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第四章:2030年9月30日 月曜日 瀬川ユリ

 現実パート

 

 薄曇りの空に、秋の冷たさが少しずつ混じり始めている。街路樹が黄色に色づき始め、軽やかな風がスーツの裾を揺らす。私は胸元のスカーフを整えながら会社へと足を進めた。スーツのシャープなラインはいつものように私を「瀬川ユリ」にする。背筋を伸ばして歩くたびに、社会人としての仮面がしっかりと張り付いていくのを感じる。

 

「また今日も、外見だけで判断されるのかしら……」

 

 心の中でそんな言葉が浮かぶ。朝のガラス扉に映るのは、きっちりとスーツを着こなした「完璧な瀬川ユリ」。どこから見ても非の打ちどころがない。でも、ふとその鏡像に映る自分が、人間ではなく操られる人形のように見えてしまう瞬間がある。

 

 会議室に入り、資料を広げて準備を進める。スーツの生地が体を締めつける感覚が、私の心をさらに窮屈にさせた。取引先との打ち合わせは、私にとって慣れた仕事の一環。問題なく進むだろう。自分の提案が受け入れられるのも、信頼されているのもわかっている。けれど、それが本当に私自身を見ての評価なのかどうかは、わからない。

 

 資料に視線を落としながらも、頭の片隅では週末の穏やかな時間が浮かぶ。カフェで見かけた控えめな彼――「タカヤさん」と沙耶が呼んでいた人の姿が、不意に心に蘇った。

 

 その時、会議室のドアが静かに開いた。顔を上げた瞬間、目に飛び込んできたのは、あの「タカヤさん」だった。

 

「本日はよろしくお願いします」

 

 柔らかな声とともに差し出された名刺には、「宮下タカヤ」と記されている。私は一瞬驚いたものの、それを悟られないように笑顔を作り、名刺を受け取った。

 

「よろしくお願いします。瀬川です」

 

 彼の視線が一瞬だけ私に向けられたが、すぐに逸らされる。そのぎこちなさに、彼の穏やかで控えめな性格が垣間見えるようだった。

 

 胸の奥で何かがざわつく感覚が広がる。資料に目を戻し、気持ちを切り替えようとするが、どうしても彼の姿が気になってしまう。プレゼンを進めながらも、目の端で彼の仕草を追っている自分がいた。

 

「タカコさんに……似てる」

 

 心の中で、そう言葉を呟く。VRの中で出会ったタカコの姿が、タカヤの佇まいと重なり合う。あの繊細で柔らかな声。そして無防備ながらも芯のある優しさ。タカコは私にとって特別な存在だった。VRの中で、私は「ユウキ」としてただの私でいられる。タカコはそんな私を受け入れ、寄り添ってくれる人だった。

 

 けれど、その穏やかさを現実のタカヤに重ねている自分に気づいた瞬間、胸がざわめいた。タカヤがタカコであるはずはない。そんなのはただの幻想だ。でも、彼の控えめな仕草や優しげな表情を見るたびに、どうしてもタカコを思い出してしまう。

 

 休憩時間に、私はタカヤがノートに何かを書き込む姿を無意識に見つめていた。その姿勢の丁寧さや、控えめな動作。それらすべてがタカコを思わせる。「やっぱり、似ている……」と心の中で呟きながら、自分自身に言い聞かせた。

 

「でも、それだけよね。ただの偶然。きっと」

 

 タカヤにタカコの面影を重ねるたび、心が揺れ動く。確かに現実の私は「完璧」であろうとし続けている。でも、VRの中の私――ユウキはそんな必要がなく、ありのままでいられる。タカコと過ごした時間は私にとって逃避ではなく、むしろ「本来の自分」を取り戻せる瞬間だったのではないか。

 

「私は、どうして完璧でいなきゃいけないの?」

 

 自分への問いかけが浮かんだ瞬間、胸に小さな痛みが走った。完璧を作るたびに、完璧を演じるたびに、私は人形になっていく。スーツに縛られ、期待に応え続けるだけの自分に、心は置き去りにされている気がした。

 

 打ち合わせが終わり、タカヤが控えめに一礼する。

 

「本日はありがとうございました」

 

 その柔らかな声と少し伏せた瞳。その瞬間、タカコの笑顔が鮮明に蘇った。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 私は微笑みを返したが、内心では混乱していた。彼の姿とタカコがどこかで繋がっているような気がしてならない。だが、それを確かめることも、口に出すこともできなかった。

 

