、暗闇でわからなかったが、おそらくほとんど笑っていなかった。
今日会いに行っても、また笑ってくれなかったら…
(軽蔑しないって言ったの、君じゃないか…)
ジュリアンは、何が不安で何が悲しいのか、もはやわからなくなっていた。
エリザが昨夜、よそよそしい態度をしていた理由さえも、想像することができなかった。
ジュリアンはおもむろにむくりと起き上がって、とりあえず身支度だけ整えることにした。
服に着替え、髪をとかす。
鏡に映った自分は、相変わらず冷めた目つきの、感じの悪い男であった。
一般的な少年たちよりも少し長い髪を左側だけ、なんとなく自分の耳にかけてみる。
「変な顔…」
ジュリアンはちっと舌打ちして、鏡の前から離れた。
そしてもう一度ベッドに腰をかけ、肘をついてぼうっと物思いにふけった。
―――文字を教えて…
夜の市の帰り、文字が読めないエリザは自分にこう言った。
(文字って…どうやって教えるんだろ)
すると、がちゃりと家の扉が開く音が聞こえた。
振り向くと、ジュリアンの母親であるオーレリアが、ふらふらとした足取りで入ってきた。
「あらあジュリアン、おはよ」
「…」
「ああ、疲れた。今日は夜まで寝ちゃおうかしらあ」
(さっきまで寝てたくせに…)
上機嫌なオーレリアは、ソファにどさっと横になって、ふああとあくびをした。
「ねーえ、今日もお仕事ですか?」
うふふ、とそこいらの娼婦と変わらぬ他人行儀な言い方をして、オーレリアはジュリアンを見た。
「今日はお休みですけど?」
ジュリアンは無表情で答えた。
「ふうん…」
オーレリアはどことなくつまらなそうな表情をしていた。
ジュリアンは、母親を見ながら少し黙っていたが、ふと口を開いた。
「あのさ」
オーレリアは、思わず「えっ」と返事をした。
「うちに、教科書みたいなのってなかったっけ」
「教科書?」
オーレリアは訝しげな顔をして、ジュリアンを見つめた。
「知らないわよ。だいたいあんた、学校なんか行ったことないじゃない」
「そうだけど」
「なによ、今から小学生の勉強でもする気?」
「別にそうじゃないよ。ただ、そんなものうちにもあったかなあって…」
「…」
いつもと感じの違う息子を見て、オーレリアは思わず彼を見つめた。
普段まともに自分を見ようとしない目は、まっすぐ自分の方を向いていた。
オーレリアは、おもむろに立ちあがって、ジュリアンがいる部屋の方へ向かった。
そして、半分が物置と化しているジュリアンの部屋の、ごちゃごちゃとしている部分に手を突っ込んで、何かを探した。
そして、曲げていた腰を一度まっすぐ伸ばして「ないわね」と言った。
ジュリアンはただ、自分が望んだものをひたすら探している母親の背中を見つめていた。
おそらく、単なる気まぐれだろうが、自分のために何かをしている母親を見るのは、本当に久しぶりであった。
「あ」
オーレリアは何かを見つけ、思わず叫んだ。
「教科書じゃないけど、石板があったわ」
「石板…?」
オーレリアはジュリアンの方を向いて、はい、と古ぼけた石板を手渡した。
ジュリアンはそれを見つめ、昔娼婦が読み書きを教えてくれたとき、この石板に文字を書いていたのを思い出した。
自分がいないときはお手本がないと、エリザは勉強ができないかもしれないけど、自分がいるときはこれに書いて教えてあげられる。
自分さえいれば…
「母さん」
「えっ?」
オーレリアは、息子がそんな風に自分を呼ぶのがあまりに珍しかったので、思わず叫ぶように返事をした。
「…ありがと」
そう言って、ジュリアンはオーレリアのことをじっと見つめた。
顔は相変わらず無表情であったが、どことない柔らかさが見てとれた。
「別にいいわよ、変な子!」
オーレリアは少し目をそらして、腕を組んだ。
「ちょっと出かけてくる」
そう言って、ジュリアンは石板とテーブルの上に置いてあったランプを手に、外に飛び出していった。
