第10話(2)
ジュリアンは、苦しそうな息遣いでエリザにもたれかかった。
「はあ…はあ…はあ…はあ…」
何かしゃべろうとしているが、あまりの苦しさになかなか声がでない。
「ジュリアン、大丈夫?!まさか、あなた走って来たの?!」
エリザは驚きと心配が入り混じったような声でジュリアンに話しかけるが、ジュリアンは返事ができない。
はあはあ、とジュリアンの息がエリザの顔にかかったとき、ただ全速力で走って来たのとは違うことに、エリザは気付いた。
「ジュリアン…もしかして…お酒飲んでたの…?」
ジュリアンはエリザの腕をぎゅっと掴んで、上目づかいでこう言った。
「…気持ち…悪い…」
エリザは、ジュリアンを支えながらゆっくりと席まで運び、座らせた。
そしてそっと背中をさすってやった。
「ジュリアン…どうしたの?お酒…普段から飲んだりするの?」
エリザは遠慮がちに尋ねた。
ジュリアンは、首を横にふるふると振った。
「無理やり飲まされて…気付いたら…こんな時間に…」
ジュリアンはうつろな目でそう答えた。
息はまだ荒い。
エリザは悲しそうな目でジュリアンを見た。
「誰がそんなこと…?あなたのお客さん?」
うつろな目のまま、ジュリアンは黙っていた。
「ひどいわ…」
エリザは顔を伏せて、つらそうな顔をした。
大伯母は黙って見ている。
「ジュリアン、今お湯を持ってくるわね。少し待ってて」
エリザは気丈に話しかけ、その場を離れた。
ジュリアンは、ただただ息を整えるのに精一杯だった。
「お前さん…災難だったみたいだね」
大伯母は、ぼそりとジュリアンに話しかけた。
「…」
ジュリアンは黙っている。
「子供に無理やり酒を飲ませるなんてねえ…」
エリザの大伯母は、あきれたような顔でそう言った。
「あんたもあんたさ。そんな商売やってりゃ、たちの悪い客だって必ずいるんだから。あんたになにがあっても、誰も責任取ってくれやしないんだよ」
「そんなこと…わかってるよ」
ジュリアンはようやくまともに話すことができた。
「それにしても、あんた相当酒弱いんだねえ」
大伯母は意地悪く笑った。
ジュリアンは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「でもまあ」
大伯母はふう、と息を吐いてこう言った。
「あんたが来てくれてよかったよ。エリザは朝からあんたのお越しを楽しみにしていたんだ。さっきまで、あんたがなかなか来なくて、あの子は泣きそうな顔をしていたんだよ」
「え…」
「あたしはもう来ないと思っていたけどね。お前さん、なかなかいい男じゃないか」
にやり、と大伯母は笑って、揺り椅子を揺らした。
ジュリアンは大伯母を見つめた。
「ま、そんな商売なんかやってなければ、なおいいんだけどね」
大伯母はすかさずそう付け加え、ジュリアンはちっと舌打ちした。
「ジュリアン、おまたせ」
エリザはお湯を入れたカップを持ってきた。
「ごめんなさい、まともなお茶がなくて…お湯なの」
そう言って笑って、ジュリアンの元に置いた。
ジュリアンは黙ってそれを見つめる。
「ぬるくしてあるから、すぐ飲めるわ。のど、渇いているでしょう?」
ジュリアンはカップの取っ手を持ち、ごくごくと飲みほした。
そしてはあ、と息を吐いた。
「ねえ、気分はどう?」
「…大丈夫」
「ああ、よかったわ!さっきより、だいぶ良さそうね!」
エリザはぱあっと笑顔になった。
ジュリアンはそんなエリザを見上げた。
「ジュリアン、そんなに大変だったのに、走ってきてくれたのね…」
「…」
「私、正直もう来てくれないんじゃないかと思ってたわ…本当に嬉しいの。ありがとう」
ジュリアンは目をそむけた。
「…これ」
そう言って、ジュリアンはずっと握っていたランプをエリザに渡した。
エリザはそれを見て微笑み、受け取ってテーブルの上に置いた。
「でもジュリアン、帰るとき、どうするつもり?」
「…別に大丈夫だよ。今日はいつもより人が多いから、明る…」
そう言いかけて、ふと町の夜の市のことを思い出した。
エリザは不思議そうな顔をしている。
エリザは夜の市のことを知っているのだろうか。
おそらく、存在は知っていても行ったことはないだろう。
もし、もし自分が今、この子を誘ったら…一緒に来てくれるのだろうか?
ジュリアンはエリザを見つめ、ぐるぐると考えを巡らせていた。
「ジュリアン、どうしたの?人が多いって、どうして?」
エリザは気になっている様子で、ジュリアンに尋ねた。
ジュリアンは我に返ってこう言った。
「あ、今日は…町で夜の市をやってるんだって」
「夜の市?知らないわ」
「午前中、市場が出てるだろ。それが、今日は夜に出るんだ。町はお祭りみたいになっているよ」
「へえ、そうなの!楽しそうねえ」
エリザはうふふ、と笑った。
ジュリアンはそれを見て、とっさにこう言った。
「行ってみる?」
すると、エリザは「えっ」とびっくりして、困った様子を見せた。
「今から…?」
ジュリアンはそんなエリザを見て、背中に一筋の汗が流れるのがわかった。
そしてそのとき、こう思った。
(断られる…)
ジュリアンは今まで、誘われることはあっても、誰かを何かに誘ったことがなかった。
だから、こうして誰かを誘って、相手の返事を待つまでの間、こんなにも緊張で息苦しくなるとは思ってもみなかった。
断られたときはどうしたらいい?
