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第8話

ジュリアンは、その日もいつもと同じ時間に起床し、娼婦屋の男に本日の依頼を聞きに出かける準備をした。


母親は、やはり部屋にはいなかった。


ジュリアンは無表情で家を出て、アパートの玄関から外に出る。

すると、女たちの歌声と笑い声がかすかに聞こえた。

ジュリアンは声がする方をふと見やる。


この界隈の一番奥の方にある水汲み場で、女たちが洗濯をしていた。

そのほとんどが、この町の娼婦屋で働く娼婦たちであった。


みな、楽しそうに歌を歌いながらごしごしと衣服を洗っている。


ジュリアンはぷいっとそっぽを向いて、反対側にある娼婦屋へ向かった。






「ジュリアン、今日は珍しく依頼はないぜ」

「えっ」



男はあっさりそう言った。

依頼がない日はあまりないので、ジュリアンは拍子抜けした。


「たまにはいいじゃねえか。いつもがっぽり稼いでるんだろ。今日はゆっくり寝るか、気分転換に散歩でもしにいったらどうだい」

「…」


ジュリアンは黙った。

そういえば、仕事がない日はいつも何をしていたっけ。


「友達でも誘って、たまには少年らしい遊びでもしろよ、な!」


男はがはは、と笑ってジュリアンの肩をぽんと叩いた。


「友達なんかいないよ」


ジュリアンは、ふんと笑った。

ジュリアンには、知り合い程度の人間はいるが、それらは特別友達と言えるほどの仲ではなかった。



「なんだお前、可愛い顔して意外と寂しいやつだなあ」


男はわざと哀れむような顔をして、ジュリアンを見た。


「まあね、いつか本当の友達ができたら、あんたに紹介してやるよ」


ジュリアンはどうとでも言え、と言わんばかりの顔で憎たらしく笑った。











ジュリアンは、とりあえず家に戻ることにした。


(どうしよう…今日は寝て過ごそうかな)


彼はぼんやりと考えながら、なんの気なしに先ほどの水汲み場の方を見た。

相変わらず、女たちが楽しげに洗濯をしていた。


その中で、ジュリアンはひときわ美しい女性を見つけた。



長いまつげ、金色のつややかな髪、白い肌に細い腕。


自分にそっくりな、彼の母親であった。



(こんな早い時間に洗濯なんて…珍しいな…)