オーレリアは、息子の後ろ姿をただぼうっと見つめるだけでった。
「ついこの間まで…あたしを追いかけてたくせに」
オーレリアは、ふと寂しそうな表情を浮かべた。
◇
エリザは、洗濯物を干し終えた後、小さな畑の手入れをしていた。
雑草をぷちぷちと引っこ抜いてはぽいっと放り投げる。
単調な仕事をしながら、ふとエリザは思った。
(そういえば、最近ニーナ来ないわね…)
誕生日会を欠席することを、まだはっきりとニーナに伝えていなかった。
そのとき、先日ニーナがここへ来たとき、鮮やかな青のワンピースを着ていたことを思い出した。
(いいわねえ…私もいつか、あんなきれいなドレスを着てみたいわ。でもきっと似合わないわね)
エリザは悲しそうにほほ笑んで、草むしりを続けた。
(ジュリアン…そういえば行くのかしら…招待状ももらってたし)
少し、雑草を抜くペースが速くなりながら、エリザは考えた。
(でも、ジュリアンのことだからきっと行かないって言うわね)
思わず、うふふ、と笑みがこぼれた。
その瞬間、エリザの胸に妙な罪悪感が生まれた。
(やだ、私ったら…それじゃニーナががっかりするじゃない)
エリザは雑草を抜くのをぴたりと止め、再び暗い表情になった。
(私、変だわ…絶対変よ)
エリザはすくっと立ち上がって、ほうきで抜いた雑草をかき集め、家の中に入った。
そして、古い時計を見上げる。
時間はまだ昼にはなっていなかった。
(確か、お昼ごろに来るって…)
エリザは無意識にジュリアンが来るのではないか、と期待していた。
そして下を向いて、テーブルの椅子に座った。
大伯母は、揺り椅子に揺られながら、うつらうつらしている。
その様子を見て、エリザもだんだん眠くなった。
外から、心地よい風がさわさわと吹いている音が聞こえる。
エリザはテーブルにうつ伏せになって、うとうとと目を閉じた。
(ああ、いい気持ち…)
……
こんこん、と突然扉をノックする音が鳴り響き、エリザはがばっと上体を起こした。
思わず時計を見ると、あれからもうずいぶん時間が経っていた。
(やだ、私本当に寝ちゃってたのね…)
寝ぼけまなこで、ふらふらと扉の方へ歩き、「はい」と扉を開けた瞬間、エリザの眠気は一気に吹き飛んだ。
そこには、何やらいろいろな荷物を抱えて突っ立っている、ジュリアンの姿があった。
◇
「…どうしたの?」
「どうしたのって…今日君のうちに行くって話してたじゃないか」
エリザは一瞬頭が働かず、思わず怪訝そうな顔をしてしまった。
ジュリアンは眉をしかめてこちらを見ている。
「あ…ご、ごめんなさい。そうだったわよね…」
「…」
また、二人の間に妙な沈黙が流れる。
エリザは、どんどん胸の鼓動が激しくなるのがわかった。
これは緊張からくる動悸なのか、それとも喜びで胸が高鳴っているのか…
エリザはちらっとジュリアンの顔を覗き込んだ。
顔をそらし、エリザの方を見ていなかった。
伏し目がちの瞳は長いまつげで隠れ、真っ赤な唇はきゅっと強く結んでいる。
長めの前髪を片方耳にかけ、真っ白な肌があらわになっていた。
(ジュリアン…)
エリザはそんなジュリアンに見とれた。
鼓動はますます高鳴る一方であった。
「あのさ」
ふと、ジュリアンが口を開いた。
エリザは反射的に「えっ」と答えた。
「昨日…へんなとこ見せて…悪かったよ」
「え…?」
「気持ち悪かったろ?一人で甘えたような声出してさ」
「そんなこと…」
「まさか君だったなんて思わなくて…頭が真っ白になっちゃって…それで…」
ジュリアンはうつむいたまま口を動かしていたが、急に黙りこくった。
エリザはそんなジュリアンを見て、不思議と緊張の糸がほどけたような気がした。
「私の方こそ、ごめんなさい。私もね、頭が混乱しちゃって、感じの悪い態度をとってしまったもの」
そう言って、頬を緩ませた。
(ああ、嬉しい…!!ジュリアンが来てくれたんだわ!)
