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第1章:2030年9月18日 水曜日 宮下タカヤ

 現実パート

 

 朝の空気は、いつもと変わらず重たい。目覚めた瞬間から体の奥に広がるその感覚が、「僕」の一日を支配する。

 

 洗面台の前に立ち、冷たい水を顔に当てる。鏡を覗き込むと、そこには変わり映えのしない僕が映っていた。黒髪が頬にかかり、ぼんやりとした目元。目の形だけは妙に主張が強く、子供のような丸さが残っている。華奢な肩、頼りなげな顔立ち――158センチの身長が、その全てをさらに頼りなく見せている。

 

 前髪を指で払ってみる。それだけで何かが変わるわけじゃないのは分かっている。だけど、目の前の「僕」にほんの少しでも違いが見えたらと思った。

 

「今日も会社、か……」

 

 独り言が思わず漏れる。誰に聞かせるでもなく、ただ空間に溶けていく。洗面所の隅に置かれたVRセットが視界の端に映る。そのヘッドセットは、フルダイブ型の入門モデルで、去年のセールで手に入れたものだ。使い込まれた痕跡が残るそれを見ると、昨夜VR空間で感じた自由と現実の重たさの対比が胸を締め付けた。

 

「もう少しあっちの世界にいられたら……」

 

 そんな風に思うたび、自分の弱さに苛立つ。でも、現実の僕には目をそらしたいことが多すぎる。控えめな色のシャツを選び、パンツを履く。目立たない服装が僕にはちょうどいい。それが僕の「身の丈」だ。

 

 部屋を出ると、隣の家から子供たちの笑い声が聞こえる。窓の外では、路上に設置された小さなVRポッドで、学生たちが順番待ちをしながら楽しそうに話しているのが見えた。2030年の今、VRは特別なものじゃなくなっていた。学校の授業や仕事の研修、趣味の交流まで、家にいなくてもポッド一つで全てを体験できる時代だ。

 

 だけど、僕にとってあれは「逃げ場」でしかない。現実に戻った瞬間、すべてが重くのしかかる。それを思うと、ますます「こっちの世界」から逃げられなくなる自分が情けなかった。

 

「もっとたくましくなれ」

 父の声が耳の奥で蘇る。その言葉に、僕は何度も押しつぶされそうになった。

 

 通勤途中、目を引くのはビルの壁一面に映し出された広告だ。

「未来を切り拓くフルダイブVRの世界へ!」

 というコピーが、派手なビジュアルとともに踊っている。

 

 僕は、その眩しさに目をそらす。広告に描かれた笑顔のキャラクターたちが、「理想の自分」を楽しげに生きているように見えて、どこかで反感を覚えるからだ。

 

 電車の窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。

 無表情で、疲れた顔。そこに「理想の自分」なんて影も形もない。

 

 カバンの中に手を伸ばし、スマホを取り出す。

 SNSのタイムラインには、VR世界での冒険や交流を楽しむ人々の投稿が溢れている。

 誰もが「理想の自分」を手に入れ、自由に生きているように見えた。

 

 ため息をつき、スマホを画面ごとポケットに押し込む。

 

 

 

 VRパート

 

 気がつけば、僕はベッドの上に腰を下ろしていた。

 スーツのネクタイを乱暴に緩め、机の上のVRヘッドセットを手に取る。

 

 現実から逃げ出すように、ヘッドセットを装着し、深呼吸する。

 

 僕はベッドの上に腰を下ろし、机の上に置いていたVRヘッドセットを手に取る。現実から逃げ出すように、ヘッドセットを装着し、深呼吸する。

 

 瞬間、視界が鮮やかな草原に切り替わった。柔らかな風が頬を撫で、遠くにそびえる山々が視界に広がる。

 

「タカコさーん!早くおいで!」

 カナの声が響く。長い狐の尻尾を揺らしながら、彼女のフェリアンアバターが駆け回る。その無邪気な姿は、まるで風そのものだ。

 

 僕――いや、この世界では「タカコ」は少し遅れて歩き出す。ふと目をやると、半透明の腕が紫がかった光を反射している。背中の透明な羽がふわりと揺れ、動くたびに羽ばたく感覚が体を包む。この幻想的な姿――ドリームスピリットのタカコは、現実の僕とはかけ離れている。