どうやって、その場を取り繕えばいいのだろう?
ジュリアンはどんどん動悸が激しくなっているのがわかった。
(言わなければよかった…)
こんな思いをするのなら、と、ジュリアンは激しく後悔した。
すると、エリザは大伯母におそるおそる尋ねた。
「ねえおばさん…今からジュリアンと町へ行ってもいい?」
大伯母はジュリアンをじっと見つめてこう言った。
「お前さん…まさか夜の市にかこつけて、エリザを変な所へ連れ込む気じゃないだろうね」
「は?何言ってるの?!だいたい変なところってどこさ」
大伯母はふん、と笑って、ジュリアンに言った。
「体調がすぐれないようで悪いけど、帰りも必ずエリザをうちまで送って行くって約束したら、行っておいで」
「おばさん、でもそれじゃあジュリアンがとっても大変になってしまうわ。帰りは私一人でも大丈夫よ」
「それならだめだね」
エリザは困って、ジュリアンの方を見た。
「ジュリアン…どうする?」
「…いいよ別に。送って行くから」
大伯母はもう一度ふん、と笑った。
そして、エリザはぱあっと明るい笑顔を見せてこう言った。
「嬉しいわ!おばさん、ありがとう!ジュリアン、ちょっと待っててね、支度するわ!」
エリザは大急ぎで、出かける準備をした。
ジュリアンは意外な結末に、ぽかんとしていた。
(断られなかった…)
そして、ばたばたと支度をしているエリザを眺めた。
ジュリアンは、無意識のうちにほのかに嬉しそうにほほ笑んでいた。
大伯母は、そんなジュリアンを見て一人、少しだけ愛情のこもった笑顔を浮かべた。
◇
「じゃあ行ってきます!」
エリザはランプを手に元気よくそう言って、大伯母に留守を頼んだ。
大伯母は「はいはい」というように、片手をあげた。
扉をぱたんとしめ、エリザとジュリアンは並んで歩いて行った。
確かに、いつもより人が多いのか、真っ暗なこの道もランプの灯りで多少明るいように見えた。
ランプや民家の灯りが点々としてきれいだな、とでも言いたげな顔で、エリザは歩いている。
ジュリアンはその間、どうしたらいいのかわからずただ黙っていた。
(何か…話した方がいいのかな?でも別に話すこともないし…)
そのとき、先日男に言われたことが脳裏に浮かんだ。
―――実は彼女とかできたことないだろ?
ジュリアンは、自分がよとぎの相手をするだいぶ年上の女性―――たまに男性―――にたいしてならば、いくらでも喜ばせるすべを知っていた。
それはもちろん、性行為そのものではない。
枕元で囁く言葉、そしてその声色など、どんな態度で、どんな言葉をかければ相手が嬉しいのか、満足するのか…
たいていは、可愛いだのきれいだのと、自分が優しく甘い声をかければ、相手はうっとりして自分に夢中になった。
また、仕立て屋の針子やニーナのような少女も同様であった。
あえて自分から相手が喜ぶような態度をとったことはなかったが、自分の都合やからかい半分で相手の気を引くような言動をとることはたやすかった。
しかしジュリアンは、年上はもちろん、同じ年くらいの少女を、かわいいと思うどころか、興味を持ったことさえもなかった。
それで恋人ができないのは当たり前であるが、ジュリアンにとって、そんなことはどうでもいいことであった。
もし、いつかそういうときがきたら、そのときはなんということもなく、相手を自分のものにできる。
そう、無意識のうちに思っていた。
しかし、今、目の前にいるこの少女は…
この少女が、自分に好意的なのは明らかだった。
しかし、針子やニーナのように色目を使って気を引こうとするのとは、全く違っていた。
自分がどんなにつらく当たっても、どんな悪い商売をしていると知っても、軽蔑せず、自分を尊重してくれる。
自分をいい人だと言ってくれる。
全く下心のない、優しく温かい笑顔を向けてくれる。
今まで、こういう人間に出会ったことがなかった。
だから、彼女にどう接したらいいのか、わからなかったのである。
ふと、ジュリアンは左側にいるエリザを見た。
左手にランプを持ち、右手は空いていた。
―――女の子と手をつないだこともないんじゃないのか
また、娼婦屋の男の言葉がよぎった。
確かに、ジュリアンは女の子と手をつないで道を歩いたことなどなかった。
(だいたい、こんな子と手をつなぎたいなんて思っちゃいないし…)
自分の思考とは裏腹に、なぜか自分の左手に力が入っていた。
しかし、自分のことを異性として興味があるのかそうでないのか判断のつかない相手と、どうして手をつなげるだろうか。
ジュリアンは、拒絶されるのを無意識のうちに恐れていた。
「ジュリアン…」
突然、エリザが話しかけ、ジュリアンはびくっとした。
「ジュリアン…今日は約束を守ってくれて…ありがとう」
エリザの口調は、とても優しかった。
「別に…」
ジュリアンは、どうしてもそっけなくしてしまう。
「今日はとっても大変な目に遭ってしまったのでしょう…それなのに、走ってきてくれて…本当に嬉しかったわ」
「…」
「それに、ジュリアンからこうして誘ってくれるなんて、夢にも思っていなかったわ。なんだか不思議」
「別に…普通だよ」
