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第7話

この日も、エリザはいつものようにベルガー夫人宅で息子シリルの子守をしていた。


といっても、シリルはもう赤ん坊ではないので、朝・昼のご飯の支度をするほかに、シリルが火遊びなどしないよう見張っていることが、主な仕事なのであった。

よって、シリルが大人しくおもちゃなどで遊んでいるときは、エリザは特にすることもないので、今は大伯母のためのショールを編むことに勤しんでいる。


料理の腕もそうだが、エリザはあまり手が器用な方ではなかった。

だいぶ進んではいるが、どうも店で売っている品のようにはいかない。



「ねえシリル、これなんだと思う?」

「…わかんない」



シリルは無表情でそう答えると、またおもちゃで遊びだした。

エリザは小さなシリルにそっけなくされて、悲しい気持ちになった。



「…」




エリザは編むのをやめ、テーブルの上に編みかけのショールを置き、たった今自分を邪険にしたシリルをぼんやりと見た。

そして、先日ジュリアンに言われたことを思い出した。



―――悪いけど僕、君に全然興味ないから。これ以上構わないでくれる?




(私…彼にとって、きっとうっとおしい存在だったのだわ。無理やりおうちに招いたり、追いかけて同伴の女性のことを問いただしたり…せっかくランプを持ってきてくれたのに、悪いことをしてしまったわ)




エリザはため息をついた。


(あのあと、どこへ行く予定だったのかしら…あんなにふらふらで…疲れていたのに)



エリザは、急に倒れ込み、自分の腕の中でじっと動かなかったジュリアンを思い出した。

そして、自分の胸の中に彼の熱い吐息が吹きかけられたこともまた、思い返された。


(ジュリアン…なんだか変だったわ)



