背徳の欠片
背徳シリーズ第三弾。
今回は可愛いあいつが主人公です。
背徳的要素含ですのでR15とさせていただきました。
「命は尊い」とか「命は重い」とか、そんな言葉を世間一般では、少なくともこの日本では結構耳にする方だ。だが、僕はたまに思う。それは、一度きりの命だから? いや、少し違うな。それは、二つと同じものがないからではないのか。仮に命がコピーできたとしたら、それはそのような意味での価値を、失ってしまうのではないか。
“青葉町”。それは都会でもなくて、かと言って田舎でもなく、全体的にどんよりとした町だ。僕はその青葉町の郊外、山沿いの高級住宅地にある私立図書館の館長の、次男として生まれた。兄は、僕よりも三分程度早く生まれた。双子の兄は常彦、弟の僕は是彦と名付けられた。一卵性双生児であった僕と常彦は、幼い頃はとてもよく似ていた。好きなおもちゃも、好きな戦隊ヒーローも同じ。周囲の大人が僕らを見分けることはできなかった。それが、とても誇らしいと思っていた。
同時に、常彦は邪魔な存在でもあった。なぜなら、僕らはいつも愛情というものを分け合って生きてゆかなくてはならなかったからだ。兄はいつも、僕よりも少しだけ先に泣き出した。絵本を読んで欲しいとき、ほんの少しだけ先に母に強請って、ほんの少しだけ先に要求を通してしまう。僕たちは、同じ気持ちになることが多かった。そのために僕は兄を真似ているように見えることが嫌だった。
6歳になる頃常彦は、外に遊びに出る数が減り、図書館に入り浸るようになった。僕は外で遊ぶことを好むようになり、僕と常彦は日中別行動することが多かった。だが、その日は珍しく僕は図書館へ行った。捕まえたカブトムシを、常彦にも見せるためだ。そこでその少女に出会った。少女は母親らしき女性に手を引かれて図書館にやって来たのだった。ガラス玉のような両目と、陶磁器のような肌がおおよそ人間には見えないくらいに美しかった。白いワンピースを着たその出で立ちが珍しくて、僕は触れてみたいような、壊してしまいそうな、そんな感情の中で揺れた。
「君、本が好きなの?」
「お母さんが好きなのよ」
話しかけると素っ気なくそう言ったのをよく覚えている。僕は、少女が本に目線を落としたままこちらを見ないことに苛立ちを覚えた。そして、何とかして振り向かせたくて、質問を続けた。
「ねえ、名前はなに?」
「みおり」
その名前の響きが、少女にぴったりだと思った。美織はそれから、絵本の世界に入り込んでしまったらしい。何を聞いても答えてくれなかった。だけど、僕は本を読む美織を見ているだけで十分だった。
次の日も、美織の傍で彼女を見つめていた。彼女は不思議そうに、あなたも本を読まないのと聞いてきた。しかし僕が何も言わずにいると諦めたのか大人しく眺められながら本を読むことにしたらしかった。そんな日々が続いた。
ある日、美織はいつもの様に読んでいた本を閉じ、おもむろにこちらを向いた。そのガラス玉のような両目には、何か言いたげな光が宿っている。僕は彼女の言葉を待っていた。しばらくそのままこちらを見つめると、表情を変えずに唇だけが動いた。
「あなたはニセモノなの?」
「ニセモノ……だって?」
僕がニセモノ? では本物は何だ。常彦のことだ、とすぐにわかった。その途端に、鳩尾を氷が滑るような、そんな痛いような寒いような感覚がした。僕が何も答えられずにいると、背後に気配を感じた。
「あれ、みおりちゃんだ。是彦と遊んでいたの?」
「常彦」
彼女が常彦の名が呼んだ。それはとても衝撃的な出来事だった。僕の名を未だ紡いだことのないその唇から、先に兄の名が呼ばれてしまった。まただ、と思った。いつもそうだ。常彦はいつも僕の先にいた。それは、生まれた瞬間からそうだった。
可憐な少女の唇から紡がれた音は僕の鼓膜を震わせたあと激しい熱となって体内を駆け巡った。心臓は激しく脈打ち、鳩尾がキュッと締まったような痛みを知らせる。僕は自分が病気になってしまったのではないかと思い、怖くなった。顔色の悪い僕を心配した常彦がこちらを覗き込んできた時、僕は常彦を突き飛ばし走り出していた。背後では常彦が何かを叫んでいたが、それも聞こえぬスピートで駆け抜けた。それから僕は、図書館へ足を運ばなくなった。
