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第11話

翌日、ジュリアンは日課の娼婦屋の男の元へ向かった。


ジュリアンは、男を見るなり、


「おはよう」


と声をかけた。

男は不審そうにジュリアンを見た。


「お前…おれに媚売っても何もでないぞ」

「は?」


ジュリアンは不思議そうな顔をした。


「まあいいや。今日は午後と夜に一件ずつだ。よろしくな」

「ふうん」


ジュリアンはぼんやりした顔で返事をした。

男は少しあきれた顔でこう言った。


「なあ…最近ちょっと変だぞ。大丈夫か」

「変って何が?」

「いや…何がと言われてもなあ…」


そう言って、男はぼりぼりと頭をかいた。


「おおそうだ」


何か思い出し、男は面白そうにジュリアンに話し始めた。



「昨日、夜の市だったろ?それで、中央広場で一悶着あったらしいぜ」


それを聞いて、ジュリアンはどきっとした。


「俺は店があったからいけなかったんだけどさ、店の客が通りすがりに見たってよ」

「…」

「まあ、子供のけんかだったらしいけどさ…結構な騒ぎになってたみたいだぜ」

「へえ…」

「それで、一人は一緒にいた女の子に引っ張られて逃げたとさ。だらしねえよなあ!」


そう言って、男は笑った。


「それさあ…」

「あ?」

「多分僕のことだと思うよ」

「え?!」


男はびっくりしてジュリアンの方を見た。


「お前、昨日夜の市に行ってたのか」

「うん」

「もしかして、女の子といたのって、お前?」

「そうだけど」

「なんだよ、やっぱりお前、見た目通りの色男だったのか。同情して損したぜ」


男はつまらなそうに両手をあげた。


「別にそんなんじゃないよ」


ジュリアンはふいっとそっぽを向いた。

男はにやりとして、ジュリアンに尋ねた。


「なあ、どこまでいったんだよ。え?お前のことだからもう全部済んじゃってるんだろ?なあ!」


いい歳をした男は、まるで10代の少年のようににやにやとしつこく聞いた。

ジュリアンは嫌そうに顔をしかめた。


「別にどこも済んでないよ!うるさいな!」

「うそつけ!100歩譲ってキスくらいはもうやってるだろ?」


するとジュリアンは男と目を合すことなく、顔を真っ赤にして黙りこっくった。

男は少し焦った。


「お前…まさか手もにぎってないとか言うなよ?」

「…握ってないよ…何もできなかった…」


ジュリアンは顔を真っ赤にしたまま、下を向いた。

男は唖然とした。


「お前、これは一体どういうことだよ…大人から色目使って金ふんだくってるくせに」

「…」


ジュリアンは黙っている。

そんなジュリアンを見て、男は肩をすくめた。



「その子、どんな子なんだよ」

「別に…普通の子だよ。明るくて、優しくて、控えめで、それで…」


ジュリアンはぼうっとした表情でエリザのことを思い出していた。


「髪が長くて、なんかいい匂いがして…」

「ふうん…」


男はにやにやしながら、ジュリアンの話を聞いていた。

そのとき、ジュリアンははっとして、男の方を見た。


「も、もういいだろ!じゃあね!」


ジュリアンは慌てて、中二階の扉を見ることなく、ばたばたと店を出た。

男は手に腰をあてて、笑いながら扉を見つめた。



「あいつがあんな恥ずかしそうにしてるの、初めてみたよ」












エリザは、シリルの面倒を見ながら、その日も懸命に編み物をしていた。

毛糸を買って編み始めてからもうだいぶ経っているが、一向に進まない。

進まないというよりも、形がどうも定まらず、編んではほどきを繰り返していた。



「ねえシリル、これなあんだ!」


エリザは、以前シリルにした質問をもう一度してみた。

シリルはううん、と考えてこう答えた。


「くもの巣!」

「…」


エリザははあ、とため息をついて、膝の上にぽすんと置いた。



(このままじゃ、冬までに絶対間に合わないわ…編み始めたの、夏なのに…)



ベルガー夫人がいないので、エリザはソファの上に寝っ転がり、ぼうっと天井を見た。

じゅうたんが敷いてある床の上で、シリルはおもちゃで遊んでいる。



(ジュリアン、昨日は無事おうちへ帰れたかしら…)



ふと、エリザはジュリアンのことを思い出した。


(昨日は…色々なことがあったわ…楽しかった)