「あら、そうかしら?僕に構わないでって、前言ってたじゃない。私、嫌われちゃったのかと思ったのよ」
「…」
「そのあとも…私、色々おせっかいなことたくさん言っちゃったし…」
そう言って、エリザは申し訳なさそうな顔をした。
「でも私、ジュリアンが何をやっていても本当に、絶対に、軽蔑したりしないわ!ただ、やっぱりあなたのことが心配なの…」
「…」
「さっきだって、あんなに…。ねえ、今は本当に大丈夫なの?気分悪くない?」
「だから、大丈夫だってば」
ジュリアンは少しあきれた言い方で返した。
「ひどい人がいるのね。人として最低だわ」
エリザは怒ったように話す。
「お金を払うほど、一緒にいたいと思うなら…もっと常識的に接するべきだと思うわ」
エリザは少し興奮気味に語った。
ジュリアンは、面白そうに見ていた。
「私だったら、絶対そんなことしないわ!来てくれてありがとうって、丁重におもてなしするのに」
「えっ?」
エリザの発言に、ジュリアンは一瞬固まった。
そして、興奮していたエリザは我に返って、顔を真っ赤にした。
「違うの!ごめんなさい、そういう意味じゃなくて…私、何言ってるのかしら」
エリザはあたふたと顔を手で覆った。
「だからお前は馬鹿だって言われちゃうのね、本当に、馬鹿みたいだわ」
恥ずかしさのあまり、エリザはぶつぶつと独り言を言って気を紛らわしていた。
ジュリアンは、黙って下を向いた。
―――私だったら…
この言葉を聞いて、ジュリアンは思わずよからぬ想像をしてしまった。
そして身体が熱くなるのがわかった。
(まだ酔ってるんだな…)
そう自分に言い聞かせた。
「わ、私、夜の町って初めてなの!」
エリザは取り繕うように、話題をかえた。
「お店は普通に営業しているのかしら?」
「今日はわからないけど…いつもは結構遅い時間までやってるところが多いよ。食べ物屋とか」
「そうなのね、いいわねえ、一度お店で美味しいご飯を食べてみたいわ」
「え、ないの?」
「ないわよ!そんなお金ないもの。でもいいの、自分でおいしいスープを作れるから」
それを聞いて、ジュリアンは黙ってエリザの方を見た。
「あら、なあに?おいしすぎて、声も出ないってことかしら?」
エリザは不満そうにジュリアンを見たあと、笑顔でこう言った。
「今日ね…本当はあなたのためにとっておきのスープを作ってあったのよ」
「…」
「普段は味がしない、変なスープだけど…今日のは多分、本当においしかったと思うわ」
ジュリアンは下を向いた。
そして改めて、ロジーヌという女を恨んだ。
「違うの、ジュリアンあなたを責めてるんじゃないわ。でも…やっぱりあなたに食べてもらいたかったわ。だって、はりきってお昼から用意していたのよ」
照れるように、エリザは笑った。
「今度…また、食べに来てね」
「…わかったよ」
ジュリアンがそう返事をすると、エリザは頬を赤く染めて、嬉しそうに笑った。
いつのまにか、二人は町の入口の橋の辺りまでたどり着いていた。
「着いた」
「わあ、夜なのにこんなに明るいのねえ!人もいっぱいいるわ!」
「ランプ、僕が持つから」
「いいの?ありがとう!」
そう言って、エリザはジュリアンにランプを渡した。
「優しいのね、ジュリアン」
「何言ってるのさ、馬鹿みたい」
ジュリアンはそっぽを向いた。
エリザはふふ、と微笑み、町の中へと入って行った。
◇
町は、本当に昼のように明るく、いつも人でごった返している昼間よりも、もっとたくさんいるように感じた。
二人は、人にぶつからないよう、すいすいと上手に通り過ぎた。
ほどなくして、市場が並ぶ区域へとたどり着いた。
以前、大伯母やシリルと来たときよりも店の数が多く、どこまでも続いているように見えた。
ランタンなどの灯りがたくさん灯され、市場がきらきらと輝いて、とても美しく感じた。
「すごいわ…」
エリザは思わず息をのんだ。
「行こう、流れについていかないとはぐれるよ」
「あ、ごめんなさい。待ってジュリアン」
エリザは慌てて、ジュリアンの後に着いて行った。
エリザはきょろきょろと、楽しそうに露店を見回す。
「あ、あれとってもおいしそう!」
「あれ、何かしら。おいしそうだわ」
「これおいしいのかしら。初めてみるわ」
「あ、はちみつだわ!やっぱりおいしそうねえ」
ジュリアンは、食べ物にばかり興味を示すエリザにあきれ、思わずこう言った。
「君さ…食べ物にしか興味ないの?他にも色々あるでしょ。アクセサリーとか、ブーケとか」
「あ、そうよね、普通女の子はそうよね。でも、お腹がすいちゃって…」
エリザはお腹に手をあてて、恥ずかしそうに笑った。
ジュリアンは、自分が遅くなったせいで、エリザが夕飯を食いっぱぐれたことに気付いた。
そういえば、自分も今日は何も食べていなかった。
「何か食べたいものあったら…買うけど?」
「え、いいわよ!私、お金持ってないし…」
「だから、僕が買うってば」
「いい!いいわよ、悪いもの…」
「僕もお腹がすいているから、ついでに買うだけだよ」
そう言って、ジュリアンは食べ物を売っている露店を見つけようと、きょろきょろ見渡した。