エリザは、ジュリアンの吐息の余韻を今も胸に感じ、鼓動が少し早くなった。





「おかあさん、おかえりー!!」




その声にはっとし、エリザは扉の方を見た。

すると、ベルガー夫人が中へ入ってきた。


「おかえりなさい、ベルガーさん」

「ただいまエリザ、今日も悪かったわね」

「いいえ、今日は早いんですね」

「ええ、よかったわ本当に。エリザにも迷惑かけずに済むし」

「いいえ、そんなことはありませんわ」


エリザは笑って、帰る準備をした。


「エリザ帰っちゃうのー?」


シリルはつまらなそうに、エリザを見た。


「なによシリル。さっきはエリザのこと知らんぷりしたくせに」

「えー?」


シリルは何のことだかさっぱり覚えておらず、エリザに文句を言われしょんぼりした。


「けんかはやめなさい。エリザったら」


大人げないエリザを夫人は面白がるように笑い、シリルの頭を撫でた。



「そうだわ…あの、エリザ」



帰ろうとしたエリザを、ベルガー夫人は引きとめた。


「明日のことなんだけれど…」


夫人は少し躊躇するように話をした。


「はい?」

「申し訳ないんだけれど、夕方頃、シリルを連れてエリザのおうちで預かって頂けないかしら…」

「え?」

「もちろん、夕食代と夜のお代金は出すわ。夜、時間までに必ず私の方から迎えに行くから…」

「いいですけれど…どうして?」

「ああいえ、あの…その日私の仕事が終わってから、近所のご婦人方とちょっとした会合でもと思って、お呼びしているの。小さい子がいると、ほら…」


夫人は口ごもった。

エリザは、シリルのような大人しい子なら問題なさそうなのに、と思ったが「はい、わかりました」と笑顔で了承した。



「ああ、助かったわ!エリザ、ありがとう!」


夫人は嬉しそうに、エリザの手をとった。


「私の方から、必ず迎えに行くから、それまで待っててちょうだいね」


夫人はエリザに念を押すように、そう告げた。










エリザは帰宅し、夕食の準備をして、大伯母を席に着かせた。


相変わらずおいしくなさそうなスープとパンを黙々と食べるエリザに、大伯母はぼそりと話しかけた。



「お前、最近ジュリアンの話をしないね」



エリザはふとスプーンを動かすのをやめ、大伯母の顔を見た。


「だって最近全然会ってないんだもの。話すことなんてないわ」


そう言って、再びスープをすすり始めた。


「ああそうかい」


大伯母はいつも通りそっけない返事をし、自分も食事を再開した。



「あ、おばさん」



エリザは何かを思い出したように、もう一度大伯母の顔を見た。


「大切なことを言うのを忘れていたわ。明日、夕方頃ベルガーさんのお宅のシリルがうちに来ることになったわ」


「ええ?!」


大伯母はあからさまに嫌そうな顔をした。


「なんでも、奥さん、夜から用事があるのですって」

「夜から用事って、なんだい」

「ベルガーさんのお宅で、奥様方とお茶会を開くらしいわ」

「夜からお茶会って…どう考えても不自然じゃないか」

「さあ…でも、奥さん働いてるから、その時間しか都合がつかなかったのじゃない?」

「全く、怪しいったらありゃしない。男でも連れ込むつもりに違いないよ」

「そうだったとしても、まあいいじゃない。奥さんに恋人がいたって、ちっともおかしいことではないわ!」


エリザはのんきに笑顔を浮かべて、残りのスープを飲んだ。


「そういうわけで、シリルが来るからよろしくね」

「ああ、あたしには関係のないことだよ」


ふてくされたように大伯母は返事をした。


「あら、シリルは大人しくって、とってもいい子よ。おばさんもきっと気に入るわ」

「あっちはきっと、怖がって泣き出すだろうよ!」


それを聞いて、エリザはおかしそうに笑った。











次の日の朝、エリザは夫人を玄関まで見送った。



「それじゃあエリザ、今日は悪いけど…」

「はい、わかっています」

「日が暮れる頃、出てくれればいいから」

「わかりました」

「それじゃあ、よろしくね」



そう言って、夫人はそそくさと家を出た。



エリザは部屋に戻ると、シリルはおいしくない朝ごはんをもぐもぐとほおばっていた。


「ねえシリル、今日ね、エリザのおうちに行くのよ」

「エリザのー?」

「そうよ、エリザのおうちに行くの、初めてでしょ?」

「うん、はじめてー!」

「エリザのおうちにはね、魔法使いのおばあさんがいるのよ!」

「ええ、こわいー…」

「でも、とっても優しいのよ!こわいけど、とっても優しいの!」

「…?」


シリルは、ぽかんとしてエリザの顔を眺めた。

エリザは、シリルが口元につけている、すりつぶした野菜のかけらを指ですくい取り、優しく微笑んだ。











西日がまぶしくなり始めたころ、エリザは椅子にもたれかかって、腰をのばした。


(ああ、もう疲れたわ…私ってなんでこんなに不器用なのかしら)


思うようにいかないショール編みに嫌気がさし、ふとシリルの方を見る。

すると、シリルは遊んでいたおもちゃを持ったまま、床に寝そべって寝息を立てていた。


「シリル…寝ちゃったの…?」


エリザは椅子から降りて、シリルを揺り起こす。

しかし、目をごしごしとこすったと思ったら、すぐにまた眠ってしまった。



(困ったわ…もうすぐ出かけないといけないのに)



とりあえず、エリザは自分だけ帰宅する支度をした。

そして、シリルを抱きソファの上に寝かせて、横に座った。


「シリル、起きて…」


ぽんぽん、と肩を叩いてみるが、起きる気配はない。

エリザはため息をついて、窓から外を見た。


日はまだ明るいが、空が赤く染まっている。


(奥さんが帰ってくるまで、ここにいてはだめなのかしら…)