ジュリアンは、その若く美しい女性を、じっと見つめる。

素面の彼女はいつになく健康的で、水しぶきから覗く笑顔がさわやかであった。

ジュリアンの母親を見るその表情は、どことなく見惚れているようにも見えた。




「あら、ジュリアンがこっちを見てるわ!」




女たちの一人が、ジュリアンを見つけてそう叫んだ。


「あら、ジュリアン!」

「こっちにいらっしゃいよ!」


ジュリアンははっとして、女たちを睨みつけた。


「もう、ジュリアンったら」


一人がたたた、とジュリアンの方へ走り、彼の腕を掴んだ。

洗濯で濡れた手が冷たい。


「ねえ、たまにはお話でもしましょうよ。久しぶりなんだからさあ」


そう言って、無理やりジュリアンを引っ張って、水汲み場まで連れて行った。


「やだあ、ジュリアン、あまり見ないうちにますます素敵になったわねえ!」

「ほんと、なんだか王子様…いやお姫様みたいよ」

「あたしたち、女なのに形無しだわ!」


女たちは口々に言って、大笑いした。

ジュリアンはうんざりしたような顔をしている。



「ねーえジュリアン…」


その中の一人が、ジュリアンに色っぽく話しかける。


「あんた、身体売って稼いでるんだって?」

「…そうだけど」

「へえ、一日にどれくらい?」


女は、具体的に聞きたがった。

他の女たちも興味津津な顔つきをしている。


「多くて朝昼晩3人、一人につき2~3回くらい」


ジュリアンは躊躇することなく言い放った。

女たちはびっくりして顔を見合わせる。


「ちょっと、あんたそれすごすぎじゃない?!」

「普通じゃないわ!大げさに言ってるだけよ」

「いや、若い子はそのくらい普通よ」

「そうよ!」


女たちは口々に言い合う。

ジュリアンは、ふん、と笑うだけであった。

そして、自分の母親をちらりと見やる。

母親は、聞いているのか聞いていないのか、鼻歌を歌いながら洗濯を続けていた。

ジュリアンは、思わず母親を睨みつけた。


「よくそんなんで、体持つわねえ毎日毎日…男のくせに」


女たちは感心するような、呆れるような表情でつぶやいた。


「ねえ、オーレリア。あんたの息子はすごいわよ」


すると面白がるように、女の一人がジュリアンの母親に話を振った。

ジュリアンは一瞬どきっとして、母親をもう一度見た。


オーレリアは、平然とした顔でこう言った。


「父親に似たんでしょ。この子の父親は、それはもう元気な人でねえ…本当に悩ませられたわ!」


そう言って、彼女は笑った。


「変なとこが似ちゃったわよねえ…。ま、顔が似なくてよかったけど!」


それを聞いて、女たちは大笑いした。


「何よ、その客がほんとに父親だって確信もないくせにさ!」

「この子のそういうところで思い当たるのがそいつくらいなのさ、だから、そいつが父親ってことなのよ、あはは」


オーレリアはおかしそうに笑う。

女たちもつられて、さらに笑った。



それを聞いたジュリアンは、拳をぐっと握り、心の底から湧きあがる感情に耐えていた。

顔は歪み、小刻みに震えていた。


「あんた、よっぽどそういうことが好きなのねえ。そうじゃ無けりゃそんなこと続けられないわよ」

「あたしたちの客も、あんたには真っ青だわ」

「ねえジュリアン、今度あたしたちの相手もしてよ。あんたなら一日で全員いけそうよねえ。あははは!」


それを聞いて、ジュリアンは頭の中で何かが爆発した。




「誰がお前らなんか抱いてやるもんか!全員死ね!」




そう叫んで、彼はアパートの中へ走って行った。


「あらあ、怒らせちゃったのかしら?かわいいわねえ…」


悪びれもせず、女たちはおかしそうに笑う。

オーレリアは、よいしょと立ち上がり、苦しそうに伸びをしてこう言った。



「ああ疲れた。久しぶりの洗濯は、量が多くて大変だわあ」











ばたん、と扉を閉め、どたどたと床を叩きつけるように歩き、ジュリアンは自分のベッドにどさっと倒れ込んだ。

そして右手を目にあて、左手でベッドのシーツをぎゅっと握った。



(どうして…そうやって…)




ジュリアンは歯をくいしばった。


(心配するそぶりすら見せないで…)


右腕を下げて、悲しそうな目で天井を見つめた。





(母さん…)







ジュリアンの母親は、どういういきさつかはわからないが、幼いころからすでにこの町の店で働かされてた。

そして、13歳という若さで客との子を身ごもってしまったのである。


あまりに若すぎる母親は子を持て余し、自分で面倒を見ることはほとんどなく、周りの娼婦に世話してもらうことの方が多かった。

物心ついたジュリアンにとって、一緒に暮らしているこの若く美しい母親は、まるで他人のような存在であった。




それでも母親の気が向くと、ぎゅっと抱きしめてキスしてくれることがあった。

ジュリアンにとって、母親にそうしてもらうことが何よりも大好きであった。





ジュリアンが今の「仕事」を始めたとき、母親は特に言及することなく興味なさそうな返事をしただけであった。

ときどきジュリアンの稼ぎを気にすることはあった。

しかし、彼がふらふらで疲れているとき、夜遅い時間に帰ったとき、心ない客から妙な傷を負わされているのを見つけたときでさえ、同じであった。







(母さん…僕のことを見てよ…)






ジュリアンは、泣きそうな顔をして、天井を見続けた。

すると、昔母が優しく抱きしめてくれたときの感覚がふと蘇った。


柔らかいふくよかな胸がふわふわと心地よく、すべすべの細い腕が自分の背中をぎゅっと締めつける。

そして温かいぬくもりとともに、母親の、香水とは違う、特別な匂いがジュリアンを包み込んだ。



「母さん…」




まるで、母親のぬくもりに包まれるかのように、ジュリアンは安らかな表情で眠りに着いた。





挿絵(By みてみん)











エリザは、まだ暗いうちに起床し、井戸で洗濯を始める。

洗濯が終わると、それらを物干しざおに全て掛ける。


そのあと、火を起こし昨日の残りのスープを温め、ぼそぼそのパンを用意する。

大伯母を起こし、朝食を食べさせる。


そして、ベルガー夫人宅へ行く前に、部屋と庭の掃除をしていくというのが、エリザの毎日の日課であった。




その日も、エリザは少し眠そうな顔つきで、庭の落ち葉や小さな畑に生えた雑草などを取り除いていた。


(眠いわ…あと1時間寝られたら、どんなにいいかしら)


