氏之(持隆)の興亡
清和源氏からの開祖
細川家なる者は、足利尊氏公代々の君臣なり。阿波・伊予両国の守護、細川刑部大輔頼春、拝領の頼春四国の大将軍、給うの延元元年、四国へ渡る。阿波国勝瑞に居をす。国を治め、国家安泰、家民繁栄。四国の大将軍、刑部大輔頼春より始まる。細川代々の職勤なり。其の(頼春の)子、細川右馬頭頼春、これ貞治の年、十一月天下の属執事上京、附弟細川讃岐守詮春に譲る。詮春、其の跡を継ぎ、阿波国勝瑞に重ねて居住す。四国の統五官となる。康応元年、四国へ下り剃髪して、法名常久と号す。又従将軍京都被召返(また将軍より京都へ召し返され)、細川武蔵入道常久、執事、還任、常名をもて、其の子細川讃岐守頼元に替わる。此の時より則ち、波細川畠山、以て三管領と為す。明徳三年三月十二日前管領武蔵守細川頼之の入、通常久卒す。行年六十四歳。嵯峨に葬る。将軍家は悼惜す。是れより大将軍の送り給うに依りて之れ。細川頼春同頼之、者四国の大将軍管領の家元祖也。其の子、右馬頭頼元、其の第、右京大夫満元、其の子、右馬頭持元、其の弟、右京大夫持之、其の子、右京大夫勝元也。(細川六祖と云う也)享徳元年、畠山徳本に代わりて細川勝元管領職、勤む。此の時、山名入道宗全と與に勝元合戦給う。勝元戦勝し四海名に顕る。勝元の子、政元、宝徳。(以下、細川澄元、高国、晴元などの名が見える箇所の断片)阿波屋形、義春、次子、為頼、讃岐六郎、澄元と云う。義春の句、波之上、国守……
現代語訳(大意)細川家というものは、足利尊氏公の代々からの重要な家臣(君臣)である。阿波・伊予両国の守護となった細川刑部大輔頼春は、延元元年に「四国の大将軍」に任じられて四国へ渡った。そして阿波国の勝瑞(現在の徳島県藍住町周辺)に居城を構えた。国をよく治めたため、国家は安泰となり、人々は繁栄した。この「四国の大将軍」という地位は、刑部大輔頼春から始まったものであり、細川家が代々その職務を勤めることになった。頼春の子である細川右馬頭(頼之)は、貞治年間の11月に天下の執事(管領)となって京都へ上る際、阿波の地位を弟の細川讃岐守詮春に譲った。詮春はその跡を継いで再び勝瑞に居住し、四国を統括する長官となった。康応元年に四国へ下って出家(剃髪)し、「常久」と号した。その後、将軍(足利義満)によって京都へ呼び戻され、細川武蔵入道常久(頼之)は再び執事(管領)に還任した。その後、職務をその子(家督を継いだ甥)である細川讃岐守頼元に替わった。この時代から、斯波氏・細川氏・畠山氏の三家が「三管領(幕府の最高職を交代で務める名門)」と呼ばれるようになった。明徳3年3月12日、前管領の武蔵守・細川頼之(入道常久)が亡くなった。享年64歳。嵯峨の地に葬られた。将軍家はその死を非常に悲しみ、惜しんだ。これ以降も「大将軍」の称号が送られた。細川頼春と細川頼之の親子こそが、四国の大将軍であり、管領を輩出する細川家の祖(元祖)である。その子(頼元から繋がる系譜)は、右馬頭頼元、その次代の右京大夫満元、その子の右馬頭持元、その弟の右京大夫持之、そしてその子である右京大夫勝元(応仁の乱の東軍総大将)へと続く。(これらを細川六祖と呼ぶ)。享徳元年に、畠山徳本(畠山持国)に代わって細川勝元が管領の職に就いた。この時代に、勝元は山名入道宗全(山名持豊)と合戦(応仁の乱)を行った。勝元はこの戦いに勝利し、その名は天下(四海)に轟いた。勝元の子は政元(宝徳年間~)である。(最後の数行は、戦国時代の阿波細川家と本家の動きに触れています)阿波屋形(阿波守護)の細川義春の次男である頼(澄元)は、のちに讃岐六郎、細川澄元と称した。義春の系譜は、波の上、国守となり……
現代語訳(大意)細川家というものは、足利尊氏公の代々からの重要な家臣(君臣)である。阿波・伊予両国の守護となった細川刑部大輔頼春は、延元元年に「四国の大将軍」に任じられて四国へ渡った。そして阿波国の勝瑞(現在の徳島県藍住町周辺)に居城を構えた。国をよく治めたため、国家は安泰となり、人々は繁栄した。この「四国の大将軍」という地位は、刑部大輔頼春から始まったものであり、細川家が代々その職務を勤めることになった。頼春の子である細川右馬頭(頼之)は、貞治年間の11月に天下の執事(管領)となって京都へ上る際、阿波の地位を弟の細川讃岐守詮春に譲った。詮春はその跡を継いで再び勝瑞に居住し、四国を統括する長官となった。康応元年に四国へ下って出家(剃髪)し、「常久」と号した。その後、将軍(足利義満)によって京都へ呼び戻され、細川武蔵入道常久(頼之)は再び執事(管領)に還任した。その後、職務をその子(家督を継いだ甥)である細川讃岐守頼元に替わった。この時代から、斯波氏・細川氏・畠山氏の三家が「三管領(幕府の最高職を交代で務める名門)」と呼ばれるようになった。明徳3年3月12日、前管領の武蔵守・細川頼之(入道常久)が亡くなった。享年64歳。嵯峨の地に葬られた。将軍家はその死を非常に悲しみ、惜しんだ。これ以降も「大将軍」の称号が送られた。細川頼春と細川頼之の親子こそが、四国の大将軍であり、管領を輩出する細川家の祖(元祖)である。その子(頼元から繋がる系譜)は、右馬頭頼元、その次代の右京大夫満元、その子の右馬頭持元、その弟の右京大夫持之、そしてその子である右京大夫勝元(応仁の乱の東軍総大将)へと続く。(これらを細川六祖と呼ぶ)。享徳元年に、畠山徳本(畠山持国)に代わって細川勝元が管領の職に就いた。この時代に、勝元は山名入道宗全(山名持豊)と合戦(応仁の乱)を行った。勝元はこの戦いに勝利し、その名は天下(四海)に轟いた。勝元の子は政元(宝徳年間~)である。(最後の数行は、戦国時代の阿波細川家と本家の動きに触れています)阿波屋形(阿波守護)の細川義春の次男である頼(澄元)は、のちに讃岐六郎、細川澄元と称した。義春の系譜は、波の上、国守となり……
つづく




