パンと葡萄酒
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薄暗い部屋の中で、真っ白のキングサイズのベッドに一人の少年が仰向けで横たわっている。
周囲には西洋で作られた象嵌家具が並ぶ。洋タンスや鏡台、天使のオブジェ。広い空間の中央に置かれた緑のカウチソファーには赤黒い血が付着し、部屋の薄暗さと調和して不気味さを放つ。
その様子を憐みの目で見つめる老人。
「坊ちゃん……」
「牧村、何度も言わせるな。ここではアベル様と呼べ」
「……申し訳ございません。ですが、私と二人の時くらい昔のように呼ばせていただけませんか?」
アベルは深いため息をつく。牧村はそれが圧だと察し、口を噤む。
「癖という者は、無意識に出てしまうものだ。そう教えてくれたのは牧村、お前だろう? この計画が台無しになるようなことは避けてくれ」
「……………かしこまりました。アベル様」
牧村は自分の行いに深く後悔している。
西崎家――――家具屋を営む多くの財を持つ有名な豪富。会社名『NISHIZAKI』。
室町時代からヨーロピアン家具を海外から輸入に、日本で初めて売り出し高級家具屋として成功を収め、現代まで血筋を途絶えることなく代々受け継がれてきた西崎家。
だが三年前、突如として会社を畳み、西崎一家は行方を晦ました。
「アベル様、十八時を過ぎましたが、何やら招待客同士話し込んでおります」
「くだらない自己紹介でもしているのだろう。団結したところで何の意味もないのに。本当に低俗で愚かな奴らだ」
アベルはベッドから起き上がり部屋の扉まで歩くと、両頬を手でパチンと叩いた。
「では、行こうか。『最後の晩餐へ』」
※
人は何かしらの罪を背負いながら生きている。
被害者だと錯覚し、知らずうちに加害者になり得ることもある。
このご時世、ネットの誹謗中傷のように善と悪の区別がつけられない人間はごまんといる。皆、自分は正しいと信じ、間違っていないのだ、と正当化する。
そして、何食わぬ顔で生活している。
これは単なる私の憶測でしかない。なんの確証もない。
けれどもし、ここにいる招待客全員が犯罪者なら――。
ここは『殺人が許された館』だ。私達を殺すのはアベルではなく、アベル以外の人間。
すなわち、招待客同士の殺し合いが始まるかもしれない。
招待客十二人全員の自己紹介を終え、私達はアベルが食堂に来るのを待っていた。長いテーブルに並ぶご飯に手を付けず、各々で談話を始めた。
「あそこら辺の土地は結構安いんですよ」「パパ、学校の先生に休みの連絡してくれた?」「ねぇ、結婚式はいつにする?」
普通の日常会話が飛び交う中、ようやくアベルは食堂に現れた。眼鏡をかけタキシードを着た出で立ちの老人と一緒に来ると、老人は私達に軽く会釈をした。
アベルが現れて、一気に現実世界に戻されたかのように私達は口を噤んだ。
まるで先程までしていた談話が日常会話ではなく、現実逃避やファンタジーの物語を語っていたのではないかと錯覚すらしてしまう。
アベルと館こそが現実だと引き戻されたかのように、一瞬にして空気の流れが変わった。
「皆さん、大変お待たせいたしました! そろそろ不要な自己紹介を終えた頃かと思いまして!」
そういいながら、アベルは私と杏奈の間の席に座った。
「まぁでも、互いを知ることは大事なことですからね! 死ぬ前に友達を作るのもいいでしょう。特に若い方々は単純ですから! すぐに友達という関係性になれるでしょう? 友達というのは、時に幸を連れてきたり、不幸を招いたり、なんとも厄介で不安定な関係性ですが。皆さんが死ぬ前にこの館で幸せになってくれるなら、僕は何でもいいですよ!」
「あの……僕たち、アベルさんの友達にはなれないんですか?」
誠は目玉を落ち着きなく動かしながらアベルに訊いた。
「僕と、ですか? それは必要なことですか?」
アベルは少し考えていった。
「まぁ、友達ができるということは僕にとっては良い刺激になるかもしれませんね~。兄の気持ちも少しはわかりそうだ。いいですよ! でも一つ条件があります。それは僕を楽しませることです!」
友達になるというアベルの許可を得て、誠は小さく頷いた。その様子は嬉しそうに見えた。
「アベルってお兄ちゃんいるんだ~!」
瑠夏が言った。
「いますよ! 大好きな兄が」
「いいな~! 私ひとりっ子だからうらやましいな~」
兄なら私にもいるが、いてもいなくても変わらない存在で、何かをしてもらった記憶もない。別にうらやむことでもないと思うが。大好き、というのも理解ができない不思議な感情だ。
「では! 夕飯を頂きましょう! 牧村、グラスにあれをを注いでくれ」
「おっと、紹介を忘れていましたね。眼鏡をかけたお爺さんは牧村といいます! 僕の世話係みたいなものですが、必要なことや館内の不備があれば牧村に言うといいでしょう!」
私達の目の前にあるワイングラスに、赤とも紫ともいえる色の飲み物が注がれた。表すなら透き通る鮮やかなえんじ色。
トマトジュースにしてはさらさらしている。葡萄ジュースのほうが近い。
鼻をツンと刺激する香りが漂う。
テーブルのワイングラス全てに飲み物が注がれ、夕食の準備が整ったようだ。
「夕食はこれだけですか?」
と創が訊いた。
「そうですよ。パンとワインです! いい香りでしょう?」
「ワイン?」
めぐみは怪訝な表情で、アベルに視線を向けた。
「はい、これは葡萄酒です!」
「まだ、未成年の方もいますよね? 大人は飲めますけど、杏奈はまだ九歳ですし、こんなもの呑ませられません!」
めぐみはそう言って葡萄酒の入ったグラスを杏奈から取り上げた。
杏奈から「あっ」という声が漏れ、その後に続く言葉を殺し俯いた。
まるで、飲みたかった、という好奇心を隠すように。
それを横目で見ていたアベルは口を開いた。
「杏奈ちゃんはどう思う? 飲みたい? 飲みたくない?」
「……………私も飲んでみたい。いつもパパやママがこれを飲んだあと、楽しそうだったから」
創とめぐみは顔を見合わせた。
「だそうですよ。めぐみさん、そのグラスを杏奈ちゃんに返してください」
「嫌です、駄目です!」
「返してください――」
アベルの声音が変わった。初めて聞く低い声に、強い口調で、相手を押さえつけるほどの威圧感。
まずい、と思った。
黒く塗りつぶされたような生気を失った目、上がったままの口角、一見笑って見えるため、初めて会った時と何ら変わらない表情に見える。
表情だけではわからない、声音も読み取れば隠している感情が怒りだとわかる。
流石のめぐみもアベルの怒りに怖気づいたのか、少し不満そうに葡萄酒の入ったグラスを杏奈に返した。
「今日だけだからね」という言葉に杏奈は、ひとつ解放されたかのように屈託のない笑みを浮かべた。
「よかった。杏奈ちゃん、君には絶対に飲んでほしかったんだ」
アベルは漏らすように言うと、話を続けた。
「さて! ここでは死ぬまで好きなことを好きなだけできます! 個人の自由を尊重します! 親だろうと恋人だろうと自由の権利を奪うことはしないでください! それがこの館での掟です! 守らない人に明日の命はないでしょう。まぁ、皆死にますけど」
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