ふああ、とあくびをして掃除を続けた。



「エリザ!」




自分を呼ぶ声のする方を見ると、すぐ目の前に幼馴染のニーナが立っていた。


「エリザ、おはよう!」

「おはようニーナ。いつもこの道を通っていたかしら?」

「ええ、たまにね。気分転換に学校までの道を替えるのよ」

「あら、そうだったの。気付かなかったわ」



これから学校に向かうニーナは、清楚な青いワンピースを着て、髪は少女らしく二つに結び、リボンをつけていた。


(かわいいわね…)


エリザは優しく微笑んだ。


「どう?学校は楽しい?」

「ええ、楽しいわ!勉強はあんまり好きじゃないけど…友達とおしゃべりするのが楽しみなの!」


ニーナは無邪気に笑って、いかにも少女らしく答えた。


「せっかく学校に通っているのだもの、ちゃんとお勉強もしないとだめよ」

「えー…」


頬をふくらませるニーナを見て、エリザはおかしそうに笑った。




「ねえエリザ、そんなことよりね…」


すると突然、ニーナはさきほどの無邪気な雰囲気がなくなり、にやりと妖しく笑った。


「このあいだ、言いそびれてしまったのだけど…ジュリアン・ブルジェのこと…」



エリザは「ジュリアン」と聞いて、どきっとした。


「なあに?」

「ふふ、ジュリアンってね…大人の人相手にいけないことをして、お金をもらっているのですって」


ニーナははしゃぐようにくすくす笑ってそう言った。

エリザは困ったように微笑む。


「ねえ、いけないことって、どんなことかわかる?エリザ」

「…わかるわ…」



すると、ニーナはふと我に返ったようにきょとんとした表情で言った。


「あらエリザ、なんだかあまり驚いてないみたい。私たちと同じくらいの男の子が、娼婦みたいなことをしているのよ?!それも男の子なのに、よ?!」


エリザは少し間を置いて、こう言った。



「だって…この間、本人から聞いたもの」



それを聞いて、ニーナはびっくりした顔をし、飛びかかるようにエリザの肩を掴んだ。


「ええ?!そんなことを本人から聞いたの?!だって、あなたジュリアンと友達なんかじゃないって言ってたじゃない!」

「そうだけど…道端でよく会うのよ。それでお話をするの。あっちはあまり楽しそうじゃないけれどね」


エリザはふふ、と微笑んだ。

ニーナは不服そうな顔をしている。


「あ、そうだわ」


と、エリザは何かを思い出した。


「ずいぶん前だけれど、ジュリアンにあなたのことを話したわ」


それを聞いて、ニーナは思わず「えっ」と叫び、顔が急に赤くなった。


「それで何て言ってた?!」

「あなたとお友達になりたい子がいるのと言ったら、かわいい子か聞かれたの。それで、かわいい子よって言ったら、考えておくよ、ですって」


ニーナは「わあっ!」と嬉しそうに、真っ赤になった顔に両手をあてた。

エリザはその様子を微笑みながら見ている。


「ああ、どうしよう!お友達に自慢しなくっちゃ!」

「今度もし見かけたら、話しかけてみてはどう?」

「うん、そうする!エリザ、ありがとう!じゃあね!」



ニーナは飛び上がる勢いでエリザに手を振り、学校へと急いだ。


(ジュリアンって…本当に人気者なのね…)


エリザは小さくなるニーナを見つめながら、そんなことを思った。


(それなのに、どうしてあんなことしているのかしら…)


先日、自分のことを話すときのジュリアンの顔を、ふと思い出した。

悲しそうな、つらそうな顔をして…叫んでいた。



(ジュリアン…)



エリザは心の中で、何度も彼の名前をつぶやいた。













ジュリアンが目覚めたころ、外は西日が差し、まぶしく辺りを照らしていた。


(あのまま本当に寝ちゃったんだ…)


はあ、とため息をつき、ベッドから起き上がる。

なんとなく、気持ちは憂鬱なままであった。


(夜まで何をすればいいんだろ…)


ジュリアンは考えて、とりあえず外に出ることにした。


(ここにいても暗い気持ちになるだけだし…)


身支度を整え、彼はあてもなく外へと飛び出した。




町は相変わらず活気に満ちている。

食べ物屋のいい匂いがジュリアンの胃袋を刺激したが、彼はそれほど興味を示さず、通り過ぎた。


仕立て屋の前を通るとき、いまだ注文していたシャツを受け取っていないことを思い出した。

ちらりと店を覗くと、若い針子が店番をしている。


(ちっあいつか…)


ジュリアンは自分に対して愛想の悪い女店主も好きではなかったが、この香水臭い針子の方がもっと好かなかった。


(また今度にしよう…)


