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プロローグ

平穏なカルマン邸に、突如異変が起きた。

それは主であるクロード・カルマンの寝室でのことであった。


知らせを受けた医師らしい風貌の老人が、馬車を降り、足早に屋敷の玄関に向かってくる。



女中のミミは、医師の到着を待ち、寝室へ案内する役を仰せつかっていた。


「ベルモン医師、こちらです」


ミミは医師ベルモンより少し前を歩き、主の寝室へと向かった。

歩きながらミミは、医師の表情をそっと伺う。

重篤患者の元へ向かう医師の表情よろしく、沈痛な面持ちではあったが、どこか訝しげな気持ちを伺わせる表情でもあった。



彼らが寝室の前に到着し、ミミがノックしながら


「旦那様…ベルモン医師が到着なさいました」


と語りかけるや否や、バンッと扉が開き、血相を変えた主カルマンが飛び出してきた。


「早く!早く診てください!先生!」


カルマンに引きずられるように、ベルモンは中へと入っていった。

「ミミ、君はそこにいなさい」

主人は女中に廊下で待っているよう命令し、バタンと扉を閉めた。




結局、寝室の中で何が起こっているのか、聞かされずに終わった。

主は健康であるのに、一体何をしに主治医がわざわざ出向いたのか。

主からはもちろん、女中頭からも、詳しい事情は告げられなかった。







しかし、ミミは寝室で生死をさまよっているのが誰なのか、わかっていた。







主カルマンは、ここ数カ月、真夜中に自ら馬車を走らせ人知れず街へ赴き、ほどなくして邸宅へ戻る、ということをたびたび繰り返していた。


行きはひとつだったはずの影が、帰りは二つになって…


そして日が昇る前に、再び馬車で出かけるのであった。






そう、その馬車に乗っていたのは、主の隠された「恋人」であると…





しかし、妻をめとっていないカルマンが、そこまでして恋人の何を隠す必要があるというのか。


これも、女中たちの間でもっぱらのうわさになっていることだが、その恋人というのが実は男であると…

誰もその姿を見たことはなかったが、40を過ぎても妻をめとらなかった主ならば考えられることであった。





この扉の向こうには、その主の「想い人」とやらがいるのであろうか。

我が主の寝室で、夜な夜ないったい何を…




(けがらわしい…)




ミミは心の中でそうつぶやいた。


(恋人と言ったって、所詮男娼でしょう?)


主の恋人がまっとうな人間ではないことくらい、彼女にもわかっていた。

金で自分を売る―それも男に―男娼という存在を、彼女は肯定することはできなかった。

聡明で美しい主カルマンが、なぜ男娼なんぞにうつつを抜かしているのか、彼女には理解できなかったし、悲しかった。







さまざまな思いが交錯しながら、彼女は閉ざされた扉の向こうをじっと見つめるのであった。











医師ベルモンはカルマンに急かされ、患者が寝かされているベッドへ向かった。

主のための豪奢なベッドに、息も絶え絶えに横たわる…青年。


いや、青年というには少し年をとりすぎているように見えた。


ベルモンは、持参した医療器具をとり出しながら、患者を一瞥した。


さらさらと四方に流れる金髪に、長くカールしたまつ毛。

頬は痩せこけているが、色白で口元は真っ赤に染まっている。

実に女性的で、美しい男であった。


しかし、ベルモンはそんな彼に多少の魅力も感じられなかった。



(この男は…今までどれほど荒んだ生活をしてきたのだろう…)



医師は、初対面のこの男の顔つきを一目見ただけで、彼の歩んできた人生がいかに乱れたものだったかを悟った。


落ちくぼんだ瞼から覗く、空虚な瞳。

そしてそれを取り巻く青黒いくま。

痩せこけた頬からは、今にも頬骨が飛び出しそうであった。



これは病気からだけで来るものではない。

彼が生きてきた、悲惨な人生の証でもあるのである。


(こんな…君のような人間ならば、他にもっと歩むべき人生があったのではないかね?)


ベルモンは、心の中で語りかけ、同情した。


「先生…」


カルマンはすがるように医師をせかした。

ベルモンは、険しい顔をして、こう言った。


「カルマン様、彼は心臓をひどく痛めているようですね…今の医療技術では手の施しようがありません。

 残念ですが、もう長くはないでしょう」


ベルモンは、冷徹ともとれる表情で、実に事務的な、淡々とした口調で話す。


「そんな…」


カルマンは絶望に打ちひしがれた。


その様子を、ベルモンはじっと見つめていた。

そして、今にも死にそうな彼の「恋人」に目を移す。




ベルモンは、心のどこかで男娼という存在を蔑んでいた。




他にいくらでも進むべき道があったはずなのに、なぜ自らけがらわしい世界へ身を落とすことを選んだのか。




真っ当な家柄に生まれ、幼いころから真面目一徹で生きてきた彼には、この男の境遇や心情までを汲んでやることはできなかった。




(君は…今この瞬間まで、何かにひたむきになったことはあるかい。

 人を思いやり、慈しんだことはあるかい。

 ないだろうね、愛を売買する、君のような人間には)




そうこうしているうちに、男の意識はどんどんなくなっていく。

もう間もなくこと切れることが、誰の目からも明白だった。


「ああ…」


どうすることもできないカルマンは、涙を流し恋人に近寄る。


「さあカルマン様、彼の手を握って声をかけてあげてください。

 彼の人生は壮絶だったかもしれないが、最期は愛する人に見送られて、幸せに違いな…」





医師がそう言いかけた瞬間、男の目がかっと見開いた。



ベルモンは驚き、思わず男の視線の先を振り返った。

もちろん、そこには何があるわけでもなく、ただただ重苦しい空気が漂っているだけであった。



そのとき、男の胸元に置いてあった何か固い板のようなものがすとんと落ち、床の上でぱりんと音を立てて割れた。

ベルモンははっとして、真っ二つに割れたそれを見つめた後、何気なく男の顔を覗き込んだ。




「…!!」




ベルモンは男から目が離せなくなっていた。





(これはどういうことだ…)






今、まさに死に向かう寸前の男の顔から、うっすらと優しい笑みがこぼれ落ちていたのであった。






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