エリザは申し訳なさそうに黙っている。
「あ、あれにする」
ジュリアンは、パンらしきものを売っている露店を指差して、人をかき分けそこを目指した。
エリザもついて行った。
「いらっしゃい、どうする?」
店の男が話しかける。
「ねえ、どれがいい?」
ジュリアンはエリザに尋ねた。
エリザは困るような態度をしていた。
「わからないわ…」
「じゃあ僕と同じのでいい?」
「いいわ、もちろんよ」
「じゃあ、これ二つ」
何やら文字が書いてあるメニュー表らしきものを、ジュリアンは指差した。
店主は「毎度」と言って、ジュリアンから金を受け取る。
注文の品を作る間、店主はジュリアンに話しかけた。
「なんだいなんだい、お兄さん、可愛い子連れて。うらやましいねえ」
「は?」
「照れるなよ、この色男!」
ぐふふ、と店主は愉快そうに笑った。
ジュリアンはそっぽを向いて苦々しい顔をした。
エリザは黙って微笑んでいる。
「お姉さん、お兄さん王子様みたいにかっこいいねえ。もてるだろ、心配じゃないのかい?」
男は懲りずに、エリザにまで話しかけた。
エリザは困ったように微笑んだ。
「早く作ってよ。後ろがつかえてるよ」
ジュリアンは不機嫌そうに言った。
「はいはい、すいませんね。できましたよお二人さん」
店主は、自分の言動で不機嫌になった客のことなど気にせず、はい、と威勢よくパンを渡した。
「わあ、おいしそう!」
エリザは嬉しそうに受け取った。
パンの中に、肉と野菜らしきものが入った、サンドイッチのようなものであった。
店主は満足そうな顔をしている。
「お兄さん、うまくやれよ!」
店主は去っていくジュリアンに向かって、笑顔で叫んだ。
周りにた人々は、そんな彼らをくすくすと笑って通り過ぎた。
「…」
ジュリアンは聞こえないふりをして黙々とパンをかじりだした。
エリザはパンを持ったまま、すたすたと行ってしまうジュリアンについて行くのがやっとであった。
◇
市場の終わりが見える辺りで、ジュリアンは、エリザがまだ一口もパンに口をつけていないことに気付いた。
「…食べないの?」
「え?うん…ちょっと歩くのに精一杯で」
エリザにそう言われ、ジュリアンはパン屋の店主におちょくられたあたりで、自分の歩く速さが異常に早くなっていたことに、今さらながら気付いた。
ジュリアンは、ばつが悪そうに舌打ちをした。
彼は、エリザと自分が恋人同士だと思われたのが恥ずかしく、照れ隠しのためか無意識で足が早くなっていたのであった。
「…市場から出たら、座るところがあるよ」
「ええ、じゃあそこでゆっくり食べるわ」
そう言って、ジュリアンはようやくエリザの歩幅に合わせた。
長かった市場をすぎても、町はまだ明るかった。
すぐ目の前に、町の中央広場が見える。
中央広場にも、たくさんのランタンが飾られて、いつも以上に華やかな空気に満ちていた。
「まあ、何かやっているみたいね」
エリザは、大道芸をやっている人々を見つけ、楽しそうに眺めた。
「本当に、夜じゃないみたいだわ…夢みたい」
パンを持ったまま、エリザはきらきらと目を輝かせた。
大道芸のほかに、楽器を弾いている者、手品をしている者、人形劇をしている者などがおり、見せ物場と化した中央広場は、市場とはまた違ったにぎやかさを見せていた。
「あそこにベンチがあるよ」
ジュリアンは広場のあちこちに設置してあるベンチを指差し、そこへ向かった。
人が大勢いる中で、たまたま空いていたので運がよかった、と思った。
◇
その頃、町の中央にある仕立て屋では、針子がそわそわしていた。
「女将さん!もう上がっていいでしょ!夜の市が終わっちゃうじゃないの!」
針子は甲高い声をあげて、店主に文句を言った。
「全く、夜の市はまだ逃げやしないよ。まあ、別に忙しくもないからもういいけどさ、お疲れさん」
「やったわ!じゃあ行ってきます!」
「お前、そのままの格好で行くのかい?!エプロンくらいはずしたらどうだ!!」
「今はずしたわ!じゃあね!」
踊るように、針子は店を出て行った。
「全く…若いやつらは、はしゃぎすぎだよ」
はあ、とため息をついて、店主はカウンターに肘をついた。
(夜の市か…店を始めてから、まともに見て回ったことがなかったね)
店主は、ふと若かりし頃の懐かしい思い出にふけった。
(ちょっくら、外の様子でも見てみるか)
店主はよいしょと腰を上げ、店の中を通り、出入口の扉を開けた。
中央広場は、思っていた以上に賑わっており、ランタンのまぶしさに少し圧倒された。
音楽やら、人々の歓声やらが耳に入ってくる。
(こんな小さい町でも、活気があるのはいいことだね)
ふっと笑って、店に戻ろうとしたときであった。
少し離れたところに、見覚えのあるいけ好かない少年が見えた。
(おや、ジュリアンじゃないか…)
美しいジュリアンは、やはり人ごみの中にいても目立つ存在であった。
(あれで態度が良ければもっとよくしてやるのにねえ…損な性格だよ、全く)
はあ、と笑いながらため息をついたとき、隣にいる少女がふと目に入って、店主は目を疑った。
(あれは…エリザ?!)