しかし、ベルガー夫人が帰って来てしまったら、おそらくシリルはうちを出たがらないだろう。

やはりここは、夫人が戻る前に家を出なければならない、とエリザは思った。



エリザは、今度は少し激しくシリルの肩を揺り動かした。


「ねえ、シリル、お願いだから起きて!エリザのおうちに行きましょう!」


「いやあだあ…」


シリルはわがままな口調でそう答え、また眠ってしまいそうな気配を見せた。


(ああもうだめだわ、おぶっていかないことには…)



エリザは意を決して、シリルをうちまでおぶって出かけることにした。

シリルに無理やり上着を着せて、彼を背負い、自分の荷物を肩にかけて、よいしょと扉を開けた。



空を見上げると、さっきまで赤々と燃えていた空はどこかに消え、もう夕闇がそこまで迫っていた。


(早くしないと、本当に暗くなってしまうわ)


エリザは背中と肩に重たいものを感じながら、足早に田舎道を歩いて行った。














しんと静まり返ったベルガー宅に向かって、こつこつと歩く人影があった。

人影は、ガチャリと扉を開け、真っ暗な部屋の中を見渡す。



「…いいわ」



人影は、外にいる誰かに合図を送るようにし、その人物を中へ招き入れた。

部屋の中に、人影は二つになった。



そして、ひとつ目の人影が手探りでランプに火をともすと、ふわりと部屋に灯りがともり、二つの人影が浮き彫りになった。




「あまり時間がないのだけど、今日は…お願いね」



ベルガー夫人が、顔を赤く染めて相手に話しかける。

そして、そっと寄り添い、灯りの元で口づけを交わした。


「ああ、こんな若い子にこんなことするなんて…私っていけない人間だわ」


招き入れたことを後悔したのか、ベルガー夫人は手で顔を覆い、うつむいた。

すると、相手はそんな夫人の顔を手でそっと上げて、もう一度優しく口づけをする。


「どうしてそんなこと言うの?僕はそんなこと、全然思ってないけど。それに奥さん…すごくきれい」


頼もしいような、けれど甘えるような、不思議な魅力を感じる声で囁いた。


「そう言ってくれると嬉しいわ…」


ベルガー夫人は嬉しそうに笑みを浮かべて、相手の胸に寄り添う。





「でも、あなたの方がきれいだわ、ジュリアン」






少年は、甘く、それでいて不敵な笑みを、その美しい顔に浮かべた。











エリザは部屋の古い時計を見上げた。


もう、約束の時間はとうに過ぎていた。

大伯母は、いつもはとっくにベッドに入っている時間であったが、この日はエリザを気遣ってか、揺り椅子の上でうとうとし始めていた。



(ベルガーさん…遅すぎるわ…)