 

 だけど、不思議としっくりくる。この姿こそが、本当の自分のように思えるのだ。

 

「そんなに急ぐと転ぶぞ」

 ハルの落ち着いた声が後ろから聞こえる。彼の長身で凛々しいエルフアバターが、どこか余裕を感じさせる。その冷静な態度に、僕たちは自然と引き締まる。

 

「ほら、タカコさん、早く!」

 カナが振り返り、狐耳を揺らしながら手を振る。その笑顔に僕も軽く羽を広げ、ふわりと宙に浮いた。この世界では、地面から離れる瞬間でさえ、解放感で満ちている。

 

 僕はこのアバターを選んだ日のことを思い出す。「男らしい自分」がどうしても想像できなかった僕にとって、「可愛い自分」ならできる気がした。現実でもそう言われ続けてきたから。男が女のアバターを使うなんて変かもしれない。でも、この姿が僕にとっては驚くほど自然だった。

 

「タカコさんといると、なんだかホッとするよ」

 ユウキが穏やかに微笑みながら言う。フェリアンアバターの彼は、猫耳をピクリと動かしながら優しい表情を浮かべている。

 

「ホッとする?」

 僕は少し驚いて聞き返した。

 

「うん。タカコさんがいると空気が柔らかくなるんだよね。自然と落ち着く」

 その言葉に、胸が温かくなる。僕は照れくさそうに微笑みながら返した。

 

「そう言ってもらえると嬉しいな」

 

「本当だよ」

 ユウキの笑顔はさらに柔らかくなり、その一言が僕の心を軽くした。

 

 でも――。

 

 僕はふと立ち止まり、小さくため息をついた。目の前の風景はどこまでも美しく、仲間たちとのやり取りも楽しい。それなのに、心の奥で燻る虚しさが消えることはない。

 

「タカコさん?」

 ユウキがすぐに気づき、優しい声をかけてくれる。その問いに、僕は答えられずに俯いた。

 

「ねえねえ!もしかしてユウキがタカコさん泣かせた!?」

 カナが駆け寄り、大げさな声を出しながら僕の周りをぐるぐる回る。

 

「いやいや、俺は何もしてないってば」

 ユウキが肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。

 

「泣いてないよ」

 僕は小さく笑いながら反論する。それでも心の奥にある重たさは消えない。

 

 そのやり取りを見ていたハルが静かに言った。「カナ、いい加減にしろ。それより次の場所を決めるぞ」

 

 僕は胸の奥の虚しさを感じながらも、仲間たちのやり取りに少しだけ救われた気がした。

 

 

 

 ログアウトパート

 

 ヘッドセットを外すと、再び部屋の中の静けさが広がった。さっきまでの草原の風や仲間たちの笑い声は、もうどこにもない。ただ、無機質な机と薄暗い部屋が僕を包んでいる。

 

 鏡をふと見る。そこに映るのは華奢な体、頼りなげな顔。半透明の羽もふわりと揺れる銀髪も、優しい声で「タカコさん」と呼ばれるあの感覚も、ここにはない。

 

 胸の中の虚しさがじわりと広がる。「このままではいけない」――そう思いながらも、どうすればいいのか分からない自分に苛立ちを覚える。

 

 そのとき、机の上でスマホが振動した。画面に映るのはグループチャットの通知。「またみんなで集まろうね!」というカナのスタンプが表示されている。

 

 それを見て、ほんの少しだけ胸が温かくなった気がした。でも、スマホを置くと、また静けさが戻ってくる。

 

 布団にくるまり、天井を見つめる。現実とVR、その二つの世界の間で揺れる自分。次の冒険を思い描きながら、僕はそっと目を閉じた。

 

「明日は……」

 小さく呟きながら、意識が遠のいていく。

 

 

 <お知らせ>

 【作品の構成について】

  この作品は章ごとに視点が変わる形式で進みます。

  各章のタイトルには日付と視点となるキャラクターの名前が記載されています。

 

  例えば:

  第1章:2030年9月18日 水曜日 宮下タカヤ

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