ふふ、とエリザは一人で笑った。

そのとき、ベンチでの出来事が頭をよぎった。


ジュリアンは、息を小刻みに荒らげ、細く白い手で自分の頬を優しくなぞり…

そして、ばらのように真っ赤な唇を…



エリザはがばっと起き上がって、顔を真っ赤にした。


「エリザー、どうしたのお?」


シリルは挙動不審なエリザを見て、不思議そうに尋ねた。

エリザは手で顔を覆いながら「なんでもないわ」と答えた。


(ジュリアン…まだ酔ってたんだわ…自分でも言ってたもの…)




そのとき、がちゃりと家の扉が開く音が聞こえた。


「おかあさあん!」


シリルは音を聞いて、嬉しそうに駆けつけた。


「ああシリル、帰ったわ!いい子にしてた?」

「ベルガーさん、おかえりなさい」

「ただいまエリザ。今日もご苦労様」

「いいえ、シリルは本当にいい子で子守がとっても楽なんです」


エリザとベルガー夫人はおほほと笑いあった。

そして、ベルガー夫人は少し間を置いて、エリザから目をそらしてこう言った。


「ねえエリザ…あの…申し訳ないんだけど…」

「はい?」

「あの…明日なんだけど…また夕方からシリルを預かって頂けない?」


それを聞いて、エリザはどきっとした。


「あ、あの…どうして…?」


思わず、エリザはベルガー夫人に尋ねた。

夫人はますます挙動不審になる。


「いえ、あの…客人が来るの。どうしても、二人で話しこみたいことがあってね…」



(きっと…ジュリアンが来るのね…)



エリザは、ふとせつない顔をした。


「エリザ…?」


表情が急に曇ったエリザを見て、夫人は不思議そうにエリザを覗きこんだ。

エリザははっとして、こう言った。


「ああ、いいえ。わかりました…夕方頃、家を出ればいいですね?」

「そうしてちょうだい。本当にごめんなさい。今度こそ、必ず迎えに行くわ」

「はい…」



エリザは返事をして、帰る支度をした。


「エリザ、さよなら!」


シリルは無邪気にエリザを見送る。


「じゃあね、また明日」


エリザは優しい笑みを浮かべて、シリルの頭を撫でた。






帰り道、エリザはぼうっとしながらてくてく歩いた。


(明日は…ジュリアンはベルガーさんと会うのね…)


ふと、先日目撃した夫人とジュリアンのキスの現場が、エリザの脳裏に蘇った。

エリザは顔を赤らめながら、こう思った。


(ああいうことって…具体的にどういうことするのかしら…キスするだけじゃないのよね…多分)


そのとき、ジュリアンが以前言った言葉が頭をよぎった。




―――お互い裸になって、キスして、普通なら見ることのないところを触ったり舐めたりしてさ…




次の瞬間、ジュリアンとベルガー夫人が裸で絡み合う姿が、エリザの頭の中に映し出された。

エリザは思わず顔を覆った。



(私何考えてるのかしら!馬鹿みたい…どうかしてるわ!)



そして、わけもわからず走りだした。

息が切れ、立ち止まりたいのに足が勝手に回転する。



だいぶ距離を走ったところで、エリザはようやく立ち止まり、息を整えた。



エリザは走ってる間、全速力で走れば頭がすかっとすると思っていた。

しかし、ただ息が苦しいだけで、心はなぜかもやがかかったように不安定なままであった。













ジュリアンは午後と夜の仕事をこなし、町へ戻っていた。


(朝、肝心なこと聞くの忘れた…)


ジュリアンは、娼婦屋の男に尋ねようと思っていたことがあったが、話がおかしな方向へ進んでしまい、聞けずじまいだった。

そして、余計なことをたくさん口走ってしまったことを、後悔していた。


(あんまり会いたくないけど…)