ジュリアンの隣に、みすぼらしい恰好の優しげな少女が見えて、店主は目が点になった。
エリザとジュリアンが知り合いなのは知っていたが、夜の市に出かけるほど仲がよかっただろうか。
ジュリアンは何かを指差して、エリザを導いている。
エリザは、嬉しそうにジュリアンの後についていった。
(なんだい、いい顔してるじゃないか、ねえ王子様)
店主はふふ、と嬉しそうに笑って、店の中へと入って行った。
◇
二人はベンチに座り、エリザはさっそくパンをほおばった。
そして、びっくりした顔で、口をもぐもぐさせながら、ジュリアンの方を見た。
「なにこれ!とってもおいしいわ!こんなにおいしいものがこの世にあるなんて…」
「大げさだよ。普通だよこんなの。相変わらずだね」
ジュリアンはベンチに寄りかかって、無表情でエリザを見た。
「そうかしら、じゃあ私って今までとんでもなくまずいもので満足していたってことなのね…」
「そうだね、びっくりしたよ、あんな固いパンとあんな味のしないスープがこの世にあるなんてさ」
エリザは口をへの字にしてジュリアンを少しにらみ、黙々とパンを食べ続けた。
ジュリアンはそんなエリザを見て、少し微笑んだ。
エリザはパンを全て食べ終わり、満足そうに笑った。
「ジュリアン、とってもおいしかったわ!ごちそうさま!本当にありがとう!」
「別にいいよ、これくらい」
ジュリアンは、エリザに明るく微笑みかけられると、なぜかまともに顔が見られない。
「あ、そうだ」
ジュリアンはふと何かを思い出し、ポケットからニーナにもらった招待状を出して、エリザに見せた。
「これ、もらったんだけど」
「なあに?」
エリザはカードを覗きこむ。
「ほら、あのニーナって子から」
「へえ…」
エリザはカードをぼんやりと眺めた。
「それで、これはなあに?」
エリザはジュリアンに尋ねた。
ジュリアンは、ニーナが誕生会にエリザも誘ったと聞いていたので、何もわかっていない様子のエリザが不思議であった。
「何って…君も誘われたんだろ、あの子の誕生日会に」
「え?ああ、そのことだったの。ええ、誘われたわ!」
エリザは慌てて答えた。
ジュリアンは訝しげな顔をしている。
「だって、君もこれもらったんだろ?」
「ううん、私はもらってないわ。直接口で聞いたの」
「でも、これ見たらすぐわかるだろ?」
ジュリアンがそう言うと、エリザは少し表情が暗くなった。
「そうね…でも私、字が読めないの。恥ずかしいでしょ、ふふ」
「えっ…」
ジュリアンは思わず小さく叫んだ。
エリザは下を向いている。
「私ね、一度も学校に行ったことがないの。普通は行かないといけないのだけど…お金もないし、おうちのお手伝いが大変だったから」
「僕も学校には行ったことないけど?」
「そう…でも、誰かがあなたに読み書きを教えてくれたんだと思うわ」
そう言われ、ジュリアンは子供の頃を思い出した。
母親に勉強を教えてもらったことがないのは確かであった。
しかし、母親の仕事場の娼婦の中で、字の読み書きができる者が何人かいて、彼女たちに教えてもらっていたことがあったような気がする。
そのおかげで、難しい内容の勉学はしたことはないが、文字くらいは人並みに読めるし、書けるのであった。
「私のおばさんもね、多分あまり得意ではなかったんだと思うわ」
「…」
「でもニーナったら優しいわね。私のことを知っているから、ちゃんと口で言いに来てくれるなんて!」
そう言って、エリザは明るく笑った。
しかし、どこか悲しそうにも見えた。
「ねえジュリアン」
エリザはジュリアンに話しかけた。
「このカード、何て書いてあるのかしら?」
「え…」
「読み方を教えてよ」
エリザは表に書いてある「cher Julien」の文字を指差した。
ジュリアンは少し黙っていたが、口を開いた。
「〈シェル ジュリアン〉…親愛なるジュリアンへ、だって」
「 〈シェル〉…」
「アルファベの読みも知らないの?」
「何にも知らないわ」
エリザは苦々しく笑った。
ジュリアンは、最初の〈c〉の文字を指差して、こう言った。
「これが〈セ〉」
「〈セ〉…」
「〈アシュ〉」
「〈アシュ〉…」
ジュリアンが一つ一つアルファベを読んでいくと、エリザもそれに続いた。
「〈ウ〉、〈エール〉で、cher。わかる?」
「セ、アシュ、ウ、エール、シェル…〈親愛なる〉」
エリザは呪文を唱えるようにカードの単語を読んだ。
「それで、こっちが…」
ジュリアンが自分の名前が書いてある部分を指差したとき、エリザはぐいっと自分の方に身体を寄せた。
その瞬間、ジュリアンは心臓がどきっとなるのがわかった。
エリザの右腕と、右の太ももが自分の体に当たり、そこの部分が熱く感じた。
エリザはというと、真剣なまなざしでカードを間近に見ようとしただけであった。
しかし、エリザの髪から、あの不思議な匂いが漂い感じられると、ジュリアンは何も考えられなくなってしまった。