エリザはシリルをおぶって帰宅し、それから夕飯の支度、朝干していった洗濯物の片づけ等をした後は、ずっとシリルの遊び相手をさせられ、もうくたくたになっていた。

ベルガー夫人を心配しつつも、エリザは大伯母と同じく、眠気を催していた。




「エリザー…おかあさんはー…?」




すると、シリルが突然不安そうな声でエリザに話しかけた。

エリザははっと目が覚めて、こう言った。


「お母さまはね、もうすぐ帰っていらっしゃるわよ。シリル、もう少しここで待っていましょうね」

「ぼく、おうち帰りたい…おかあさんのとこ行きたい…」


シリルは今にも泣き出しそうな声を出した。


「シリル、大丈夫よ。じきに帰っていらっしゃるわ」



エリザは椅子から下りてシリルに寄り添おうとしたが、もう遅かった。



「ぼく、おうち帰りたい!!うわああん」



小さいシリルは、一度火がついたらもう誰にも止められなかった。

大粒の涙を流して、夜中に大声で叫び出したのであった。



「シリル!すぐ帰ってくるから!ね!」


エリザが一生懸命なだめても、どうにもならなかった。

ただ、おかあさん、おかあさんと泣き叫び続けるだけであった。



「シリル、エリザが楽しいお話をしてあげる!ねえシリル」

「やだ!エリザじゃやだ!おかあさんがいい!!」



そう叫ぶと、シリルは立ちあがって扉のところまで走り、どんどんと叩きだした。


「帰りたい!帰りたいー!!」



顔を真っ赤にし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、扉を叩き続ける。

エリザはそれを見て、途方に暮れてしまった。



「おばさん…どうしよう」



シリルの泣き声で目が覚めた大伯母は、はあ、とため息をついてこう言った。



「エリザ、このまま泣きやまなかったら、もう家まで連れていくしかないんじゃないのかい…」

「…」



エリザとしては、シリルを家まで連れていくこと自体は構わなかった。

しかし、彼女は夫人に「自分が迎えに行くから家で待っていて」と念を押されていたのであった。



「勝手に連れださない方がいいんじゃないかしら…」

「さあねえ…しかしこれじゃどうにも我慢ならないよ、あたしゃ」


エリザと大伯母が話している最中も、休むことなくシリルは泣き叫び続けていたのであった。

さすがのエリザも、あまりのうるささに笑顔が失われつつあった。



「あっちが迎えに来るのが遅すぎるのがいけないんじゃないか。こっちの迷惑も考えずに」


エリザは答えなかったが、こっそり「それもそうだ」と思っていた。

そして、ため息をついて、こう言った。


「…仕方ないわ。シリルをおうちまで送って行くことにするわ。途中奥さんに会うかもしれないし」


エリザは、扉をたたき続けて泣いているシリルをそっと抱きしめた。そして、


「シリル、お母さまのところへ帰りましょうね。だからもう叩くのはやめて?」


と優しく語りかけた。


「ほら、お手々がこんなに真っ赤っ赤。痛いよう、って泣いてるわよ?シリルみたいに」

「お手々、泣いてるのお…?」

「うん、泣いてる。だからもうやめて、お母さまのとこ、行きましょうね」

「うん」



ようやくいつもの素直なシリルに戻って、エリザはほっとした。

そして顔をぬぐってやり、上着を着せ自分も準備をした。


「エリザ、悪いね」

「いいのよ、すぐ戻るわ」

「もう夜中だから、寄り道なんかしないで帰ってくるんだよ。ランプはほら、二つあるから」

「そうね、ランプが二つもあると、おばさんも私も助かるわね」


エリザはおかしそうに笑って、もうひとつのランプに火をともした。




「じゃあ、行ってきます」





エリザはシリルの手をぎゅっと握り、真っ暗な道を歩き出した。













しんと静まり返った夜中の田舎道は、いつも自分が通っている道とは違うもののように感じた。

田畑の中に、民家の灯りが点々としているのを見て、エリザはきれいだなと思った。

昼間はほとんど聞こえない川のせせらぎ音が、どういうわけかとても大きく感じる。



「エリザ、まだあ?」

「うん、もう少しよ。ほら、灯りが見えるでしょ?」



エリザはランプを高く上げて、シリルの家が近くにあることを示した。


「お母さま、きっとシリルのこと待ってるんだわ。さあ行きましょう」

「うん」


エリザはそう言った。しかし心の中では


(まだ家にいるなんて…途中で会うと思っていたのに)


と、訝しげに思っていた。

それと同時に、シリルを連れて帰ったら困らせてしまうかもしれない、という心配もしていた。



二人はてくてくと家を目指し、いよいよ家の扉がはっきり見えるところまできた。



そのとき、その扉ががちゃりと開き、人が出てくるのがわかった。


「おかあさん!」


シリルは突然駆けだし、エリザをぐいっと引っ張る。

エリザは「走らないで!」と言いながら、扉から出てくる人影を見た。


それを見て、エリザは目を疑った。


(えっ…?!)