常彦は、僕が突き飛ばしたことについて言及したり下手に追求してこなかった。人の傷に敏感な兄は自分が弟を傷付けてしまうことが嫌だったのか、僕と一定の距離を置くようになった。僕もまた、サッカーを始めたため兄と関わる時間も少なくなっていった。控えめな常彦に対し、活発でスポーツもできた僕はクラスの人気者へと成長していった。一方常彦は、つも静かに教室の隅にいたように思う。「似てない双子」。僕らは次第にそう呼ばれるようになった。兄へのコンプレックスは次第に薄れていった。同時に、明確な差が出始めた自分たちに激しい違和感も覚えていた。
僕たちは、いつからバラバラになってしまったのだろう。あんなに同じだった見た目は、今では常彦の方が少し大人びて見える。身長だって、常彦の方が3cmだけ高くなった。僕は、いつも置いていかれる方だった。それが寂しくてたまらなかった。
常彦が死んだのは、中学を卒業した春休みのことだ。その頃僕たちは、別々の高校に進学することを選んでいた。常彦は、自宅の図書館の司書となるために隣町の文系大学の進学率の高い高校へ、僕は地元の私立高校へ進学を決めたいた。
その日は珍しく、常彦が図書館以外の場所へ行くと言って僕の自転車を借りに来たことをよく覚えている。雨が降っているのにどこへ向かうのだと尋ねたが、教えてはくれなかった。交通事故だった。左折していた車との、追突事故。動揺した車の持ち主も、ハンドルを切り損ね、電柱に勢いよく衝突した。二人共、即死だったと言う。
警察からの連絡を受けた母は、動揺して動けずにいた。父に支えられ、病院へ向かい常彦の身元確認をした。だけど、僕はどうしてか涙が出てこなかった。悲しくはなかった。ただ、また置いていかれてしまったのかと寂しい思いだけが募った。
それでも、常彦を追いかけることを僕はやめることができなかった。僕は、司書を目指すことにした。高校入学時の選択コースでは文系を選んだ。今までだってそうだ。僕はいつも常彦になりたかった。常彦が本物で、僕はニセモノだった。大人は僕を、いつも「常彦くんの弟」と呼んだ。僕は少しでも常彦に近づきたかった。本物になりたかった。
坂下美織と再会したのは、入学式の時だ。沢山の生徒が整列された椅子に座っているなかに、彼女はいた。ガラス玉のような瞳は、以前よりもうつろに光っていたように思う。だけど、すぐに視界から外すことにした。直視することなどできなかった。彼女を見ると、古傷が痛むような心地がした。だけど、僕と美織は同じクラスになった。僕は、中学からの人望を集め、学級委員長となった。
入学式以降、美織は毎日図書館へ通っているようだった。初めて彼女を見かけたのは、休日の図書館であった。美織には、おおよそ友達と呼べる存在はいないようで、教室の隅で本を読み続ける高校生活を送っていた。その姿が常彦と重なり、僕はいつしか美織のことを気にかけるようになっていった。
「坂下さん」
図書館で美織を見かけるようになって二ヶ月が経過していた。その日はこの地方では珍しく記録的な豪雨だった。確か、台風が不規則な軌道を辿り接近していたのである。美織は雨で少し濡れた髪を気にしながら、ドストエフスキーを読んでいた。常彦がよく読んでいたもので、老いた漁師が巨大魚をとらえるため、何日も海を漂流する話だ。僕はそれまで無関心を決め込んでいたことなど忘れ、美織に話しかけていた。
「あなたは、内田くん」
感情のない声。そのガラス玉は以前のそれとは違った鈍い光を放っていた。
「春からずっと来ているよね」
「なぜ知っているの?」
「ここ、俺んちだし」
ほとんどの同級生は、こんなふうに微笑を浮かべ気さくに話しかければ会話なんて簡単に続いてしまうものだ。美織だってそうだ。そう思っていた。だけど、彼女は途端に言葉に詰まる。
「あ……ぁ……」
「坂下さん?」