「こ、これが〈ジ〉…で、これが〈ユ〉…」
「〈ジ〉、〈ユ〉」
「それで……これが……」
ジュリアンが次になかなか進まないことが不思議に思ったのか、エリザはジュリアンの顔をくるりと見上げた。
向かい合った彼らは、これ以上ないほど近距離で、今にもお互いの肌に触れてしまいそうであった。
エリザは、そばかすこそあるものの、くりっとしたかわいらしい二重瞼に薄茶色の瞳、鼻はすっと上を向いて、小さくやわらかそうな唇をしていた。
ランタンの灯りに照らされて、彼女のその唇は、溶けてしまいそうなほどつやつやと輝いていた。
「…」
ジュリアンは、もはやアルファベの読みのことなど頭から消えていた。
灯りで信じられなくらい艶めかしく見えるこの少女の唇を、奪いたくてしかたなかった。
「ジュリアン…」
自分をぼんやり見つめ、甘い吐息をもらす美しいジュリアンを見て、エリザは頬を赤く染めた。
少女らしく恥じらうエリザを見て、ジュリアンはいてもたってもいられなくなった。
(だめ…かわいすぎ…)
ジュリアンは思わず手からカードを離し、その手をエリザの頬に持って行った。
そして、エリザの頬から唇にかけて、手の甲で優しくなぞった。
「ジュリアン…どうしたの…?恥ずかしいわ…」
エリザは蚊の鳴くような声でつぶやき、ますます顔を紅潮させた。
ジュリアンは、そのままの状態で自分の顔を近づけ、エリザに口づけしようとした。
「あっジュリアンが女の子と一緒にいる!!!」
大きな声に二人はびくっとして、その声のする方へ振り向いた。
すると、市場の方から同じ年くらいの少年たちが連れだってこちらへ向かってくるのが見えた。
「おお、ジュリアン!どうした、今日は定休日か?!」
面白がるように、少年の一人がジュリアンに大声で話しかけた。
ジュリアンは嫌そうに舌打ちした。
「まさか、この子が今日のお客ってわけじゃないだろうな?!」
「そんなわけないだろ!!」
ジュリアンは怒鳴った。
エリザはぽかんとした表情で、彼らを見ている。
すると、一人の少年が二人をなだめるように言った。
「まあまあ。でもさ、お前が普通の女の子と一緒にいるなんて、本当に珍しいじゃないか」
「別に、たまたまだよ」
「そうか?なんだか不思議だよ、お前がまともそうな女の子とツーショットなんてさ…」
そういって、ちらっとエリザの方を見た。
すると、後ろにいた少年たちが、ひそひそと耳打ちし出した。
「おい、ちょっと地味すぎないか…」
「ああ、全然可愛くないよな…ジュリアン、こういう子がタイプだったんだな…変なやつ」
「おいお前ら、やめろよ」
先ほどジュリアンをなだめた少年が、慌てて他の少年らをたしなめた。
エリザは、下を向いて黙っている。
ジュリアンは不機嫌そうに少年らを見ている。
「ねえ、君何ていうの?俺、フランク」
彼らをたしなめた少年が、その場を取り繕うようにエリザに尋ねた。
「エリザよ」
「へえ、学校の子じゃないよね?」
「ええ、学校には行ってないの。うらやましいわ、楽しそうで」
「まあね。ねえエリザ、たまに遊びに来なよ。一人くらい学校の者じゃないやつがいたって、気付かれやしないさ」
「ふふ、そうね、楽しそうだから今度行ってみようかしら!」
そう言って、エリザはいつもの明るい笑顔を見せた。
それを見て、少年たちは少しはっとするような表情をした。
「おいお前ら、いつまでここにいるつもりだよ」
突然、後ろの方から不機嫌そうな声が聞こえた。
「おおドミニク、お前こそいつまで露店で食い荒らしてるんだよ」
少年たちはひひひ、と笑った。
前に出てきたドミニクは、ふとジュリアンの存在に気付き、ますます不愉快そうな表情になった。
「ちっなんでお前なんかがここにいるんだよ」
「いちゃ悪いわけ?」
「目ざわりなんだよ、さっさとババアの相手でもしに行けよ」
「ていうか、君こそいつまで男友達というぬるま湯につかってるつもり?」
馬鹿にするように、ジュリアンは笑った。
「ああ、この間の子、結局だめだったんだ。残念だったね、もう少し君の顔がきれいだったら、わからなかったのに」
ジュリアンがそう言い放つと、ドミニクは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あれはお前が邪魔したから失敗したんだろ!!お前さえいなけりゃ、どうにでもなったさ!!」
「おい、ちょっと落ちつけよ」
少年たちは興奮するドミニクをなだめた。
ジュリアンは憎たらしくうすら笑いを浮かべている。
「お前こそ、全然可愛くねえ女なんか連れてさ!いい気になってるんじゃねえよ!」
突然、ドミニクはエリザを指差し、興奮にまかせあまりに失礼なことを言い放った。
エリザはびっくりしたが、すぐに悲しそうな顔になった。
「おいドミニク、お前、今最低なこと言ったぞ」
「落ちつけよ、人が見てるぞ」
少年たちは慌てた。
ドミニクは息を荒らげている。
ジュリアンはドミニクを睨みつけた。