その人影は、まぎれもなくジュリアンであった。


「シリル、だめ…!!」


エリザは、先を急ごうとするシリルを無理やり止め、口をふさいだ。

そして、シリルの口をふさいだまま近くの木陰に身を隠し、様子を見た。


(どうして?どうしてジュリアンがここに…)


エリザは自分の心臓がとても早く脈打つのがわかった。

この不可解な状況の全てを、早く知りたかった。




ジュリアンが出た後、中からベルガー夫人も外へ出てくる。

ジュリアンはランプを持っているが、ほの明るいだけでここからではよく見えない。

しかし、ベルガー夫人は何やらジュリアンに渡しているようであった。


(何かしら…?)




そして、次の瞬間、ジュリアンとベルガー夫人は恋人同士ように口づけを交わした。

エリザははっとして、シリルの口のみならず目も覆った。

そしてその様子をじっと見つめていた。


ベルガー夫人はジュリアンの腰に手を回し、ジュリアンは夫人の頬に手をあて、撫でるようにしている。


(…)


エリザはただぼうっと二人を眺めているだけであった。


「お母さんはー?」


エリザの口を押さえる手が緩み、自由になったシリルはエリザに問いかけた。

エリザははっとして、


「もう少しここにいましょうね」


と言った。


「早くお母さんのとこ行きたい」

「ダメよ、もう少しだけここにいて」


エリザは口に人さし指をあて、静かにするよう訴えたが、シリルはだだをこね続けた。

そうこうしているうちに、ベルガー夫人とジュリアンが別れ、ジュリアンがこちらに向かって来るのが見えた。


「シリル、お願いほんの少し静かにしていて」


エリザは乞うように小声で訴えた。


「やだ、お母さんとこ行く!」


突然、シリルがエリザを振り払って立ち上がり、走り出そうとした。


「だめっ!!」


エリザは力任せにシリルを掴み、自分の方へ引き寄せた。

しかしそのはずみで、どさっと二人して尻もちをついてしまった。



(しまった…!!)



もうかなり近づいているであろうジュリアンに、ガサガサという音が聞こえてしまったかもしれない。

エリザはそのままの体勢で、ただじっと身をひそめた。

シリルはびっくりして黙っている。



こつこつ、と足音がどんどん遠くなっていくのがわかり、エリザはほっと肩を撫でおろした。

そして、家の方を見るとふっと灯りが消える瞬間を見た。


おそらく、夫人は今からシリルを迎えに出かけようとしているのであろう。



「シリル…行きましょう」



エリザは立ち上がり、シリルの手を引いた。

さっきのはずみでランプの灯が消えたかと思ったが、無事であった。





扉をこんこんと叩くと、中から夫人が現れ、びっくりしたような顔をした。


「エリザ?!どうして…」

「あの…すみません、言いつけどおり待っていようと思っていたのですけど、シリルが帰りたいと聞かなくて…」

「そうだったの…今から迎えに行こうと思っていたのよ」

「ごめんなさい…」

「いいのよ、約束の時間よりずいぶん経ってしまったものね、こちらこそごめんなさい」


エリザは「いいえ」と言いながら、にこりと笑った。

夫人もつられて笑ったが、どことなく挙動不審で、落ち着きがないように見えた。



「エリザ、あの…」

「はい?」

「いいえ、なんでもないわ。遅くまでシリルを本当にありがとう。お茶でも飲んでいかない?」


夫人は何かを言いかけたが、話題を変えた。


「いいえ、大伯母に早く帰ってくるように言われたので、今日は帰ります」

「そう…本当にごめんなさいね、気をつけて」



エリザはシリルの頭を撫で、夫人にお辞儀をして、元来た道を歩き出した。





(…)




エリザは歩く道々、先ほどのことを思い出していた。

ジュリアンは一体何をしていたのか。

ベルガー夫人とジュリアンは恋人同士なのだろうか。

では、先日町で見たあの女性は?