ジュリアンは諦めて、さらに町の中をさまよう。

まだ明るいが、だんだん空が赤くなっていく。


ジュリアンはただひたすら、人をかき分けて歩いた。

すれ違いざまに、自分のことを振り返って見る人が何人もいた。

ジュリアンはそのことをどうとも思わず、あてもなく一直線に歩くだけであった。



町の入口の、橋の近くまで行ったとき、橋の前で少女達が何人か集まっているのが見えた。

自分より少し年下の、きれいな雰囲気の少女達であった。

明らかに、少女達は自分の方を向いて、何か色めき立ったように見える。

しかし、ジュリアンは特に興味も持たず、すたすたと通り過ぎようとしたときであった。


「あ、あの!」


その中の一人の少女が、緊張した面持ちでこちらに向かい、ジュリアンに話しかけた。

ジュリアンは面倒くさそうに「なに?」と答える。


「ジュ、ジュリアン・ブルジェさん…ですよね?」


少女は上ずった声で、ジュリアンに尋ねた。


「そうだけど?」

「あ、あの、あたし、あたしがニーナです!!」

「え?」


その少女が、まるで自分のことをジュリアンが知っているという前提で自己紹介しているような言い方をしたので、ジュリアンは違和感を覚えた。

他の少女達は、後ろの方で真剣なまなざしを送っている。


「だからなに?」

「え…?」


その少女は、ショックを受けたような表情をした。


「あ、あの、だって…エリザが…」

「エリザ?」


ジュリアンは、エリザの名前を聞いてどきっとした。


「エリザが、私のことをあなたに話したって…言ってたんだもの…」


少女は、しょんぼりした顔で、小さくつぶやいた。


(エリザが…?)


ジュリアンは、今までしてきたエリザとの会話を思い出そうとした。

大した数はしていないのに、何も思い出せない。

思い出せるのは、前日自分が叫びながら話した「仕事」のこと、そしてそれを「素晴らしいことだ」と言われたこと。

それから、不思議な気持ちにさせる、あのエリザの匂いだけだった。



「悪いけど、何のことかわからないから、じゃあね」

「エ、エリザのことは知ってるでしょ?!」

「知ってるけど…?」

「あたしと、お友達になってくれるって、エリザが言ってたわ!」


少女はなおも食い下がった。

ジュリアンは面倒くさかったが、あまりにしつこいのでもう一度思い出そうとしてやった。



(ニーナ…ニーナ…?)