「僕が誰と何をしていようと勝手だろ!」
「うるさい!お前、この間ニーナの誘いを断ったんだってな。泣いてたぜ、あの子可愛いのに、かわいそうだったよ」
エリザははっとした。
「あんな可愛い子差し置いて、こんな汚い変な女と一緒にいる方がいいのかよ!お前頭おかしいんじゃねえのか!」
ドミニクがせせら笑いながらそう言った瞬間、ジュリアンは頭にかっと血がのぼり、怒りが爆発した。
「ふざけんな!!」
そう叫び、自分の拳をドミニクの顔にめり込ませた。
ドミニクはうっとうめき声をあげ、地面によろけた。
「うわあ!ジュリアンがドミニクを殴った!!」
少年たちは大慌てでジュリアンを取り押さえた。
「離せよ!殺してやる!!」
「落ちつけよジュリアン!!ドミニクは本当に落ち込んでたんだ!お前も悪いんだぞ!」
「うるさい!それとこれとは関係ないだろ!!」
ジュリアンは我を忘れてじたばたともがいた。
「いってえ…てめえ、俺を本気で怒らせたらどうなるかわかってるんだろうな?!」
ドミニクはよろりと起き上がり、大きな身体をそらしてジュリアンに殴りかかろうとした。
エリザは思わず目を覆ったが、他の少年らがあと一歩のところでドミニクを押さえつけた。
「離せこの野郎!なんで俺だけ殴られなきゃならねえんだ!!」
二人の少年は、お互いを殴ろうと、必死に取り押さえる少年たちをふりはらおうとしている。
彼らの周りには、子供のけんかを面白そうに見物する野次馬、眉をひそめる婦人、止めに入ろうか迷っている初老の男性などが、どんどん集まっていた。
フランクは、ジュリアンを押さえつけながら、エリザの方を向いてこう言った。
「エリザ!君はもう帰った方がいいよ!君までドミニクに殴られるかもしれないんだから!」
「えっでも…」
「ジュリアンは俺らがなんとか落ち着かせるよ!こいつには、君は俺が帰らせたって、ちゃんと言っておくから」
エリザは荒れ狂うジュリアンを心配そうに見つめた。
そして、決意したようにエリザは言った。
「だめよ!私、ジュリアンを置いて行けないわ!」
そう言って、エリザはベンチに置いてあったランプを掴み、一歩前に出て叫んだ。
「ジュリアン!!!」
その瞬間、ぴたっとジュリアンの動きは止まり、エリザの方を向いた。
「ジュリアン、逃げましょう」
そう言ってすぐ、エリザはジュリアンの腕をがしっと掴み、起き上がらせた。
そして、彼の手を握り、全速力で走りだした。
ドミニクは一瞬の出来事に唖然としたが、すぐに我に返って怒鳴った。
「おい!待てよこら!!逃げんのか!!」
そして去っていく彼らを追いかけた。
少年らは慌ててドミニクを追いかける。
「ドミニク!!もういいだろ!!やめとけよ!」
フランクたちは、ドミニクの肩を掴み、制止した。
「止めるなよ!くそっ」
ドミニクは怒りがおさまらないのか、拳を握り震えていた。
「じゃあなジュリアン!!お疲れさん!!」
「エリザ、またな!」
フランクたちは、ドミニクを抑えながら愛想良く二人に声をかけた。
エリザは走りながら振り返って、笑顔で手を振った。
「さようなら!ありがとう!」
それを見て、フランクは思わずこうつぶやいた。
「なんだ、あの子、かわいいじゃないか」
◇
ジュリアンはエリザに連れられて、一緒に走った。
市場の人ごみの中をすり抜け、ようやく人が少ない町の出入口の橋までたどり着いた。
二人は立ち止まって、ぜいぜいと息を切らした。
「はあはあ、もう追ってこないわよね…」
「はあ、はあ、はあ…」
ジュリアンは苦しくて何もしゃべれない様子であった。
エリザはそんなジュリアンを見て、彼が家に来たときのことを思い出した。
「あ…今日はずっと走りっぱなしだったものね、疲れたでしょう」
「はあ…はあ…別に、大丈夫…」
あまり大丈夫ではなさそうだが、彼は曲げていた腰をのばした。
「…帰りましょうか」
エリザは穏やかに笑って、ランプを帰りの方角に向けた。
ジュリアンは、黙ってうなずいた。
二人はしばらく黙って歩いていた。
この短時間の間に、色々なことがありすぎて、何からしゃべればいいのかわからなかった。
すると、エリザは口を開いた。
「さっきの子たち、あなたのお友達なの?」
「友達のわけないだろ、あんなやつら」
「そうなのね、でも優しい男の子もいたわ、ほら、フランクって子」
「あいつはただ話のわかるやつってだけさ、別に友達というわけじゃないよ」
「ふうん…」
エリザは納得したように、うなずいた。
ジュリアンはエリザをちらりと見た。
ドミニクにひどいことを言われたが、特に気落ちしている様子もなさそうであったので、少しほっとした。
「ねえ、あの大きい子に、ジュリアン、ひどいことしたの?なんだか昔のことを怒ってたみたい」
意外にも、エリザからドミニクの話が出たので、ジュリアンは少々驚いた。
「え…まあ、ちょっとからかってやっただけさ」
「あら、どんなふうに?」