そのとき、初めてエリザはこの胸の高鳴りが喜びだったことに気付いた。
ジュリアンは、エリザの笑顔をじっと見つめている。
「怒ってないの?」
「どうして?怒るわけないわ!」
「…」
「ねえ、ジュリアン、入って!今日は何も用意してないけど…」
「…」
ジュリアンは、少し気まずそうな顔をしたが、エリザにうながされ中へ入った。
エリザは、まるで幼い子供のようにはしゃいで、ジュリアンの背中を押した。
◇
「おばさん!ジュリアン来たの!」
エリザは嬉しそうに笑顔を見せて、大伯母に話しかけた。
大伯母は、ジュリアンの顔を一瞥して、ふっと笑った。
ジュリアンは大伯母を少し警戒しながら見つめた。
「さあ、ここに座ってね」
エリザはジュリアンのために、テーブルの椅子を引いた。
ジュリアンは黙ってそこに腰をかける。
「これ、借りてたランプ」
そういって、ジュリアンはランプをエリザに差し出した。
エリザは微笑んで受け取る。
「それで…」
ジュリアンは持っていた荷物をどさっとテーブルに置いた。
「これ…子供のとき使ってた石板なんだけど」
「石板?」
「君、前文字を勉強したいって言ってたろ。だからあげる」
そう言って、すすすとテーブルに置いた石板を、エリザの方に差し出した。
エリザはびっくりして、石板を見つめた。
「え?!これくれるの?!悪いわ…」
「いいよ、こんなものもう使わないし。あと石筆も買っておいたから」
テーブルの上には、新品の石筆も置いてあった。
エリザは困ったような顔をして、ジュリアンに言った。
「でも…文字も書けないのに、これだけもらっても宝の持ち腐れだわ…」
それを聞いたジュリアンは、思わず声を張り上げた。
「だから!僕が教えてあげるって言ってるの!」
「え…」
「ていうか、君が言ったんだろ、教えてって」
ジュリアンは肘をついてそっぽを向いている。
エリザは顔を少し赤らめて、微笑んだ。
(ジュリアン…やっぱり優しい人ね…)
エリザはさっそく、箱の中から石筆を取り出し、ジュリアンの方を見た。
「ねえ、ジュリアン、さっそくだけど、何か単語を書いてみたいわ」
「え…」
「最初は何がいいかしら」
「じゃあ…この間の続き」
そう言って、ジュリアンはエリザから石筆と石板を受け取り、かつかつと文字を書いた。
「はい」
ジュリアンは石板を差し出し、エリザはそれを覗きこむ。
どこかで見覚えのあるアルファベの羅列であった。
「僕の名前」
「〈ジュリアン〉?」
「これが〈ジ〉、〈ユ〉、〈エル〉、〈イ〉、〈ウ〉、〈エヌ〉…Julien」
ジュリアンは、アルファベを一つ一つ指差しながら読んでいった。
エリザもそれに続く。
「書いてみたら?」
「うん」
エリザは、石筆を持って、緊張した面持ちで石板にこすりつけていく。
真剣なまなざしのエリザを見て、ジュリアンは肘をつきながら少しほほ笑みを浮かべた。
大伯母は、そんな二人の様子をこっそり伺っていた。
「できたわ!」
そう言って、嬉しそうにジュリアンに石板を見せた。
石板には、流麗な文字の下に、角ばったぎこちないアルファベがいくつか並んでいた。
「…」
「あら、初めてなんだから仕方ないでしょ!次はうまく書くわ」
エリザは恥ずかしそうに、石板を奪い取った。
「別に、上手に書けなくてもいいんだよ」
「なによ、へたくそだなあって、顔してたくせに!」
エリザは子供のようにぷんぷん怒りだした。
大伯母はそれを見て、思わずぷっと吹き出した。
「おばさん!今笑ったでしょ!」
「笑っちゃいないよ、呆れてただけさ」
大伯母はすました顔に戻り、揺り椅子を動かした。
(何よ、二人して…)
エリザはふくれっ面をして、石板を眺めた。
確かに、お世辞にも上手とは言えない文字が躍っていた。
(でも…これでジュリアンの名前が書けるようになったのね)
そう思うと、エリザはとたんに嬉しい気持ちになった。
「ねえ、次は私の名前が書きたいわ!」
「えっ…」
「はい、これに書いて」
エリザに石板を渡され、ジュリアンは石板に書いてあった文字を消し、チョークを持った。
「…」
そしてエリザの〈E〉の字を書こうとしたそのとき、扉の外からこんこん、という音が聞こえた。
「誰かしら…珍しいわね」
「…」
エリザは椅子から立ち上がり、扉を開けた。
扉の前に立っている人物を見て、エリザは少し慌てた。
(ニーナ…)
ニーナは、相変わらずかわいらしく裾の広がったワンピースを着て、大きなリボンを頭につけていた。
そして、両腕を後ろに組み、エリザににこにこ笑いかけていた。
「エリザ、突然ごめんなさい」
「いいのよ、でもまだお昼なのに」
「あら、今日は学校がお休みなのよ」
「そうだったの、学校のことがわからないから…知らなかったわ」
「ねえ、ちょっと上がってもいい?」
「え、ええ…でも…」
(ジュリアンがいるって知ったら…どう思うかしら)
エリザはふと、後ろめたい気持ちになった。
それほど仲がいいというわけでもない、とニーナに言っていた手前、ジュリアンを家に招き入れていることを知ったら…
(ニーナ、怒らないかしら?)