仕方なく、彼は娼婦屋の扉を開いた。

もう、娼婦屋の一階はすでに開店中で、店内は大騒ぎになっていた。


客の男と娼婦の下品な笑い声がうるさかった。

ジュリアンは店の中に、着飾った自分の母親を見つけた。

しかし、不思議とあまり気にならなかった。



「おい!ここは子供の来るところじゃねえぞ!」



ジュリアンが店に入ると、酒に酔った客がどなり散らした。


「あらあ、ジュリアンじゃない。いいのよあの子は」


娼婦の一人がそう言って、男の胸を撫でまわした。

男はそちらに夢中になり、へへへと顔をにやつかせ、場違いな子供の存在を忘れた。



ジュリアンはすたすたと、カウンターの男の方へ向かった。


「なんだお前、こんな時間に珍しいな。いつも避けてるくせに」

「今日はたまたまだよ。今朝聞き忘れてたことがあってさ」

「なんだ、恋の指南をお願いしにきたのか」


ジュリアンは男を睨みつけた。


「冗談だよ、で、なんだって?」

「あさっての予定って、どうなってる?」

「あさって?ずいぶん先のこと聞いてくるんだな。ちょっと待ってろよ」


男はメモを漁って確かめた。


「あさってはまだ何も入ってないぞ」

「ほんと?!」


それを聞いて、ジュリアンは思わず前のめりになった。


「じゃあさ、その日は全部断っといて!絶対入れないでよ」

「ああ、わかったよ。お前、デートだな」


男はにやにや笑いながらジュリアンに尋ねた。


「さあね」


もう絶対、余計なことを口走ってたまるかと言わんばかりに、ジュリアンは不敵な笑みを浮かべた。

男はつまらなそうに、はいはい、と手を振った。


「ジュリアン、ついでだから明日の予定も言っておくぜ」

「え?ああ」


ジュリアンは興味なさそうに返事をした。


「やる気あるのかよ。全く。明日は夕方から一件来てるぜ。マダム・ベルガーだ」




ベルガー…




エリザの雇い主である上に、エリザが自分のことを知るきっかけになった客であるベルガー夫人に、ジュリアンはあまりいい印象を持っていなかった。

もしかしたら、またエリザに出くわしてしまうかもしれないじゃないか…

そう思うと、気が重くなった。



「どうした、ジュリアン?」

「いや、別に」

「明日は、仕事がいつ終わるかわからないから、直接家に来てくれってさ。暗くなってからがいいらしいぜ。鍵の場所はこの手紙の中に書いてあるとさ」

「…」



そう言って、男は封筒をジュリアンに渡した。


「こんないかがわしい店の男に、簡単にこんな大事なもん託すなってんだよなあ」


男は笑いながら言った。



(自分の都合が不安定なときに入れるなよ…)



ジュリアンはちっと舌打ちした。



「それにしても、マダム・ベルガーは美人だよなあ!こういうときうらやましいぜ、お前が」

「じゃあ代わってやってもいいよ、お金は僕がもらうけど」

「何言ってるんだよ。俺が行ったら殴られるぜ」


男はははは、と笑った。


「じゃ、そういうわけでよろしく」


ジュリアンはそう言って、またすたすたと歩いて出て行った。












次の日、エリザはベルガー夫人に夕方からのことを再びお願いされ、夫人を見送った。


その日のエリザは黙々と、シリルの朝食を作り食べさせ、シリルの遊び相手をし、昼になったら昼食の準備をして一緒に食べ、そしてまたシリルの面倒を見た。

いつもなら、シリルが遊び始めたら大伯母のショール編みに専念するのだが、今日はやる気が起きなかった。

ショール編みをやっている間、色々なことを考えてしまうからである。

ただひたすら、何も考えないようシリルにつきまとっていた。



(これは仕事なのよ…しょうがないの)




たびたび、エリザは自分に言い聞かせた。

しかし、時間が刻一刻と近づくにつれて、気持ちがどんどん沈んでいくのがわかった。


どうして、自分はこんな気持ちになっているのだろう…


エリザはそれが不思議であった。

ジュリアンに事実を伝えられたとき、衝撃を受けたのは確かだったが、彼のやっていることが誰かにとって幸せなら、それでいいと思った。

彼がいつも疲れていて、その上あまり幸せそうではないのは気になるが、彼自身がお金を得るために好きでやっているのなら、もう何も言うまい、とも思った。



しかし、自分が…自分が誰かとジュリアンを逢わせるためにこうして計画的に行動することに、激しい違和感を覚えた。

なぜ自分が、夫人とジュリアンの逢瀬の手伝いをしないとけないのだろうか。

何も知らないふりをして、夫人に笑顔を作って…なぜ子供を連れて家を去らなければいけないのだろうか。



嫌なら夫人に問い詰めればいい。

しかし、自分にそんな権利はないし、それはジュリアンに対する営業妨害であった。



(シリルがかわいそうだわ…)




母親の欲望のために、こんなに小さい子供を夜まで放っておいて…

エリザはシリルを見ながら、そんなことを思った。




しかし、これが夫人にとってのまっとうな恋人だったら…?