―――ニーナね、あなたとお友達になりたいみたいなの



ふと、エリザが以前「ニーナ」という名前の少女の話をしていたことをうっすらと思い出した。



―――まだ12歳なのだけど、とってもかわいらしい子よ



確か、自分がその子を「かわいいのか」などと尋ねて…彼女は笑顔で「かわいい」と答えたのであった。

その日、確か自分がエリザのことを…かわいくないだのなんだのと、罵った日だったような気がする。

ジュリアンは、改めてそのニーナという少女を見つめた。



確かに、整った顔立ちに、かわいらしいリボンが似合っている

12歳にしては、少しふっくらとしていて、大人っぽさも感じられた。


「ああ…思い出した」


ジュリアンはぼそっと言った後、こう続けた。


「確かに君、かわいいね」



ジュリアンは、そのとき初めて不敵な笑みを漏らした。

ニーナはその瞬間、ぱあっと明るい表情になり、顔を真っ赤にした。

後ろの少女達も、きゃあっと色めきたった。


「ね、ねえジュリアン、今度みんなで一緒に遊ばない?!」


ニーナはどきどきしながら尋ねた。


「遊ぶって?何をするの?」


ジュリアンは、なおも笑みを崩さず問う。


「え、あの、カフェに行ったり、川で水かけっこしたり、それから…」


ニーナはあたふたしながら、遊ぶ内容を考えながら答えた。




そのとき、突然ジュリアンはニーナの首筋に手を添えて、彼女の顔にぐいっと顔を近づけ、耳元でこう囁いた。



「僕にとって『遊ぶ』って、こういうことなんだけどな?」



そう言うと、ジュリアンは手をぱっと離し、「じゃあね」と言って去って行った。

少女達はきゃあっと黄色い声をあげて、ニーナに駆けよった。

ニーナは顔を真っ赤にしたまま、硬直して動かなかった。


「ニーナ!すごいわ!」

「今のなあに?!」

「ニーナ、ジュリアンってもしかして、あなたに気があるんじゃない?!」


幼い少女達にとって、今のジュリアンとニーナの様子が、あまりにも大人びていることのように映って仕方がなかった。

いつまでもいつまでも、きゃあきゃあと興奮気味に語り合った。






そんな様子を、遠くの方から町の少年たちがぼうっと眺めていた。


「ったく、ジュリアンのやつ、あんな小さい女の子たちまで手を出すつもりかよ」

「金にもならないってのにねえ」

「あいつは娼婦の息子だから、そういうことに目がないだけさ、な、ドミニク」


面白がるように、少年たちは口々に言い合った。

話を振られた大柄な少年は、不機嫌そうにこう言った。


「ちっあいつの顔なんか一生見たくなかったのによ」











少女達を上手に振り払って、ジュリアンはまた一人で歩きだした。

ニーナという少女からエリザの名前を聞いたからか、いつのまにか彼の足はエリザの家の方へ向かっていた。


(話すことなんて何もないのに…)


ジュリアンは、頭では自分がエリザの家に向かうことがおかしいことはわかっているのに、足が独りでに動いてきかなかった。



先日自分のやっていることを聞いて、エリザは笑顔で自分を受け入れたように見えた。

しかし、あのあとエリザの考えはかわったのではなかろうか。


ジュリアンの脳裏に、エリザの笑顔が浮かんでは消える。

ジュリアンは、次第に気が重くなっていくのがわかった。



(別にあんな子にどう思われようと、関係ないじゃないか…)



そう思うたび、想像上の冷たいエリザの視線と目が合って、彼の気持ちは無意識のうちに沈んでいった。






そうこうしているうちに、いつのまにかエリザの家が見えるところまで歩いていた。

日はもうだいぶ落ちている。

遠くから、エリザの家の灯りがついているのが見えた。


(多分、いる…)


ジュリアンが恐る恐る近づいてみると、家の前の小さな畑に人影が見えた。

エリザらしき少女が、畑の野菜を引っこ抜こうとしている。


(エリザ…)


ジュリアンは、少し近づいて物陰からそっと様子を見ていた。


エリザは一生懸命根菜を引っ張っているが、根っこが固いのか、なかなか抜けず苦戦していた。

両手で土を払って、もう一度抜こうとするが、一向に抜けない。


(何やってるんだろ…)


ジュリアンはあきれた気持ちで様子を見続けた。


エリザはもう一度、気合いを入れ直してぐいっと引っ張った。

しかしそのはずみで、後ろにころんと転がってしまった。

ジュリアンははっとして、思わず走り寄った。



痛そうに腰をさすりながら、エリザは起き上がり、何気なく前を見ると駆けよってくるジュリアンと目があった。

ジュリアンは、我に返って立ち止まった。



「ジュリアン?!」


「…」



エリザは座り込んだまま、ぱあっと明るい笑顔を見せた。

ジュリアンはどきっとしたのと同時に、なぜか安堵した。



「もしかして、今の見てた?」

「…見てた」

「ふふ、久しぶりに恥ずかしい思いをしたわ!」


エリザは恥ずかしそうに、泥だらけの手で顔を覆った。

顔ははにかみながら、笑っている。


「はあ、今日のスープのお野菜なんだけど、ちっとも抜けなくて。困っちゃうわ」

「他にもあるじゃないか」

「うん、でもね、なんだか今日はこの子がおいしい気がするの。だから今日はこれを絶対食べるわ!」


どうでもいいことにこだわるエリザを見て、ジュリアンはあきれた。


「どの野菜だって同じだよ。仮にこの野菜がおいしかったとしても、君が作るんじゃね…」


ジュリアンは無表情で言いのけた。

エリザは頬を膨らませるような素振りで、言い返す。


「あら、今日は絶対おいしいに決まってるわ!絶対よ!」


そう言って、エリザはまた根菜の葉をつかみ、抜こうとした。


「んっ」


しかし、どうにもこうにも「この子」は頑固であった。


「はあ…だめだわ…そんなに私に料理されるのがいやなの…?」


エリザは悲しそうな声で、野菜に話しかける。




そんなエリザをジュリアンは見かねて、すたすたと歩み寄った。

そして、「どいて」と言ってエリザを押しのけるようにし、自分が根菜の葉を持つ。


「んっ」


と思いっきり力むと、あんなに頑なに引っこ抜かれるのを拒んでいた野菜が、するっと音を立てるように抜けた。

抜けた瞬間、ジュリアンもエリザのようにひっくり返そうになったが、そこはぐっとこらえた。



「すごいわ!さすが男の子ね!」



エリザはわあっと歓声を上げて喜んだ。

ジュリアンはぶっきらぼうに根菜をエリザに渡す。


「ジュリアン、ありがとう。危うく食いっぱぐれるところだったわ」

「何言ってるんだよ、君っていちいち大げさだよね」


エリザはふふ、と笑って根菜を受け取った。

穏やかで、優しい笑顔だった。

ジュリアンは、思わず視線をそらした。




「…」




一連の出来事が終わり、二人は沈黙した。

普段なら、エリザは何かしら自分に話しかけてくるのに、今日はもう何も言わない。

やはり、先日のことを…


(さっきまでの明るい態度は、演技だったのか…?)