「…」
「どうしたの?」
「今、お客様がいるのよ…」
「あら、どなた?」
「…ジュリアンが来てるの」
「!!」
案の定、ニーナはびっくりした顔でエリザを見た。
そして、エリザをどんと押しのけ、部屋の中にずかずかと入った。
「ニーナ…?!」
エリザはびっくりして、部屋の中を振り返った。
「ジュリアン!!」
ニーナは突然叫び、椅子に座っているジュリアンを後ろか抱きしめた。
エリザはそれを見て、心臓がずきっとなった。
「会いたかったわ!この間、あなたそっぽを向いて行ってしまったままだったから!」
「…ちょっと、やめてよ」
ジュリアンは不愉快そうな顔でニーナの腕を振り払おうとしている。
大伯母は、うるさそうに眉をひそめ、二人を見ていた。
「なんだ、今日ね、実はエリザからジュリアンにお誕生日会に誘ってもらうように、お願いしに来たのよ!」
「え?」
「エリザが来れば、ジュリアンも来るんじゃないかって思って!」
そう言って、ニーナはジュリアンを抱きしめたままうふふ、と笑った。
ジュリアンは相変わらず嫌そうな顔をしている。
エリザはそれを聞いて、悲しそうな顔をした。
(ジュリアンに来てほしくて、私を誘ったのね…)
「ねーえ、ジュリアン。エリザも来るなら、あなたも来るでしょ?」
「は?何勝手なこと言ってるの?」
「ほら!エリザからも言ってよ!ねえ、おばさん、おばさんが許可してくれればいいんでしょ?!」
ニーナはエリザの大伯母にまで、話を振った。
「あたしには関係のないことだよ!」
大伯母は、迷惑そうに顔をそむけた。
「…ニーナ」
「え?」
「ごめんなさい、私、やっぱり行けないわ」
「どうして?!」
「子守の仕事がいつ終わるかわからないし…ニーナの学校の子のことも知り合いじゃないし…」
「大丈夫よ!夜遅くまでやってるんだから!泊まっていっても大丈夫だって言ったでしょ?」
「…」
ニーナはエリザからなかなかいい返事がもらえず、だんだん苛立った顔つきになった。
「ねえ!ジュリアンだけでも来てよ!お願い!」
そう言って、ジュリアンを抱きしめる両腕にぎゅっと力を込めた。
「君ちょっとしつこいよ、行かないって言ってるだろ?!」
ジュリアンも、苛立ちを隠せず、語気を強めた。
「でもジュリアン、あなたのお友達も来るのよ!ねえ、フランクって知ってるでしょ?!」
「フランク?」
エリザは、ニーナの口から聞き覚えのある名前を聞き、思わず聞き返した。
「あら、フランクを知っているの?」
「ええ、まあ…少しだけ話したことがあるわ」
「…」
ジュリアンは、エリザをじっと見つめる。
「あら、なんだ、やっぱりエリザも知り合いの子がいるんじゃない!フランクって優しいわよね、エリザ!」
「ええそうね、優しく話しかけてくれたわ」
そう言って、エリザは微笑んだ。
ジュリアンは、思わずエリザを睨みつけた。
「ねーえ、だからエリザ、フランクもいることだし、来てよ!きっとあなたに会いたがってるわ!」
「そんなことないと思うけど…」
エリザは困ったように笑った。
「じゃあ…もう少しだけ考えてみるわ…」