エリザは考えても考えても、わからなかった。



そして、ジュリアンと夫人の口づけをふと思い出した。

エリザは思わず赤くなり、そしてうつむいた。



はあ、とため息をつき、もう一度顔をあげた次の瞬間、エリザは心臓が止まりそうになった。







ランプを持って腕を組み、こちらを睨みつけるように佇む、ジュリアンが待ち構えていたのであった。




挿絵(By みてみん)









ジュリアンは、この日ベルガー夫人と3回ほど交わった。


「私ね…こういうことするの、本当に久しぶりなの。主人は息子が生まれてすぐ死んでしまったから…」

「大丈夫、怖くないよ」


ジュリアンは優しい語り口で、ベルガー夫人をリードした。

最初は、遠慮がちだった夫人だが、久しぶりの快楽の心地よさを思い出したのか、次第にみだらな行為の虜になっていった。

1回や2回では満足できず、3回目を要求したときはさすがにジュリアンもげんなりとなった。


(もう勘弁してほしい、このおばさん)


しかし金を上乗せすることを条件に、ジュリアンは最後まで付き合ってやった。

このせいで、シリルを迎えに行く時間をとうに過ぎてしまったのであった。





「今日は…遅くまでごめんなさい」



帰り際、我に返ったかのように、ベルガー夫人はしおらしい様子で話した。


「本当に、こんなこと忘れていたわ。私、すごく満たされたみたい…」


そう言って、夫人はすべすべの頬を赤らめた。


「必要になったら、いつでも行くよ」

「ええ、ありがとう。あ、これ」


夫人は、たくさん上乗せした代金をジュリアンに渡す。


「ねえ、ジュリアン…」

「なあに?」

「最後にもう一度だけキスして…」


夫人は少女のように瞳をうるませて、ジュリアンにキスをねだった。

ジュリアンは、黙って夫人の頬に手を添えて、要求に応えた。



「じゃあ、またね。おやすみ」




ジュリアンは夫人に笑顔を作り、くるりと向いて歩き出した。

こつこつ、と足音をたてて暗い道を歩いていると、ふと、物陰から声が聞こえた。



「だめっ…」



そしてがさがさっと何かが動くような音がした。



(…?)



しかし、物音はぴたっと止み、何の気配もないように思えた。

ジュリアンは、こんなところでどこぞのカップルが何をしている、と思い、馬鹿にするように笑った。


そしてまたこつこつと歩いて行くが、やはりどうも気になって後ろを振り返った。

すると、物陰からがさがさと出てきたのは、カップルではなくランプを持った髪の長い少女と、幼い子供であった。




(エリザ…!!)




ジュリアンは驚いて立ちつくした。

なぜエリザがこんな時間にここにいるのか。

第一、なぜ物陰から出てくるのか、ジュリアンはわけがわからなかった。



(もしかして、僕たちのこと見てた…?)



エリザと子供の後ろ姿を追うと、ベルガー夫人宅へ向かっているようであった。

ジュリアンは、ベルガー夫人宅がエリザの子守の仕事先だということをすぐ理解した。


(あんなところでこそこそして…)





ジュリアンはエリザの行動が気に食わなかった。

あの様子では、確実にエリザは夫人と自分のことを目撃していたはずである。

おそらく、彼女はこれから夫人に会っても、気を遣って何事もなかったかのように振る舞うつもりであろう。

そして、次自分に会った時も、まるで何も見ていなかったかのように…




(そうやっていい人のふりをして、心の中で僕を軽蔑するんだろ…?)