「あいつが、かわいい女の子に声をかけようとしたのを、邪魔してやったのさ」
「あら!ジュリアンそれはひどいわ!!」
エリザはあきれたように叫んだ。
「きっと、彼にとって一世一代の大勝負だったに違いないわ。気の毒に」
「なんだよ、あいつの肩を持つのか」
ジュリアンは少し不機嫌そうに言った。
「違うわ、ジュリアン、彼はあなたとは違うのよ。あなたならまたすぐチャンスは巡ってくるでしょうけど…彼はだめね」
そう言って、エリザはふふふと笑った。
ジュリアンはエリザらしくない発言に、驚いた顔をした。
「君…柄に似あわずひどいこと言うんだね」
「あら、さっきのお返しをしただけよ!」
無邪気に笑うエリザを見て、ジュリアンは思わず頬がゆるみそうになった。
「ねえジュリアン、あなたもあんな風に怒ったりするのね。普通の男の子みたいに」
「普通ってなんだよ」
「だって…あなた、怒鳴ったりしたことはあったけど、あんな風に殴りかかったりするようには見えなかったんだもの。びっくりしたわ!」
「…」
「あなたの新しい部分を発見できたみたい。それに…私をかばってくれたのよね…嬉しかったわ」
そう言って、エリザは微笑んだ。
ジュリアンはそっぽを向いた。
「あと…さっきジュリアンが…」
エリザは少し顔を赤らめて、続けた。
「ジュリアンがアルファベを教えてくれたとき…私、少しどきどきしちゃった」
それを聞いて、ジュリアンの顔は火が出そうなほど真っ赤になった。
ドミニクのことがあってすっかり忘れていたが、自分はエリザに…まだまともに手も触れたこともないエリザに、とんでもないことをしようとしていたのであった。
「…」
「ジュリアン…?」
「まだ酔いが冷めてなかったんだろ…悪かったよ」
「そう、そうよね…びっくりしたわ」
エリザは慌てて笑ってごまかした。
ジュリアンは平静を装ったが、聞こえてしまいそうなくらい鼓動が激しく鳴り響き、どうしようもなかった。
それからしばらく、二人は沈黙した。
民家の灯りがぽつぽつとまたたく様子を、歩きながらただ眺めていた。
◇
エリザたちが家に着いたとき、すでに家の灯りは消え、真っ暗に静まり返っていた。
「おばさん…寝ちゃったのね」
エリザはつぶやいた。
「少し家で休んでいく?」
「いいよ、もう帰る」
「そう…」
エリザは微笑んで、ランプを渡した。
「今日は…本当にありがとう。こんなとこまで送ってくれて…町まで帰るの大変でしょう」
「大丈夫だよ、別に」
「本当にごめんなさい。ドミニクには気をつけてね」
エリザはくすっと笑った。
ジュリアンはそれをぼんやりと見つめる。
「ねえジュリアン、またランプを返しに来てくれるでしょう?」
「ああ、うん」
「次はいつ来てくれる?私、次のお休みは、しあさってなの」
「じゃあその日に行くよ」
「本当に?!」
「ああ、今度はちゃんと昼ごろに行くから」
「嬉しいわ!じゃあ、今度こそ絶対、スープを食べて行ってね!」
エリザは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「あと…ジュリアン、お願いがあるの…」
「なに?」
エリザは遠慮がちに話した。
「また…文字を教えてくれないかしら。ほんの少しでいいの。少しだけでも読めるようになりたいのよ」
それを聞いて、ジュリアンは黙ってうなずいた。
「わあ、ありがとうジュリアン!やっぱりあなた、優しくていい人ね!」
「違うってば…」
ジュリアンはぷいっと目をそらした。
「じゃあ、帰るね」
「うん、さようなら。気をつけてね!」
ジュリアンは、エリザと離れるのが少し名残惜しい気がして、エリザの方を見ながら二、三歩後ろ向きに歩いた。
そして、すぐくるりと背中を向けて歩き出した。
(エリザ…)
ジュリアンは、もう一度後ろを振り向きたい気持ちを抑えて、ただひたすらまっすぐ歩いた。
(あ、誕生日会のこと聞くの忘れた…)
ジュリアンは、エリザがニーナの誕生日パーティに本当に出席するのかどうか聞こうと思っていたが、色々あってすっかり忘れてしまった。
そして、ふと何かに気付いてポケットの中をごそごそと探した。
(あれ、ない…)
ジュリアンは、招待状がいつのまにかなくなっていることに気付いた。
ポケットに手を突っこんだまま、思い出そうとした。
(確か、カードを見ながらあの子にアルファベを教えていて…それで…)
それで、エリザに欲情してそのままどこかにやってしまったのであった。
ジュリアンは、己の不甲斐なさに失望した。
誰もが振り向くような美貌を生まれ持ち、憧れの眼差しを向けられてきたこの自分が、あんな平凡な少女の心を掴むことができないどころか、気の利いた言葉すらかけられないなんて…
ただ、自分の欲望のまま動いたあげく、失敗して終わるなんて…
その上、物まで無くすなんて…
ジュリアンはうつろな目ではあ、とため息をついて、ふらふらと歩いて行くのであった。