エリザはふと考えた。

もしそうだったら、おそらく、自分は…率先して、夫人を応援していたかもしれない。

相手がジュリアンという、売春で金を得ている少年だから、腑に落ちないというのだろうか。


しかし、そうなると自分がジュリアンに言った「素晴らしい」などという言葉は、単なる偽善、きれいごとでしかなかったということになりはしないか。



(そんなことないわ…私は…正直に言ったもの)




エリザは考えれば考えるほど、頭が混乱し、胸が苦しくなった。


そのとき、ふと夜の市でのことが頭をよぎった。

エリザは、何度も何度も、その夜のことを思い出しては、胸を熱くさせていた。




(ジュリアン…)





エリザは、ぼうっと天井を見上げ、悲しそうな切なそうな表情をした。





「エリザー、今日エリザのおうちに行くんでしょ?」



シリルが話しだし、エリザは我に返った。


「そうよ。もうすぐ準備しないとね」

「なんでエリザのおうちに行くの?」

「お母さまね、お友達と二人っきりでお話がしたいんですって」

「ぼくもお話したい」

「シリルは、エリザと一緒にお話ししましょう」

「えー」


シリルはつまらなそうに眉を寄せた。

エリザは苦笑して、シリルの頭を撫でる。




そしてふと時計を見たあと、窓の外を見上げた。


(ああ、日が暮れそうだわ…)


エリザは、いよいよ家に帰る準備をしなければならなかった。


(…)



もし…もしこのまま、私が家を出なかったら…

ベルガーさんは、どんな顔をするだろう。





ふと、エリザの脳裏にいじわるな考えが頭をよぎった。



(そうよ、ちょっとくらい困らせたって、罰は当たらないわ…)



エリザは、一瞬悪人のようなうすら笑いを浮かべた。

その様子を、シリルはぼんやりと眺めていた。








日はどんどん暮れていき、部屋の中は真っ暗になった。

エリザはランプもつけず、ただ黙って部屋のソファに座っていた。

シリルは、いつもと違うエリザの様子に、少しだけおびえていた。



「エリザー…行かないの…?」

「うん…もう少しここにいましょうね」

「…」

「シリル、こっちへいらっしゃい」


エリザはシリルの手を握り、ソファに座らせた。

そして自分のふとももの上にシリルの頭を置き、寝かせた。


エリザがシリルの肩をぽんぽんとリズミカルに叩くと、シリルはだんだんうつらうつらとし、目を閉じた。



「…」



エリザは緊張した面持ちでシリルを見降ろした。


(私は…何をやっているのかしら)



ベルガー夫人が帰って来て、まだ自分とシリルが家に残っていたら、きっと慌てるに違いない。


約束を破って、怒るだろうか。

それとも真実を話すだろうか。

泣いて、すがるだろうか。

笑ってごまかすだろうか。



(だったら、なんなのかしら…)




エリザは、自分が何のために今ここに残っているのか、わからなくなっていた。

ベルガー夫人を困らせてなんになる。

ジュリアンとの逢引きがだめになったら、ジュリアンにも迷惑になるではないか。




(私…ばかね)



今ならまだ間に合う、と思いなおし、エリザは笑ってシリルを揺り起こした。


「シリル、起きて。行きましょう」

「ううん…」


シリルはごろんと寝がえりを打って、大きなあくびをした。








そのとき、家の扉ががちゃり、と開く音がした。


エリザはびくっとなって、時が止まったように動かなくなった。




(どうしよう…ベルガーさん帰ってきちゃったわ…)



先ほどまでのいじわるな気持ちは消え、エリザの心の中には焦りと後悔しかなかった。

こつこつ、と部屋に入ってくる足音が聞こえる。

シリルは、眠気に負け寝息を立てている。

エリザは、体中が冷や汗でいっぱいになるのがわかった。



エリザ達がいる部屋の前で、足音はピタッと止まり、様子をうかがっているようであった。

そして、足音の主が声を発した。




「もう…いるの?」




その声を聞いて、エリザははっとなった。

明らかに、その声はベルガー夫人のものではなかった。




「奥さん?ねえ…いるならランプくらいつけたら?」




いつもとは違う、子猫のように甘えた声で、声の主はしゃべりかけた。

エリザは、水たまりができそうなほど、冷や汗をかいていた。


声の主は、暗い部屋に入り、手探りでこつこつと近づいてくる。



「別に…僕は暗いままでいいけど」



ふふ、と笑うその声は、どんどん近づく。




「いるんでしょ?なんで何も言わないのさ…」




ソファの前で、その足音はピタッと止まった。

エリザが座っている、目の前であった。




エリザは、緊張と混乱で、身体が震えていた。


(どうしようどうしようどうしよう…)


そして、声の主が自分の頭をそっと撫で始めたとき、エリザはびくっとなった。

声の主は何も言わず、そのまま自分の唇をエリザの唇に合わせようとした。



(…!!!)