目を合わすこともせずに、しばらく視線を漂わせると無言で立ち去ってしまった。何がいけなかった? 僕は、彼女を傷つけてしまったのだろうか。その事実が、再び鳩尾をキュッと締め付けてくる。その鈍い痛みに手を当てながら考える。
美織は僕を覚えていたのだろうか。否、忘れてしまったのだろう。では、常彦は覚えているだろうか? 常彦ならば、彼女を困らせることはなかったのだろうか? 僕は、冷たい氷が、再び鳩尾を滑る感触を思い出した。しかしそれは、以前とちがってさほど痛くはなく、どうすれば改善されるのかを明確に伝えてきた。制服が濡れては面倒なので、私服に着替えバス停へ走る。彼女が利用しているバス停は、自宅である私立図書館前のものであると知っていた。片手には傘。片手にはバスタオル。きっと、傘もささずに走っていってしまったに違いない。
小中、体育の成績は5だったのは、この日のためだったのかもしれない。決して運動など得意ではない彼女の足に追いつくのは容易なことであった。バス停の屋根の下、やはり寒いのだろう、少しだけ透けてしまった制服から除く肌は陶磁器よりも白んで見える。持ってきたバスタオルを背後からかけてやる。後ろに人がいるとは思いもよらなかったのであろう。驚いて、こちらを見てきた。その瞳が怯えていることに、僕は怯んだ。
ああ、兄貴。僕は怖いんだ。また、あの時みたいに彼女に傷つけられたり、僕が彼女を傷つけてしまったりするのが。兄貴は人の気持ちに敏感だったね。僕も兄貴の一部として生まれてこれたなら、ここで彼女に優しい言葉をかけてあげることができたのに。お願いだ、兄貴。今だけ、少し力を貸してくれ――。
「風邪引くといけないと思って。さっきは弟が済まなかったね」
常彦を思い出しながら、話す。へんな緊張もなく、表情もこれまでにないくらいに優しくなれる。まるで、常彦が乗り移ったかのように上手くできた。
「いえ……」
美織の瞳から怯えの色は消えていた。代わりに、何か決心したような表情が現れる。
「あの、これ洗って返しますから」
「うん、待っているよ」
常彦が待ってるんじゃない、待っているのは僕だ。そう言ってしまいたかったが、嘘をついたとわかり、再び彼女に拒絶されるのが怖くて仕方なかった。僕はこのまま、常彦になってしまいたい。そう思った。
その夜、僕は常彦の一部となって生まれた夢を見た。僕と常彦はいつも一緒で、完璧だった。何故だろう、それははじめから僕という人間が存在していない世界だというのに、不思議なほど心地よかった。
あの時以来、僕の中には僅かに常彦が宿ってしまったような気がする。僕は、ほんの少しだけ常彦のように振舞うことがあった。例えばいつもは片付けない朝食の食器を片付けたりだ。それから、
「この前は、ごめん。坂下さん、驚いただろう?」
「いいえ、私も驚いてしまって。ごめんなさい」
美織に話しかけることができた。僕と美織はできる限り登下校を一緒にするようになった。美織は時折、兄を探すような素振りを見せた。図書館にいるとき、必ず大きなカバンを持って来るようになった。きっと、あの時のバスタオルだ。だけど、僕はあの雨の日の真実を伝えられずにいた。
きっかけは、僕と美織があの日図書館で会話をしたことであるらしい。父が、たまたまその場面を目撃していた。ふたりの関係を心配した父から、美織の母が交通事故を起こした自動車の運転手であったという事実を聞かされた。あの事故は、僕の兄だけでなく、美織の母も奪っていた。
僕は、怖かった。あの雨の日の真実を伝えてしまったら。彼女を傷付けてしまうのではないか? 別段、騙すつもりも兄の死を責めるつもりもなかった。あれは、不幸な事故だ。だけど、それをうまく伝えられなければ、また彼女を傷付けてしまうのではないだろうか。
「ちがうだろ」
常彦と同じ声で、僕の喉が鳴った。ちがうだろ、怖いのは僕自身だ。彼女を傷付けて、拒絶されて、自分が傷付くのが怖いんだ。だけど、それでお前は彼女をずっと騙し続けるのか? 彼女はそんなことにも気付けない? いや、彼女はきっといつか気付くはずだ。