そう思うと、ジュリアンの心は急にざわついた。

ちらりとエリザをみやると、エリザは下を向いて手にしている根菜をただ見つめていた。



(何しに来たんだろう、僕は…)




「ジュリアン」




突然、エリザが沈黙を破った。

ジュリアンは思わず「えっ?」と聞き返した。


「今日は…あの…これからどこか行くの?」


エリザは、根菜を見つめながら遠慮がちに尋ねた。

おそらく、これから「仕事」に行くのかどうか、聞いているのであろう。


「…今日はないよ」

「そうだったの」


エリザは微笑んで納得した。

ジュリアンは黙っている。


「じゃあ、今日はお散歩をしていたの?町からだと結構遠いでしょ。あ、それともうちに遊びに来てくれたのかしら?!」


エリザは冗談めかしてジュリアンに尋ねる。


「…そんなわけないだろう」


ジュリアンはぷいっとそっぽを向いて答えた。

「そうよね」と、エリザは微笑んだ。



「今日のジュリアンは、とっても元気みたい。よかったわ」



ふと、エリザは思ってもみなかったことを言った。

ジュリアンは不思議そうな顔をして聞き返す。


「は?何言ってるの?」

「だって…ジュリアン、いつも疲れているんですもの…。ふらふらで、立つのがやっと」

「…」

「私ね、あの…そういうこと全然わからないのだけど…きっとたくさんの人を相手にしたら、きっとすごく疲れることなのよね。ジュリアンが、身体を壊さないか、とっても心配よ」

「そんなことで身体壊すわけないだろ」

「そうなのね、ごめんなさい」



エリザは、少し頬を赤らめながら遠慮がちにほほ笑んだ。

ジュリアンは、エリザのような少女が遠まわしとはいえその手の話をしていることに違和感を覚え、妙な気持ちになった。



「ねえ、ちゃんとご飯食べてる?」

「え?」

「ご飯、いつもどうしてるの?朝昼晩ちゃんと食べてるの?」

「…食べてるよ」


エリザは、ジュリアンの身体のことを気遣っているのか、しつこく尋ねた。



「なんだか君、母親みたいなことを言うね」

「だってあなた、なんだか生活習慣が不規則なんだもの。夜遅い日もたくさんあるんでしょう?あなたのお母様だって、きっと心配してるわ」




それを聞いて、ジュリアンは突然エリザを睨むような目つきをして吐き捨てるように言った。



「あんなのが…僕のこと心配してるわけないだろ」



そうして、彼はふっと悲しそうな顔で、下を向いた。



「…ジュリアン、お母様と何かあったの?」

「別に何もないよ。生まれたときからずっとそうさ。あいつは子供のことを考えたことなんか一度もないんだ」


エリザは、無表情で遠くを見つめているジュリアンを見て、少し戸惑った。

そして、ジュリアンに話しかける。


「お母様は、そんな風には思ってないわ。きっとあなたのことを気にかけているはずよ」


ジュリアンはエリザの方を向いて、「はっ」と憎たらしく笑った。


「なんでそんなことがわかるの?」


そして自虐的に笑う。


「昔は寂しいと思ったこともあったけど、もうどうでもいいんだよ。自分で生活するすべも知ったしさ。あんたも勝手にやってって感じ」


そんなジュリアンをエリザは黙って見つめた。

そしてこう語りかけた。


「ジュリアン、お母様と一緒に住んでいるの?」


ジュリアンは不思議そうな顔をして答える。


「そうだけど?」


すると、エリザは静かに話しだした。





「私のお母さんね…私を捨てたんですって」





ジュリアンははっとして、エリザの方を見た。

そういえば、エリザは両親とではなく年老いた「おばさん」と二人暮しであった。

ジュリアンはそのことを、特に気にもとめていなかった。



「お父さんのことは知らない。でも、お母さんは私が生まれてすぐに、私のおばあさんの家に置いたまま、消えてしまったそうよ」


エリザは淡々と語る。

ジュリアンは黙って聞いていた。


「そのおばあさんも、すぐに亡くなってしまって…姉である今の大伯母さんが私を引き取ったの。だから、私はおばさんとの記憶しかないわ」


エリザは特に悲しそうな顔をするでもなく、平然とした態度で過去を語った。

ただ、ジュリアンの方を見ることも、いつもの笑顔を見せることもなく、遠くを見つめながら口だけを動かしていた。



「おばさんにね、小さいころから聞かされていたの。お前の母親はお前を捨てたって。いらないから捨てたって。子供心に悲しかったわ。おばさんはただ真実を教えてくれただけなのだけど」