「ほんと?!やったあ!ねえ、だからジュリアンも来るでしょう?!」
ジュリアンはエリザを一瞥したあと、ニーナの方を向いて上目づかいでこう言った。
「…じゃあ僕は行くよ」
(…えっ)
エリザは、突然発言を変えたジュリアンに驚いた。
(さっきまであんなに嫌がっていたのに…)
ニーナは急に黄色い歓声を上げ、再びジュリアンに抱きついた。
ジュリアンは嫌がるどころか、不敵な笑みを浮かべている。
「でもさ、もらった招待状なくしちゃったんだよね…」
「いいわ!そんなの!うちの場所わからなかったら、私、あの橋のところまであなたを迎えに行くわ!」
「あっそ。じゃあ頼むよ」
(ジュリアン…)
エリザは急変したジュリアンの態度に違和感を覚えた。
誕生会に行くと突然言い出し、そのあとニーナに対する口調が急に優しくなって…
「ねーえジュリアン、今日一緒に帰らない?町まで行くんでしょ?カフェに寄っていきましょうよ!」
ニーナは調子に乗って、エリザの客であるはずのジュリアンを勝手に誘い出した。
エリザは止めようと思ったが、手をひっこめた。
「悪いけど、それはまた今度ね」
「なあんだ、つまらない!じゃあ私、先に帰るわね!」
そう言って、ニーナはもう一度ジュリアンにぎゅっとしがみついた。
エリザは思わず目をそらした。
「じゃあね!さようならジュリアン!夕方頃、橋のところで待ってるわ!」
ニーナは踊るように、扉を開けて出て行った。
ニーナがいなくなったあと、はあ、と大伯母のため息が部屋に立ち込めた。
「本当にうるさいね、あの子は」
大伯母がそう言うと、エリザは苦笑いをした。
ジュリアンは、先ほどとは打って変わって機嫌の悪そうな顔をしている。
「ジュ、ジュリアン…」
「なに?」
「あの、さっきまで行かないって言ってたのに、行くことにしたのね?」
「そうだけど?」
ジュリアンは相変わらず感じの悪い態度で答えた。
「そう…」
エリザは微笑んで、返事をした。
「ニーナ、とっても喜んでいたわね。あなたが行けば、きっと華やかなパーティになると思うわ!」
「…」
ジュリアンは返事をしなかった。
エリザは、下を向いてうつむいた。
(私…何かいけないことを言ってしまったのかしら…)
すると、ジュリアンは口を開いた。
「で?君は結局どうするの?」
「えっ?」
「行くの?行かないの?」
「私は…」
エリザは少し間を置いて、こう答えた。
「やっぱり…私は行けないわ。それに、ニーナもあなたに来てもらえれば、私なんてどうでもいいと思ってるのよ」
そう言って、少し悲しそうな顔をして笑った。
「ふうん…」
ジュリアンはテーブルに肘をついて返事をした。
「フランクも来るってね」
「そうみたいね。優しくて、いい人だったわ!私をかばってくれたし」
エリザは、夜の市のことを思い出し、嬉しそうに笑った。
ジュリアンはちっと舌打ちをした。
「また会いたいなって思うけど…でもやっぱり行けないわ」
「あっそ。じゃあフランクによろしく伝えておくよ」
ジュリアンは目をそむけて、そっけなく答えた。
(ジュリアン…?)