その日はあの日と同じくらい、大雨だった。彼女の鞄にはバスタオルが入っている。僕が真実を話さない限り、これから先もずっと常彦を待っている。僕はそれに目を瞑ってきた。今だって、すぐにでも瞑りそうだ。だけど。
「坂下さんってさ、いつも誰探しているの?」
僕は、彼女に尋ねた。こんなやり方は、卑怯だ。これまでの優しさを鎖にして、緩く拘束しているようで。
常彦の真似をすれば、いくらでも優しくできるのだろう。だけど、これが限界だった。今の僕は、常彦になりきることを良しとしなかった。
「兄貴を探してる? 一つ、俺の秘密を話してもいい?」
「俺さ、いや俺ら。そっくりな双子なんだよね。俺が、是彦で兄貴が常彦って言うんだ。そう、坂下が一回遭ったやつ。んで、五歳までずっと一緒でさ。性格とかも、好きな食べ物とか、全部。似すぎてて、母さんくらいしか見分けつかねーの。でもね、兄貴去年死んじゃったんだ」
美織は、常彦の名前と亡くなった経緯を聞くと、すぐに事情を理解したようだった。その瞳に戸惑いと悲嘆の色が浮かぶ。
「そ、んな……だって、あの日遭った。常彦さんに」
「ごめん。俺、悪気はなかった。知らなかったんだ、坂下のお母さんがそうだって。ほら俺、いつも相手に近づきすぎちゃうから。兄貴になったら上手に話せるかなって。そう思ったんだけど」
美織は傷付くのだろうか。もう、僕に笑いかけてくれない? だけど、違った。
「そっか、是彦くんだったんだね」
そう言った彼女は優しく微笑んでいて、僕は自然と口から言葉がこぼれ落ちる。申し訳ない、そう思った。本当に反省している。詫びたかった。嫌われるとか、傷つけるとか、どうでもよかった。
「不謹慎だった。知らなかったとはいえ」
帰り道、美織はポツポツと言葉を選ぶように言った。
「あのね、さっき。相手に近づきすぎるって言ってたやつ。あれ、そんなこと無いと思う。最近、一緒にいるからわかるの。是彦くんは、お兄さんの真似なんかしなくても大丈夫だよ」
その言葉が胸に染み込んだ。彼女はやはり、どこか常彦に似ている。だからなのだろうか、僕はどうしても惹かれてやまないのだった。
「ありがとう」
彼女のその言葉には、色々な意味が込められているように感じられた。
「今度は私の秘密を話すね。もう知っているかもしれないけれど……」
それから事故以来、美織が一人暮らしをしてきたこと、それに引け目を感じてしまうこと、図書館へ通い詰め母親の思い出を探っていたことを話してくれた。
美織が内田家に養子入りし、義姉となることを聞いたのは高校二年生の春休みのことだった。母は、事故で亡くなった坂下詩織という女性に息子と同じ年の娘がいたことを知り、気にかけていたらしい。それが、美織であることを知ると幼少期に常彦と親しかった女の子であることも後押しされ、養子縁組の話が勧められた。
実際、内田家は大きな家であり経済的にも条件はいい。美織が拒否する理由はない。話がまとまってすぐに、美織は内田家へ荷物をまとめてきた。本人が希望したため養子縁組となったあとも、美織の苗字は坂下のままとなった。ここまでが彼女と僕の関係の話だ。
その日、美織は一人で帰ると言った。どうしても手に入れたい本があるのだと。部活はあったが、当然のごとく僕は彼女に付き合うと言った。
「今日は、一人でいいわ」
「冬の18時は案外暗い。もっと 義弟に甘えてよ」
「いいから。私、一人がいいの。一人にして」
それは、初めての拒絶だった。僕が目的地まで同行したり行き帰りを共にすることを、美織は遠慮している。だけど、一度も断ったことなどなかったのに。だけどまあ、確かに。家族になってしばらく時間が経過したので、一人の時間が長かった美織にとっては四六時中義弟がついて回るのもストレスになるのかもしれなかった。
「わかった。気をつけて」
「ええ、ごめ……いいえ、ありがとう」
美織はその日、夜遅くに帰ってきた。ひどく疲れた様子で、顔も少し青ざめている。話しかけると、返事は上の空で曖昧に微笑むだけだった。
「美織、疲れてる? 少し、顔色が悪い」