そのとき、いきなり声の主はエリザをどんと押しのけて、はあっと焦りの吐息をもらした。



「…」



エリザはソファの背もたれに叩きつけられ、思わず「いた…」と声を発した。





「…なんで君がいるの…?」

「…ごめんなさい…ジュリアン…」





ジュリアンは、思わず口を拭った。

エリザは、下を向いて、うつむいた。













すうすう、とシリルの寝息だけが部屋の中に響いていた。

二人は、しばらくの間沈黙していた。



「…」



エリザは、頭が真っ白になっていた。

部屋が真っ暗で、ジュリアンがどんな表情をしているのかわからなかったが、きっと自分を睨みつけているに違いない、と思った。



「ベ、ベルガーさんに夕方頃出てって言われてたのだけど…遅くなってしまって…」

「…」

「あ、あの、先に来るとしたら、奥さんの方だと思ってたから…びっくりしたわ」


エリザは取り繕うように笑った。

ジュリアンは黙っている。



「あ、あの…」



ジュリアンがあまりにも何も言わないので、エリザはどうしたらいいのかわからなくなった。




「…今日のこと、知ってたの?」



ジュリアンは静かに話しだした。



「い、いえ…ベルガーさんに、シリルを預かってちょうだいって言われてたから…きっとそうかしらって思ってただけ…」

「…」



また沈黙が続いた。

エリザは、動悸が激しくなる一方であった。




「…よくこんな時間までいられたね。意外と心臓強いんだね」

「え?」

「もしかして、こういう現場に興味あった?ちょっと覗き見してみようとか思ってたんじゃないの?」


ジュリアンは意地悪く笑いながらこう言った。

エリザはその瞬間、かっと顔が赤くなった。



「違うわ!今から出かけようと思ってたのよ!」



エリザは思わず、叫ぶように反論した。

ジュリアンはもう何も言わなかった。



「もうすぐ奥さん、来るわよね?私、早く行かないと…シリル、起きて!」


エリザはシリルを強く揺さぶり、隣のソファに無理やり座らせた。

そして、手探りで自分の荷物を探そうと、立ちあがり前へ進もうとした。


そのとき、ジュリアンの身体に自分の身体がどん、とぶつかった。

エリザはよろめいて、思わずジュリアンにしがみついた。



エリザは、ジュリアンの、自分とは違う体つきを、全身で感じた。

見た目は女性のようにしなやかでほっそりとしているのに、実際は少しごつごつとしていて、胸や背中は自分よりずっとたくましかった。






「…ちょっと」





ジュリアンの声に、エリザははっとなって身体を起こした。


「ご、ごめんなさい…」

「…」


ジュリアンは何も言わなかった。

エリザは黙って、自分の荷物を探した。




「シリル、行くわよ」



エリザはシリルの手を引いて、部屋を出ようとした。



「…」



しかし、ふと立ち止まって、後ろ向きのままこう言った。




「ベルガーさんは…旦那さんが亡くなって、ずいぶん経つの」


そして続けた。




「きっと一人っきりで寂しいのね。だから、今日はあなたが優しくして差し上げてね」






エリザは、自分がなぜこんなことを言っているのかわからなかった。

今の言葉を、ジュリアンに言う必要性はあっただろうか?

ジュリアンは黙ったままである。




「じ、じゃあこれで。さようなら」




そう言って、エリザはシリルを引っ張り、早足に部屋を出た。

そして扉を閉め、すたすたと歩き出した。

シリルの手をぎゅっと握り、ただひたすら、自宅への道を歩いた。



「まってよう、エリザー!」



シリルはエリザの足についていけず、泣きそうな声を出した。

それを聞いて、エリザははっと我に返った。



エリザは立ち止まり、シリルをぎゅっと抱きしめこう言った。




「シリル、ごめんね…」







そのとき、なぜかエリザの目から涙がこぼれおちた。




(私…私…なぜ泣いているの…?)