 帰り道、秋の風が冷たく頬を撫でた。街路樹の葉がカサリと揺れる音が、妙に耳に残る。私は心の中でタカヤの姿とタカコの笑顔を交互に思い浮かべていた。

 

「私は彼に惹かれているの?それとも、彼にタカコさんを重ねているだけ……?」

 

 自問自答する中で、私の心に一つの思いが浮かぶ。

 

「私も、自分を大切にしなきゃいけない」

 

 タカコに伝えた言葉が、そのまま自分への問いかけになって返ってくる。完璧である必要なんてない。ただ、本当の自分でいるためには何をすべきなのだろう。

 

 家に帰りスーツを脱いだ瞬間、体がふっと軽くなった。だけど、その軽さは一時的なものだと分かっている。私は天井を見つめ、またタカヤとタカコの二つの存在が胸の中に浮かび上がった。

 

「次に彼と会った時、私は冷静でいられるだろうか……」

 

 心の奥で、ざわついた何かが、私を揺らしていた。

 

 

 

 VRパート

 

 ログインすると、目の前には秋の草原が広がっていた。青い空の下、そよ風が草を揺らし、穏やかな空気が心を包み込む。この場所に来るたび、現実の重さがふっと軽くなる。私はその風景をしばし眺めてから、仲間たちの声が聞こえる方向へと足を進めた。

 

「タカコさーん!」

 カナの元気な声が遠くから響く。彼女が駆け寄ってくる様子が見え、その明るい笑顔に思わず口元が緩んだ。

 

「こんばんは、カナさん」

 タカコの柔らかな声が応じる。その声に、私は自然と目を引き寄せられる。彼女の仕草、言葉の一つ一つが、場を穏やかに和らげる。

 

「お前が来ないと始まらないだろう」

 ハルが少しだけ口角を上げながら言う。その言葉にタカコは少し照れたように笑った。

 

 私も「今日もよろしくね」と声をかけたが、その瞬間ふと胸に違和感が走った。タカコの微笑む顔が、なぜかタカヤの姿と重なったのだ。控えめで柔らかな笑顔、どこか照れたような仕草――どちらも私がカフェで見たタカヤの姿そのものだった。

 

「どうして……」

 思わず立ち止まりそうになる。頭の中に浮かぶのは、打ち合わせで見たタカヤの控えめな仕草と、カフェで見かけた穏やかな表情。そして、目の前のタカコ。二人の姿が鮮明に重なり合い、心が大きく揺れ動く。

 

「ユウキさん?」

 タカコがこちらを見て声をかける。その瞬間、私は慌てて表情を整えた。「大丈夫だよ」と笑みを返すものの、心のざわめきは収まらない。タカコが目の前にいるのに、なぜかタカヤの姿が頭を離れない。まるで二人が同じ存在であるかのような錯覚が、私を動揺させていた。

 

「疲れてないか?」

 ハルがタカコの側に立ち、優しく頭を撫でた。その仕草はあまりに自然で、タカコも驚きつつ、されるがままになっている。

 

「ハルさん、もういいですよ」

 タカコが照れたように顔を赤くして言うが、ハルは「まだだ」と短く返すだけだった。その様子に、カナが「ずるーい!」と叫びながらタカコに抱きついた。

 

 その光景を見て、胸の奥がまたざわつく。タカコが笑顔を見せるたびに、タカヤの姿が脳裏に浮かぶのだ。どちらも控えめで、でもどこか芯の強さを秘めている。そしてその姿が、私の中で特別な意味を持ち始めている。

 

「こんなふうにはできないし、したいとも思っていなかった……」

 私は心の中でそう呟いた。けれど、タカコが他の誰かと笑い合う姿を見ていると、なぜか胸の奥がモヤモヤとした気持ちでいっぱいになる。

 

「それでさ、そろそろギルド作っちゃおうよ!」

 カナの提案に、場の空気が明るくなる。

 

「またその話か……」

 ハルが呆れたように返しつつも、どこか楽しげだ。

 

「『タカコさん親衛隊』で決まり!」

 カナが胸を張って宣言すると、タカコは「そんな、なんで私……」と困惑する。

 

「だって、タカコがいなかったら、今の俺たちはいないだろう」

 ハルが冷静に言葉を添える。その言葉にカナも勢いよく頷く。

 

「タカコさんがいるから、みんながここに集まってる。それってすごいことだと思うよ」

 私は静かに言った。タカコが優しく目を伏せる。その姿にまたタカヤの面影がよぎる。

 

「灯火……」

 タカコがぽつりと呟いた。その声には温かさと穏やかさが宿っていた。

 