義姉弟となった僕たちは、互のことを名前で呼び合うようになっていた。
「そうかしら。そうなのかもしれないわ」
美織は、自身の心身の変化に疎い。以前、酷い風邪をひいた時も他者に迷惑とかけまいと空回りしていたように思えた。今回もきっと、何かトラブルに巻き込まれたに違いない。こんな時下手に手を差し伸べると、彼女は一層一人で何とかしようと奔走してしまう。長い間、母子家庭で育ってきたための脅迫観念のようなものだ、と僕は認識している。僕は彼女が自分で解決できるまで見えないところから助けるだけだ。
今日は美織を早く寝かせてやろう。疲労が強い。彼女自身は気がついていないが、美織は疲れやすく、病気になりやすい。先に入浴するように促すと、流石に疲れたのか 義弟に対して遠慮が減ってきたのかは判別できないところであるが、素直に従った。
「是彦、あなたいい加減に一人で眠れるようにならなくては」
翌朝、美織は元気を取り戻したらしい。朝食の席、両親の前で痛いとこを突かれてしまった。僕は常彦がいた頃はいつも同じ布団で寝ていたものだから、一人では寝付きが悪い。自分が疲れている時にまで、それに付き合わされるのは勘弁、そう言いたいのだろう。
「何のことだかわからない」
「……嘘が巧いんだから」
クラスの人気者が学級委員長になると、それは想像以上に忙しい。例えば、一般的な委員会の仕事に加え、部活と遊びに誘われ、放課後の予定は殆ど埋まってしまう。そんな中で、僕は美織との登下校の時間を削りたくはない。何せ美織は危なっかしい。放っておいたほうが面倒だ。と言うのは、彼女の容姿が他人を惹き付ける力を持っているからである。
僕と友達になる前はどうしていたのか尋ねてみると、無言で催涙スプレーを構えられた。
「危険すぎる。君は、危険すぎる!」
もし仮に話かけただけで催涙されたとしたなら、迷惑な話だ。美織よ、そっちのほうがよほど他人に迷惑をかけるのではないか?
「身を守るためだもの。必要なことだわ」
「だけど、今は俺がいる。今すぐ捨てなさい」
「……いつまでも是彦に頼るわけには行かないわ」
そう言われて一昨日のことを思い出す。美織は一人で帰れると言った。彼女なりに、他人と交わることを考え始めているのかも知れなかった。
「そう? 俺は構わないけれど」
僕はそれを、否定も肯定もしない。ただ彼女が決めたことを見守るだけだ。それが義弟としてのあり方だと思っている。僕が彼女に対して抱く感情を悟られてはならない。それは、決して正常とは違うのだから。
「どうしても辛い時は頼ってよ、 義弟に」
だから僕は繰り返す。僕はあなたの義弟であると。害は与えないと。決してあなたを傷付けたりはしない、安全で甘やかな存在であると。
坂下美織に関する噂は、四月に比べるとかなり減っては来たものの、やはり一月に一つほどは耳にする。彼女自身、友達と呼べる存在は僕くらいであるが、それでも彼女に関する噂が多いのは、それだけ彼女が関心を持たれる存在であるということをよく表すと思う(僕と彼女が義姉弟であるという事実は、美織本人の希望で隠蔽されている。もちろん、教師たちは把握しているが生徒のプライベートについて口を出すことを時代が許さない)。
「おい、内田。知っているか? 坂下のことなんだけどさ」
「坂下さんがどうかしたのか?」
多くの噂は、僕の耳に届く頃には、人から人へ伝えられるうち大げさなものへ変化している。そのうちの多くは既知であったり、嘘であるとすぐにわかるものだ。今回もそうなのだろうと思っていた。
「一昨日、男と一緒にいたらしい。それも、40代くらいの。ファミレスにいたらしいんだけど、どうも親子には見えなかったって。だいたい、坂下さんがファミレスにいること自体が変だろ。お前、何か知っているか?」
美織が高級住宅街に住んでいると言う噂は、彼女が内田家にやってくる以前から出回っていた。最も、その時点では全く別の地区にある寂れた小さなアパートに住んでいたのだが、うちの私立図書館に通っていたためにそのように思われたらしかった。そんなことは今はあまり重要ではない。そう、僕が引っかかっているのはそこじゃない。問題は、この噂は信憑性が高いということだ。何故ならば、一昨日――それは、美織が一人で帰った日であるのだから。