エリザは困って、うつむいた。
「あ、そうだわ!お腹すいたわよね。今からスープを作るから、食べて行って!ね?」
「え?」
「ちょっと待ってて、すぐできるから!」
そう言って、エリザは慌てて火を起こしに行った。
ジュリアンは、エリザの後ろ姿を黙って見つめていた。
「お前さん…本当にガキだね…」
おもむろに、エリザの大伯母があきれた口調で話しだした。
「…」
ジュリアンは大伯母を睨みつける。
「全く、別の男の名前が出てきただけで、このざまかい」
「何の話?」
ジュリアンはそっぽを向いて答えた。
「ま、別にいいけどさ。ところでお前さん、エリザがなんで誕生会とやらに行きたがらないか、わかってるのかい?」
「は?忙しいからじゃないの?」
それを聞いて、大伯母は馬鹿にしたように笑った。
「あんた、本当に大人の女を相手にできてるのかね」
「はあ?関係ないでしょ」
「女心ってやつを、これっぽっちもわかっちゃいないんじゃあねえ…」
「…?」
そういって、大伯母ははあ、とため息をついた。
「15の女の子が、あんな汚らしい恰好でパーティなんぞに行けるわけがないだろう」
「…」
「まあ、あんたに服を買ってやれとは言わないけどさ、そのくらい気付いてやったらどうだ、あの子が好きなら」
そう言われ、ジュリアンは顔が真っ赤になった。
大伯母は、ふっと笑った。
「ま、あんたなんかよりフランクってやつのほうがずっと大人みたいだから、仮にエリザがパーティに行ったら、そいつにとられちまうかもしれないけどね」
ジュリアンはちっと舌打ちをして、黙った。
「まあ、エリザは行きたくないわけじゃないってことを、あの子の代わりに伝えておくよ」
「…」
「あんたも、エリザが来た方がいいと思ってるんだろ」
大伯母はそう言うと、目を閉じて揺り椅子をゆらゆらとさせた。
「しかし、女物の服は高いからねえ…まあ、ガキのあんたにゃ無理だね」
くくく、と大伯母は笑った。
「ジュリアン、おばさん、おまたせ!」
ちょうどいいタイミングで、エリザがスープを運んできた。
「さあ、食べましょう!」
「…ちょっと作るの早過ぎない?」
「だって、早い方がいいでしょ!お腹もすいてるし!」
「…」
だからおいしくないんじゃないだろうか、とジュリアンは心の中で思ったが、言わなかった。
◇
「じゃあ、もう帰るから」
スープを食べ終わって、ジュリアンは言った。
「あら、そう…」
エリザは残念そうに返事をした。
「また、文字を教えに来てね」
「…ああ」
そう言って、ジュリアンは席を立ち、大伯母の方を見た。
大伯母は、にやりと笑っている。
ジュリアンは気付かないふりをした。
外に出て、ジュリアンはエリザの方を向いて話しかけた。
「あのさ…誕生会のことなんだけど…」
「え?」
「…なんでもない」
ジュリアンは大伯母が言ったことを確かめようと思ったが、やめておいた。
「じゃあね」
「うん、さようなら、またね!」
エリザは優しい笑顔を向け、ジュリアンに手を振った。
エリザに対し悪態をついたにもかわらず、彼女は変わらず自分に笑顔を向けてくれる。
ジュリアンはうつむいて、自分の子供じみた態度を思い返した。
(フランクってそんなにいいのか…?)
ジュリアンはふと、フランクのことを考え始めた。
フランクは、気さくで誰とでも打ち解ける少年である。
仲間の中ではリーダー格で、誰かが問題を起こしそうになるとそれを瞬時に察知し事を収めるなどの、いわば制御装置のような役目をしている。
彼とつるんでいる少年たちは、ドミニク以外はわりと人のいい人間ばかりだが、調子に乗ってドミニクに便乗することもあった。
しかし、フランクは比較的ジュリアンに友好的で、他の少年たちのように悪乗りをすることはなかった。
学校でのフランクのことは知らないが、おそらく成績もよく性格も優しいので、少女達からも人気があるようであった。
(エリザに話しかけてたのも、確かフランクだったな…)
ふと、夜の市のことを思い出し、ジュリアンは思わず舌打ちした。
しかし、ふとエリザの大伯母の、「本当にガキだね」という言葉が頭をよぎり、ため息をついた。
何やかや考えを巡らせているうちに、いつの間にか町についていた。
日はまだ明るく、相変わらず騒がしい。
ジュリアンはすたすたと通りを歩き、自宅へ向かった。
町の中央へ出ると、いつもの仕立て屋が見えた。
(もういい加減、服できてるよな…)