そう言って、エリザはほんの少し苦笑いを浮かべた。

ジュリアンは少しほっとした。



「だけどね、そう思い続けていると、自分がただただつらくなるだけだし、絶対に幸せになれないと思ったの。おばさんのことも嫌いになってしまいそうだった。昔はもっと怖かったからね」


エリザはふふっと笑う。


「だから私、お母さんはきっとこの世界のどこかで、私をいつも見守っていてくれるんだって、思うことにしたの」


エリザはジュリアンの方を向いた。




「気休めでしかないのよ。わかってるわ。だけど、そう思うしかないの、心穏やかでいるためには」




そう言うとエリザは、初めて悲しそうな顔になった。

それを見て、ジュリアンはなぜか心がずきっと痛んだ。


「…」


ジュリアンは思わず、エリザの方に一歩歩み寄った。

エリザは、自分より少し背の高いジュリアンを見上げた。




「だからねジュリアン」



急に名前を呼ばれ、ジュリアンはびくっとした。

エリザはいつのまにか、いつもの穏やかな表情になっていた。


「あなたのお母さんは、少し冷たいかもしれないけど、あなたを見捨てずにずっと一緒にいてくれたのよ。態度に出さないだけで、きっと心のどこかで、あなたのことを思っているはずだわ」

 