エリザは、ただシリルを強く抱きしめ、わけもわからずすすり泣いた。

夜は、どんどん更けていく一方であった。













一人残されたジュリアンは、さっきまでエリザが座っていたソファにどさっと腰をかけた。

そして、顔に両手をあて、はあ、と深いため息をついた。




(なんであの子がいるんだよ…)




ジュリアンは、今日だけは絶対にエリザに会いたくなかった。

だから、客が留守の自宅に行くのはいやだったんだ、と思った。



―――ちょっと覗き見してみようとか思ってたんじゃないの?



顔を手で覆ったままじっとしていると、ふと、先ほどエリザに向かって言った言葉が、思い返された。


(なぜ、あんなことを…)


ジュリアンは激しく後悔した。


彼は、あの状況をどう対処していいのかわからなかった。

ベルガー夫人と間違えて、エリザにキスしようとして…

どう取り繕えばいいのか、何も思いつかなかった。

苦肉の策で、いつもの憎まれ口をたたくしかなかったのである。



(あの子、怒ってたな…)



普段、穏やかなエリザが、興奮気味に反論したのを思い出した。

あんなことを言われて、きっと屈辱だったに違いない。

ジュリアンは、両腕を下ろし、またため息をついた。



そして、ソファにどすんと横になって、暗闇の中うっすらと見える天井を眺めた。





―――今日はあなたが優しくして差し上げてね…





(なんだよそれ…)





別れ際のエリザの言葉が頭の中をよぎり、ジュリアンは切なそうな、苦しそうな表情をした。

別に楽しくてやっているわけではないこの仕事を、あえてやっているのは自分である。

しかし、エリザに、そんなことを言われる覚えはなかった。



(さっさと帰っちゃってさ…僕のことなんか、どうでもよかったんだろ)




ジュリアンは不意に悲しそうな顔をして、顔に右手の甲をあてた。

そして、ふとエリザがもたれかかってきたときの感覚を思い出した。


エリザはあの不思議な匂いを漂わせ、自分にぎゅっと抱きついた。

胸を押し付けて、脚の先まで自分に密着させていた。

エリザの身体は、ほっそりと痩せていたが、どこか柔らかく、大人の女性の身体と、そう変わらないような気がした。




そのとき突然、ジュリアンは、自分の身体がまだエリザに触れているかのような感覚に陥り、急に全身が熱くなった。




「はあっ…」




そして、思わず身をよじり、息を荒らげながら、胸に手をあてて、指でそっとなぞった。



「…っ」



そのまま、その手を自分の下半身にゆっくり移動させ、ズボンの中に突っ込んだ。



「あっ…」



自分の手が触れると、思わず甘い声をもらした。

もう片方の手で、ズボンをぐいっと下におろし、小刻みに手を動かし始めた。


「はあっ…はあっ…」


ジュリアンの息はどんどん荒くなり、顔は真っ赤に紅潮していた。




(エリザ…!!)




はあはあと熱い息を吐きながら、ジュリアンは手を休めることなく動かした。






そのとき、突然がちゃり、と扉が開く音がして、ジュリアンはがばっと上体を起こした。


「はあはあ…」


非常に中途半端な状態で、強制終了となった。

慌てて元の状態に身を整え、下を向いて座りなおした。





「ジュリアン…もういるの?」

「ああ、いるよ」



ベルガー夫人は暗闇の中、ふふっと嬉しそうに笑って、足早にジュリアンの元へ駆けてきた。

自分の家の部屋ということもあって、暗闇でも歩き回れるのだろう。



そして、ジュリアンが座っているソファの隣に座り、ジュリアンにもたれかかるように抱きついた。


「ジュリアン会いたかったわ…」

「…」

「ねえ…」


と言って、夫人はジュリアンにキスをせがむ。

ジュリアンは夫人の顎を持ちあげ、望み通り口づけをした。


夫人は、ジュリアンと唇を絡ませながら、おもむろに左手をジュリアンの下半身に忍び込ませた。

すると、夫人は少し驚いてこう言った。



「あらジュリアンったら…待ち切れなかったの?」



それを聞いて、ジュリアンは思わず口づけをやめ、顔をそらした。

夫人はくすくすと笑って、撫で続けた。



「かわいいのね…」




ジュリアンは暗い表情で黙りこくったまま、夫人の服を脱がし始めた。



挿絵(By みてみん)

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