あんな清い心の少女が、たびたび女性を替えて会っているという事実を知れば、きっと自分を蔑むに違いない。

僕を「いい人」と言ったことを心の中で撤回し、汚いものでも見るような目で僕を見るんだろう。

自分自身は何も言わず、「いい人」のままで―――






ジュリアンはそう思うと、だんだん怒りが込み上げてきた。



あいつが戻ってきたら問い詰めてやる。

そして、本性を暴いてやるんだ。

お前は優しいだけの人間じゃないって…





ジュリアンは、その場でずっとエリザが戻るのを待った。

彼女が戻るのにそう時間はかからなかった。

そして、エリザはひっくり返りそうなほど驚いた顔をして、ジュリアンを見たのであった。






「こんな時間に何してるの?」

「…ちょっと…用事があって」


ジュリアンが思った通り、エリザはぐらかした。


「へえ、そうなんだ。なんだか元気ないじゃない?」

「そんなことないわ」


そう言って、エリザは微笑んだ。


「あなたこそ、こんな遅い時間にこんなところでどうしたの?なんだか待ち伏せしてたみたい」


エリザは苦笑いをして問いかける。

それを聞いて、ジュリアンは募っていた苛立ちが爆発しそうになった。




「君、見てたんだろ?あそこの家で、僕が女の人とキスしてるのをさ」



その瞬間、エリザはびくっとした顔をしたが、こうつぶやいた。



「見てないわ…」



ジュリアンはなおもはぐらかすエリザに詰めよって叫んだ。


「うそだろ!さっき君、子供と一緒に木の陰に隠れていたじゃないか!そのあとあの家に子供を返しに行って…僕が去るのを待ってたんだろ?!」

「…」


エリザは顔をそらす。


「ほらやっぱり。君ってうそつきだったんだね」


ジュリアンはふん、と笑ってエリザに突っかかる。


「だって…見てはいけないことだと思ったんだもの。…ごめんなさい」


エリザは目をそらしたまま、小さな声で謝った。


「ジュリアン、でもどうして?この間の女の人はどうしたの?さっきのベルガーさんとの…その…」


エリザはどんどん声が小さくなり、顔を赤らめた。


「その、何?」


ジュリアンは続きを聞きたがった。


「あ、あなたがさっきベルガーさんとしていたことは、恋人同士がすることだったと思うわ。あなたには、町に恋人がいるのではないの?それとも今の恋人がベルガーさんなの?」


エリザは遠慮がちに、しかし必死な形相でジュリアンに問う。

それを聞いたジュリアンは、あははは、とおかしそうに笑った。



「そうだね、確かに。でも君が町で見た女の人も、さっきの人も、僕の恋人なんかじゃないよ!恋人じゃなくったって、あんなことくらい普通さ」

「え…?」


エリザはわけがわからないという顔をした。


「わからない?僕はね、お金をもらってああいうことをしてるのさ。人肌が恋しくてたまらない人の相手をしてさ、遊んであげるの」

「お金をもらって…?」


エリザはジュリアンの言っていることが理解できず、頭が混乱したような顔をした。


「…本当に君って馬鹿なんだね!ここまで言ってもまだわからないの?!」


ジュリアンは、だんだんと顔がひきつる。


「だから!!」


ジュリアンは苛立ちの限界を超えて、声を荒らげた。



「お金をもらってそいつと寝るんだよ!!お互い裸になって、キスして、普通なら見ることのないところを触ったり舐めたりしてさ!想像できる?!好きでもないやつに誘うような笑顔作って、娼婦みたいに…!!」




ジュリアンは我を忘れたかのように、卑猥な言葉を連発し、叫んだ。

エリザは時が止まったように、ただじっとジュリアンを見つめていた。


ジュリアンははあはあと息を切らし、口を拭った。



「ジュリアン…」

「ふふ、君、僕をどう思う?軽蔑するだろ?町の娼婦みたいなことして、汚いお金稼いでる僕を…いい人だなんてもう言えないだろ?!」




さあ、お前の本性を出せよ…



ジュリアンは挑発的な目をして、うすら笑いを浮かべた。

エリザはうつむき、しばし黙っていた。

しかし、そのあとジュリアンの目をまっすぐ見てこう言った。




「私…あなたがどうしてそんなことをしているのかわからないけど…あなたを軽蔑したりなんか、しないわ」



(…え?!)