「…」


ジュリアンは黙って下を向いた。

そしてぼそっとつぶやいた。




「あんな…あんな若い娼婦が…僕の何を考えてるって言うの…?」

「え…?」

「ふふ、おかしいだろ?親子そろって妙な職業についててさ。蛙の子は蛙ってやつ?笑っちゃうよね」


ジュリアンは自分自身をあざ笑うかのような口ぶりで話した。

エリザはジュリアンを見つめる。

そして真剣なまなざしをジュリアンに向けて、話しだした。


「お母様がどういう気持ちでお仕事をなさってるかは、わからないわ。でも、ちゃんと誇りをもっていらっしゃるのなら、それはいいと思うの」


それだけ言うと、目を伏せて少し暗い表情になった。


「だけど…あなたはわからないわ…まるで嫌々やっているみたい」


そう言われ、ジュリアンははっとした。


「何言ってるの?お金も儲かるし、あんなこと自分から好きでやらなけりゃできないだろ」


ジュリアンはそう反論した。

すると、エリザは暗い表情のままジュリアンを見て、こう言った。




「でも…でもあなた、全然幸せそうじゃないんだもの」





遠慮がちに、しかしはっきりした口調だった。

ジュリアンは心の中を見透かされたような気持ちになり、思わず叫んだ。



「余計なお世話だよ!人を見た目で判断しないでくれる?!」

「ごめんなさい、ごめんなさいジュリアン!」


エリザは慌てて謝罪した。

ジュリアンは睨みつけるようにエリザを見た。


「好きでやっているのならいいと思うわ…でも…あなたはそんなことしなくても、みんなから愛されているのに…。みんながあなたを受け入れてくれるのに…」



エリザはひとり言のようにつぶやいた。

ジュリアンは、また吐き捨てるように笑った。


「そんなことどうだっていいんだよ。みんなは関係ない、自分が良ければそれでいいのさ。だから余計な口出ししないで!」


ジュリアンは不機嫌そうに語気を荒らげた。

エリザは反省と心配、そして悲しみが混じったような顔をして、彼を見ていた。




「…」




再び、沈黙が始まってしまった。

もうすっかり日も暮れ、家からもれる灯りでかすかにエリザの顔が見える程度であった。




「ジュ、ジュリアン…」


エリザは、恐る恐る話しかけた。

その顔に、いつもの笑顔はなかった。

ジュリアンは自分の機嫌を伺うエリザを見て、ばつが悪くなった。



「今朝ね、幼馴染のニーナに会ったの…前話したことがあったでしょう」


ニーナと聞いて、夕方のことをふと思い出した。

そのことは彼女たちと別れてからすぐ、記憶から放り出されていた。


「ああ、その子なら今日会ったよ。友達になってとかなんとかって…」


ジュリアンがそう言うと、エリザは少しほっとしたような顔をして微笑んだ。


「そうだったの!ニーナ、あなたがお友達になってくれるかもしれないって言ったら、もうとっても喜んでいてね、お友達に自慢するって言ってたわ」

「ふーん…」


ジュリアンはつれない返事をした。


「ねえ、ニーナかわいかったでしょう?どんなお話をしたの?」


エリザはいつもの調子に戻って、無邪気に尋ねた。

ジュリアンはエリザを見ながらこう言った。


「ああ…大人っぽくてかわいかったよ。胸も大きいし」


すると、エリザは笑いながら


「もう、ジュリアンったら何を言っているの?!」


と言っただけであった。


「…」


ジュリアンはつまらなそうな顔をしている。


「それで、ニーナとは何か話した?」

「別に。ただちょっと…」


ジュリアンはそう言って少し間を置き、こう言った。


「からかってキスしてみたら、固まって動かなくなってた」


ジュリアンはうそをついた。

キスをするような振りはしたが、実際は何もしなかった。



エリザはジュリアンのうそを聞いて、ほんの一瞬表情が固まった。

しかしすぐにあははと笑ってこう言った。


「ジュリアンもそんな風にからかったりするのね。ニーナ、すごくびっくりしたと思うわ!」


ジュリアンは黙って聞いている。


「ジュリアン、ニーナはとってもいい子だから、仲良くしてあげてね」


エリザはまるで彼女の姉のように、穏やかな表情でお願いした。

ジュリアンは、その様子がなんとなく気に食わなかった。


「…そんなに僕が、そのニーナって子と仲良くなってほしいの?」


ジュリアンは不機嫌そうに聞いた。

エリザは答える。


「だって、ニーナ、ジュリアンのこと大好きなんだもの。あなたがお友達になってくれたら、きっとあの子は喜ぶわ」

「…」


ジュリアンは不愉快そうな顔でエリザを見て、こう言った。


「あっそ。じゃあ今度デートにでも誘ってみようかな」


エリザは黙って微笑んでいる。

ジュリアンは、次第に苛立ちを覚え、思わず「もう帰る」と言った。

それを聞いたエリザは、突然のことに一瞬悲しそうな顔をして、「えっ」と小さく叫んだ。


「そうよね、もう真っ暗…あ、ちょっと待ってて」


エリザは慌てて家の中へ入っていった。

ジュリアンはエリザがばたんと扉を閉めた後、はあ、とため息をついた。




(本当に、僕何しに来たんだろ…)




エリザと会った日は、どうしてこういつも後味が悪いのだろう。

いつも優しく自分を気遣ってくれるエリザに、どうして悪態をついてしまうのか。





すると、エリザはすぐに戻ってきた。

手には灯りのついたランプが下げられていた。




「ジュリアン、はいこれ」



エリザはジュリアンにランプを渡す。


「え…」

「だって、もうこんなに真っ暗よ。今、おばさんにいつまで話してるんだって怒られちゃったわ」


エリザは笑って話した。


「大丈夫よ、うち、今ランプ二つあるから、返してくれるのはいつでもいいわ。ジュリアンが気が向いたときで」


エリザはふふっと微笑んだ。

ジュリアンはランプを握ったまま、エリザを見つめた。


優しくて、温かい。

このランプの灯りのようなエリザの笑顔に、彼はくぎ付けになった。



「ジュリアン、どうしたの?」


また、ジュリアンの心はどこかに飛んでいたらしく、我にかえるのに時間がかかった。



「…近いうちに返しに行くよ」

「本当?!」


エリザは嬉しそうに答えた。


「私ね、あさって、子守の仕事がお休みなの!だから、その日だったらいつでも私、家にいるわ!」

「ふうん…」

「だから、絶対に来てね!絶対よ!」

「…わかった」


ジュリアンは、そう返事をした。

こんなに素直に受け答えをする自分に、少しだけ驚いていた。



「じゃあ、行くから」

「気をつけてね。待ってるわ!」



エリザはこぼれるような笑顔を見せて、手を振っていた。

ジュリアンは横目でエリザを見ながら、背中を向けて歩き出した。








―――待ってるわ…







帰る道々、エリザの明るい声が、心の中にいつまでも響き渡っていた。

彼にとって毎日がうっ屈としたものであったが、不思議と今は、明日のことを考えるのが嫌ではないような気がした。





ジュリアンは、エリザの笑顔に似たランプの灯りをふと見つめて、かすかにほほ笑みを浮かべていた。

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