「いや、それは知らないな。一昨日は一緒にいなかったし」
「そんなこともあるんだな。内田はてっきり知ってるものかと思ってた。お前ら、仲良いし」
「そうでもないよ」
仲が良い、と言う表現は正しくない。単に僕が美織に付き纏っているに過ぎないからだ。美織はそれを、否定も肯定もしないでただ受け入れている、ただそれだけだ。
「その噂、もう少し詳しく教えてくれないか」
「気になっちゃう感じですか、内田くん。片想いってやつか?」
「知り合いの意外な一面は、誰だって気になるものだ」
噂は名前も覚えていない(仕方ない。僕は美織にしか興味がないのだ)、その男子生徒の彼女が目撃したことが発端らしい。ぴりっとスーツを着こなしたきちんとした見た目の男性で、始終笑顔で話していたが美織の方は俯きがちであったと言う。そして、店を出たところで言い争いのような声が聞こえたのだそうだが、見えたのは美織が逃げ出す姿だけであったと言う。男は追いかけず、その場を立ち去ったらしい。
「なあ、どう思う? 坂下さん、援交でもしてるのかな。あのお嬢様がそんなことしてるって思うと、堪んねえよな」
「彼女はそんな人じゃないよ」
彼女と男の関係などには興味がないが、大方以前の知り合いなのであろう。美織はコミュニケーションができないと逃げ出す癖がある。今回もそれだったのかも知れない。その時はそんなことをぼんやりと思っただけだった。
その日、美織は帰ってこなかった。友人宅に泊まると言ったらしい。学校での様子を知らない両親は、彼女が友人宅に泊まることを信じていた。
「内田くん、ちょっと良い?」
中村という女生徒が話しかけてきたのは、次の日のことであった。美織は、学校を休んでいるようだ。嫌な予感がしていた矢先のことであった。
「私、昨日見ちゃって。坂下さんが変な男に無理やり連れて行かれるところ」
「何故俺に?」
それを聞いたところで、動揺はしない。想定内だ。
「だって、恋人でしょう」
「俺と彼女はそんなんじゃないよ」
「ふうん。でも、ヤバそうな雰囲気だったの。無責任だとは思うけれど、彼女のこと助けてあげてよ。何だか、気味が悪いというか……落ち着かないじゃない」
つまり彼女は目撃した立場として、事件が起きていたら気分が悪いということであろう。なんて無責任なのだろう。だが、人間というものは大して親しくない人間に対しては非情な生き物である。
「俺には無理だ。警察に任せたほうがいい。それに、明日になったら元気に登校してくるかもしれないだろう?」
「そう、だよね。思い違いだといいのだけれど」
僕は嘘をついた。他でもない美織を自分が助けるためだ。これは僕のエゴに過ぎない。取り返しのつかないことになるかも知れない。だけど、彼女が僕の知らないところで痛めつけられているのは我慢ならない。それくらいには彼女に執着している。
内ポケットのあるグレーのパーカーに、ジーンズ。靴は動きやすくコンバース。ポケットにはサバイバルナイフ、一つと日記一冊。もしもの時のために夕食は抜いてきた。│腸と一緒に夕食が出てきたら最悪だ。BGMはマキシマムザホルモン。最高に背徳的な気分だ。とは言え、今日が決戦になるとは限らない。あくまでも今日は現場調査だ。だが、運がよければ出会えるだろう。その時には、僕は覚悟を決めなくてはならない。
中村の情報によると、場所は青葉町の古いコンビニエンスストアの路地裏、そこで連れ去られたならば、案外近所に住んでいるのかもしれない。そう思った。
男がやってきたのは、調査を開始して30分ほど経った頃だ。清潔感のある髪型とスーツ。さしずめ、公務員と言ったところであろう。男が目の前を通り過ぎたところで、フードを深めに被り、背後から一気に近づき声をかける。
「こんばんわ。あの、少しお願いがあります」