いまだに注文していた服を受け取っていなかったジュリアンは、店番が誰であろうと店に入ることに決めた。
店を覗くと、店主がカウンターにいるのが見えた。
店主はジュリアンに気付くと、にやりと笑った。
ジュリアンは気味悪がって、思わず「なに?」と尋ねた。
「いや、別に。久しぶりじゃないか」
「そうだっけ」
「あ、服ね、できてるよ」
「あっそう。じゃあくれる?」
店主は一度店の奥へと入っていった。
その間、ジュリアンは店に展示してある服を眺めていた。
「ほら、お待たせ」
そう言って、店主はジュリアンにおろしたてのシャツを手渡した。
ジュリアンは黙って受け取る。
「毎度」
なんとなく、いつもより愛想のいい店主に違和感を覚え、ジュリアンは訝しげな表情をした。
そして、ジュリアンはもう一度、人形に着せてある女物の衣服を見つめながら、こう尋ねた。
「ねえ、こういうのっていくらくらいするの?」
「はあ?」
店主は思いがけない質問をされ、思わずおかしな声を出した。
「あんた、ついにそういう趣味に走っちまったのかい?!」
「は?!何言ってんの馬鹿じゃない!!」
ジュリアンは慌てて反論した。
「だってさ、あんたがそんな…女物の服に興味を示すなんて今までなかったじゃないか」
「そうだけど…」
「はあ、さては誰かにプレゼントでもするつもりだね?」
店主はにやにやとした顔で、ジュリアンに尋ねた。
「…プレゼントってほどのものじゃないけど」
「じゃあなんなのさ」
「…」
店主はくくくと笑って、こう言った。
「まあね、こういうのは結構生地を使うからねえ、繊細だし。ピン切りだけど、安くてもあんたのシャツなんかよりはずっと高いよ」
「…」
「ま、場合によっちゃ少し安くしてやってもいいけどねえ…」
そう言って、ちらりとジュリアンの方を見た。
「どういう意味?」
「誰にあげるんだい」
それを聞いて、ジュリアンは思わず目をそらした。
「きゃ、客の女だよ。すっごい太客でさ。たまには媚売っておかないとって…」
「ほおう…」
なるほどな、と言った表情で、店主はジュリアンを見た。
ジュリアンは目をそらしたままである。
「じゃあ、どんな感じの服がいいんだい?色々あるだろ、たとえばほら、ここに展示してあるので言えば?」
そう言われて、ジュリアンはいくつか飾られている女物の衣服を眺めた。
(エリザに似合いそうなもの…)
すると、薄い桃色の、ひざ丈ほどのワンピースが目に入った。
裾がふわりと広がった優しげな雰囲気で、ジュリアンはエリザにぴったりだと思った。
「これとか…」
そう言って、ジュリアンがワンピースを指差した瞬間、店主は突然大笑いした。
ジュリアンは驚いて店主を見つめた。
「そ、そんな太客のババアに…こんな…こんなかわいらしい服を贈るってのかい?!ああ、おかしい!!」
店主は笑いがなかなかおさまらず、腹を抱えて苦しそうにカウンターに伏せった。
ジュリアンは不愉快そうな顔で店主を睨みつけている。
「ああ…悪かったよ。ああおかしい。ああ疲れた」
ひいひい言いながら、店主はジュリアンに謝る。
「まあいいさ。こんな雰囲気が似合う女性なんだろ」
「そうだよ」
「ふっ。で、その人の寸法なんかはわかるんだろうね?」
「…知らない」
店主はふっとあきれたように笑った。
「そんな事だろうと思ったよ。まあ、知ってる方がおかしいけどさ」
「…」
「まあ、適当に見繕って、作っておくよ。いつまでだい?」
「さ来週」
「さ来週?!ずいぶん急だね…」
「その日に間に合わなかったら意味ないんだよ」
「しょうがないね、超特急じゃないか。お針子たちも大変だ」
「で、いくらなの?」
「作ってみないことにはね。ま、多少くらいならまけてやるよ。一応あんたもお得意さんだ」
「あっそ。じゃあよろしく」
そう言って、ジュリアンは店を出ようとした。
「あの子にぴったりの、いいやつを作ってやるからね!」
店主は大きな声で、上機嫌にジュリアンに向かって叫んだ。
ジュリアンはくるっと振り向いて、怒鳴った。
「あの子って誰だよ!!」
その顔は、真っ赤に燃え上っていた。
◇
その日の夜、エリザは手を真っ白にして、石板で文字を書き続けていた。
石板は、〈Julien〉の文字で埋め尽くされていた。
「ジュリアンの名前しか書けないのよね…」
そう言いながらも、エリザは満足そうな顔をして、もう一度書き始めた。