ジュリアンは一瞬戸惑った。


「うそはやめてよ。言っとくけど、そんなの通用しないから。それとも、そんなうそついてまで、物わかりの良い、いい人でいたいわけ?」


吐き捨てるように、ジュリアンは笑った。


「そんなんじゃないわ!」


エリザは少し語気を強めて言った。


「あなたがしていることが一般的によくないことだということは知ってるわ。でも、私は…」


ジュリアンはエリザの目をじっと見る。

エリザもまっすぐな瞳でジュリアンを見て、こう言った。


「私は、お金を払ってまであなたを必要としている人がいるのなら、それはどんなことであっても素晴らしいことだと思うわ」

「何言ってるの…?」


すると、エリザは初めていつもの笑顔を見せた。

ジュリアンは思わずどきりとした。


「私ね…あなたの言うとおり世間知らずで…あまり頭もよくないの。だから私の言ってることは間違ってるかもしれないわ。でもね、あなたの話を聞いて、さっきのベルガーさんを思い出したの。そうしたら、ベルガーさん、とっても嬉しそうというか…なんだか心が満たされているような顔をしていたなあって、思ったの」

「…」


エリザは続けた。


「寂しいなあ、悲しいなあ、って思った時、あなたがそばで包み込んでくれたら、きっとその人は温かく、嬉しい気持ちになれると思うわ。『人をよろこばせる仕事』って言う意味、あなたは違う意味で言ったのかもしれないけれど、間違っていないと思うわ!」


エリザは納得したように、明るい笑顔で話した。


「それに、あなた自分の仕事をちゃんと話してはいなかったけど、一回も嘘をついていなかったのよね、私が気付かなかっただけで。やっぱりあなたは正直者だわ!ジュリアン!」





ジュリアンは、エリザの笑顔と、彼女のうそ偽りのない言葉を目の当たりにし、手が小刻みに震えていた。


これは、こんな自分を受け入れてくれたことへの喜びなのか。

それとも、ついに本性を見抜けなかったことへの悔しさから来るものなのか。


いずれにせよ、この震えをどうにも止めることができなかった。



「…君、おかしいよ…偽善的すぎるよ…僕がやっていることを素晴らしいだなんて…おかしすぎる」


ジュリアンは独り言のようにつぶやいた。


「僕に取り入ろうとしてるわけ?なんでも受け入れるふりして…」

「ジュリアン…?」


様子がおかしいジュリアンを、エリザは心配そうに見つめながら近寄った。


「ねえ、ジュリアン私、ちゃんと正直に言ったわ…」

「…」

「ジュリアン震えているわ…大丈夫?」


そう言って、ジュリアンの震える手に、自分の手を添えた。

ジュリアンはびくっとして動かなかった。

エリザの顔は、もうジュリアンのすぐ目の前にあった。

すると、エリザの髪から、覚えのある匂いがふわりと漂った。


エリザの匂い…


ジュリアンは、ぼうっとした顔になり、エリザの目を見つめた。

そして、思わずエリザの髪に手を触れようとしたそのとき、指先の力が緩んで持っていたランプがカシャンと落ちてしまった。


「あっ」


エリザは叫び、すぐランプを拾った。

そしてジュリアンもはっと我に返った。



「火、まだ消えてないわ。奇跡ね」

「…」


エリザは笑いながらジュリアンにランプを返す。

ジュリアンは黙って受け取った。



「ジュリアン…疲れてるのね?」

「そんなんじゃないよ」


ジュリアンは、いつものようにそっけない態度で返事をした。


「じゃ、僕先行くから。君、一人で帰れるんだろ?」

「あ、ジュリアン…」



ジュリアンは真っ暗闇の中、少女を一人残して走り去って行った。




(どうしてあんなことが言えるって言うの…?君は他のやつとは違うとでも…?)




ジュリアンは息を切らし、ただひたすら暗い夜道を走るだけであった。



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