そう言ってナイフを男の首筋に当てた。これといった理由はない。ただ、情報を聞き出すだけだ。男は、ゆっくりと両手を顔の横まで上げる。降参のポーズだ。
「お願いという軽さではなさそうですね」
「こちらを見ないで。余計な口は叩かず、質問にだけ答えてください」
ナイフの刃を少し食い込ませると、男は静かになった。フードをかぶっているとは言え、顔を見られるのはまずい。僕は左ポケットにしまっておいた日記を取り出した。
「これは、僕の義姉のものです。この場所に落ちていました。最近、彼女を見かけませんでしたか? 行方不明になっているんです。ちなみに、見た目はこの写真を見てください」
手帳に挟んでおいた美織の写真を見せる。男は黙って数十秒見つめていたが、ふと思い出したような素振りを見せた。
「ああ。見ました。何だか、男と言い争っていて。だけど、私怖くて見つめることしかできませんでしたよ。どこかの家へ連れて行かれたようですが……」
「詳しく聞かせてくださいますか」
「ここで話すのは……公園に行きませんか」
「ええ、構いません。あなたを信用します」
話が通じる相手のようだ。ナイフをしまい、男に着いて人気のない公園へ向かった。時刻は22時、辺りは暗く人の通りもない。
「あれは、そう19時くらいでしたか」
男は状況を淡々と語った。しかし本来の目的はそれではない。この男が犯人ならば、僕の作戦は完遂されたようなものだ。別段確信があったわけではないし、この男がそうであると言う情報はない。だが、この辺りは本来公務員が住むような場所ではない。公務員は、うちの私立図書館周辺に家を建てることが多い。だからこそ、彼の存在は目立った。これもまた、噂から得た情報の中にスーツを着たきちんとした見た目の男だったという情報からだけの推測だ。
「ところで、君は犯人の目星はついているのですか?」
男は状況を説明し終えると、そう尋ねてて来た。僕は、にやりと笑う。
「ええ。実は、誰であるかはわかっています。今日は、証拠をより確実にするために貴方にお尋ねしました」
僕は美織の日記を取り出した。
「この日記にこれが挟まっていたんですよ。なんだか分かりますか? これ、カフスボタンです」
「それが、何か?」
「とてもありふれたものですが、これはきっとオーダーメイドです。その証拠に、ほら。ネームが刻まれているんですよ。それに、これには犯人の指紋も付着していることでしょう。それと、これからわかることは、犯人の男が普段からスーツを着る職業であるということですね。このカフスがオーダーメイドだとするなら、今その男の袖には一つだけカフスがついているのではないでしょうか? まあ、僕は危ないことはしたくないので、警察に届けようと思います。あなたのお陰で色々とわかりましたよ。ええ、確信しています。誰が犯人であるか……」
ニヤリと笑って僕は男に背を向けた。男が追ってくる気配はない。どうやら計算違いだったようだ。今日、僕自身が解決できなければ、時間はないだろう。明日にでも警察に連絡したほうがいい。そう考えていた矢先のことだった。
背後から、背中をを一突きされた。激痛が走る。鉄の塊がメリメリと喰いこむ感触がした。これは、ナイフだろうか? 左胸が焼けるように痛い。これは、肋骨まで貫通しているかもしれない。逃げろ。咄嗟に僕は走りだした。男が追いかけてくる気配がした。止めを刺そうとしているのだろうか。刺された位置から考えても、心臓を狙ったのだろう。血が肺に溜まっているのか、呼吸がしづらい。奥深くまで突き刺されたナイフは簡単には抜けなかったらしく、まだ僕の背中に突き刺さったままだ。大丈夫、こんな状況でも僕は冷静だ。薄れゆく意識を奮い立たせる。足が痙攣している気がするが、今は関係ない。とにかく全力で走った。生き残らなくては。そう思った。
「バカ是彦!!」
真っ白な天井だ。ここは病院なのだろう。それにしても、いきなり怒鳴られるというのは目覚めが悪い。恐らく大量の血液を失ったであろう体には、ちと堪える。
「久しぶりに会って一言目がバカってヒドイな。 義姉さん」