「『紡ぎの灯火』……どうかしら」

 控えめな声でそう提案するタカコに、私は「いい名前だね」と笑みを浮かべた。その名前が、彼女自身を象徴しているように思えたからだ。

 

 

 

 ログアウトパート:揺れる感情

 

 ログアウトの暗転から目を開けると、いつもの部屋の静けさが戻ってきた。青い空や心地よい草原の風、仲間たちの笑い声がまるで幻だったように消え、現実の冷たさだけが残る。部屋の薄暗い照明の中で、机の上に置いたVRヘッドセットを見つめながら、私は静かに息を吐いた。

 

 どこか胸がざわついている。それが何の感情なのか、自分でも分からない。ただ、あの草原で感じた温かさとタカコの笑顔が、まだ頭の中に残っていた。

 

 椅子にもたれかかり、そっと目を閉じる。ふと、タカコの無邪気な笑顔が浮かび上がる。彼女の優しさ、仲間たちに向ける気遣い、そして、どこか繊細で儚げな雰囲気。それらすべてが私を心地よくさせてくれる存在だった。

 

 だけど――。

 

 私はふと、今日の昼間に会ったタカヤの姿を思い出した。控えめで丁寧な仕草、ノートに真剣に向き合う横顔、会議の後に小さく頭を下げて感謝を伝える姿。その姿がどうしてもタカコと重なって見えてしまう。

 

「タカコさんとタカヤさんが同じ人だとしたら……?」

 

 自分の考えに驚き、思わず苦笑いを漏らした。「そんなこと、あるわけないよね」小さく呟いてみても、その可能性が頭をよぎるたび、胸の奥がざわざわと揺れる。

 

 私は机の上に肘をつき、両手で顔を覆った。まるでそれで動揺を隠そうとするかのように。

 

「もし、そんなことあったとして……どんな確率?」小さく笑いながら、頭を振る。「ないない。そんなの妄想!」

 

 声に出してみても、心の中のざわつきは収まらない。むしろ、自分の中でタカヤとタカコが同一人物だったらどうなるだろうと、勝手に想像を膨らませていることに気づき、さらに恥ずかしくなった。

 

「でも……もし、本当にそうだったら?」

 

 机に顔を伏せながら、タカコの笑顔とタカヤの真剣な横顔が交互に浮かんでくる。それぞれが私にとって大切な存在であることは確かだ。でも、二人が同じ人だなんて、非現実的すぎる。そんな考えが浮かぶたび、私は自分の妄想を振り払おうとする。

 

「そもそも、私はタカコさんのことをどう思っているんだろう……」

 

 思わず呟いた言葉が静かな部屋に響く。一緒にいると落ち着くし、心が安らぐ。タカコといると、自分が少しずつ柔らかくなる気がする。あの穏やかな声や笑顔が、私を救ってくれる存在であることは間違いない。

 

「好き……なのかな?」

 

 自分の言葉に驚き、少しだけ顔が熱くなる。だけどすぐに考え直した。「でも、タカコさんは女の人だし……」

 

 その事実が私を現実に引き戻す。タカコへの思いが友情なのか、それ以上の感情なのか、それともただの憧れなのか、自分でも分からない。ただ一つ分かるのは、彼女と一緒にいると心が満たされるということだ。

 

 私は椅子から立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。深く息を吸い込み、天井を見上げる。窓の外から月明かりが差し込んでいて、その光が部屋をぼんやりと照らしている。

 

「タカヤさんも……優しい人だよね」

 

 再び頭の中に浮かぶのは、タカヤの姿だった。控えめで、どこか頼りなさそうで、それでも丁寧で誠実な彼。タカコとタカヤの姿がどうしても重なってしまう。

 

「でも、タカヤさんとタカコさんが同じ人だなんて……そんなことあるわけない」

 

 そう言い聞かせるように呟くが、心の中のざわめきは収まらない。それどころか、「もしそうだったら?」という妄想がまた頭を持ち上げ、私は呆れたように自分を笑ってしまった。

 

 ――そんな考え、ありえない。

 

 それでも、タカコもタカヤも、私にとって特別な存在であることだけは確かだ。それが何を意味するのか、その答えはまだ見つからない。

 

「タカコさんも、タカヤさんも……私にとって何なんだろう」

 

 小さな声でそう呟いて、私は目を閉じた。月明かりが静かな部屋を包み込む中で、私は心のざわつきを抱えながら、静かに眠りにつこうとしていた。

 

 答えが見つかるのは――きっと、もう少し先のことなのだろう。

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