意識が薄れていたとは言え、男は全国レベルのサッカーチームのエースストライカーの足には叶わなかったらしい。僕は何とか街灯のある通りに辿り着くことができた。他人を驚かせたくはなかったが、美織が拐われたコンビニに入ったところで意識を失った。幾分、血を失っていたらしい。
僕の背中に刺さっていたナイフと美織の日記に挟まっていたカフスから、男の正体が判明し、僕の証言によって男は逮捕された。美織は、男の部屋で拘束されているのを無事に保護された。僕の狙い通りというやつだ。
「何故、あなたもあの男に襲われたの? 私のせいなの?」
男の正体は美織の実父であった。その昔、美織の母は酷いDVを受け離婚したのだという。最近母親に似てきた美織を見かけて、声をかけ実娘だと判明すると無理やり連れ去ろうとしたらしい。
問い詰めようとする美織を上手く交わすのは一苦労だった。美織を完全に欺くことはできなさそうである。これから先僕は彼女にずっと嘘をつくこととなるのだろう。だけど、僕は嘘をつく。それは甘やかしであり、僕のエゴだ。
「たまたまさ」
「偶然には思えないけれど。ところで、体は大丈夫なの? 左胸を刺されたと言っていたわ」
貴方が是彦で良かった、母はそう言った。刺された場所は、心臓のど真ん中だった。通常なら、あの状態で走り回ったりしたらもう助からなかったかもしれないという。だが。
「美織、ミラーツインって知っているか」
美織は不思議そうに考えたあと、驚愕の表情だ。そう、僕と常彦はミラーツインだった。これが今回の僕の強みだ。ミラーツインは、希に一卵性双生児に現れる形態の一つ。双子の片方の内蔵が、左右反転の配置で生まれてくるというものだ。つまり、僕の心臓は、左でなく右に存在する。
「なにそれ。知らなかったわ! あなたやっぱり、業とあの男に襲われたでしょう?」
美織が帰ったあと、今回の最大の協力者が訪ねて来た。中村だ。彼女は見舞いのりんごをそれなりにカットすると自分の分と取り分けてくれる。
「全く、驚いた。内田くんがそこまであの子に思い入れしているなんてね」
中村はあのコンビニでアルバイトをしていたのだ。あの日も、シフト中に美織が拐われる場面を目撃していた。
「大事な 義姉だからね」
中村には事前に協力をお願いするかもしれない、そう言ってすべての事情を話したのだった。僕がコンビニに逃げ込んだ時、すぐに通報してくれたのも彼女だ。
「しかし驚いたわよ。予定ではあんなに血を流すはずじゃなかったんでしょう」
「いや、想定内。そんなこと言ったら、中村に止められるだろう」
それでは、僕自身が美織を救うことができなくなってしまう。それは嫌だった。僕は、自分で彼女を助けたかったのだ。
「呆れた。あなた、よほど坂下さんを愛しているのね?」
「愛? そんな簡単なものじゃないさ」
病室の窓から見える、血のような夕焼けが美しい。僕の美織への感情は、最近これに近いものがあると思う。それは、幼い頃から沸々と僕の中で燃え上がってきている。美織が義姉になった頃から、強くなった。きっと、僕はキョウダイというものに強い思い入れがあるのだ。常彦を失った、あの時から。
「もっと自分を大切にしてよ。あなたの命は、一人のものではないのだから」
帰り際に、僕に背を向けた美織が小さく震える声でそう言ったのを思い出す。僕は常彦のニセモノだ。常彦の欠片だ。美織が死ぬくらいならば、僕が傷を負うほうが、幾分いいのだ。そんな心を彼女は見抜いていたのかもしれない。久しぶりに、鳩尾を冷たい感触が滑った。だけどそれは、案外心地よいものだった。
読破ありがとうございました。
一万時を超える作品を一気に書いてしまったのは今回が初めてだと思います。
今回は、是彦の黒い部分が見え隠れしましたね。読者様があっと驚く展開になっているといいと思います。
あと、物語の要旨で双子の秘密なんて書いてしまったのですが、まあ、ミラーツインだったということだけです。
だってあんまり書きたくなかったんだもの!
さて、また会えることを期待しております。
それでは
紗英場 渉